襄陽サロンと荊州人士

本ページは、学習研究社編集部の許可を得て、『真・三国志』第2巻、(平成10年4月出版)から転載するものである。


     荊州の位置
   
1、劉表の荊州経営
   
2、荊州学と襄陽サロン
     
終わりに

 

   荊州の位置
 建安十三年(二〇八)十月、史上名高い赤壁の決戦が行われ、三国鼎立の様相が具体化し出すと、荊州は魏・呉・蜀の三国に因る争奪戦が展開される宿命の地となり、各勢力が複雑に錯綜した一種のバルカン地帯と化し、何時、何処で戦闘の狼煙が上っても不思議でない火薬庫的状況を呈するに至り、以後一度として荊州全体が、一国の版図に領有されることは無い。時間の変化と共に各勢力範囲は変転するが、荊州の北部は一貫して魏が領有し、最初は中部を呉が南部を蜀が治め、以後は湘水を挟んで東部を呉が西部を蜀が領有し、最後には北部以外は全て呉が所有することになる。
 この荊州が、赤壁の決戦以前のほぼ二十年間、つまり劉表が荊州牧として着任した初平元年(一九〇)から、彼が死去する建安十三年(二〇八)までの十九年間は、州界での部分的戦闘は有ったにしても極めて安定した状況を保ち、中原地帯に広がる華北平原の南部に接する荊州としては、むしろ不思議なくらい華北の混乱とは無縁な別天地の如き様相を呈している。
 荊州は、漢代以後設置された新設州ではなく、既に古代よりその名が有り、『書経』禹貢に記載されている九州(冀・エン・青・徐・揚・荊・豫・梁・雍)の一つで、「九江の流れは甚だ盛んで、沱水・潜水の流れが整備されため、雲夢の沢も耕作可能な土地となった。その土質はやや湿った泥土であるが、田地は下の中で、田賦は上の下である」と記されている。後漢時代に至ると、中国は司隸(司州)を含めて十三州に分割されるが、九州中の雍州が涼州に、梁州が益州に名を変え、華北に司・并・幽の三州と南部に交州とが増置されたに過ぎず、荊州の版図自体にはそれほど大きな変化は見られない。
 荊州は、揚子江の中流域を南北から挟むような地域に位置し、現在の湖北・湖南両省の全域を中心に、北は河南省の南部、南は広東省及び広西自治区の北部、西は部分的ではあるが貴州省と四川省の東部をも含む広大な地域を占め、全くの平野部だけではなく、西を巫山に連なる大巴山脈と大婁山脈で、南を南嶺でL字型に囲まれ、北と東に向かって開けた地形である。
 中国の古代文明は、古来「世界の四大文明」と称される中の一つである黄河文明なる言葉が示す如く、黄河流域で発生した文明は、長安を中心とした関中地方と、洛陽を中心とした中原地方との二大文化地帯を形成しているが、現在では既に揚子江流域にも独自の古代文明が存在したことが、発掘調査などに因り明白となっている。則ちそれは、四川省を中心とした長江上流地方、武漢市や長沙市を中心とした長江中流地方、南京市を中心とした長江下流地方の三大文化地帯であり、七郡百十七県の行政区を持つ荊州は、その一つである長江中流文化地帯を擁し、後漢時代に在っては、北は司隸と豫州に接し、東は揚州に連なり、南は交州に西は益州に交わると言う具合で、実に十二州中の五州と州境を接し、まさに中国の臍と称するに相応しい中央部分に位置し、桓帝の永興元年(一五三)の戸口調査に因れば、六二六万と言う益州に次ぐ二番目の人口量を保有し、空間的には、ほぼ華北の冀・エン・青・徐・豫の五州を合わせた大きさに匹敵している。
 全国的視点から見た場合、『漢書』地理志と『後漢書』郡国志との統計的数値に基づく単純な比較に過ぎないのであるが、中国は前漢から後漢にかけて大幅な戸口数の減少を示している。則ち、戸数が二百五十三万四千四百三十二戸、口数が千四十四万四千七百五十八人の減少で、全国州平均にならせば一州当たり戸数約十一万八千戸、口数約八十万三千人の減少と言うことになる。この様な全国的減少傾向に在って、逆に増加傾向を示しているのが、益・荊・揚の三州である。華北の諸州が平均五割前後の減少を示す中で、荊州は戸数が六十六万八千二百九十七戸から百三十九万九千三百八十五戸へ、口数が三百五十九万七千二百五十八人から六百二十六万五千九百五十二人へ、それぞれ約二倍の増加を示しているが、特筆すべき点は荊州の中でも特に長江以南の南部四郡の大幅な増加で、戸数が十二万六千八百五十八戸から六十四万九千七百三十九戸へ、口数が七十一万七千四百四十九人から二百六十万九千二十五人へと、実に戸数で五倍強・口数で四倍弱の増加が認められることである。このことは、荊州南部が持つ潜在的農業経済力の大きさと、実際にそれが大幅に開発されたこととを明白に示すもので、赤壁の決戦後にすぐさま諸葛亮が劉備に進言し、どさくさに紛れて荊州南部四郡を占拠させた行為が、この地域の重要性を端的に物語るものである。
 則ち荊州は後漢末に在って、東西南北いずれに行くにしても通過せねばならぬ要路が交差する政治的枢要地襄陽を中心とした北部と、水運が整理されて農業経済力の大幅増加が認められる南部とで構成されており、地政学的にも経済力的にも荊州の帰属が三国それぞれの将来を大きく左右する、極めて重要な場所であったのである。

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   1、劉表の荊州経営
 劉表は字を景升と言い、山陽郡高平県の人である。前漢景帝の子魯恭王餘の末裔と伝え、天子の一族に連なる名門の出で、後漢の七代順帝の漢安元年(一四二)に生まれている。彼の青年時代である二十代から三十代の後半にかけては、諸葛亮が出師の表の中で「未だ嘗て歎息痛恨せずんばあらず」と回顧した桓帝・霊帝の時代に当たり、宦官と官僚との熾烈な権力争いの結果、宦官による有力官僚の官界からの追放、つまり党錮の禁が吹き荒れた時代である。桓帝の延熹十年(一六七)劉表二十五歳の時に、彼は第一次党錮事件に遭遇し、当局の追及を受けて身を隠すことになる。当時宦官一派が目の敵にしたのが、清流士大夫のリーダー格的人物達で、そのトップに位置したのが「三君」と称された竇武・陳蕃・劉淑で、それに続く中堅指導者群が「八俊(顧・交・友)」と呼ばれた人々で、劉表はその中の一人である。即ち彼は、名門の出自にして後漢末における清流士大夫の指導的人物の一人と言う、まさに貴公子エリートなのである。

 党錮の禁が解けた後、劉表は大将軍何進の属官に取り立てられ、更に近衛軍の監察官たる北軍中候に就いていたが、たまたま長沙太守の孫堅が荊州刺史の王叡を殺害すると言う事件が発生し、その後任として荊州刺史に任用されたのが劉表である。時に献帝の初平元年(一九〇)、そろそろ劉表も壮年から初老にさしかかろうとしていた四十九歳の時のことである。劉表の着任先である当時の荊州は、華北の混乱ほどのひどさでは無いにしてもその余波を受け、一族の結束を中心に大勢を擁して勝手に自拠する宗賊や、自己の軍勢に依拠して命令を無視し半独立的傾向を示す郡太守・県長などが威力を振い、決して万呼の歓声を以て迎えられるが如き安寧の地ではなかった。
 荊州に着任した劉表は、単騎で宜城に乗り込むと、土着豪族の代表的存在であった南郡のカイ良・カイ越兄弟と蔡瑁とを招き、荊州経略の方途を相談した。カイ良は「人々が付き従わないのは、仁愛と信義が不足しているからです。殿が仁義の道を実践なされば、黙っていても自然に人民は殿に付き従うものです。どうして彼等に対する挙兵の方策などをお聞きになるのですか」と仁義の実践を勧め、カイ越は「仁義は平和な時代には有効ですが、今は戦乱の時であれば時宜に適った策謀が必要です。因って殿は先ず宗賊の指導者連中を招き寄せ、道に外れた行いをした者は処刑し、そうでない者は慰撫して任用なさいませ。そうすれば軍兵も集まり民衆も付き従うでしょう」と権謀の実行を説いた。劉表は「子柔(カイ良の字)の意見は、百世の利を考えた晋の雍季の議論と同じであり、異度(カイ越の字)の意見は、時宜に適った策を述べた晋の臼犯の計略と同じである」と言い、カイ越の権謀を採用した。劉表の相談に預った人々の中でも特にカイ越は、荊州平定後の曹操がわざわざ荀ケに「荊州を得たことはさほど嬉しくはないが、カイ越を得たことが何よりも嬉しい」と書き送った程の、荊州を代表する名士中の名士であるし、蔡瑁は以後二十年弱に亘って劉表と共に事を謀り、蔡瑁の姉は劉表の後妻となって寵愛を受けると言う実力者中の実力者である。以後荊州における劉表政権の文武官は、カイ氏・蔡氏を中心にした張允・文聘・韓曁・韓崇・ケ義らの南郡閥、及び零陵郡の劉先や他州からの寄遇者である傅巽らを中枢として運営されることになる。
 カイ越の献策を受け入れた劉表は、人に命じて宗賊に誘いを懸けた所、五十五人の有力者がやって来た。劉表は彼等を尽く切り殺すと、その配下の軍勢を取り込み、その中で見所の有る者にはすぐさま軍兵を授けて手なずけ、更に誘いに応じなかった江夏の宗賊張虎と陳生とには、カイ越とホウ季を派遣して降伏を説得させ、江南における支配権を一気に確立させた。以後の行動から曹操に「自守の賊」と批判され、己の保身だけに意を注いだ凡庸な人物の如きイメージを与える劉表ではあるが、この荊州着任後に採用した即決果断な大胆な行動は、決して彼が単なる凡庸なだけの貴公子ではなかったことを示している。
 翌初平二年(一九一)に袁術の手先となっていた孫堅が東から荊州に侵入するが、孫堅が流れ矢に当って死去したため劉表は袁術軍を州外に撃退させ、また建安元年(一九六)関中から南陽に侵入して来た驃騎将軍張濟の軍も、同様に張濟が流れ矢に当って死亡すると言う幸運に見舞われ、結果その軍勢を尽く己に服従させ、更に建安三年(一九八)には南部三郡(長沙・零陵・桂陽)の反乱を平定し、ほぼ荊州全域を手中に収めた。十万の軍勢を擁するに至った劉表ではあったが、彼の軍隊が州境を越えて展開することは一度としてなく、各地からの避難民を受け入れて慰撫したり、学校を起して儒術の振興を図ったりしている。
 劉表は、華北で展開される熾烈な勢力争いの枠外に身を置いて、彼を支えたカイ越や韓崇らの諌言を拒否してまでも、いずれにも与さぬ中立主義を貫き、荊州の繁栄と安寧だけに腐心する荊州モンロー主義とでも言うべき態度を、徹底して推し進めて行く。荊州の中立と平和を第一義とする考えは、劉表だけの個人的判断ではなく、彼を支えた土着名士であるカイ越・韓崇・劉先らの見解でもあった。だがカイ越・韓崇らは華北の状況を冷静に分析して、荊州の平和を維持するためには曹操に味方するのが得策であると考え、一方劉表は言を左右にして曹操にも袁紹にも付かず、「洞ケ峠」をきめこんで何とか中立を維持しようと考えていた。荊州の安定的平和と言う戦略は同じであっても、それを可能とする具体的戦術面において、劉表と彼を支えたブレーン達との間には大きな相違が存在した。
 この様な劉表の荊州モンロー主義的諸政策は、荊州の周囲が混乱すればするほどその現状との相乗行為で繁栄をもたらし、荊州は各地の混乱を避けた名士達の避難地となり、後漢末を代表する学術一派である「荊州学」を開化させ、更に名士達の社交界である「襄陽サロン」が形成されていく。建安六年(二〇一)に華北を転戦していた劉備が身を寄せた荊州は、それまでに劉備が経験した戦乱の世とは別天地の様相を呈しており、その安定が如何程であったかは劉備自身の「髀肉の嘆」が端的に物語っている。
 しかし、中立主義的対外政策の中で構築された安定は、各地の勢力がバランスを保って拮抗している状況において可能であり、一度バランスが崩れれば決して安閑とはしていられず非現実的な政策となってしまう。建安十三年(二〇八)、袁紹を破り烏桓を征伐して華北を平定した曹操は、遂にその矛先を荊州に向けた。だが劉表にとっては皮肉な幸運と言うべきか、彼が必至に築き上げた繁栄する荊州の崩壊を見ること無く、実際に曹操の軍馬と矛を交える前に、同年八月病気で六十七歳の生涯を閉じたのである。蔡瑁・張允らに擁立されて後を継いだ次子劉j(蔡瑁の姪がjの妻)は、劉表政権のブレーンを形成したカイ越・韓崇・傅巽らの進言を受け入れて曹操に降伏し、ここにいよいよ赤壁の決戦が行われることになるのである。 

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   2、荊州学と襄陽サロン
 劉表は、荊州の安寧を伝え聞いて各地から避難して来る学士達の生活を安定させ、学問の振興を図るべく典籍を集めて学校を起こし、学問を講論させたため、建安三年(一九八)以後の十年は、まさに荊州が天下の学問の中心地的様相を呈し、集まった多くの学士達により「荊州学」なるものが形成される。『後漢書』劉表伝には「関西・エン・豫の学士、帰する者蓋し千数有り」と記し、『王(粲)侍中集』に収める『荊州文学記』には「書を負い器を荷い、遠きよりして至る者、三百有餘人」と伝えていれば、凡そ数百人の学士達が荊州に客遇していたことになるが、その中心的人物は、荊州南陽郡出身の宋忠である。

 彼等が論議した「荊州学」の内容は、『春秋左氏伝』を中心とした古文学と、前漢末揚雄の『太玄』や『法言』に見られる通理の学とで、後漢の大儒鄭玄にみられるが如き繁雑な経書解釈を止め、経書の本義を平易に解明しようとするものであった。この事は、宋忠自身に『太玄経注』『法言注』の著作が有り、また蜀から荊州に遊学して司馬徽・宋忠らに師事した尹默は、「特に『春秋左氏伝』に精通し賈逵・服虔ら漢代諸氏の説をも略誦していた」と伝えるし、同じく蜀からの遊学者李センも司馬徽・宋忠らに師事し、馬融・賈逵の説に依拠した『春秋左氏伝』に関するものや『太玄指帰』などを著している点などから判断される。更に建安十三年(二〇八)以後、魏に移った宋忠の下で王粛が学んでいることを考えれば、具体的内容傾向は反鄭玄的学風であったと言えよう。
 荊州に集まった主な学士達は、宋忠や徐州のキ毋ガイ・司馬徽らの他に、益州の尹默・李セン、司隷の隗禧・裴潜、豫州の邯鄲淳・杜襲・和洽、エン州の王粲などがいる。劉表から賓客として礼遇された隗禧・王粲・邯鄲淳らは、襄陽に止まってわりと積極的に「荊州学」に参与するが、裴潜・和洽・杜襲らは、同様に厚遇を受けてはいても途中で劉表に見切りを付けて襄陽から去って行くなど、その動向は必ずしも一様ではないが、具体的な「荊州学」の成果としては、『三国志』劉表伝の裴松之注に引用する『英雄記』に「表は乃ち学官を開立し、博く儒士を求め、キ毋ガイ・宋忠らをして、五経章句を撰せしむ。之を後定と謂ふ」と記し、『蔡中郎文集』に収める『劉鎮南碑』に「深く末学の本を遠ざかり直を離れるを愍え、乃ち諸儒をして五経章句を改定せしむ」と伝えるが如く、劉表がパトロンとなって、荊州五業従事の地位に在った宋忠やキ毋ガイらを中心に、諸儒を動員して改定させた『後(新)定五経章句』(一セット八帙)の編纂である。従来学官に立てられていた今文学系の五経章句に代わり、古文学系中心の新たな五経解釈を試みたことは、題頭に「後定」或いは「新定」が冠されていることから判断される。しかしこの『後(新)定五経章句』は、現在では全てが散逸してしまっており、具体的な内容の如何を伺うことは不可能ではあるが、三国以後「荊州八帙」と称されて長く南朝に流布している。
 一方名士達は、襄陽を中心に私的な交友関係を結んで往来し合い、政治から一定の距離を保った彼等独自の社交界を形成して行くが、これが所謂「襄陽サロン」と呼ばれるものである。後漢末に在って自らを名教の徒と任ずる士大夫達は、混乱する中央政界から安定した地方に身を避け、私権化を強める権力者に対し批判の目を向けて天下国家を論じ、儒教的倫理に適った行為や生き方に因り互いの人々を賞誉し合い、同じ理念の下にグループを結成して評論家集団とでも言うべき階層を形成しだして来る。これが後漢末の名士層で、彼等は各地に社交界とでも言うべきサロンを形成し、人物評論や時務論を議論し合い更には情報交換なども行う。彼等の論がある種の理想論ではあったにしても、周囲の状況が混乱を増せば増す程その論は正(公)論としての重みを増し、彼等の世界で評価され獲得した名声は、政治や地域を越えて社会的名声となって来る。彼等が獲得した社会的名声を以て、己が信ずる政治理念を実践しようと考えた時、彼等は各地に割拠する群雄達の中でより公権性を具備していると判断した集団に身を投じて政治に参画するのである。
 このことは逆に政治的実力者からすれば、彼等から如何に評価されているかが問題であり、更には彼等をより多く自己の集団に取り込むことが重要となって来る。曹操が「月旦評」の中心人物である汝南の許劭に迫って強引に己の評価を聞き出し、「あなたは治世の能臣で乱世の姦雄だ」と言われ喜んで帰ったと言う話しはあまりにも有名である。彼等相互の結び付きは、「兄事」とか「師事」とかに因って示されるが如く極めて個人的な関係で、自らの生き方に基づいて政治や地域を越えた自律世界を出現させている。この政治と距離を置いた自律世界の与論に裏打ちされた評価を、具体的な政治世界の場で官僚の地位と如何に連動させて行くのかと言う問題が、魏で開始される九品官人法、更にはそれ以後の貴族制の問題と大きく関わってくるのである。
 徐州出身の諸葛亮が参加していた「襄陽サロン」は、人物評価に定評が有って水鏡先生と称された徐州の司馬徽を中心に、司馬徽自身が兄事した荊州の土着名士であるホウ徳公、徳公の子であるホウ山民、徳公の従子に当たるホウ統、黄承彦・習禎・馬良、豫州の徐庶・孟建・石韜、冀州の崔州平らで構成されていた。彼等の中では、徐庶が劉備に「将軍自身が出かけていって直接合うべき人材です」と推奨し、また司馬徽に「伏龍・鳳雛」と称された諸葛亮とホウ統が「王佐の才」を抱いた逸材である。この二人は諸葛亮の小姉がホウ山民に嫁いでいることから、結果として縁戚に連なることになり、また諸葛亮の弟諸葛均は習氏から妻を娶っていれば、習禎とも縁戚関係が生じることになる。
 更に言えば、諸葛亮の妻は父である黄承彦が自ら「黄頭黒色の娘」と認めた程の醜女であったと言われているが、その黄承彦は荊州随一の実力者蔡瑁の姉を妻に娶っており、蔡瑁の姪が劉jの妻に迎えられていれば、諸葛亮の妻と劉jの妻とは従姉妹同士と言うことになる。則ち、諸葛亮は荊州で一見晴耕雨読の生活を送っていたように伝えられているが、実は「襄陽サロン」での交友関係をつてとして、荊州の土着豪族であるカイ氏・習氏・蔡氏更には劉氏などとまでも閨閥関係を構築していたのである。

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   終わりに
 彼等は同じ「襄陽サロン」の一員であるとは言っても、その出処進退及びどの政治集団に身を投じるのかは、己自身の判断に基づいて極めて自由に行われており、ホウ統・諸葛亮・習禎・馬良らは劉備に仕え、ホウ山民・孟建・石韜らは曹操に仕え、徐庶は一度劉備に仕えた後に再び曹操に仕えると言う具合である。だがその後の彼等の運命は大きく異なっている。劉備に信任された諸葛亮の推挙で習禎・馬良らが蜀漢政権の枢要官に就任するのに対し、古参の華北名士が曹操の脇を固める魏政権に仕えた徐庶・石韜らは、その地位の低さを諸葛亮が嘆いたが如く、概して不遇である。 

     平成十年一月                           於黄虎洞 

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