曹操の宗教と思想

本ページは、新人物往来社編集部の許可を得て、『月刊歴史読本』2000月号(平成12年2月出版)から転載するものである。


     始めに
   
1、宗教への對應
   
2、思想の振幅
     
終わりに

 

   始めに
 己の野望を天子の擁立と言う錦の御旗に包み、武力と策略で疾風怒濤の如く後漢末を駆け抜け曹操は、政治家にして武人且つ詩人でもあるが、決して宗教家でもなければ思想家でもない。彼の一連の言動の端々に、彼自身の政治的欲望や野心の影は色濃く見えても、宗教や思想に関しては、全くと言って好いほど現れてこない。このことは、宗教や思想が持つ社会的価値観が、結果的に彼の政治的動静に影響を与えることは有っても、彼自身の普段の行動を意識的に規制するものではなかったことを示している。要は、彼の政治的権力確立の過程で、宗教的なもの思想的なものを、それぞれ如何に利用して来たか、と言うことであり、政治的野心家の曹操自身に在っては、所詮宗教であれ思想であれ、便利な政治的道具にしか過ぎなかったのである。乱世を勝ち抜こうとする政治的野心家にとって、宗教や思想は利用すべきものでこそあれ、自らがそれに拘泥することは、勝ち抜きレースを阻害する要因にしかならないのである。

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   1、宗教への對應
 では一体曹操は、宗教的・思想的勢力に如何に対応して行ったのであろうか。彼が対応した宗教的なものには、黄巾の乱と五斗米道がある。

 この中で、平定(ムチ)と慰撫(アメ)と言う両途を使い分けながら、己の軍事勢力確立に最大限利用したのが、黄巾の乱である。初平元(一九〇)年の反董卓軍結成時に、宗族を中心に糾合した家兵五千人を擁する一武将に過ぎなかった曹操が、清の何シャクに「魏武の強、是れより始まる」と評される最強軍団となるのは、初平(一九二)三年にエン州に侵入して来た百万と号する青州黄巾賊を降伏させ、その中の精鋭数万を青州兵と名付けて、曹操自身の直属部隊に仕立て上げた時に始まる。
 前年に魏郡を攻略した黒山賊を平定して、東郡太守に任命されていた曹操は、エン州刺史劉岱が黄巾賊に殺害されると、鮑信や陳宮らの説得を受け、エン州牧を自称して黄巾賊の平定に着手した。黄巾賊は曹操に対し、「昔、貴殿が濟南におられた時、神壇を破壊されたが、その道は我が中黄太乙と同じである」との些か親近感の有る文書を送っているが、これは、光和七(一八四)年に、潁川の黄巾賊討伐の功績に因り、濟南国の相に昇進していた曹操が、国内の城陽景王劉章祠を取り壊させたことを指している。しかし、曹操の行為は、漢朝を否定するものでもなければ、まして中黄太乙を信奉してのものではない。祭祀が奢侈に走り人民が困窮に喘いでいるのを救う、と言う治済上の問題でしかないのである。曹操は、この宗教的団結性を持つ集団を、自己の勢力拡大に利用すべく、百万余の降伏を受け入れた。その中から特に選りすぐって構成したのが青州兵である。彼等は、曹操個人と極めて強固に結びついた一種の家兵集団で、その集団は略三十年近くも維持されている。彼等は曹操の死去に遭遇するや、隊列を組み陣太鼓を打ち鳴らし、勝手に郷里に帰って行ってしまった(臧覇伝)と伝えれば、彼等の降伏に当たり、曹操が生活の安堵と信仰の自由を容認したであろうことは、想像に難くない。
 建安二十(二一五)年、曹操は自らを師君と号して漢中に盤踞する五斗米道の総帥張魯の征討に向かった。曹操は張魯に対し、使者を派遣して慰撫説得して降伏させると、彼に鎮南将軍の位を授け、ロウ中侯として一万戸を与えるだけではなく、彼の五人の子を列侯とし、更に彼の娘を我が子である曹彭祖の嫁に迎えている。この征討で曹操が示した対応は、宗教集団の総帥たる張魯を礼遇したのではなく、一国を保全して降伏した地方の実力者たる張魯に対する礼遇である。則ち曹操は、黄巾賊であれ五斗米道であれ、己の確固たる宗教観に依拠した対応ではなく、単に権力者として抵抗する者は征伐し、降伏する者は優遇すると言うに過ぎないのである。

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   2、思想の振幅
 次に、思想的勢力に対する対応であるが、言うまでも無く後漢時代は、儒教道徳を基盤とした名教(礼教)社会である。何よりも血統を重視する儒教倫理の社会に在って、曹操は「贅閹の遺醜」と揶揄される出自の悪さ(宦官の孫にして異性養子の子)を持っている。だが如何に侮蔑される存在であろうとも、曹操は彼等が構築した官僚登用の手段である「孝廉」の科目に選ばれることに因って、後漢末の官界に登場するのである。だからと言って曹操は、彼等名教の士をあからさまに弾圧するようなことはしない。否、むしろ彼等の持つ名声や社会的規制力を、己の権力確立に利用したと言ってよい。河北における最大の敵対者袁紹が存在する間は、荀ケ・鐘ヨウ・陳羣・孔融・崔エン等、当時を代表する名士を取り込み、彼等の意見を聞き受け入れている。建安五(二〇〇)年の官渡の戦いで、多勢の袁紹軍に弱気になった曹操を、荀ケが手紙で叱咤激励し、勝利に導いた話は、あまりにも有名である。

 所が曹操が河北を平定して略覇権を握った以後は、様相が徐々に異なってくる。建安十三(二〇八)年、曹操は自分への誹謗・漢への不忠等を理由として孔融を殺害すると、二年後の十五年に「賢人を推挙せよ、才能のみが推挙の基準である」との唯才主義的方針を布告する。同様に建安十七(二一二)年、曹操の張良とまで称された謀臣にして一代の名士荀ケが、曹操の魏公就任に反対して寿春で憂死(自殺の強要とも伝える)すると、二年後の十九年に「品行が正しい者が行動力が有るとは限らず、行動力が有る者が品行方正とは限らない。少々の短所が有るからと言って無視などせず、有能な者は活用せよ」との能力主義的方針を布告する。更に建安二十一(二一六)年、魏王となった曹操は、些細な言葉尻をとらえて崔エンを処罰すると、翌二十二年に「悪い評判が有ろうとも、嘲笑されようとも、不仁不孝の人であろうとも、国を治め兵を用いる力量を持つ者であるならば、推挙せよ」と実用主義的方針を布告している。これらの政治方針は、所謂法家の「用賢任能」主義に基づくものであり、同時に曹操は刑罰の厳正な施行を求め、処刑者に涙することは有っても施行自体を中止することは無かったとも伝えている。
 しかし、だからと言って曹操の思想は法家であると言えるのであろうか。名教社会では、儒教的道徳の実践に因る人民の教化こそが政治であり、そこに求められる人材は、道徳的人格者であれば、実務能力は二の次となる。しかし乱世における政治は熾烈な権力闘争以外の何ものでもなく、そこに必要な人材は、己が命令を果断に実行して成果を挙げる能吏であり、同時に彼等に求めるものは、己に対する絶対的忠節である。乱世の覇者たらんと欲する曹操にとっては、己の権力を確立する過程で、その時々に最も有効な手段を選び取ったに過ぎないのである。このことは、時には儒家的政策を行い、時には法家的方針を示すと言う、曹操自体の政治方針の振幅が端的に示唆している。

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   終わりに
 則ち、曹操は、確たる宗教観も、信じて邁進するが如き思想も、持ってはいなかった。曹操が持っていたものは、己が政治権力を確立させる、便宜の手段としての宗教であり思想である。曹操は、心の中で密かにほくそ笑んでいたはずである。「笑わせるな、何が宗教だ、何が思想だ、俺が右と言えば右に行けば良い、左と言えば左を見れば良い、俺は天下の曹操よ」と。

     平成十一年十一月                          於黄虎洞

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