自伝

生まれたのは、Tavistock, a small town on the edge of Dartmoor in the southwest of England. つまり、英国の南西部にあるダートムーア という嵐が丘みたいな風が強く吹く荒野の近くにあるタヴィストックという町なんだよ。サッカーボールを最初に蹴ったのは、コーンウォール県の 東部にあるHarrowbarrow(ハロバロ)という小さな村で 親のfront lawnの芝生の上だった。最初にチームに入ったのは、小学校時代。Bristol(ブリストル)というcityから車で30分離れたところに the Leaze Junior Schoolがあった。 今でもあるだろう。最近、行ってないな。Thornburyという町にあった。高級なホテルとレストランが家の近くにあって、うちの猫が家出して、 居候としてあそこに一週間ほどお世話になった。 首輪に名前と住所と電話番号が書いてあったから、ホテルが次第に猫のことが邪魔だと感じ、家に引き取りに来るように連絡してきた。雑談終わり。 本件に戻ろう。デビューしたポジションは left-back(左バック)だったけど、後半に入って、centre-forward(トップ)をやるよう監督に言われた。点を決めたかどうか、覚えてません。 覚えてないというのは、おそらく入れてない。

7歳の時、故郷のTavistockに戻り、校長先生兼サッカー監督の先生の元で、centre-half を任せられた。今の言い方で言うと、ボランチだろうな。 大事なpositionだけど、点に絡むようなplayが少ないので、当時の僕にしてみれば、地味すぎた。コーナーキックからペナルティエリアの 外で待ち伏せしていた僕の前に、ボールが来て、それを思い切って蹴ったら、運よく入った!グローリアスな一点でしたよ。今でも眠れない夜なんかは、 しょっちゅう心の中で再現している。二年間が無事に終わったら、今度Bristolに戻って、パブリックスクールのClifton Collegeに入学。で、 under-11 side(十一歳未満のチーム)に入り、 the left-wingを走りまくった。センタリングが得意だった僕には、今さらベッカムのあれこれを 聞くと、なんだよ、前から僕がやっているよ、と訴えたい。聞いてくれる人は妻ぐらいかな。

三年後、親が大きなミスを犯してしまいました。信じられないようmistake!サッカーが生きがいな僕を今度、Plymouth Collegeという変わった高校に行かせたんだ。 なんと、サッカーの代わりにrugbyしかやらないところだった!秋、冬、ラグビーばかりだった。サッカーが労働者がやるスポーツであり、 gentlemenになろうとする若者はrugbyやtennisやgolfに励むべし、という時代遅れな発想の一環だったと思う。まぁ一応、僕なりにがんばったけど、どうも サッカーなしの四年間が非常に長く、そして非情に感じたよ。高校を卒業して、ドイツのNuremberg ニュールンベルグに移籍して、サッカーに再び燃えていた。

海外でのplayを味わってから、Cambridge大学のGonville and Caius Collegeに入学した。 第一回目の試合で後半少々でベンチから途中出場して、 2対0で負けていたチームを救った。二点を入れて(二点目はロスタイムぎりぎりで)、結局試合は2対2で終わった。残念ながら、サッカー以外の こと(勉強など)でしだいに忙しくなり、思う存分playができなくなった。しかし、卒業後、また海外で活躍する機会が訪れてきて、日本にやってきました。 Jリーグが始まり、数多くの外国人選手が日本のサッカーを盛り上げようとしていた。その中Gary Lineker, Zico, Littbarski, Schillaci, Bebeto, Leonardo, Dunga, and Georgeもいました。大金を手にして、すぐ帰った人もいれば、最後まで残って、日本のサッカーのため一所懸命にがんばる人もいた。 ジーコ選手が日本代表チームの監督となった。Georgeが大東文化大学の一員になった。

93年に恭子と結婚して以来、世田谷の用賀で暮らし、毎週土曜日、 FC Kyosaiのコーチを務めています。最近、桜町小に圧勝した。たまたま、僕がいない間。