刈萱と石童丸  徳富元隆著 高野山刈萱堂蔵版  昭和6年刊

九州博多(刈萱の関)城主加藤左衛門重氏は、花見の時、蕾が手に持った盃の中に落ちたのを見て、世の無常を感じ、秘かに屋敷を出て比叡山へ向かい、京都黒谷の法然上人のもとへ出家する。しかし、国元から妻子が尋ね来ることを嫌い京都を発って、高野山に向かう。やがてその子、石堂丸は十四歳の時にまだ見ぬ父に会いたいと母の桂御前にせがんだ。そこで母子は父を求め旅に出る。父が高野山にいることを知った母子はそこへ向かうが、高野山は女人禁制の寺であったので、石堂丸が一人で登って父を訪ね回った。蓮華谷の往生院で父の刈萱上人と出会うが、父は父と名乗らず「探す方はすでに世にいない」と告げる。やむなく石堂丸が下山をすると、母は高野山の麓で病に倒れ亡くなっていた。独りになった石堂丸は母の遺骨を背負って高野山へ向かい、刈萱上人に弟子入りして道念と名乗った。しかし、刈萱上人は修行の妨げになると思うようになり、再び一人旅立って信州善光寺に籠もった。善光寺の如来様のお告げを受けた往生寺の地に庵を結び、建保2年(1214)8月24日83歳で亡くなった。後に後を慕って来た石堂丸は父の残した地蔵菩薩像を真似てもう一体の菩薩像を刻んだという。世に刈萱親子地蔵さまという。

私の古典学
当ページの画像・テキスト等を Webサイトや印刷媒体へ転載・転用することを禁じます。