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伴大納言絵詞 臨模本




伴大納言絵詞  臨模本  巻子装一軸  本紙33.6㎝×368㎝

 本軸装は薄縹色の表紙に白色の題簽を貼るが題名はない。しかし見返しに内題を墨書した題簽を貼り「文治年間ノ人/光長応天門絵巻物/詞書参議雅経」とある。この内題の筆跡と本紙詞書の筆跡とは明らかに別筆で、内題は後世のものと見られる。内題は本軸装の保管や閲覧時の便に資する目的で簡潔な書誌的情報を認めたものであろうが、この内題の筆者は武久寅次郎かと推察される。というのも、本軸装を納める軸函には「応天門絵巻物」の由来に関する武久寅次郎墨書の詳細な文書が添えられていて、その墨蹟と本軸装の内題の筆跡とが頗る近似しているからである。
 周知のように出光美術館所蔵の国宝伴大納言絵詞三巻は、旧小浜藩主酒井忠勝(1587-1662)の所持するものであったといわれる。しかし、上記武久寅次郎筆の明治元年(1868)頃の文書には、伴大納言絵詞はもと武久家が所持したものであるとし、武久家始祖の荘兵衛昌勝(承応3年・1654年死去)の妻になった陸奥葛西城主の家臣であった有壁塊身女が武久家への嫁入り道具として持参したものであると記す。ところが、天明4年(1784)7月18日武久昌保の時に、小浜藩主酒井忠貫の近習山本十兵衛によって、昌保所持の伴大納言絵詞三巻を江戸幕府に差し出すよう迫られ、天明5年(1785)8月13日には杦田元伯を以て江戸の所々より閲覧や書写希望の旨を伝えられ、同17日に山本十兵衛より江戸表に差し出されたという。その後、武久家第七代昌生の時、寛政9年(1797)正月7日に評定所より伴大納言絵詞の返却通知を受けるも、所有権が有耶無耶の形で酒井家の家什に帰してしまったと記している。そのことを武久寅次郎は、「前記中何々所持トアルモ今ハ何レモ散逸シテ一物ヲモ宗家ニナキハ惜シキモノナリ」と慨嘆している。
 ところで、本軸装は国宝の出光美術館本と比較すると、書写された仮名及び漢字の一致、一行の文字数や改行の一致、書風・書体も酷似していて臨模本のごとき趣である。武久寅次郎筆の添付文書の存在なども勘案すると、本軸装は旧小浜藩主酒井家に帰した現出光美術館本の詞書部分を臨模して制作された副本てある可能性も考えてよいかもしれない。