紫式部の楽府進講 松本敬忠(楓湖)筆  明治20年
宮内省蔵版 婦女鑑 御用書林 吉川半七

 紫式部が中宮彰子に楽府を侍読する場面。
むらさき式部は、式部丞藤原為時の女にて、右衛門権助藤原宣孝が妻なり。幼きより才知世に聞えて、詠歌をよくし、博く和漢の旧記にわたり、かねて朝廷の典故に通ぜり。時の中宮上東門院の宮人には、才知絶れしもの多かりけるに、式部もめされてみやづかへしけり。門院白氏文集といふ書よませたまふ時、その中の楽府二巻の句読を授け、又源氏物語五十四帖を著はして、これを奉れるなど、その才学世に比類なかりければ、うへの御おぼえもことに深かりけり。あるとき帝式部が源氏物語をよみ、いたくおどろかせたまひて、みことのりありけるを、式部はよく日本紀をよみえたるものなり。さらずばこの物語かばかりはあらじ。とぞのたまひける。これより後、よの人式部をよびて、日本紀の局といへり。かくのごとく才学ともに世に絶れ、身をつゝしみて人にほかならず、よく婦女たるの徳を修めしにより、後の世までも人これを賞揚せり。その履歴の詳かなるは、自著の日記にあり。これについてみるべくこそ。(巻五 24-26丁)
 松本敬忠[ひろただ](1840−1923 天保11−大正12年  享年84歳は、茨城県の出身で、幕末から大正時代にかけて活躍した絵師。敬忠は本名で、安政3年(1856)に楓湖と号した。佐竹永海(1803-74) に師事したのち、慶応元年(1865)に菊池容斎(1788-1878) )に学び歴史画を多く描いた。宮内省の注文で「幼学綱要」「婦女鑑」の挿絵を描く。

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