源氏物語真木柱の図(部分)

酒井忠貫(宝暦2年〜文化3年 1752−1806 享年55歳)画 / 織田信憑(寛保元年−天保2年 1741−1832 享年92歳)賛
 絹本着彩 本紙29.5×100cm

 この図像は源氏物語真木柱の巻名にもなった髭黒の娘(真木柱)が、髯黒の大将の家を立ち去るときに、いつも寄りかかっていた柱の割れ目に「今はとて宿かれぬとも馴れ来つる真木の柱はわれを忘るな」と詠んだ和歌を押し込むところ。
 絵師は若狭国小浜藩第9代藩主であった酒井忠貫(タダツラ)である。忠貫の号は雲淵で、落款は「雲淵」の印譜のみを押す。忠貫は、第8代藩主・酒井忠与の長男で、江戸牛込藩邸で誕生した。宝暦12年(1762)従五位下・修理大夫に任ずる。天明4年(1784)従四位下に叙す。寛政4年(1784)のラスクマン来航時には、北海道根室の防備に当たった。墓所は小浜市男山の空印寺にある。
 またこの図像の右上部には、丹波国柏原藩第4代藩主織田信憑(ノブヨリ)が73歳の時に認めた真木柱の姫君の和歌「今はとて宿かれぬともなれきつるまきのはしらよ我をわするな」が墨書されている。信憑は、寛保元年(1741年)江戸で生まれ、宝暦8年(1758)に丹波柏原藩主織田信旧の養子になった。天明3年(1783)、従五位下・出雲守に任じるとともに、藩主に就任した。文化12年(1815)従四位下に叙した。文政10年(1827)に藩主を辞したのち、天保2年(1831)に92歳で他界した。
 またこの図像右下には「玉詠需に應じて/行年七十有三秉彜書/印」と認めた落款がある。 署名の「秉彜」は『詩経』(大雅、烝民)に
「彝(い)を秉(と)る」と見える語彙で、「天から与えられた常道を保持する」「人の道を固く守る」の意である。信憑は還暦後、署名の代わりにしばしば「秉彜」使用した。
 なお、本図を収める函書は、蓋表に「掛物」と墨書し、蓋裏には「御画酒井修理大夫忠貫候/古歌御染筆織田出雲守候」と記す。また函本体内の底に、頗る損傷が激しいが「文化十二乙亥吉祥……」と記す紙片が貼られ、文化12年(1815)に「○○殿」から拝領した趣を記す。





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源氏物語真木柱の図