当ページの画像・テキスト等を Webサイトや印刷媒体へ転載・転用することを禁じます。 
粟田口近衛忠良  長寛二〜嘉禄元(1164−1225)) 紙本 22.0x44.6p

忠良公家会始「梅香移柳」 梅が香のあまる軒端やとひてみむ門のやなぎもなびく匂ひに /梅が枝にかゝる柳は糸をもてくゝれる花とちらずかほれる (重嗣)

 忠良は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての公卿で、藤原氏北家近衛庶流で粟田口家の祖となった近衛忠良。近衛摂政基実二男。母は左京大夫藤原顕輔女。治承4年(1180)に元服して正五位下に叙爵。寿永2年(1183)従三位・非参議。文治5年(1189)中納言)、建久2年(1191)権大納言、建仁2年(1202)に大納言、同4年(1204)辞職。承久3年(1221)出家し、4年後の嘉禄元年(1225)に薨去した。正二位大納言。号鳴滝殿。忠良は粟田口家の祖となったので忠良を粟田口とも号する。異母兄に近衛基通がいる。歌人としても知られ、勅撰集に69首入集するほか、『新百人一首』の一人でもある。『古今著聞集』に、長期間出仕を怠ったので大納言の地位を剥奪されそうになったといい、その心境を和歌を通じて兄の基通と語り合う説話が収載されている。
 本書の筆者は庭田重嗣(法名祐真)。重嗣は、宇多源氏流の前権大納言従一位庭田重煕男。母在兼卿女。文政七年(1824)三月一四日落飾、法名祐真。時に六八歳。天保二年(1831)四月五日薨去、七五歳。