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頓阿法師筆 古筆了雪極札

頓阿法師筆(正応二~応安五 1289-1372 享年84歳)  古筆了雪極札 22.6㎝ × 5.3㎝

           ■翻字■
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在原業平朝臣/ちはやぶる神代もきかずたつた河/からくれなひに水くゝるとは
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当該歌は『業平集』1番に「二条中宮の東宮女御ときこえし時に、御屏風にたつた河に紅葉ながれたる所」の詞書で収載される。

 頓阿法師は、和歌四天王の一人。俗名は二階堂貞宗。下総守二階堂光貞の子(『作者部類』)。二階堂家は藤原南家の末裔で、源頼朝家政所執事となった行政以後、代々鎌倉幕府の執事をつとめた家系である。一説に藤原北家師実の子孫とする伝(『実隆公記』など)もあるが、現在では否定的な意見が多い。子に経賢がいる。二十歳頃出家して、比叡山・高野山で修学。のち京都四条道場金蓮寺の浄阿に入門、時衆僧となって東国・信州を行脚する。京では西行の跡を慕って東山双林寺に庵居したり、仁和寺に住んだりした。
 歌人としては、応長年間(1311-1312)に百首歌を詠んで本格的な活動を始める。正和元年(1312)頃、すでに二条家に接近し、元応元年(1320)には二条為世から古今伝授を受けたとも言う(『伝心集』)。やがて歌僧としての名声が高まり、慶運・浄弁・兼好と共に為世門の和歌四天王と称せられるに至った。南北朝時代になっても、足利尊氏・義詮らの寵遇を受け、歌壇の重鎮として二条家を守り立てる。関白二条良基の信任もあつく、貞治二年(1363)、良基の問いに答えた歌論書『愚問賢註』を著す。『新拾遺集』撰集の際は、撰者為明の逝去後、その事業を引き継いで貞治三年(1364)に完成をみた。応安五年(1372)三月十三日、没。時に八十四歳。双林寺に墓がある。二条家断絶後は、頓阿の子孫が二条派道統の後継者として歌壇に重んじられることとなる。
 正和四年(1315)の花十首寄書、元亨年間(1321-1324)の聖護院二品親王家五十首、建武二年(1335)の内裏千首など、数多くの和歌催事に参加。家集・詠草には、延文三年(1358)頃までの歌を収める自撰家集『草庵集』、その続編『続草庵集』、延文二年(1357)に『新千載集』の撰歌資料として自撰した秀歌撰(通称『頓阿法師詠』)などがある。『続千載集』初出。勅撰集入集は計49首。著書は前記のほか歌論書『井蛙抄』、紀行『高野日記』などがある。連歌も能くし、『菟玖波集』に入集する。