1997.11.28 に更新しました


再録版
学術研究論文

花山法皇奉射事件


■著       者■  浜 口 俊 裕

■初 出 掲 載 誌■  『東洋研究』 第94号 (平成2年2月28日発行)

               ★今回はその一部分を再録しました。


■版型・執筆ページ数■  A5版 38ページ


目次

  1. 事件の発端
  2. 事件の露見と中宮定子の遷御
  3. 四月廿四日、伊周・隆家ら配流の宣下------以下未収録------
  4. 伊周・隆家ら配所に赴かず
  5. 隆家配所に赴くも但馬に逗留
  6. 伊周配所に赴くも播磨に逗留
  7. 中宮定子と母貴子の出家
  8. 中宮御所二条宮出火により明順宅へ移徙
  9. 信順・道順・明理・方理らのその後
  10. 伊周の入京と筑紫への配流
  11. 母親貴子の薨去
  12. 伊周・隆家の召還と帰京


論文


 十世紀の末、大納言と中納言の兄弟による花山法皇暗殺未遂事件が発覚し、筑紫と出雲に左遷される出来事があった。
『枕草子』や『源氏物語』にも少なからず影響を及ぼした事件で、その顛末は『栄花物語』にる縷述されて周知だが、
歴史物語の方法上、史実を故意に潤色している箇所も少なくない。そこで、ここでは藤原実資の日次記録『小右記』を
中心にして、事件の発端から兄弟召還までのあらましを辿り、併せてその間の兄弟の身近な人々の動静についても概観
してみたいと思う。

       一 事件の発端
 長徳二年(九九六)正月十六日の深更、故関白藤原道隆の二男伊周と四男隆家とが、従者をして、花山法皇に矢を射 るという事件が起こった。一般には「花山院奉射事件」の名称で知られているが、ほかに「伊周不敬事件」とか、「長 徳の変」とも呼ばれている事件である。時に、伊周は正三位内大臣で二十三歳、隆家は従三位中納言で十八歳であった。 二人は、若くして高位高官にあり、将来を嘱望されていた会卿であった。  この事件について『日本紀略』の同日条には、    (為光)       (伊周)   今夜華山法皇密幸故太政大臣恒徳公家 之間、内大臣並中納言隆家従人等、奉法皇御在所 とあり、花山法皇に対する奉射の事柄だけが記載されている。しかし、『三条西家重書古文書一』所収の『九条殿記裏 書』に引かれる『野略抄』の同日条によれば、   (道長)   右府消息云、花山法皇・内大臣・中納言隆家相遇故一条太政大臣家、有闘乱之事、御童子二人殺害、取首持   去云々、 とあり、法皇に仕える童子二入が殺害され、その首が持ち去られたことも明らかになるのである。『百練抄』の長徳二 年条にも、   正月十六日、内大臣・権中納言隆家於恒徳公一条第、奉華山院御童子二人被殺害、取首持去云々、 とあり、『野略抄』とほぼ同じことが記されている。殺害事件になったことから、検非違使別当の実資は、天皇の仰せ を受けて左衛門権佐源孝道以下の検非違使らを伊周の家司宅へ遣わして家を捜検した。即ち『小右記』同年二月五日条 に、   [     ]尉致光及兄弟等宅、有隠居精兵之聴、遣廷尉捜検、雖五位以上宅、不事                     (伊周)            (者)                       由直以可捜検、(中略)董宣朝臣者内大臣家司也、致光又在彼宅口也、内府多養兵云々、承仰退出、詣   (道長) (宅)   右府、即帰口仰権佐孝道朝臣及検非違使等、入夜廷尉等帰来云、捜検董宣宅、董宣朝臣向故入道三位清延   葬送所、但捜検彼宅、有八人者 弓・箭二腰、則捕得者、参内可奏聞之由仰了、又捜検致光、無致洸、   隣保云、召使未来之前、七八人兵逃去已了者、件所々佐以下皆悉馳向、事頗可驚、多是依京内不静行   歟、京内及山々日々可捜検之由、仰官人等了、 とあるのによれば、伊周は多くの私兵を養っているとの疑いがもたれていたと言う。家司の紀伊前司菅原董宣宅や、右 兵衛尉源致光およびその兄弟宅に、そうした精兵が隠れ住んでいるとのことで家宅捜検が行われた。すると、致光宅か らは検非違使が到着する前に七、八人の兵が逃げ去ったと言う。董宣宅では弓箭を帯ぴた者八人が逮捕された。連行さ れた者の中には、源元正・菅原宗忠・平常則・志太元貞といった董宣の郎等たちも含まれていたようだが、これらの四 人は、伊周・隆家に配流の宣命が下された後日に、右大臣道長の命によって拘禁が免ぜられた(「小右記』同年五月六 日条)。  今のところ、古記録に伊周らによる奉射事件の原因を明記するものはない。しかし、遍く知られているのは、故一条 太政大臣藤原為光女との恋愛関係をめぐってのものである。即ち、『栄花物語』巻第四・見果てぬ夢に、    (為光)   かの殿の女君達は、鷹司なる所にぞ住み給ふに、内大臣殿忍ぴつつおはし通ひけり。寝殿の上とは、三の君をぞ聞   えける。御容貌も心もやむごとなうおはすとて、父大臣いみじうかしづき奉り給ひき。「女子は容貌をこそ」とい   ふことにてぞ、かしづき聞え給ひける。その寝殿の御方に内大臣殿は通ひけるになんありける。 とあり、伊周は鷹司小路の邸宅に住んでいた為光女三の君に恋心を感じて秘かに通じていたと言う。この三の君は、 「寝殿の上」とか、「鷹司殿の上」(『大鏡』為光伝)と呼ばれた人で、大変な美人として評判が高かった。  また鷹司殿には、同じく為光女四の君も同居していた。この女性は姉の三の君と母を同じくしていたが、   三の御方をば寝殿の御方と聞えて、またなうかしづき聞え給ふ。四、五の御方々もおはすれど、故女御と寝殿の   御方とをのみぞ、いみじきものに思ひ聞え給ひける。「女子はただ容貌を思ふなり」と宣はせけるは、四、五の   御方いかにとぞ推し量られける゜ とあり、三の君ほどの美貌は持ち合わせていなかった。父の為光にとって容貌の劣った四の君は期待の薄い娘であった が、その四の君に花山法皇が内密に通うようになり、やがて伊周の耳に入るところとなった。そして、   内大臣殿は、「よも四の君にはあらじ、この三の君のことならん」と推し量りおぼいて、わが御同胞の中納言に、   「この事こそ安からず覚ゆれ。いかがすべき」と聞え給へば、「いで、ただ己にあづけ給へれ。いと安きこと」   とて、さるべき人二三人具し給ひて、この院の、鷹司殿より月いと明きに御馬にて帰らせ給びけるを、「威しきこ   えん」とおぽしおきてけるものは、弓矢といふものして、とかくし給ひければ、御衣の袖より矢は通りにけり。さ   こそいみじう雄々しうおはします院なれど、事限りおはしませば、いかでかは恐ろしとおぽさざらん。いとわりな   ういみじとおぼしめして、院に帰らせ給ひて、ものも覚えさせ給はでぞおはしましける。 とあるように、伊周は、法皇が美人で聞こえ高い三の君の許へ通っているに違いないと邪推してしまった。そこで、法 皇が明け方近く鷹司殿より帰るところを、弟隆家の加勢を得て、矢で射てしまったと言うのである。矢は法皇の袖を貫 通し、法皇は命からがら失心同然の態で帰宅した。『栄花物語』では脅し討ちということになっているが、前述の『野 略抄』などからみて、明らかに暗殺を企てていたと解していいだろう。法皇は、実際のところ、一刻も早く伊周らの不 敬を糾弾したかったに違いなかろうが、そうした場合、密かに愛人の所へ通った不謹慎な行為の露顕が怖かった。『栄 花物語』同巻に、         (道長)   これを公にも殿にも、いとよう申させ給ひつべけれど、事ざまのもとよりよからぬ事の起こりなれば、恥づかしう   おぽされて、「このこと散らさじ、後代の恥なり」と忍ばせ給ひけれど、 とあるように、法皇は「後代の恥」を恐れる余り、ともかく、内密に済ませようと考えていたのである。  因みに、『源氏物語』夕顔の巻では、光源氏と夕顔が某の院にて密会し、魔性の女の出現によって夕顔が急死してし まった時に、光源氏は、   @ 命がけになって、どんな因縁でこんな目に遭うのだろうか。    A 自分でした事とは言え、女性関係に身分を弁えず、道に外れた恋情を抱く報いとして、こんな過去・未来に亘    る語り草になりそうな事件が起こったのだろう。   B いくら隠してみても、実際に起こった事は隠し切れないもので、父帝の耳にも入るだろう。   C 世間の人々が面白がって噂するだろう。   D 口さがない京童連中の口遊み事になってしまうだろう。   E あげくの果ては、愚か者との評判が立つに違いないだろう。 といったことなどを思い巡らしている。しかし、右に掲げた『栄花物語』の叙述には、光源氏の場合のように、花山法 皇の心の内側にまで深く踏み込んだ具体的な心理描写は見られない。『栄花物語』の読者たちは、光源氏と似た苦境に 立たされる法皇が、光源氏のような思わくをあれこれ巡らしたに違いないであろうことを、想像して読み進めていくこ とになるのだろう。『栄花物語』では、花山法皇の内面描写よりも事件の展開の方に、より叙述の力点が置かれている と言ってよいのである。       

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       二 事件の露見と中宮定子の遷御
 花山法皇の「このこと散らさじ、後代の恥なり」との思いも空しく、事件のことは、間もなく世評に上った。『愚管 抄』第三・一条天皇の条に、                          (廿五カ)、   小野宮ノ記ニハ、ヤガテソノ夜ヨリキコヘテ、正月十三日除目二、内大臣ノ円座トラレタリケリ。尤可然卜時ノ   人云ケリ。コマカニソノ日記二ハ侍レバ、ソレヲミルベキナリ。 とあるのによると、法皇に対する奉射事件は、その日のうちに朝廷の知るところとなり、正月二十五日の県召除目では 内大臣伊周の円座が撤せられたと言う。現存の『小右記』は、事件当日の正月十六日条から翌二月五日条に亘って本文 に大きな脱落があり、いま『愚管抄』の記事の真偽のほどは確かめ得ない。しかし、『愚管抄』では「小野宮ノ記ニハ」                          (ママ) とあえて典拠としてのそれを明示していることや、「正月十三日除目二、内大臣ノ円座トラレタリケリ」がほかに所伝 を見ない記事であるのは、それが『小右記』の今は散逸してしまった記事に基づくものであるが故の可能性も否定でき ないことなどから、「ヤガテソノ夜ヨリキコヘテ」とする記事の信憑性もかなり高いものと見ることができるのである。  その後、二月十一日に至って、   右大臣、大納言公季、中納言時中、参議安親・俊賢在陣、内大臣・中納言隆家罪名可勘之由、頭中将出陣仰   右大臣満座傾嗟、秉燭退出、(『小右記』) とあるように、公卿たちが近衛陣に集まって陣定が行われた。頭中将藤原斉信が杖議に出て、右大臣道長に対して、伊 周・隆家の罪名を勘申するよう勅命を下した。それを聞いた公卿たちは、「満座傾嗟」したと言う。杖議に集まる公卿 たちは、明法道の出身者を一人も含むことがなかったし、必ずしも司法関係に通じていた人々ではなかった。加えて、 内大臣・中納言による不祥事件であっただけに、こうしたことに知悉した人に罪名勘文をすすめさせる必要があった。 そこで右大臣道長らは、僉議の結果、明法博士をして罪名を勘申させることにした(『日本紀略』同日条)。明法博士 の定員は二名であったが、いま現任を確認できるのは、惟宗允正だけである(1)。  またこの日、二月十一日は、中宮定子が行啓される予定の日であった。しかし、延引になった(『小右記』)。三巻 本『枕草子』第七十八段(2)に、    かへる年の二月廿余日、宮の、職へ出でさせ給ひし御供にまゐらで、梅壺に残り居たりし。 とある記事や、その「勘物」に引かれる『長徳二年信経記』に、   廿三日甲午、明後日臨時奉幣八省行幸、中宮退出職曹司、不輩車、永宣旨人、但車尋常檳榔毛也、 と見られる通り、内裏梅壺から職曹司への遷御であったが、『長徳二年信経記』によれば二月二十五日に延引になった。 その理由は明らかでないが、推測するに、供奉すべき上卿たちの相次ぐ不参によって、ついに延期せざるを得ない事態 になったものであろう。  一体、行啓日は、相当早くから日次の吉凶などを勘申して定められるものであった。従って、行啓日当日に至っての 急な延期は、伊周たちの事件が、もとより誰にも全く予想できぬものであったことを物語っているのである。伊周が嫉 妬心に駆られて、衝動的に企てた事件であったと言える。  中宮定子は、二月二十五日より九日間、職曹司に滞在した後、三月四日に雨の降る中を二条北宮に遷御した。中宮は 懐妊三箇月であった。  二条北宮は『小右記』長徳二年四月二十四日条に、              中宮御在所也    允亮朝臣向権帥家              謂二条北宮、 とあるように、伊周の領有する邸宅であった。中宮はその伊周二条第の北家を在所にしたので、二条北宮と呼ばれたの である。  あらためて述べるまでもないことだが、伊周の二条第は、二条大路に面し、『日本紀略』長徳元年正月九日条に、      (伊周)   摂政・内大臣二条第並鴨院等焼亡、干時冷泉院御坐鴨院 とあるように、冷泉上皇の御所になっていた鴨院に近接していた。また『日本紀略』長徳二年六月八日条に、   今夜、東三条院東町、世号二条宮、焼亡、 とある通り、西隣には東三条院が存した。従って、伊周の二条第は二条大路の南、町尻小路の東に所在した邸宅で、地 籍で言うと左京三条三坊八町に位置していた。

第一図 二条大路付近の邸宅
 その邸宅に中宮定子が遷御したときの有様は、『小右記』の三月四日条に詳しい。いまその内容を要約してみると、 およそ次のようになる。  (1)左馬寮が怠状を進めて供奉すること不能になったが、天皇はこれを免じて供奉させた。  (2)扈従した公卿は左大弁平惟仲と右兵衛督源俊賢で、他の公卿は皆悉く障りを申した。  (3)中宮は御輿を用いず、檳榔毛御車を用いた。  (4)中宮は戌剋(午後八時頃)に陽明門を出御した。  (5)二条北宮では饗応のこともなかった。  言うまでもなく、一条天皇は中宮定子をことのほか寵愛していたし、伊周の政敵道長がその政権を思い通りにするこ とができるようになったのは、明らかに本事件後のことであり、山中裕氏によれば、七月九日の除目に道長の独断的な 政策が反映したらしいことの指摘がある(3)。ともかく、長徳二年三月における道長の威勢は、右大臣就任一年にも 満たず、公卿たちを阿諛迎合させるに至るほどのものではなかった。  こうしたことを念頭に置いて先程の『小右記』について見てみると、(2)は渦中の人たる伊周宅への移御であった から、公卿たちは身の処し方に相当頭を痛めたに違いなく、もっともらしい理由としての「障り」を以て、当面の急場 を切り抜けたものであろう。すでに中関白家に対して人々の同情がなくなっていたと見るのは、余りに早計であろう。 長保元年(九九九)八月九日定子中宮が平生昌宅行啓の際、左大臣道長が大納言道綱や参議斉信を率いて宇治へ遊覧に 出かけ、行啓に道長・道綱・斉信等が不参、他の上達部たちも道長に憚って参内しなかった(『小右記』)のとは、質 的に異なるものである。  (3)に関して、尋常は御輿が用いられた。しかし、御車が使用される事例もないわけではない。『小右記』永延元 年(九八七)二月七日条には、太皇太后宮昌子内親王が実資の二条第に行啓した時のことについて言及し、「彼時不御輿、御車也」と記している。また同じ太皇太后宮が大江雅 致宅へ遷御した時、『小右記』長保元年十月二十五日条に、         糸毛、侍長以   戌剋寄御車         下候御車轅、 と見え、御車を使用したことが明確である。ただ、その場合注意すべきことは、檳榔毛御車でなくて、糸毛御車であっ たことである。右の『小右記』長保元年十月の例をはじめ、『為房卿記』寛治六年(一 〇九二)三月四日条に、   院並中宮渡御鳥羽、中宮令糸毛車給、 と見え、あるいは『中右記』元永元年(一一一八)五月十八日条に、      .   晩頭参院、糸毛車所作也、御車、皇后累代之所用給車、 とあるほか、『中右記』同二年三月二十二日条に、   皇后行啓之時、用来輿並糸毛車事也、 とある記事などから一目瞭然なように、行啓に御車を使用する場合、糸毛車を用いるのが慣例であった。一説に、「檳 榔毛、糸毛車、同ジモノナリ。檳榔ヲ細ク割リタレバ、糸ノヤウニ細ク、白ク美シク見ユルナリ」(『浅浮抄』)のよ うに、檳榔毛と糸毛の車を同一に解するものもあるが、『小右記」長和二年九月二十七日条に、                  「    今日典侍乗檳榔毛車、依糸毛車、 とある記事から自明なように、糸毛車と檳榔毛車は全く異種のものであった。  中宮定子が檳榔毛車で遷御したのは、御輿や糸毛車の使用によって人々に行啓と察知され、物見高い衆目の前に曝さ れるのを極力嫌ってのものであったように思われる。檳榔毛車は、恐らく中宮自身の申し出によったものと推測される。  (5)の里第での無饗も世情に鑑みたもので、やはり中宮の配慮によったものと推量される。    以上のように、伊周らによる花山院奉射事件は、妹の中宮定子をも巻き込み、定子は苦悩の中に日々を送らなければ ならなくなっていくのである。

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       三 四月廿四日、伊周・隆家ら配流の宣下 

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  四 伊周・隆家ら配所に赴かず

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       五 隆家配所に赴くも但馬に逗留

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       六 伊周配所に赴くも播磨に逗留

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       七 中宮定子と母貴子の出家

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       八 中宮御所二条宮出火により明順宅へ移徙

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       九  信順・道順・明理・方理らのその後

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       十 伊周の入京と筑紫への配流

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       十一 母親貴子の薨去

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       十二 伊周・隆家の召還と帰京

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−−−−−−−--−−−−−−−--−−−− 【次回につづく!! −−−−−−----−−−−−−−−−−−−

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