1997.12.25 に更新しました


再録版
学術研究論文

『枕草子』回想的章段におけるデフォルメ −「大進生昌が家に」の章段−


■著       者■  浜 口 俊 裕

■初 出 掲 載 誌■  『日本文学研究』  第23号 (昭和59年1月発行)

               ★全文収録★


■版型・執筆ページ数■  A5版 14ページ


目次

  1. 中宮定子の生昌宅行啓前後の政治史的背景
  2. 東門を「四足になして」はデフォルメ
        (1)「四足になして」の従来の見解
        (2)「四足になして」は事実に違う
        (3)「四足になして」はデフォルメ
  3. 笑い者にされた生昌 −行啓軽視の非難を狙ったデフォルメか−
  4. 庇われた生昌 −道長への非難をデフォルメして託諷するか−
  5. 結び


論文

  一、中宮定子の生昌宅行啓前後の政治史的背景
    長保元年(九九九)七月十八日、中宮定子は蔵人頭右大弁藤原行成を中宮の御在所職御曹司に召した。行成はこれを 「候内。今夕依召参中宮。又帰参。」(『権記』)とごく簡単にしか書き留めていないが、中宮定子は当時妊娠中 期の身重であったから、中宮の召致は、出産に備えて近々に行啓したい意旨を伝えることにあったものと推測される。 行成が「又帰参」と職御曹司から内裏へ帰参しているのも、一条天皇にそのことを奏上するためであったのだろう。そ して、日次の吉凶などが検討されて、『権記」長保元年八月四日条に   参内。(中略)仰云、中宮来九日出給前大進生昌宅之由、可上卿。参中宮退出。 と見られるように、中宮定子の行啓日は来る八月九日、行啓先は前中宮大進平生昌宅と決まった。一条天皇は行成に行 啓の召し仰せを上卿に下すよう指示せられた。行成は、仰せに従って上卿を陣座に参会せしめ、「来九日、中宮可啓前大進前但馬守生昌宅。御供奉事可承存候。外記散状遅々之間、且言上如件。」(l)といったような口宣を下し て議定する手筈でいたものと推測される。ところが、『小右記』同年八月七日条に   中宮以右近中将頼定仰云、九日可里第、而公家為其事。召遣上卿、悉申故障参入。 若無指礙参行乎者、令痢病未平由。 とある如く、この日上卿は悉く故障の由を申して参入しなかったというのである。そこで中宮は、中納言太皇太后宮大 夫藤原実資のもとへ右中将源頼定を遣わして、もしさしたる礙げがなければ行啓の事を供奉するようにと依頼するが、 実資も八月三日に発した痢病がいまだ平癒しない由を啓上して辞退したのである。  こうして、供奉する上卿が定まらぬまま、八月九日の行啓の当日に至るのである。ところが、この日も上卿に中宮行 啓を無視するような動きが見られた。『小右記」の当日の条に次のように記されている。   藤宰相(懐平)示送云、今日中宮可御里第。而無上卿。只今可仰供奉行啓之所司者。左府 (道長)               自六条左府後   払暁引率人々宇治家       今夜可彼家云々。似行啓事。上達部有憚不参内歟。               家手買領処也。      申剋許有急速召、仍参入。頭弁(行成)仰云、依中宮可里第召也。而助所労早参、最有勤。但   中納言藤原朝臣時光参入。仍仰事由先了者、依退出。  また、『権記』同日条にも次のように見える。   参内。次亦参左府(道長)今日中宮行啓事上卿不参之由。左府与右大将 (道綱)・宰相中将 (斉   信)覧宇治。即還参内奏。今日行啓事、依上卿之不参延引。且仰外記諸司。且重可   遣上卿之由有勅許。仍且召外記為政事由且差内竪上卿之間、右兵衛府生県富永為藤中   納言 (時光) 使大蔵卿 (正光) 案内。今日之召事、若重者破物忌参云々。即余 (行成)書消息   送早可参之由。亦参職御曹司案丁内夕行啓事。次亦参内之間、藤納言被参。即仰中宮戌剋可御前   但馬守生昌宅之由納言云、日者所労侍、籠侍之間、一昨雖召由所労侍之内、彼日亦有重慎参。今日   重承召由、相扶病物忌参入也。行啓之間可供奉参議以上、有別仰催行也。    随仰可進止。以此旨奏者、即奏之。仰云、依例令行。納言奉勅参中宮。有頃、太皇太后宮大夫   (実資) 参入奏事由。仰云、依行啓事召也。未参以前、仰他上卿了。即被退出。  これらの記事によると、行啓の当日、頭弁行成が左大臣藤原道長邸に出向き、この日の行啓の事を申したところ、道 長は大納言右大将藤原道綱や参議左権中将藤原斉信らと宇治へ遊覧に出かけ、当夜も道長の領有する宇治の別荘に宿す ために不参というのである。宇治へ行かずに残っていた上達部も道長に憚って参内しなかったという。行成は道長邸よ り内裏に還り、道長らの不参を一条天皇に奏上すると、「今日の行啓の事、上卿の不参に依って延引すべきに非ず」と の仰せで、「且つ重ねて上卿を召しに遣るべし」との勅許があった。そこで、申の刻(午後四時)、行成は上卿に内竪 を差し、至急参内するように促した。すると、中納言藤原時光が「病を相扶け、物忌を破って」参入し、暫くして実資 も「所労を助けて」急遽参入したが、先に参入した時光に既に奉行の事が仰せつけられていたので、実資は退出した、 というのである。  実資は道長らの当日の行動を「行啓の事を妨ぐるに似たり。上達部憚る所ありて参内せざるか」と記しているが、も はや一条天皇に道長流の辛辣なやり方を制止できるほどの力はなかった。天皇は昔日にかわらず寵愛厚い中宮定子をお そらく不憫に思われたに違いないが、道長の心証を害することは却って定子の立場を不利にするとでも考えられてのこ とだろうか、行啓の期日の延期を許されなかった。こうして、予定通り戌の刻(午後八時)、ついに道長・道綱・斉信 ら不参のまま中宮の行啓がとり行われたのである。  ところで、『枕草子』<大進生昌が家に>の章段もこの生昌宅行啓の折のことを回想したものである。が、『枕草子』 当章段は   大進生昌が家に、宮の出でさせ給ふに、東の門は四足になして、それより御輿は入らせ給ふ。北の門より、女房の   車どもも、まだ陣のゐねば、入りなむと思ひて、頭つきわろき人も、いたうもつくろはず、寄せて下るべきものと、   思ひあなづりたるに、檳榔毛の車などは、門ちひさければ、さはりてえ入らねば、例の、筵道敷きて下るるに、い   とにくく腹立たしけれども、いかがはせむ。殿上人、地下なるも、陣に立ちそひて見るも、いとねたし。(下略) といった如く、行啓の模様は冒頭にさり気なく書いているに適ぎない。前掲の『小右記』や『権記』に見られたような 事情や、実資が記したような類の感懐は何一つ叙せられていないのである。しかも、後り章で触れるように、東門を 「四足になして」というのは、実は作者の粉飾した文面である。これらは一体、いかなる事由によるのであろうか。ま た、『枕草子』当章段は生昌宅行啓を契機に執筆しながら、話趣の中心は、家主生昌が作者清少納言に手厳しくやり込 められる話とその生昌を庇う中宮定子の態度の描写に置かれている。家主生昌の人物紹介とするには余りにも無様な生 昌の姿ではあるまいか。  本稿では、こうした疑問についての考察を通して、『枕草子』回想的章段の記事の選択と叙述のあり方で、中宮定子 に不都合な場面構成をデフォルメで切り抜けた『枕草子』の方法的一端を明らかにしてみたいと思う。

注 (1) 『夕拝備急至要抄』下「后宮初度行啓」条を参照して私に作成したものである。

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  二、東門を「四足になして」はデフォルメ
      (1)「四足になして」の従来の見解  従来の『枕草子』注釈書の大方は、「大進生昌が家に、宮の出でさせ給ふに、東の門は四足になして、それより御輿 は入らせ給ふ」の傍点部「四足になして」について、これを額面通りに受け取り、生昌宅の東門は四脚門に改造されて いたと見なして、何の疑問も挾むことがなかった。が、中宮定子の生昌宅行啓の翌日の『小右記』長保元年八月十日条 によれば   大外記善言朝臣云、去夕中宮出御前但馬守生昌宅。御輿。一宮(修子内親王)乗絲毛車。件宅板門屋。人々云、   未御輿出入板門屋云々。 とあって、人々が「未だ御輿の板の門屋に出入りするを聞かずと」と噂したほどである。果して「板門屋」と「四足に なして」の門屋とを同一に考えてよいのかという疑問がわくのであるが、石田穣二氏は「『板門屋』とは、急いで改造 した四足門の屋根が板葺きであったということ」(2)とされ、上野理氏も「生昌邸では東門を四足門に改造しており、 中宮の御輿はそれから入ったが、この四足門は、形は四足門でも屋根は板葺きのそまつなものであった」(3)とされ る。「板門屋」を急造の四脚門と見なすことで、『枕草子』の「四足になして」の文面に抵触しないと見ておられるの である。ところが、最近萩谷朴教授が「東門を四脚門に改造したという事実は認められない」(4)との新見を提示さ れた。これは、『小右記』長保元年十月十二日条に、太皇太后宮昌子内親王の遷御を迎える太皇太后宮大進大江雅致宅 について   大進雅致宅去宮不遠。若渡彼宅如何者。即令啓云、雅致是宮司、但有下臈宅之難歎。須彼宅   宮御領。相次改板門屋四足門。移御何事之有也。 と見え、「板の門屋を改めて、四足の門に造る」と特記しているにもかかわらず、前掲の『小右記」長保元年八月十日 条にはそうした特記が全く見えないことを拠にしたものである。萩谷説は、その後稲賀敬二氏にも「あるいは、生昌邸 は四足門改造すら実際にはなされていなかったかもしれない」(5)とやや控え目な発言ながらも継承されるようにな った。  これらが寓目に入った従来の主要な見解である。石田・上野説と萩谷説との対立を解く鍵は、「板の門屋」が果たし て板葺き屋根の四脚門の意で妥当なのか、あるいは「板の門屋」と「四足の門屋」とはその形態を全く別にしたものな のか、そのへんの闡明にあるといえる。しかし、既に提示された『小右記』長保元年八月十日条及び同年十月十二日条 の記事では、そのへんの判断は容易ではない。別な新しい史料によって検討してみることにしたい。

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(2)「四足になして」は事実に違う    『小右記』の永延元年(九八七)二月七日条に、次のような記事が見える。   @                                 A   主殿寮須東門将参者也。而入西門西門是板門昆也、希有事也。想像先例、太皇太后宮(昌子内親   王)御此家之時、東西門屋皆是板葺也。仍給宣旨於修理職忽以東門立四足門屋。彼時不御          B   輿、御車也。今及此時御輿、 尤可霊所。初自主殿寮将入西門、 出御自東門。御輿出入皆   用東西門。人々云、極希代事也者。  これは『日本紀略』の同日条にも「中宮自左中将実資朝臣二条家御四条宮」と見える如く、中宮遵子が実資 の二条第から四条宮へ遷御する折の記事の一部である。遷御の際の「板の門屋」と「四足の門屋」とに言及している点 で注目に値する史料である。  記事を内容上@〜Bに分け、最初Aの方から見ていくと、実資の二条第は初め「東西の門屋、皆是れ板葺きなり」の 門構えであった。というのも、この二条第は元は参議従三位源惟正の邸宅で、天延二年(九七三)七月実資が惟正女と 結婚し、(6)天元三年 (九八〇) 四月廿九日惟正薨去によって、後に女婿の実資に 伝領された邸宅だった(7)からである。その邸宅に、「太皇太后宮此の家に御しま すの時」とある如く太皇太后宮昌子内親王が遷御されることになった。その期日を明記した文献は現在伝わらないが、 『公卿補任』永祚元年条に掲げられた実資の経歴に「天元三年七月廿五日従四上(皇太后宮日来御座件朝臣宅、還御 本宮後、以臨時恩叙也)」とあるのによれば、昌子内親王の遷御は、惟正の四十九日忌明け後の天元三年六月十 八日以後、七月廿五日以前の間ということになろう。実資は昌子内親王を迎えるにあたり二条第の東西の門が「皆是れ 板葺き」であったことから、「宣旨を修理職に給ひて、忽ちに東門を以て四足の門屋に造り立たしむ」と、宣旨によっ て修理職に改造を担当してもらい急きょ東門を「四足の門屋」に改造したというのである。「板葺き」の門屋と「四足 の門屋」とが対照的に扱われていることで、両者は形態を異にした門であることが判明する。  次に@は、中宮遵子が実資二条第から四条宮へ遷御する折のことである。主殿寮から二条第へ差し廻された御輿を 「須らく東門自り将み参るべしてヘリなり」としたのは、上述した通り嘗て昌子内親王の遷御によって、東門が「四足 の門屋」になっていたからである。にもかかわらず、御輿は西門より入った。「西門は是れ板の門屋なり」であった。 「板の門屋」からの進入が慣例に反したものであったことは、実資の所見「希有の事なり」の一言で明白である。やは り、ここでも「板の門屋」と「四足の門屋」とが対照的に扱われている。両門の形態が異っていたことの証である。ま た、上述した通り二条第伝領当初の「東西門屋皆是板葺也」は、その後「以東門立四足門屋」と東門に限っ て改造された。西門にはそうした特記がなく、永延元年中宮遵子遷御の際にも「西門是板門屋也」とあるのによれば、 「板葺き」と「板の門屋」は、共に伝領の時以来西に開かれていた同一の門についての同義語と理解して支障なかろう。  Bは@と繋がるが、御輿が「板の門屋」の西門より進入し、「四足の門屋」の東門より出御した。このため「東西の 門を皆用ゐる。人々云ふ、極めて希代の事なりてヘリ」とされたのである。これを杉崎重遠氏は「真意は計りかねるが、 或ひは御輿の出入した門が異つてゐることを希代のこととしたのではなからうか。それとも、板門屋から入れて四足門 屋から出したことを希代のこととしたのであらうか。更に考へるに、中宮といふ高貴の身分の方の御輿の出入は四足門 屋に拠るベしとの当時の風習があつたのに、板門屋から入れて四足門屋から出すといふ前後不揃いのことをしたので希 代のことと評したのではなからうか」(8)と見ておられる。御輿が御成り門としての「四足の門屋」から出御するこ とは問題がないと考えられるので、「皆用東西門」に留意すれば、御輿を格式低い「板の門屋」から入れたことの慣 例違反と、結果的に西門をも使用したことの二点が、人々に「極希代事」と噂されたのであろ。尚、念のためBの「今、 此の時に及びて御輿を用ゐる」に言及しておくと、『小右記』同日条に                     亥時遷御四条宮。可御車之定定畢。仍被太皇太后宮(昌子内親王)御車。 而従主殿寮御輿、   太所奇也。公卿被定申云、尋常已用御輿、而狐疑可御車也、今不道理。御輿更用御車二   便宜者也者、母即差侍所長奉御車於太皇宮。                   とある如く、当初遵子は昌子内親王所有の御車で出御される予定であったが、急きょ御輿に変更になったことをいって いる。「尋常は已に御輿を用ゐる」とある如く、遷御に御輿を用いるのが以前からの慣例で、御車を用いることは「今、 道理御しまさず」であったからである。  大まかだが、当該史料の大要は説明できたものと思われる。そこで史料から帰結されることをまとめてみると、次の ようなことになろう。   (イ) 「板葺きの門屋」は「板の門屋」と同義に考えられる。   (ロ) 「板の門屋」と「四足の門屋」が対照的に扱われている点で、それぞれ形態を異にした門であった。   (ハ) 「四足の門屋」は「板の門屋」より格式高い門であった。   (ニ) 御輿は「四足の門屋」から進入するのを慣例とした。「板の門屋」から入るのは<希有なの事>であった。   (ホ) (ニ)の慣例に抵触しないよう、「板の門屋」宅に行啓の際は、「板の門屋」を「四足の門屋」に改造した。   (ヘ) 「四足の門屋」に改造する際、実資二条第のように宣旨によって修理職が改造を担当した例もある。   (ト) 御輿の出入りに「四足の門屋」以外の門まで使用したのは<極めて希代の事>であつた。    さて、「板の門屋」が(イ)の如く「板葺きの門屋」と同義な点から、前章で石田・上野氏が屋根を板葺きと見たの は首肯される。だが、「板の門屋」も四脚門であったと解した点はいかがであろうか。『小右記』は前章の例も含めて                                                 ・・ 「板の門屋」と「四足の門屋」とを対照的に扱うだけでなく、「板の門屋」を改造した後の門をすべて「四足の門屋」  と呼称している。仮に「板の門屋」が「四足の門屋」と同様、主柱二本より成る棟門の腕木の前後に控柱を有してい              ・・  たのならば、改造後の門が「四足の門屋」と呼称される必然性など全くなかったはずである。共に控柱を備えた構造で あるならば、「檜皮葺の門屋」とか「瓦葺きの門屋」の如くに屋根の違いなどが呼称の基準になってよかったはずであ               ・・ る。にもかかわらず、敢えて「四足の門屋」と呼称しているのは、「四足の門屋」が「板の門屋」には存在しない特有 の控柱を有していたという画然とした差違があったからにほかならない。因みに、例えば京都市右京区の愛宕山の愛宕       ・・・・ 神社の鳥居が四脚鳥居と称されて神明鳥居や明神鳥居と区別されるのも、本柱の前後に貫でつないだ控えの袖柱を有す る点に大きな特色があるからである。こうした例からみても、「板の門屋」には控柱がなかったと見るべきである。従 って、「板の門屋」も四脚門であったと解す石田・上野説は不当ということになる。加えて、上述した通り御輿が「板 の門屋」から進入するのは慣例に反することであった。中宮遵子遷御の際の「而入西門。西門是板門屋也、希 有事也。」 (『小右記』永延元年二月七日条) と同様、中宮定子の場合も四脚門に改造されていない「板の門屋」から の進入であったからこそ 「件宅板門屋。人々云、未御輿出入板門屋云々。」(『小右記』長保元年八月十日 条)と人々に噂されることになったのである。『小右記』に明記される如く、生昌宅は「件宅板門屋」であった。御輿 が「板の屋」から入御した記事をみても、そのことは明瞭なのである。  萩谷教授の指摘通り、生昌宅の東門が四脚門に改造された事実はなかったものと考えるべきである。『枕草子』の 「四足になして」は事実に違う文面として、これを捉えねばならぬ。

注 (2) 『鑑賞日本古典文学 枕草子』(角川書店、昭50)。角川文庫本『枕草子』上巻(旧版昭40、新版昭54)にも    ほぼ同様の見解が見える。 (3) 『有斐閣新書 枕草子入門』(有斐閣、昭55) (4) 『枕草子解環 一』(同朋舎出版、昭56)。『新潮日本古典集成 枕草子 上巻』(昭55)にもほぼ同様の見    解が見える。 (5) 『鑑賞日本の古典 枕草子・大鏡』(尚学図書、昭55)。 (6) 拙稿「公任集81〜84番歌の詠作年時と藤壺瞿麦合の主催者について」(『和歌文学研究』第三十六号、昭52・3)    に詳述したので参照されたい。 (7) 杉崎重遠氏「藤原実資二条家考(二)」(明星大学『研究紀要』人文学部、第九号、昭48・5) (8) 「藤原実資二条家考(一)」(明星大学『研究紀要』人文学部、第八号、昭47・12)

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(3)「四足になして」はデフォルメ  では、何故『枕草子』は「四足になして」』と事実に違えた表現をしたのであろうか。作者清少納言の記憶違いか、 あるいは故意に歪曲したかのいずれかが考えられるが、中宮定子の生昌宅行啓の際の諸事情を考慮すると、軽視された 行啓の実態を隠匿し、慣例通りの行啓の如くに粉飾して、読者に中宮定子の体面を繕わんとするためのデフォルメであ ったものと考えられる。以下そのへんのことについて少しく説明してみることにしたい。  前章でも触れたように生昌宅は「件宅板門屋」(『小右記』長保元年八月十日条)であったため、中宮定子の御輿は「板の門 屋」からの入御を余儀なくされた。生昌宅は栄えあるはずの中宮行啓を初めて迎えるにもかかわらず、四脚門に改造し て御輿の入御に備えていなかった。既に長保元年八月四日行啓の召し仰せが下っている (『権記』) ので、生昌宅には 相当早い時期から行啓の旨が伝えられていたものと推測される。というのも、太皇太后宮昌子内親王の大江雅致宅行啓 の場合を『小右記』によって辿れば、長保元年十月十二日既に雅致は「板の門屋」の改造に着手していて、その後同月 十四日に天文博士安倍晴明をして他所へ渡ることの勘申があり、同月十九日には行啓の雑事を定めるとともに、太皇太 后宮権大夫菅原輔正・同権亮藤原景斉が雅致宅を実検し、同月廿二日行啓の召し仰せがあって、同月廿五日に行啓、と いう経過になっているからである。これから推しても、生昌には早くから行啓の承諾を取り付けていたものと思われる 。すると、生昌宅に四脚門を急造する時間的余裕がなかったとは考え難い。また、昌子内親王の行啓に敬意を表して慣 例通り四脚門に改造した雅致の礼儀にあつい待遇や、昌子内親王が実資二条第に遷御の際、修理職の加勢を得て四脚門 の急造に努めた実資の誠意の如きものも、生昌には見出し難い。しかし、嘗て定子の中宮職大進であった生昌が、四脚 門に改造することなどの儀礼に全く疎かったとは考え難いことで、生昌が四脚門に改造しなかったのは何か事情があっ たものとみなけれぽならない。察するにそれは、第一章で上卿たちが左大臣道長に憚って中宮定子の行啓を無視するか の如き動きを見たように、生昌もまた道長に憚る余り、四脚門に改造するなどの表立った勤きを極力差し控えたためで はなかったかと思われる。生昌は、不遇の中宮定子よりも、今を時めく道長に追従したのであろう。  ともあれ、御輿は「板の門屋」から入御した。清少納言は『枕草子』にこれを叙述するに当り、御輿が用いられた事 実は、事実通りに書き留めてみたものの、「板の門凰」から入御した点については、ありのままに伝えることが憚られ たのであろう。行啓時に御輿は四脚門から進入するのが慣例であったから、「板の門屋」からの進入をありのままに記 せば、礼遇されるに至らなかった行啓の一端が読者に察知されてしまい、権威を失し凋落の憂き目をみる不愍な中宮定 子の晩年の姿を、読者を通して後世にまで語り継いでしまうことになる。そぅ判断した作者は、事実をデフォルメする ことでそれを回避することにしたのだろう。そこで作者は、生昌宅が「板の門屋」であった事実を伏せ、「四足になし て」と当時の慣例に適ったようにデフォルメしたのであろう。こうして、読者に中宮の行啓がいつも通りの礼遇された 立派なものであったかのように見せかけて、さり気なく中宮定子の体面を繕うことにしたものと思われる。中宮定子の                       、、 凋落を作者自身が見るまいとしたのではなしに、読者に見せまいとした点にデフォルメの狙いがあったことは、当章段 の性格を考える上でも看過できない問題といえるが、清少納言の中宮定子に対するこうした配慮は、奉仕する女房とし てのごく自然な振る舞い方でもあったと思われる。それは『源氏物語』帯木巻に深窓の内に育てられる裕福な家の娘た ちの才芸について語られた中に、頭の中将が「見る人、後れたる方をば言ひ隠し、さてありぬべき方をば繕ひて、まね び出だす」と述べて、親兄弟は無論、その家に仕えたり出入りする女房なども、その娘の劣る点は隠して世問に漏れぬ ように努める反面、一応何とか様になるような点は実際以上に取り繕って世間に言い流す傾向にあることが指摘されて いる如く、主家の欠点や不利益をできる限り包み隠そうとするのは、女房たちのごく一般的な振る舞い方になっている からである。清少納言が中宮定子に対して示したものもこうした姿勢に符合するものと見てよいだろ。  清少納言は『枕草子』当章段に行啓時の話題を回想するに当り、デフォルメで切り抜けねばならぬ次第に及んで、非 礼な生昌や道長への腹立たしさをあらためて覚えたことだろう。が、当章段冒頭にはそうしたもの一切を作者の腹中に 納めて、ただ「大進生昌が家に、宮の出でさせ給ふに、東の門は四足になして、それより御輿は入らせ給ふ。」とだけ 記すに留めた。このためこの一文からは、当時の読者といえども果たして幾人が、不遇な定子の姿を連想し得たであろ うか。『小右記』や『権記』の文献によって、当時の読者以上に当時の実情をかなり精確に認識し得る我々も、作者の さり気なく手際のよいデフォルメに、今日まで見事に嵌っていたのである。

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  三、笑い者にされた生昌 −行啓軽視の非難を狙ったデフォルメか−
 『枕草子』は前掲の御輿入御の一文に続いて、家主生昌の話題を三つ記している。そこでの生昌は、作者にやり込め られたり、女房たちに笑われたりの、無様な姿に描かれている。本来なら行啓先の家主としてめでたく描かれて然るべ きであるから、作者には生昌がよく思えなかったと理解してよいのだろう。というのも、生昌には嘗て中宮大進の立場 にありながら伊周の中宮潜伏を道長に密告して (『小右記』長徳二年十月八日条)、道長に寝返った陰険なところがあった。今 回もまた、中宮に忠勤ぶりを示して行啓の場所を提供しておきながら、道長に憚ってか四脚門に改造していない有様で あった。御輿が「板の門屋」に入ったのを聞いたことがないと人々の噂になったほどで、行啓をお粗末なものにして中 宮の体面を踏みにじった生昌に対して、作者は強い怒りの気持を抱いたものと思われる。それが御輿入御の記事もそこ そこに、無様な生昌の姿を描くことに多くの紙幅を割いた理由であろう。だが、「板の門屋」の件に関する怒りを『枕 草子』に直接露骨に示すことは、軽視された行啓の一端を読者に明らかにしてしまうことであり、不用意な発言は作者 として控えねばならない。中宮の不遇な姿を読者に悟られることなく、かつ生昌に対する作者の納まらない怒りの気持 を綴る工夫が必要である。そこで作者は、生昌への怒りの気持を三つの話題に借りてデフォルメし、諷諭的に生昌を非 難することにしたものと思われる。つまり、「板の門屋」を憤慨するような直接的な話題は切り捨て、表向きには行啓 後の生昌の言行を俎上にのぼせる話題にし、その心底は作者の狙いとする生昌への非難に置いて、行啓時の作者の腹立 ちの憂さを晴らそうとしているのである。具体的に生昌の三つの話題をみてみることにしょう。  第一の話題は、表向きには北門の狭小を契機に、「于公高門」の故事を引き合いに出して、生昌の学問の程をやり込 めたものである。「筵道敷きて下るるに、いとにくく腹立たしけれども、いかがはせむ」「かばかりの家に、車入らぬ 門やはある。見えば嗤はむ」と、表面上は作者の車が北門に入れなかったことの恨み言になっている。が、御輿が「板 の門屋」に入御した「いかがはせむ」術のなさと、それへの「いとにくく腹立たし」い思いや、御輿を迎える「かばか りの家」でありながら、「板の門屋」としての「車入らぬ門やはある」が四脚門は存在しないことの皮内、生昌に「見 えば嗤はむ」としている作者の姿勢、といったものをその心底に読み取ることが可能である。また、「など、その門は た狭くは造りて住み給ひける」と詰問して「于公高門」の故事に及ぶくだりにしても、表向きは北門の狭小に腹を立て る作者が、生昌に難僻をつけたものである。が、人格者于公の徳が子孫に及び、その結果駟馬高蓋の車で里帰りするこ とになる子孫のために入口の門を高大にせよとする『漢書』や『蒙求』の意に照らせば、「家の程、身の程に合はせて」 住む生昌でも于公のような陰徳多い人格者であれば「板の門屋」を四脚門に改造する機会があったはずと皮肉って、道 長に憚ってか御輿の入御した東門が「板の門屋」のままであったことに対する作者の匪難を暗に読み取ることができる。 四脚門に改造を怠った生昌を、稲賀敬二氏の指摘のように「公務にはげみ人に広く陰徳をほどこすという、于公のよう な徳に欠け」(9)た人物として作者に写ったのであろう。というのも、旧進士生昌は于公を于定国と誤解していた。 作者は早速「その御道も、かしこからざめり。筵道敷きたれど、皆おち入り騒ぎつるは」と、学問上の「道」と筵を敷 いた「道」の双方の悪さを表向きの話題にして非難した。が、その心底は、生昌が陰徳に欠けるのはお粗末な学問にあ るとし、筵道を敷いて一見丁重に迎えているかのように見せてもその中身は穴ぼこに足を取られてしまうような気の利 かない待遇で、陰徳に欠ける生昌に掛かって今回の行啓は散々だ、といわんばかりである。  このように第一の話題は作者の車が進入できなかった不満から家主を責めた展開になっているが、その背面に中宮の 行啓を踏みにじった生昌への非難がデフォルメされて託され、生昌を公然ど非難できない中宮定子の代弁者的な役割を も担っているかのような構想になっているのである。  第二の話題は、行啓の当夜に作者の局に何事か相談に来た生昌を、忍んで来た男のように扱って、忍び込もうとする なら黙って入ればよいものをと大笑いした話になっている。生昌が「北の障子に懸け金もなかりけるを、それも尋ねず」 に戸を開けたのは、「家主なれば、案内を知りて」であって、「候はむはいかに。候はむはいかに」と「障子を五寸ば かり開けて言ふなりけり」も、訪問者としての礼儀正しい案内の乞い方であって、生昌に、責められるほどの落ち変が あるとは思われない。生昌が夜に作者を訪問したのも、中宮の出御自体が「戊の刻(午後八時)」 (『権記』) であっ たし、作者が到着早々北門の件で生昌を責めたことから、御輿の「板の門屋」入御の件で作者が相当立腹しているらし いことを察して、そのへんの事情を当日のうちに何とか弁明しておこうというものであったのだろう。が、生昌のそう した隠密的に事を処理しようとする陰険な態度に、作者は我慢ならなかったのであろう。作者は生昌の訪問が夜だった 点に目をつけて「かやうの好き好きしきわざ、ゆめにせぬものを、わが家におはしましたりとて、むげに心にまかする なめり」と、好色な闖入者に仕立てて非難している。生昌の本意には触れず、作者側の一方的な解釈による叙述の背面 には、中宮を疎かにして、四脚門に改造もせず大胆に振る舞った御所提供者前中宮大進生昌への非難が、デフォルメさ れて暗示的に語られているように思われる。  第三の話題は、生昌が姫宮(修子内親王)、の装束や食器類を調える際、「衵のうはおそひ」「ちうせい折敷」「ちうせ い高坏」などと言って、女房たちの笑い草になったというものである。「衵のうはおそひは、何の色にかつかうまつら すべき」「例の様にては憎げに候はむ。ちうせい折敷に、ちうせい高坏などこそ、よく侍らめ」という生昌の積極的な 発言や、中宮の「いと勤公なる者を」の発言からみると、生昌は各種の品々を揃える際、色や形など細かな点にまで気 を配るかのような素振りを見せたようである。それでいて、生昌の言い回しが女房を笑わせるための演技だりたのか、 ごく自然の口付きだったのかは明らかでないが、『枕草子』<おなじ言なれども>の章段の「下種の詞には、かならず 文字余りたり」に当該するような下品な言葉遣いを平気でする有様であった。作者は、生昌の態度が表面は勤公の者の 如くに振る舞ってみせながら、その内実は言葉遣い一つを取っても細心の心配りに欠ける裏腹なものであることを「衵 のうはおそひ」などの例に借りて諷し、その心底に、「板の門屋」の改造に何らの配慮も見せなかった生昌への非難が デフォルメされて託諷されているものと思われる。  以上のように、『枕草子』当章段が生昌の話題を中心に展開するのは、中宮の行啓を迎えながら四脚門に改造するこ ともなく冷遇して中宮の対面を踏みにじった前中宮大進生昌に対し、作者の腹立たしい思いが基底にあってのことと考 えられる。つまり、作者の狙いは、「板の門屋」の件を露骨に非難すれば冷遇された行啓の一端が読者に知られてしま う点を配慮して、行啓の折に知った生昌の学問の程度や夜の訪問、おかしな言い回しについて、作者や女房たちがやり 込めたり嘲笑した話題で表向きを装いながら、内実は中宮の体面を汚した生昌への非難をデフォルメして託諷すること にあったといえる。  尚、生昌が道長に追従した人物である点を考慮に入れると、非難の矛先は、生昌という人物を借りて、実は行啓無視 の張本人たる道長にあるいは向けられていたのかもしれない。

注 (9) 注(5)に同じ。

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  四、庇われた生昌 −道長への非難をデフォルメして託諷するか−
 『枕草子』最後のくだりは、最初の「于公高門」の話に立ち返って締め括っている。ここには生昌をやり込めた作者 の発言は見えないものの、生昌が作者に「兄の中納言惟仲が先夜の門の件に感服して、機会を得て、面会し話をしたい と申している」と得意気に語ったのには、作者も苦苦しく感じたことだろう。作者には惟仲を好ましく思えなかったか らである。というのも、惟仲はこの年の正月三十日に中宮大夫を兼ねて定子に仕えることになったが、行啓間近の七月 八日に辞任した経過があったからである。「沈痾」のため職責が果たせぬとしての辞任だが (『権記』『小右記』) 、 定子の行啓が済んで間もない八月二十日の東三条院詮子の慈徳寺行啓には騎馬で扈従しているから (『小右記』) 、辞 任は道長に取り入ってのものであろう。生昌宅行啓の一か月前の辞任だっただけに、中宮や作者には惟仲を快く思えな かったはずである。そうした惟仲から、皮肉にも作者は称賛を得るわゆで、それを生昌は作者にわざわざ伝言しにやっ て来るのであるから、作者は褒められた嬉しさよりも、語り伝える生昌の厚かましさに腹立ちを覚えたに違いない。そ うした意味では、『枕草子』当章段のすべての話題の基底に、作者の生昌への腹立ちの気持が流通しているといえる。  生昌があえ応て作者の反感を買ってまで惟仲の談を伝言した狙いは、惟仲に対する作者の不快の心証を和らげ、作者 を通して中宮にもうまく執り成してもらおうとする下心があってのことと思われる。が、中宮はそうした不純な心情の 生昌にも寛容であった。「おのが心地にかしこしと思ふ人のほめたる、嬉しとや思ふと、告げ聞かするならむ」と生昌 の行為をあくまでも善意の行為に見なして庇うのである。作者はそうした中宮の態度を「いとめでたし」と讃嘆して章 段を結ぶが、中宮が生昌を庇うのは、前の話題でも見ることができる。即ち、生昌が夜に作者の局を訪問したとして、 作者たちが好色な闖入者に扱った時、中宮は「さる事も聞えざりつるものを。昨夜の事にめでて行きたりけるなり。あ はれ。かれをはしたなう言ひけむこそ、いとほしけれ」と語り、生昌の訪問は「于公高門」の件に感服されてのことだ ろうから、咎め立てしたのは気の毒だと庇っている。また、作者たちが生昌のおかしな言い回しを揶揄った際も、「『な ほ、例の人のやうに、これなかく言ひ嗤ひそ。いと勤公なる者を』といとほしがらせ給ふ」とあって、「勤公」な生昌 と見なして同情を寄せている。四脚門に改造もせず中宮の体面を汚した生昌を作者が遠慮会釈なくやり込めたのとは対 照的に、中宮は終始生昌を庇ったのである。  これは中宮が生昌宅に身を寄せていたというだけの理由に留まらず、中宮の心底に、生昌が中宮の体面を汚したとい うのも道長に憚って止むなくしたことなのだろうから、生昌を手厳しく咎めても仕方がない。現に生昌は、表面的にも せよ、勤公者である。責められるべき張本人は道長である、といった思いがあってのことではなかったかと考えられる のである。換言すると、生昌が責めを負う都度、中宮は責められるベき相手が道長であることを作者に暗示し、作者た ちを自重させるために生昌を庇ったのではなかったかと考えられるのである。そうすると、作者が末尾で「いとめでた し」と結んだのは、悪の張本人が道長であることを見抜いて生昌を終始庇った中宮の態度と洞察力の深さとに対し、讃 嘆したものということにもなろう。  こうした読み方が容認されるならば、『枕草子』当章段の最後のくだりは、言外に、中宮の行啓を無親させた道長に 対する非難をデフォルメして諷していると見ることができよう。

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  五、結び
 『枕草子』当章段は生昌宅に行啓した中宮定子の御輿入御の記事から起筆されるが、行啓の経過や有様を克明に記す のが目的ではなく、行啓を貧弱なものにして中宮の休面を汚した生昌に対する、作者の腹立たしい思いの憂さを晴らす ことが狙いだったものと思われる。道長はじめ上卿たちが今回の行啓を無視しているらしいことは、中宮や作者にある 程度予測できたものと思われる。が、中宮の行啓を迎えた前中宮大進生昌までもが道長に憚ってか、「板の門屋」のま まで御輿を入御させる無礼千万な行為に出て、驚きを禁じ得なかったものと思われる。この点に当章段執筆の動機もあ ったといえる。執筆に当って作者は、読者に中宮の行啓が札遇されたものであったように見せるため「四足になして」 とデフォルメして中宮の体面を繕ったり、生昌を愚弄した話題を展開して読者に道化者生昌の印象を与うて、言外に、 行啓軽視の非難をデフォルメして託諷するという方法をとって、中宮に不都合・不利益な事柄を読者に直接語り継がな いという配慮をしているのである。これは、当章段の次に位置する<上にさぶらふ御猫は>の章段が、生昌らの密告に よって大宰府に護送された伊周のみじめな身の上を、「犬島」に流刑された「翁丸」の身の上に託諷(10)して語る構 想と、方法的に脈絡するものといえる。  従来、『枕草子』回想的章段の取り扱いについては、例えば、日付・天候・官職名などでの史実との相違を、史実重 視の立場から、清少納言の記憶違いとして処理される傾向にあったが、「四足になして」のように意図的にデフォルメ された文面の実例も見出せる点に留意すると、回想的章段の史実と造型の問題は、今後に再検討の余地がありそうであ る。

注 (10) 長野嘗一氏「清少納言の一週間 −『翁丸』の段によせて−」(『解釈と鑑賞』昭39・11)や、注(4)に掲 げた書に引かれる坂田美根子氏説などによる。 後記 本稿は、昭和五十八年度中古文学会秋季大会(十月十六日、於二松学舎大学)で口頭発表した卑見を骨子とする ものである。 ★目次へ戻る★
 



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