1998.9.02 に更新しました


葛飾北斎直筆の肖像画が見つかる

北斎かいてた自分の横顔

 
「白髪のモジヤ/\」などと
自ら顔の特徴を述べて描いた
北斎(上)と、娘のお栄(お
栄の額の点はほくろではなく
ごみがついている)



 目は小さく、鼻が大きく、もじゃもじゃの白髪――。その容姿が様々に描かれている江戸の浮世絵師、葛飾北斎(一七六〇−一八四九)が晩年、自分と娘の肖像を描き、風ぼうの特徴までつづっていた手紙を、東京都内の収集家が所蔵していることがわかった。画料を受け取りに行く人物が相手にわかるように、と送った手紙で、ちゃめっ気もうかがえる。北斎研究家の伊藤めぐみさんは「『面長で厳しい顔つき』という従来のイメージを覆すもので、好々爺然としたイメージで描かれている」と話している。
 手紙は当時、亀沢町(東京都墨田区)に住んで三浦屋八右衛門と名乗っていた北斎が、「何屋何兵衛」にあてた画料の受取状。
 「一 金何両ト何拾何匁石は画料として慥(たしか)ニ拝納仕候為念 かくのごとく御座侯以上」としたためている。
 その手紙の最後に、自分の横顛と、娘お栄の正面からの肖像を描き、「眼の小キ鼻之大キ成白髪のモジャ/\と致侯親父か腮(あご)の四角ナ女」と二人の特徴を述べて、どちらかがお金を取りにいく、などと結んでいる。
 お金の額や相手の名を特定しないまま出している受取状で、これからお金を取りに行くという内容などから、北斎は絵を描かずにお金を無心した可能性もあるとみられている。
 手紙は、長野県小布施町で見つかったことが研究者の間で知られていたが、現物は行方知れずになっていた。業者を通じて数年前に東京都内の収集家の手に収まったという。
 北斎の肖像はこれまで、ほお骨が張った長い顔に、切れ長の厳しい目というイメージが一般的に定着している。これは北斎が死んで四十四年後に浮世絵研究家飯島虚心が出版した日本初の北斎研究書「葛飾北斎伝」(一八九三年)に載ったものがもとになっている。その三年後、フランスで出版された「北斎」にも転載されたため海外にも広まった。さらに、この肖像画とそっくりの「北斎像」が浮世絵商の小林文七の手で、版画にされたことで、広く知られるようになった。
 しかし、この肖像画については、飯島が出版元の意向で使わざるを得なかったとして、「このごとき怪しき肖像を出せるは、これ世人を欺くに似たり、また北斎翁をあなどるに似たり」と悔やんでいたことも明らかになった、という。
 墨田区北斎館開館準備担当でもある伊藤さんは「いわれがはっきりしないこれまでの肖像とは違って、最も本人に近い肖像画の一つといえる。北斎は自ら特徴とした大きな鼻が目立つように横顔を描いたのだろうが、現存している中では唯一のものだ」と話している。


(朝日新聞 1989.9.2 朝刊 31面社会面 13版 を転載。)





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