1997.12.25 に更新しました


再録版
学術研究論文

清慎公藤原実頼室能子と『大和物語』


■著       者■  浜 口 俊 裕

■初 出 掲 載 誌■  『日本文学研究』 第36号 (平成9年2月12日発行)

                 ★全文収録★


■版型・執筆ページ数■  B5版 2段組 12ページ


目次

  1. はじめに
  2. 摂政太政大臣藤原実頼室藤原能子と藤原仁善子
  3. 『大和物語』の藤原能子


論文

   一 はじめに
 天禄元年(九七〇)五月十八日、摂政太政大臣従一位藤原実頼が薨じた。時に七十一歳であった。実頼は、 まだ若かりしころ高麗の相人に「貴臣」と観相されたが(注1)、村上天皇が即位して年号を天暦と改元し た翌々日の天暦元年(九四九)四月二十六日に、右大臣から左大臣に転じた。その後、康保四年(九六七) に村上天皇第二子の皇太子憲平親王が践祚して冷泉朝になると、実頼は、同年六月二十二日に関白となり、 更に同年十二月十三日に太政大臣に任じた。このように実頼は、村上天皇と冷泉天皇の二朝に亙って位人臣 を極めた政治家であるが、有職故実に明るかったほか、筝は村上天皇の師であり(注2)、笙の名人でもあ った(注3)。また和歌や詩文の才にも優れていて、家集に『清慎公集』、日記に『水心記』があるほか、 勅撰和歌集に三十四首、『和漢朗詠集』『和漢兼作集』に各二首入集し、天徳四年三月三十日の内裏歌合に は判者を勤めるなど、文芸にもなかなか造詣の深い人物であった。このため実頼のところには機会あるごと に文人や歌人たちも出入りし、実頼の恩顧に与かった者も少なくなかったのである。  以下に述べようとする実頼室もまた、実頼との関係を通して家門沈降の憂いから救われた一人であり、 『清慎公集』や『大和物語』などの素材にもなっている人物である。『清慎公集』については暫く措き、本 稿では実頼室の史料的検討および『大和物語』について些か考察を加えてみたいと思う。

(注1) 『大鏡』太政大臣道長下。 (注2) 『箏相承系図』および『本朝文粹』十四。 (注3) 『体源抄』十一之上。

★目次へ戻る★
   二 摂政太政大臣藤原実頼室藤原能子と藤原仁善子
      摂政太政大臣藤原実頼は、生涯に複数の女性を妻にしたが、『日本紀略』康保元年(九六四)四月条に、 次のような記事が見える。   ○十一日丙辰。左大臣実頼室家藤原能子卒。 ○某日。前女御正五位下藤原朝臣仁善子定方女卒。醍醐先帝女御。左大臣実頼室也。  右の記事によれば、康保元年四月、当時左大臣であった実頼は、同じ月の内に室家であった藤原能子と 藤原仁善子の二人を、相次いで亡くしたことになる。  このうち前者の能子は、『尊卑分脈』に見えない人物である。しかし、『日本紀略』では、右の記事以 外にも、能子卒去に関連した記事が康保元年四月十三日条に、   今日、能子遷于北山観隆寺。葬送之。弁・少納言・外記史行向之。 とあり、北山の観隆寺において弁・少納言・外記史らにより能子葬送の儀が執り行われたことが具体的に 伝えられている。また『日本紀略』康保元年五月二十六日条には、   今日、左大臣実頼法性寺故室家藤原能子七々法事。公卿・弁・少納言・外記・史等参向。 とあり、左大臣実頼が所縁の深い法性寺にて能子の四十九日の法会を催したことを記しているし、同じく 『日本紀略』の康保二年四月三日条には、   左大臣実頼勧修寺故室家従四位上藤原能子周忌態。 と見られるように能子の一周忌法要が勧修寺で修せられたことも記載されている。  こうした『日本紀略』における能子卒去後の一連の記事からしても、前掲の『日本紀略』康保元年四月 十一日条の能子卒去に関する記事は、頗る信憑性が高いものと認めらる。  さて、能子の出自だが、前にも述べたように『尊卑分脈』には掲載されていないので、他の文献によっ て考察するしか今は方途がない。そこでまず、『日本紀略』延喜十三年十月八日条を見てみると、次のよ うにある。   以更衣藤原能子女御   この日、能子は、更衣から女御になったのである。この事実に着目して『一代要記』丙集・醍醐天皇後 宮を見ると、   女御正五位下藤能子元延更喜衣十。四右年衛十門月督八定日方補女之。。 という記事が目にとまる。いま『一代要記』と『日本紀略』の記事の内容を較べてみると、   @女御の経歴が一致する。   A藤原能子の名が一致する。   B「元更衣」の経歴が一致する。   C女御就任年次に「延喜十三年」と「延喜十四年」の微小な異同はあるが、就任月日「十月八日」は    一致する。 などの諸点が指摘できるのである。こうした諸点を勘案してみると、『日本紀略』と『一代要記』の能子 が同一の人物であることは、論を俟たないのである。そして、その『一代要記』によって新たに、   D藤原能子は、藤原定方を父とした。   E藤原能子は、女御就任当時正五位下であった。 という事柄が判明するのである。こうした理解に誤りがないであろうことは、左のような史料からも指証 される。   ○左金吾(定方)女御叙四位。(『貞信公記抄』延喜十九年正月廿一日)   ○延喜十九年、献題後、仰右大臣(忠平)、女御藤原能子可従四位下。                            (『北山抄』巻第三、拾遺雑抄上・内宴事)  これらは共に延喜十九年正月二十一日仁寿殿にて内宴の儀が執り行なわれた時の記事であり、『貞信公 記抄』には中納言左衛門督藤原定方女の「女御」が、「四位」に叙せられたとある。また『北山抄』から 「女御」は「藤原能子」であり、「従四位下」に加階したことが明白になるのである。これらによって女 御藤原能子が定方女であることや、女御就任時の正五位下から従四位下に昇叙したことが、何の矛盾もな く容認されるのである。  また能子の一周忌法要が勧修寺で行われた(注4)ことは前言したが、勧修寺は、醍醐天皇が母后の内 大臣藤原高藤女胤子の御願を継承して昌泰三年(九〇〇)に胤子の弟右大臣定方をして伽藍を造営したと いわれる寺である。従って、周忌法要が勧修寺で営まれたのは、能子が醍醐天皇の女御であり、定方女で あったことの因縁であると考えられる。こうした事情もまた能子が右大臣藤原定方女であったことを確実 にするのである。  因みに、実頼の養子になった藤原実資の『小右記』に見える次のような忌日の記事もまた、能子に関す るものと措定される。   ○故女御殿御忌日、仍精進。(正暦四年四月十日条)   ○故殿女御御忌日、仍修諷誦勧修寺。(寛弘二年四月十日条)   ○故殿女御御忌日、清食例也、又誦経勧修寺。(長和五年四月十日条)   ○今日故殿女御御忌日、修諷誦勧修寺。(寛仁二年四月十日条)   ○今日故大女御忌日、依例修諷誦勧修寺。(治安三年四月十日条)  いずれも「故殿女御」の忌日法要に関する記事であるが、言うまでもなく「故殿」は、実資の養父実頼 である。「女御」(「女御殿」「大女御」とも)の名は具体的に明示されていないけれども、四月十日の 忌日が『日本紀略』の能子卒去日とほぼ一致することや、諷誦が能子と縁の深い勧修寺で行われているこ とを重視すると、この「故殿女御御忌日」もまた実頼室能子に関するものであることは、全く疑いを容れ ないのである。  一方、後者の仁善子は、前掲の『日本紀略』某日条によると、右大臣藤原定方女であり、醍醐天皇の女 御となり、正五位下に授位したとある。定方女「仁善子」の名は、いま寓目に入った限りでは、他に『尊 卑分脈』に見ることができる。即ち、『尊卑分脈』高藤公孫流の藤原定方の系図に、定方女として「仁善                                  (ママ) 子」が記載されており、その経歴は、「醍醐天皇女御。号三条御息所。後配遇清慎公」とある。「醍醐天          (ママ) 皇女御」並びに「後配遇清慎公(実頼)」の二点は、前掲『日本紀略』の所伝に同じである。「三条御息 所」とあるのは、『尊卑分脈』固有の所伝だが、父定方の第宅が三条坊門北、万里小路の東と西に在り(注5) 「三条右大臣」を号したことに因むものと考えられる。  仁善子が醍醐天皇女御であったとすると、『一代要記』醍醐天皇後宮にその名が見えてしかるべきであ るが、同書に「仁善子」という人物は見出さない。しかし、「仁善子」とおぼしき「善子」なる人物が、 次のように見える。              女御正三位藤善子右大臣 定方女          いまこの『一代要記』に記される「善子」について、その要点を整理してみると、大略次のように纏め られる。   @醍醐天皇の女御である。   A「藤善子」即ち、藤原氏の出身である。   B父親は右大臣定方である。   C位階は正三位である。  Cを除くと、@〜Bの条件は、上述した「仁善子」と全く同位であることが認められる。従って、位階 に問題は残るが、『日本紀略』や『尊卑分脈』に見える「仁善子」と『一代要記』にいう「善子」とは、 同一の人物と確定してまず異議がないものと思われる。  一体、「仁善子」と「善子」の表記における相違は、書写の間に「仁」の一字を脱落した単純な本文転 化と考えられなくもないが、「仁善子」と「善子」、共に「よしこ」と訓むことが可能なので、むしろ 『一代要記』は、「仁」の一字を不要と判断して削除したものかと思われる。いずれにしても、本稿では 『日本紀略』『尊卑分脈』に共通の「仁善子」の表記に従うことにするが、より重要なことは、その名を 「よしこ」と訓んだらしいことが表記の対立を通して明確になったということである。  次に仁善子の位階だが、『日本紀略』は「正五位下」とあり、『一代要記』の「正三位」と対立してい る。残念なことに、『尊卑分脈』には位階の記載が漏れており、仁善子の位階に関する史料は、結局、こ の二例をおいて他に見出だせないのが実状である。このため『日本紀略』「正五位下」の真偽に関し、史 料をもって検証することができないのは歯痒いが、『本朝世紀』天慶八年十二月十九日条には、次のよう な記事が見える。   今夜正五位下藤原朝臣仁善子卒。仁善子者、故贈太政大臣(時平)第一女、先々坊(保明親王)御息   所、王女(煕子女王)御母也。  これは、贈太政大臣藤原時平第一女仁善子の卒去記事である。時平女仁善子は、保明親王の御息所で、 正五位下を授かり、親王との間に後の朱雀院女御煕子女王や慶頼王を儲けた。因みにこの仁善子の卒去は、 『九条殿記』同年十二月二十日条に、   或人云。女御煕子之女氏仁善子、今暁卒去云々。 と見え、『貞信公記抄』同年十二月二十日条にも、   王女(煕子女王)御母卒。 とある。『九条殿記』の記事に徴するに、『本朝世紀』の記事はおおむね信頼のできるものであるから、 藤原時平女仁善子の存在と、正五位下を授かった事実が確認される。  そこで、上記『日本紀略』定方女仁善子の「正五位下」に関して憶測を逞しくすれば、同名の時平女仁 善子が「正五位下」であったことから、それとの混同が生じたのではないかと推測されるのである。時平 女「仁善子」を角田文衛氏は、「にさこ」(注6)と訓んでいる。定方女「仁善子」の「よしこ」と訓は 異なるが、漢字での表記は同一で、御息所の経歴なども類似している。また定方女仁善子の「正五位下」 は、同じ定方女能子の「従四位上」(『日本紀略』康保二年四月三日条)に較べて低すぎる憾みがある。 以上のような観点から、『日本紀略』の定方女仁善子の「正五位下」は、時平女仁善子の位階と混同した ことによる誤記と考えられるのである。  一方、『一代要記』の「正三位」説もその根拠は、明白でない。実頼室の中で位階が最も高いのは、定 方女能子で、一周忌の時点で「従四位上」であった(注7)。「正三位」と「従四位上」では、「正」と 「従」、「三」と「四」、「上」の三箇所に異同が見られるので、単なる誤写とは考え難い。後に「正三 位」の追贈があったと見れば、辻褄は合う。しかし、今は史料に乏しいので後考に俟ちたい。  さて、実頼室と伝えられる能子と仁善子について、ここまで文献の記事を拠り所にして慎重に考察をす すめてきたが、私見では、能子と仁善子の両者は別人ではなく、同一人物と見るべきであると考えている。 その大きな理由の一つは、次のような共通点にある。   @父親は三条右大臣藤原定方である。   A醍醐天皇女御の経歴がある。   B左大臣藤原実頼室である。   C名前は「よしこ」と訓める。   D康保元年四月に卒去している。  もう一つの理由は、もし能子と仁善子が同一人であれば、左のような問題についても自ずと理解が得ら れる点にある。   E位階に関するいくつかの対立もほぼ収拾がつく。   F『尊卑分脈』の定方女に実頼室が一人しか記載されないことの説明がつく。   G実頼の養子実資の『小右記』に、能子の忌日法要記事だけ見え、仁善子の忌日法要記事がないこと    の説明がつく。   H『勧修寺文書』承平二年八月二十二日条の定方四十九日忌記事に列挙される「五女」の中に、「女    御」は一人しか記載されていないことの説明がつく。  以上、@〜Hのような諸点を勘案してみれば、能子と仁善子は、同一人物であると帰結されるのである。 『尊卑分脈』の藤原時平女には、掲載されていて当然と見られる煕子女王生母の「仁善子」が見えない。 他方、『尊卑分脈』の藤原定方女には、「能子」が見えず、「仁善子」が記載されている。この不自然な 事態は、定方女「能子」、即ち「よしこ」が、時平女「仁善子」と混同されて、定方女に「仁善子」が採 択されてしまったからに他ならないのである。『日本紀略』が康保元年四月十一日条に能子卒去を明記す る一方で、仁善子卒去を「某日」条として載せざるを得なかったのは、すでに相当に早い時期から史料に 混乱が生じていたことを指証しているのである。

(注4)『日本紀略』康保二年四月三日条。 (注5)『拾芥抄』中、第二十。 (注6)歴史新書30『日本の女性名(上)』教育社、昭和55。 (注7)(4)に同じ。

★目次へ戻る★
   三 『大和物語』の藤原能子
 『大和物語』において、明らかに実頼室定方女能子と見られる人物の説話は、第二十四段・第九十四段・ 第九十五段・第九十六段・第百二十段の計五段である。これらは一部章段を隔てて配列されるが、その並 びは起承転結の構成になっていると考えられる。章段ごとに順次見ていくと、次のようになる。  第二十四段 配列構成の起で、醍醐天皇と女御能子の物語である。   先帝の御時に、右大臣殿の女御、上の御局にまうでのぼりたまひてさぶらひたまひけり。「おはしま   しやする」と、した待ちたまひけるに、おはしまさざりければ、     ひぐらしに君まつ山のほととぎすとはぬ時にぞ声もをしまぬ   となむ聞えたまひける。  醍醐天皇の御代に、女御の能子が、上の御局に参上した。しかし、終日、天皇の渡御はなかった。能子 は、哀しく切ない心情を和歌に託して申奏するより術がなかった。寛平九年(八九七)〜延長八年(九三 〇)、醍醐天皇在位の間のできごとである。  一体、醍醐天皇の母贈皇太后胤子は右大臣定方と同腹の兄姉であったから、醍醐天皇と能子は、従兄妹 の関係にあった。天皇は能子が入内した初めの頃、親近感から鐘愛したものと推察される。いま『簾中抄』 上・帝王御次第によれば、醍醐天皇の女御更衣は二十一人の多きにのぼり、また『本朝皇胤紹運録』によ ると、醍醐天皇の皇子皇女は三十九人を数える。しかし、女御能子にとって不運なことは、能子を生母と する皇統が全く見当たらないことである。どうやら能子は、素腹の女御だったようである。当章段は憚っ て醍醐天皇の心変わりを詳細に語ろうとしないが、能子が天皇の寵愛に浴することは、もはや昔日のこと に等しいのである。女御能子の出身は見劣りのしない名門であったが、嗣子のない女御の後宮での立場は 決して有利なものではなかった。『大和物語』第二十四段は、醍醐天皇女御能子の波乱に富んだ人生を予 感させる歌語りの幕開きと見てとれるのである。  第九十四段 配列の上で承に当たるが、その話題は更に起承転結で構成されている。話題の起は、醍醐 天皇皇子中務卿代明親王が室家右大臣定方女亡き後、忌み明けまで定方邸に住んだ話題。承は、その間、 親王が定方九女を室家に迎えようと考えるようになったこと。転は、九女に侍従藤原師尹が懸想文を通わ せているとの噂を親王が耳にして、九女に対する親王の気持ちが遠のく話題。結は、能子が代明親王の気 持ちを繋ぎ止るべく和歌を贈るが、結局、不調に終わってしまう話である。師尹の侍従在任は、承平五年 (九三五)二月二十三日〜同七年三月七日である(『公卿補任』)。能子はこの章段の結部に唐突に登場 するが、これは、『竹取物語』で五人の求婚失敗譚に引き続いて最後に地上界の代表者たる帝を登場させ て決着を図ろうとしたと同様に、妹九女のために右大臣家最後の切り札として醍醐天皇女御能子が仲介に 乗り出して難局の打開策を探る物語の方法と見られる。右大臣定方はすでに承平二年八月四日に薨じ(『公 卿補任』)、能子が、三条右大臣家の家運を担う存在になっていたのである。なお、定方女代明親王室が 薨じたのは、承平六年三月十八日のことである(『日本紀略』)。また『大和物語』第九十六段ではその 後、定方九女が師尹を婿に迎えているが、実際に、天慶四年(九四一)六月十日に師尹二男済時を産んで いる(『公卿補任』)。従って、『大和物語』第九十四段は、ほぼ史実に沿ったものと見ることができ、 承平六年五月八日忌み明け以後〜同七年三月七日師尹侍従在任までの出来事と理解して支障がないと思わ れる。  第九十五段 第二十四段と対照的に醍醐天皇崩御後の話題で、承の第九十四段より時間を遡らせて倒 叙し、話題も能子本人の事柄に転換している。配列構成の転に当たる。   同じ右のおほいどのの御息所、帝おはしまさずなりてのち、式部卿の宮なむ住みたまうけるを、いか   がありけむ、おはしまさざりけるころ、斎宮の御もとより、御文奉り  たまへりけるに、御息所、   宮のおはしまさぬことなど聞えたまひて、奥に、     白山に降りにし雪のあとたへていまはこしぢの人も通はず   となむありける。御返りあれど、本になしとあり。  醍醐天皇崩御後、能子には醍醐天皇の弟式部卿宮敦実親王が通うようになった。しかし、能子の歌の下 の句に「人も通はず」とあるように、やがて二人の仲は疎遠になってしまったというのである。能子は再 び薄幸の人となるのである。「白山に」の歌が『後撰集』巻八冬・四七〇にも「式部卿敦実の親王忍びて 通ふ所はべりけるを、後々絶え絶えになりはべりければ、妹の前斎宮のみこのもとより、このごろはいか にぞとありければ、その返事に、女」の詞書で入集しているところをみると、能子と敦実親王が一時期恋 愛関係にあったことは事実なのであろう。醍醐天皇の崩御は延長八年(九三〇)九月二十九日であったか ら、能子と親王の関係は、諒闇明けの承平元年(九三一)九月三十日(『貞信公記抄』)以後のことと見 られる。『大和物語』に二人の仲が途絶えた理由は、臘化法で「いかがありけむ」と語るだけで、明確な ことは伝えていない。しかし、敢えて憶測してみるならば、敦実親王が醍醐天皇の弟宮であるが故に、先 帝の女御とのただならぬ仲は、やがて口さがない噂を呼び、親王の耳にも達するところとなったことであ ろう。そこで、親王は自ら自重されるようになった、というのが事の真相といったところではなかろうか。  第九十六段 配列構成の上でやはり転に相当し、定方九女が侍従師尹と結婚し、能子と敦実親王の関 係が解消した時期の話である。この章段は、   かくて九の君、侍従の君にあはせ奉りたまひてけり。 で始まっている。これは、高橋正治氏が指摘する如く「九十四段の九の君・侍従の君のことを受けて、 『かくて』ではじまる」(注8)が、時間的にも内容的にも直前の第九十五段に順接していることから、 第九十五段の直後に布置されているのであろう。師尹が定方九女に文を通わしたのは、『大和物語』第九 十四段より「侍従にものしたまひけるころ」であった。また定方九女の結婚は、この第九十六段に師尹の 侍従時代とある。「侍従」で一貫している『大和物語』だが、これに誤りがなければ、師尹の侍従在任は、 承平五年(九三五)二月二十三日〜同七年三月七日である(『公卿補任』)。従って、定方九女と師尹の 結婚は、前記『大和物語』第九十四段の事件も考慮に入れると、承平六年五月八日〜翌七年三月七日の間 となる。時に師尹は、十七歳〜十八歳である。定方九女と師尹は、侍従定時、権大納言済時、宣耀殿女御 芳子を儲けている。このうち二男の済時は天慶四年(九四一)生まれであるから、上述の結婚時期は、お おむね首肯できるものである。同じ頃、能子は、敦実親王との関係が途絶して、左衛門督実頼から想いを 寄せられるようになるのである。   同じころ、御息所を、宮おはしまさずなりにければ、左の大臣の、右衛門の督におはしけるころ、御   文奉れたまひけり。「かの君、婿とられたまひぬ」と聞きたまひて、大臣、御息所に、     浪の立つかたも知らねどわたつみのうらやましくも思ほゆるかな  実頼は、弟師尹と定方九女との結婚を口実にして、能子に言い寄ったらしい。なお、当章段は実頼を 「右衛門督」とするが、右衛門督在任は、承平三年五月二十七日〜同五年二月二十二日である(『公卿補 任』)。諸本にも「右衛門督」とあるが、その折の年時では『大和物語』第九十四段の内容とも抵触する ことになる。従って、ここは承平五年二月二十三日〜天慶元年(九三八)九月二日まで在任した「左衛門 督」の誤りと考えたい。  第百二十段 配列構成の結である。長文を厭わず掲げると、次のような物語である。    太政大臣は、大臣になりたまひて年ごろおはするに、批杷の大臣はえなりたまはでありわたりける   を、つひに大臣になりたまひにける御よろこびに、太政大臣、梅を折りて挿頭したまひて、     遅く疾くつひに咲きける梅の花たが植ゑおきし種にかあるらむ   とありけり。その日のことどもを歌などに書きて、斎宮に奉りたまふとて、三条の右の大臣の女御、   やがてこれに書きつけたまひける。     いかでかく年ぎりもせぬ種もがな荒れゆく庭のかげと頼まむ   とありけり。御返し、斎宮よりありけり。忘れにけり。    かく願ひたまひける甲斐ありて、左の大臣の中納言、渡り住みたまひければ、種みな広ごりたまひ   て、蔭おほくなりにけり。さりける時に、斎宮より、     花ざかり春は見に来む年ぎりもせずといふ種は生ひぬとか聞く  この章段は、大きく前半部と後半部に二分できよう。前半部は、実頼の父忠平と同母兄大納言藤原仲平 が、右大臣に任じた時の話である。史実としては、仲平が右大臣になった翌日、承平三年(九三三)二月 十四日に摂政左大臣忠平が仲平の堀河第に赴き慶賀した時のものである(注9)。これに対して後半部は、 能子が中納言実頼と結婚して繁栄したという話である。実頼の中納言在任は、承平四年十二月二十一日〜 天慶二年(九三九)八月二十六日である(『公卿補任』)から、『大和物語』第九十六段に既述した事柄 とも矛盾をきたさない。当章段は、従前の波乱含みの物語が大団円を迎え、ついに安穏な人生を手中に収 めた話であり、能子物語のフィナーレである。  先ほど当章段は前後に二分できると述べたが、両者が全く無関係に構成されているのではない。まず前 半部で仲平・忠平兄弟が共栄した事例を挙げ、次いで後半部で同様に三条右大臣家一門の隆昌安泰を語る ことが章段の構想的狙いであったと思われる。従って、後半部に「種みな広ごりたまひて、蔭おほくなり にけり」とある行を、高橋正治氏は「能子に、基経一門の血をひく子がたくさん生まれて、恩恵を受けて 栄えたことをいう」と解し、「お子たちがつぎつぎにお生まれになって、一族が繁栄なさった」と口語訳 するが(注10)、いま能子と実頼との間に子供があったことを指証する史料はない。すでに第二十四段で 言及したように能子は、醍醐天皇の後宮でも素腹であった。故に、ここは、承平二年(九三二)八月右大 臣定方の薨去によって定方一門はその後ろ盾を失ったが、能子が実頼と結婚したことによって、能子の兄 弟たち、朝忠や朝成などが実頼政権の恩恵に与かり、右大臣定方一門の家運挽回と繁栄を招来したことを 語っていると解すべきである。仲平や忠平あるいは実頼を輩出した基経一門の繁栄を説いたものではない。 斎宮が能子に「花ざかり……年ぎりもせずといふ種は生ひぬとか聞く」と贈った歌は、家運挽回の能子を 「花ざかり」に譬え、前途有望な能子の兄弟を「種は生ひぬ」と祝福したものである。斎宮は、藤原高藤 女胤子腹で、醍醐天皇と同腹の妹柔子内親王である。高藤孫能子とは従姉妹の関係にある。斎宮は、能子 と同じ藤原高藤の血脈を承け、定方薨去後の高藤流子孫の行く末を案じていたのである。能子は、実頼と の間に高藤流の子孫を儲けるには至らなかったが、先細りしつつあった高藤流定方一門の門地的面目だけ は、なんとか復興維持することができたのである。因みに、定方男朝忠と朝成は、それぞれ天暦六年(九 五二)と天徳二年(九五八)に参議に登用されたが、いずれも左大臣実頼の時であった。その後、朝忠は、 中納言在任四年目の康保三年(九六六)十二月二日に五十七歳で薨じた(『日本紀略』)。朝成は、安和 三年(九七〇)正月二十七日に源重信を超えて権中納言になった(『公卿補任』)。この年、五月十八日 に摂政太政大臣従一位実頼が薨じた。おそらく朝成には、万感胸に迫るものがあり、生涯忘れ得ない除目 として受け止められたことであろう。いずれにしても、後見人の父定方を早く失った朝忠と朝成は、能子 が実頼室になったのを機に、実頼の政権下で、ほぼ順調に官途につくことができたといえる。能子は、人 生に何度か苦汁をなめたが、実頼と邂逅してようやく平穏な最期を迎えることができたのである。三条右 大臣女能子の物語は第百二十段で完結するのであって、柿本奨氏の「本段を受ける章段が来ない。並びで ないのに受ける章段が来ないのは異例」(注11)とする説には従えない。  そこでいま、これらの章段の関係を整理してみると、次のようになる。
配列構成話題の主要人物事件年時中心の話題題意
二十四段醍醐天皇・能子寛平九年(八九七)〜延長八年(九三〇)恩寵の途絶え家運衰勢・失意の序章
九十四段 代明親王・九の君承平六年(九三六)五月〜同七年三月親王家の途絶(係累)一門衰勢の一具体例
師尹・九の君
代明親王・能子
九十五段敦実親王・能子承平元年(九三一)九月以後親王家の途絶え重なる薄幸
九十六段 前半 師尹・九の君承平六年(九三六)〜翌七年頃実頼の求婚転機の到来
後半 実頼・能子
百二十段 前半 仲平・忠平承平三年(九三三)二月結婚の冥利家運挽回・得意の兆し
後半実頼・能子承平四年(九三四)〜天慶二年(九三九)
 なお、当章段に見える能子と斎宮の歌は、『後撰和歌集』巻第十五、雑一・一一〇九〜一一一〇に、 次のように収められている。     三条右大臣身まかりてあくる年の春、大臣召しありと聞     きて、斎宮のみこにつかはしける    むすめの女御   いかでかの年ぎりもせぬ種もがな荒れたる宿に植ゑて見るべく     かの女御、左の大臣にあひにけりと聞きてつかはしける                        斎宮のみこ   春ごとに行きてのみ見む年ぎりもせずといふ種は生ひぬとか聞く  『後撰和歌集』は、この二首を承平三年二月の仲平任右大臣慶賀当日の贈答歌として配列している。こ のため、「斎宮のみこ」柔子内親王の下の句「種は生ひぬとか聞く」は、承平三年二月に能子と実頼がす でに婚姻関係にあることを前提にしなければならないが、これはこれまで縷説してきたことと相容れない ものであり、首肯しがたい。『後撰和歌集』は、あくまで独自の歌物語的世界の展開なのである。『大和 物語』に「御返し、斎宮よりありけり。忘れにけり」とあるように、別度の詠とするのが正鵠を射ている のである。  なお最後に付言しておくと、『日本古典文学全集 竹取物語・伊勢物語・大和物語・平中物語』(小学 館、昭47)の付録「大和物語人物一覧」はよく纏まっているが、藤原能子の項について言えば、「承平六 年(九三六)三月十八日薨。代明親王との間に庄子女王・源重光・源保光・源延光がいる」とする説明は、 誤りである。この代明親王室藤原定方女は、能子ではなく、『勧修寺文書』承平二年八月廿二日条に「小 君」と呼称される婦人のことである。

(注8)日本古典文学全集『竹取物語 伊勢物語 大和物語 平中物語』小学館、昭和47。 (注9)『小右記』並びに『左経記』寛仁元年十一月二十一日条。 (注10)(8)に同じ。 (注11)『大和物語の注釈と研究』武蔵野書院、昭和56。

★目次へ戻る★



[
浜口研究室の INDEX へ戻る ]

Copyright (C) 1997.10.1 Toshihiro Hamaguchi