思考は論理の外側にある

なぜ書くのか

バルガス=リョサ(Vargas‐Llosa)は次のように言っている。

‥‥‥華やかな脚光を浴び、経済的に潤うことだと勘違いするきらいがありますが、そういう幸運に恵まれる人はめったにいません。‥‥‥‥‥‥ 書くという行為がこれまで自分が体験してきたこと、および体験するかもしれないことの中でもっともいいものだと心の底から感じている。 ‥‥‥ 書くという行為が一番いい生き方であり、書いたものを通して得られる社会的、政治的、あるいは経済的な結果などどうでもいいと考えているからなのです。 『若い小説家に宛てた手紙』(木村 栄一(訳)新潮社)

論理的ということ

論理式$A$が事例$x$において$A(x)=True$であれば、論理$A$は事例$x$をカバーするという。

以下の表では、事例ごとに風/天候/気温/開催の有無を並べたものである。 この表で、[運動会=開催] の値を持つ事例を正例、 [運動会=中止] の値を持つ事例を負例とする。

事例天候気温運動会PQR
E115開催TTT
E220開催TTT
E325中止TFF
E415中止FFF
E525開催TTT
E635中止TTF
E75中止FFF

このとき、次のように、天候と気温についての論理式を各事例に当てはめよう。 記号 $\wedge$ は AND、記号 $\vee$ は OR である($\vee$は以下の論理式には現れていない)。 記号 $\neg$ は否定 を意味し、たとえば $\neg (天候=雨)$ は「天候は雨でない」となる。

\begin{align*} P(天候、気温)&=\neg (天候=雨)\wedge (気温\geq 10度)\\ Q(風、天候、気温)&=\neg (風=強) \wedge \neg (天候=雨) \wedge (気温\geq 10度)\\ R(風、天候、気温)&=\neg (風=強) \wedge \neg (天候=雨) \wedge \big((気温\geq 10度) \wedge (気温\leq 30度)\big) \end{align*}

正例をすべてカバーする(Trueとなる)論理式を完全(complete)といい、すべての負例をカバーしない(False)論理式を無矛盾(consisitent)という。

上の例では、論理式$P, Q, R$は、表示にある事例の範囲では、正例([運動会=開催])について値Tを取って事例をカバーするので、いずれも完全である。 しかし、負例について$P$は事例E3,E6で値Tを返し、$Q$も事例E6について値Tを返してカバーしてしまうため、論理式$P,Q$は無矛盾ではない。

論理式$R$は、表示にある事例の範囲では、正例([運動会=開催])について値Tを取ってカバしー、負例については値Fを取ってカバしないので無矛盾である。 ただし、[天候=雷] のような事例が発生した場合、[運動会=中止] となる(はず)のであるから、論理式$R$は、すべての事例にわたって完全であったり無矛盾であるとは言えないことに注意しよう。 [天候=雷]は想定外であるということになると、そもそも問題は論理の世界から外れてしまう。 論理的であるということは 論理式(命題または述語ともいう)の値 True/False がいかなる場合にも定められるという世界である。

問題は論理の中にはない

上の例はたわいないことであるが、日常的な課題の本質をついている。 私達は多数の事例に取り囲まれている。 問題となるのは、正例をどのように定めるかである。 さらにいうと、事例をどのように記述するかでもある。

運動会の例でいうと、運動会の開催決定要因は天候だけでない。 会場の設備(開閉式の屋根があり空調設備があれば天候的要素は軽微になるだろう)、会場までのアクセス手段や情況、参加予定社の都合などの事例を構成するデータをどのように定めるか、それらからどのようにして開催決定するのかは、論理の世界の外側にある。 このような情況が私達の世界の様子である。

論理の方法

学問の方法論は古来、深く探求されてきた。 問題としていることを思考し、その結果得られた結論の正しさを追求する一連の手続きである。 この過程に論証があり、これによって結論の正しさが保証されるとするのである(論理学の発生)。

論理学の金字塔はアリストテレスのオルガノンと称される論理学に関する6巻からなる著作である(『範疇論』、『命題論』、『分析論前書』、『分析論後書』、『トピカ』、『詭弁論駁論』)。 論証においては、思考の前提となる命題から出発し、推論規則を適用して結論が導かれると考える。 命題(proposition)は、論証の前提や結論を構成するものであり、真偽が明確に定まる(真または偽を値としてとる)関数である。

演繹法(deduction)

アリストテレスの『分析論前書』で論じられた方法で、三段論法の理論として知られている方法で、 前提(普遍命題または公理)から結論(個別命題または定理)を論理的に(正しく必然的に)導き出す。

演繹法においては、前提が正しければ結論は常に正しい。 Euclid幾何学における第5公準:平行線公準「1直線が2直線と交わり、同じ側の内角の和が180度より小さいとき、2直線はその側で交わる」(「平面上の与えられた直線外の1点を通る平行線は1本だけである」と同等)が正しいとすれば、結論『三角形の内角の和は180度である』は正しい。

この結論は、前提(公準)の中に含まれていた「正しさ」を特別な形で言い換えたに過ぎないとみることができる。 演繹法によって、真に新しい知識を付け加えることはできない。

Euclid幾何学における第5公準を否定し、「平行線は2本以上引ける」または「平行線は存在しない」とする非Euclid幾何学もEuclid幾何学と同様に妥当な幾何学である(Hilbert「幾何学基礎論」)ことが明らかになっている。 しかし、非Euclid幾何学はEuclid幾何学内には内包されていないため、非Euclid幾何学の発見は論理的な帰結からもたらされたわけではない。

帰納法(induction)

アリストテレスの『分析論後書』『トピカ』で論じられた方法で、個別的命題(前提)から普遍的命題(結論)を導く方法である。 帰納法においては、前提と結論との関係には必然生はないが、前提と結論を結びつけるジャンプ帰納的飛躍によって、知識は拡大され得る。

「りんごは地面に落下する」、「ボールは地面に落下する」という観測経験を前提として、結論「物体は地面に落下する」はGalileo/Newtonの時代までは真であった。 整数$N$に依存する命題$P(N)$があって、$N=k$について$P(k)$が真であることを示し、$N\geq n$である$P(n)$を真であると仮定したとき$P(n+1)$が真であると論証できるならば、[結論]すべての$N\geq k$について命題$(P(N)$は真である、という論証は正しい(数学的帰納法)。

帰納法の正当化については多くの哲学者を悩ましてきた。 帰納法は妥当な論証ではないというD. Hume(知識の確実性の懐疑)以来の批判がある。 しかし、自然科学が経験科学である以上、数学や論理学のような形式的論証のような演繹的論証だけでは済まされない。

仮設演繹法(hypothetica-deductive method)

帰納的方法と演繹的方法の両方を今後に使用する近代科学の方法とみなされる考え方で、F.BaconやJ.Herschelらによって確立された。

  1. 観察によって問題を発見
  2. 仮設を探求
  3. 仮説から結論命題(予測)を演繹する
  4. 予測をテストして検証または反証
  5. テストに基づいて仮設を確立/修正/放棄
予測のつかない新たな経験(現象)によって、仮説は反証される余地が常に残っている。 自然科学の法則は数学や論理学における法則とは異なる。 永久に真であり続ける仮設による究極の理論(理論物理学の終焉)はありえるだろうか?

発見に論理はあるか

仮設演繹法においても、いかにして仮設を発見するか(真に新しい現象が視野に入ってくるか)については何も語らない。 C.S. Peirceのアブダクティヴな推論(仮説形成法)。 発見に至るプロセスはアルゴリズム化されない(言語化されない)。

機械による発見は可能だろうか。 大量のデータ化から帰納的法則を見つけることはできそうだ(機械学習)。 では、新しい概念や理論を発見して知識を拡大することができるだろうか。