〜套印本,T〜

「大東文化」第467号

 数年前の事、台湾で明版の套印本を入手した。套印本とは、重ね刷りの本で、清朝武英殿聚珍版叢書の如き単色(黒)套印本も無い訳ではないが、一般的には多色刷りの本を指し、そのため所謂「俗本」扱いされて来ている。しかし、版本としては「俗本」であっても、書誌学の立場から見れば、それはそれなりになかなか味わい深いものがある。何となれば、重ね刷りのため色数が多ければ多いほど刷る回数が増え、如何に美しく刷り上げるかは、将にその職人の技量に掛かっていると言えるのである。套印本は、清の中期以降に多く刷られ、『蘇批孟子』(二色)・『礼記省度』(二色)など思想関係の書もあるが、大多数は文学関係で、それも『杜工部集』(五色)・『陶淵明集』(二色)・『文心雕竜』(二色)など広東の翰墨園刊本が多い。
 所で小生が入手した套印本であるが、既に小生は二色から五色までの各色の套印本を所蔵しており、最初見た時は「何だ、明版王摩詰集の套印本か、これなら我が内閣文庫にも有るわい」程度の感触であったが、どこか気に掛かり、次の日再度手にとって良く見ると、保存状態も上々で刷り上がりも極めて美しい。見開きに「鄂氏珍蔵」なる蔵書印が押してあり、「珍蔵とは大仰な」などと思いながら見て行くと、何とこの書を出版した明末呉興の凌濛初の原ツが押されているではないか。とすれば、これは「限定初版本」と言う事になり、将に珍蔵本である。明版でもあることだし、何食わぬ顔をして安く買うに如くは無しである。
 腹の出た中年男が、色刷り本を色々見比べながら、一人悦に入っている図なんぞは、他人から見れば気色の悪さこの上無しであろうが、本人は、黄昏行く中年の色香を、色刷り本のくすんだ朱色に重ねて、そこはかとなく喜んでいるのである。

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