〜旧蔵本〜

「大東文化」第471号

 昨年、犬養木堂旧蔵の安井息軒先生著『論語集説』を入手した。書籍は、それ自体の値打ちとは別に誰が持っていたのか、則ち旧蔵者が誰であるかに因って値打ちが変わってくる。要するに旧蔵者印は、古物で言う所の箱書きなのである。旧蔵者印からその本の由来を推測する事は、旧蔵本漁りの楽しみの一つであるが、実は密かな楽しみとして、旧蔵者が著名な大学者であればあるほど、その本を入手した時、己自身がその人と同じ舞台に立った様な錯覚を与えてくれる、と言う麻薬の如き魅惑が有るのである。小生の手元には、平岡武夫氏旧蔵の『礼記省度』・長尾雨山氏旧蔵の『淮南鴻烈解』・木全徳雄氏旧蔵の『韓非子集解』などが有るが、由来の推測が楽しめると言う点では、むしろ純粋な漢籍よりも『論語集説』の如き和刻本の方がおもしろい。
 さてそこでもう一点見てみると、貫名苞が文久元年に和刻した趙翼の『二十二史剳記』であるが、この本の見開きには、「田中」なる旧蔵印と、六センチ角の堂々たる「恩賜之章」なる印が麗々しく押してある。とすればこれは、朝廷から田中某氏に賜った下賜本と言う事になるが、一体田中氏とは誰であろうか。恐らく田中槐堂氏の事ではなかろうか。所で本題の『論語集説』であるが、これは実に美しい初印本で、犬養木堂の印のみならず、「伊東裕歸」の蔵書印も有る。伊東氏とは、『論語集説』に序文を寄せた安井先生の地元の藩主、從五位伊東裕相である。とすればこの本は、安井先生が藩主伊東公に献上し、それが後日犬養木堂に渡ったものと考えられる。印材に造詣の深い萩庭勇先生の言に因れば、木堂の蔵書印は清末の篆刻の大家呉昌石の作であろうと言う事である。
 話は変わるが小生は、入手した本で善本には二行六字の長方角の「黄虎洞蔵書印」なるものを、普通の本には二行四字の正方角の「黄虎洞蔵」を押しているが、果たして後世値が上がるのか、それとも逆に・・・・・。

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