〜畫 報〜

閑話1

  畫報とは、絵畫と報紙(新聞)とを組み合わせたものであり、絵付き新聞と言えば聞こえはよいが、要は世間に発生したトピックニュースを絵畫で知らしめる、つまり文字を読ませるよりも瞬時に絵でビジュアル的に理解させると言うもので、日本で言う所の一種の瓦版である。文章中に場面などの版画を刷り込む插圖本は、古くより存在するが、絵付き新聞となれば、当然のことながら報紙(新聞)なるものがある程度普及してからでないと登場しない。結果として畫報が一世を風靡するのは、清末から民国初期にかけてであり、当時の社会生活や国内外の新聞記事を主に石印版画で出版している。
 ここに提示する畫報は、イギリス人商人アーネスト・メイジャー達が同治十一(1872)年に上海で発行した中国語新聞『申報』の発行所申報館が、同じく上海に附設した付属の印刷機関の一つである點石齋書畫室(後に點石齋石印書局と改名し、光緒十一年には書畫関係の『點石齋叢畫』等を出している)で、光緒十年四月四日に創刊して同二十四年六月二十六日に廃刊した、『點石齋畫報』である。この『點石齋畫報』は十日を一期として毎期八幅の畫頁を出し、その編畫を担当したのが呉友如・金蟾香・符艮心・何明甫等である。
 尚、余談ではあるがこの『申報』は、後年数奇な運命を辿り、上海バンドのフランス租界に居を構え、上海の裏社会に君臨した杜月笙(1920年代から1940年代初期にかけて上海の売春・賭博・阿片売買・裏金融等を牛耳った彼は、表社会の名士達とも言える当時の軍閥や国民党のトップである蒋介石、及び宋子文・孔祥煕・何応欽等や、渡世上の関係から言えば杜月笙の義弟に当たる国民党秘密組織藍衣社のトップ戴笠、更には学者章炳麟等と関係を持ち、将に夜の上海市長の感無きにしも非ずであったが、今や彼の交友関係者は殆ど鬼籍に入り、辛うじて現存するのは、当時陸海空軍総司令の地位に在った張学良氏くらいであり、彼自身も生前心血を注いで故郷に作り上げた上海浦東高橋鎮の杜氏宗廟ではなく、台湾台北南部の某山で静かに眠っている)と関係を持つことになる。
 『申報』の創刊者アーネスト・メイジャーは、望郷の念止み難く光緒25(1889)年に友人の芬林に『申報』を任せて英国に帰郷するが、それを光緒31(1905)年に英国商人ペーシーズが買い取り、民国元(1912)年に至ると史量才(中南銀行理事長)がペーシーズから買い取り、更に史量才は対抗していた『新聞報』をもその理事長である米国人フオクソンから民国16(1927)年に買い取ってしまい、実質的に『申報』『新聞報』の両新聞のオーナーになってしまう。その結果、『新聞報』の編集責任者であった汪伯奇と新オーナー史量才との争いが生じるが、この調停を杜月笙に持ちかけたのが周恩来の意を受けて活動していた共産党員の楊度である。結果、杜月笙は民国20(1931)年『新聞報』の株主になると同時に常務理事に就任するのである。

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