類書について

〜授業用備忘録〜


      目 次      

      はじめに

   1、類書の発生と起源

   2、類書の内容と歴史

   3、類書の研究

   4、代表的総合類書

   5、代表的専門類書

     後記

 

   はじめに

 ここでは、類書と呼ばれている書籍について紹介します。 中国では、大凡宋代以後に、書籍目録の分類上に於いて、「類書類」と呼ばれるジャンルに分類される、多くの書籍が存在します。では、類書とは一体どの様な内容を持った書籍なのか、またいつ頃から登場し出したのか、等について、以下に説明します。

 類書の発生と起源

 そもそも類書とは、分類項目を立て、その類目毎にそれに関した語句や文章を、経・史・子・集の各文献から網羅的に集めて抄撮配列した、一種の百科事典或いは百科全書です。

 この類書の発生や起源に就いては、類書のどの部分(表記か、内容か、製作目的か等)を重視して論ずるかに因って、中国の研究者間で微妙な見解の相違が見られますが、代表的な所説としては、以下の三氏の説が挙げられます。

、類書の起源を三国時代の『皇覧』としながらも、その分類性と言う表記方法に着目して、それに先行する文献として小学書(文字や語詞を解釈した一種の字典・詞典)である『爾雅』の存在を提示するもの。(劉葉秋著『類書簡説』、1980年、上海古  籍出版社)

、類書に於ける分類性を重視して、漢代の史書(『史記』や『漢書』など)の分類方法や、『説苑』や『新序』などの形態に、その起源を求め、類書編纂の目的は、先ずは皇帝の閲覧を目的として始まったが、唐宋以後は士大夫の工具書的要素が強くなったとするもの。(洪湛侯著「類書遡源」『図書館学通訊』2、1980年)

、類書の淵源を、儒家の経典解釈や児童教育の為の「抄撮の学」に求め、内容が網羅的である点から、より直接的な起源を『呂氏春秋』や『淮南子』などの雑家の書に求めるもの。(戴克瑜・唐建華編『類書的沿革』、1981年、四川省図書館学会)

 これら劉氏・洪氏・唐氏の所説は、異なる部分も有れば互いに一致する部分も有ります。そこで最近では、これらの諸説を整理統合する形で、表現方法が分類表記と言う点から、「類書の淵源を春秋抄撮の学と小学書の『爾雅』」に求め、採取内容が網羅的と言う点から、「『呂氏春秋』等の雑家の書の存在」を提示し、その具体的な最初の成果が、「三国時代の『皇覧』」であるとする見解が、張滌華氏(『類書流別』修訂本、1985年、商務印書館)に因って提示されています。

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 類書の内容と歴史

 以下、張氏の見解を参考にしつつ、類書の歴史を具体的に説明します。

 唐代の代表的類書の一つである『芸文類聚』の序文に、「比類して相從ふ」と記されているように、類書とは、分類項目を立て、その類目毎にそれに関した語句や文章を、網羅的に集めて抄撮配列した、一種の百科事典です。

 ただこの百科事典が、現在一般的に言われている百科事典と大きく異なるのは、現在の百科事典が、その項目担当者に因って最新の見解や情報を組み込んで解説された、担当者の書き下ろし文章であるのに対して、類書と呼ばれる中国の古典的百科事典は、全て担当者に因って過去の文献から集められた引用の文章です。

 つまり、現在の様な書き下ろし文ではなく引用採取の文なのです。この引用採取の文に因って類書が構成されていると言うことは、その前提条件として、或る程度の蓄積された古典文献の存在を必要とします。因って、時代が降るにつれて、類書の容量が増大化する傾向を示しますが、これは、中国では古代から現代に至るまで、文字(漢字)化された資料つまり漢字文献が如何に営々として蓄積されて来たかを、端的に示す具体的事例でもあります。

 中国を文字(漢字)の国と称する所以も、決して故無しとは言えません。と同時に、儒家の尚古主義に基づく伝統的著述態度である「述べて作らず、信じて古を好む」(『論語』述而篇)と言う基本姿勢が、古典文献からの引用採取と言う類書の製作態度にも、色濃く反映されていると言えます。

 更に、上は天文人事から下は動植物に至るまで、森羅万象を網羅的に包括する内容は、やはり儒家の経典の一つである『易経』の思想と、一脈相通じるものが有るとも言えます。要するに類書とは、当時の人々が考える宇宙を構成する諸要素を項目分類立てし、その類目毎に関連する言句を古典文献から引用採取し、新たに再構築した一つの世界観を提示しようとした書籍、と言えなくも無いでしょう。

 この類書の淵源は、『史記』卷十四の十二諸侯年表に、

  鐸椒、楚の威王の傅と為る。王、尽くは春秋を観る能はざるが為に、成敗を采取し、四十章を卒へ、鐸氏微を為る。

と有り、春秋の成敗を採取して先王の言行を威王に見せようとした「抄撮の学」に始まる(この記述にも見られます様に、元来類書の製作意図が、先王の言行や国家の興亡治乱の跡を、政治上の先例として時の権力者に供し、治済の用に資せんとする目的を含んでいたことは、『皇覧』『要覧』『修文殿御覧』『太平御覧』など、その書名に付せられた「覧」の一字が、端的に示しています)とされ、また「分目類別」と言う形式は、『爾雅』が物の属を釈天・釈地・釈山・釈水・釈草・釈木・釈鳥・釈獣・釈虫・釈魚の十類に、器の属を釈器・釈宮・釈楽の三類に、文詞の属を釈詁・釈訓・釈言の種に、事の属を釈親の一類に、各々類別した形式に基づいている、と言われています。清朝の『四庫全書総目提要』卷一百三十五の子部四十五類書類一に、

  類事の書は、四部を兼集し、而も経に非ず史に非ず、子に非ず集に非ず。四部の内、乃ち類の帰す可き無 し。皇覧は魏の文に始まり、晋の荀勗の中経は、部分何門に隷するか、今考ふる所無し。隋志は載せて子部に入る。当に之を受くる所有るべし。

と記しているように、本格的類書の嚆矢たる名誉を担うのは、三国時代の魏の文帝の時に、勅を奉じて劉兼凾ェ撰した『皇覧』一千余篇です。

 また「類書」なる名称の出現は、宋代に至ってからです。唐初に成立した『隋書経籍志』では子部の雑家の末に入れ、五代後晋の劉?の手に成る『旧唐書経籍志』では子部類事部に入れています。所が、北宋の歐陽脩・王堯臣等が編集した『崇文總目』に至り、始めて子部に「類書類」の名が出現し、この『崇文總目』と同一の編集者歐陽脩等に因って二十年後に作られる『新唐書芸文志』にも、子部に「類書類」が立てられています。

 因って、「類書」なる名称が一般的に使われ出すのは、『皇覧』の出現から遅れることほぼ八百年後の、北宋仁宗の康定年間から嘉祐年間(1040〜1060)の頃のことであったと考えられます。

 『皇覧』から始まる類書は、唐初に至るまでのほぼ四百年間に 、二十三種類の類書(『要覧』『修文殿御覧』等)が作られていますが、隋に虞世南が撰したと伝える『北堂書鈔』以外は、全て散佚してしまっています。しかもその『北堂書鈔』でさえも、一百七十四卷と伝えていますが、現在の『北堂書鈔』は一百六十卷で十四卷少なく、決して完本ではありません。

 因って、現存最古の完本類書と呼べるのは、後世の竄入を含むものの、唐初に成立した百卷を今に伝える『藝文類聚』です。以後清朝末に及ぶまでに、五百種類を遙かに越える多種多様な類書が作られていますが、完本として現存するのは二百種類強です。

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 類書の研究

 類書は、既に述べたように一種の百科事典です。そのため類書を最初から終わりまで通して読みこなした、と言うような人は、恐らく日本では存在しないでしょう。それは百科事典を全巻に渉って理解しようとする人が、殆どいないのと同じことです。類書は、読み通して理解すると言う性格の書ではなく、必要な時に必要な箇所を見て必要な知識を入手するための工具書なのです。

 無論類書にはそれなりの世界観が提示されていれば、何とかその世界を理解しようとする意識で読み解くことも可能でしょうが、実際運用の場に於いては、作詩のための語句を調べる、必要な知識やその典拠を探る、或いは版本校定の対象資料を調べる、更には輯佚書製作の材料を求める、等々便利な工具書的使用が、一般的であろうと考えられます。

 要するに類書は、諸々の素材を提供している書であり、それを如何に使うかは、使用者側の目的や研究スタンス等に因って、各々異なるのです。その為、個別の類書を論じたり、他分野との関わりで論じた研究等は存在しますが、類書自体を直接的対象とした専門的研究書は、殆ど見られません。しかし、中国には類書を論じた概説書が有りますので、一応参考の為に近年の代表的な書籍を提示しておきます。

劉葉秋『類書簡説』、1980年、上海古籍出版社

戴克瑜・唐建華『類書的沿革』、1981年、四川省図書館学会

胡道静『中国古代的類書』、1982年、中華書局

張滌華『類書流別』修訂本、1985年、商務印書館

戚志芬『中国的類書、政書與叢書』、1994年、台湾商務印書館

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 代表的総合類書

 類書には、森羅万象を網羅的に包括したような総合的類書と、個々の分野だけを対象とした専門的類書とが有ります。丁度、総合百科事典が有る一方で動物事典や乗り物事典が有るのと同じことです。ここでは、唐代以降の代表的類書をそれぞれ数点挙げ、その内容を簡単に紹介します。 

『藝文類聚』百卷、歐陽脩等奉勅撰。

 唐の高祖の武徳五年(622)に作られた現存最古の完本類書です。天部以下災異部に至る四十八部門に分け、更にそれが七百二十七目に細分されています。先ず事実(経・史・子に属する文献)を引用し、次いで詩文(集に属する書籍)を採取しています。引用古典籍は九百種以上、引用詩文は五千種以上で、六朝時代の詩文を多く残しています。

 この書が、夙に日本に伝わっていたことは、寛平年間(889〜897)に勅を奉じて藤原佐世が編した『日本国見在書目録』雑家の部に、「藝文類聚百卷」と言う記載が有り、それが日本の古典文学に多大な影響を与え、特に『日本書紀』編纂時の工具書として使用されている、と言われています。この書の引用文献の下限は隋朝までで、唐朝人の作品を採取することは、本来有り得ませんが、現行本の『藝文類聚』には、唐朝人の詩文十六種を含んでいます。

 それは、蘇味道・李?・沈?期・宋之問・崔液・楊炯・李崇嗣・牛鳳及・董思恭・太宗の十人です。彼等は武徳五年以後の人々であれば、その詩文は後人の手に因る竄入ですが、採録部門や採取内容が一致すれば、恐らく後発類書である『初學記』から、取り込んだのであろうと思われます。

『太平御覽』一千卷、李ム等奉勅撰。

 宋の太宗の太平興國二年(977)に作られ、天部以下百卉部に至る五十五部門に分けられています。引用文献数は一千六百九十種にものぼり、大概前代の雑書からの採取が多いと言われ、詩文は一切引用されていません。

 宋以前の故事を調べるのには有用な書ですが、一書を数個の異名で記したり、書名を誤記したりと、まま不注意な引用が認められるので、使用には注意が必要となります。尚、商務印書館出版の『四部叢刊』三編に収められている『太平御覽』は、日本に伝来して静嘉堂文庫が所蔵する宋本を影印したものです。

『永楽大典』二万二千九百三十七卷、解縉等奉勅撰。

 明の成祖の永樂五年(1407)に作られ、天文・地誌から僧道・技芸に至る故事を網羅し、あらゆる文献を原本から集め、洪武正韻に依拠した韻別に分類記載されています。始めは「文献大成」と称していましたが、内容不備のため編集し直し、改めて「永楽大典」の名を賜っています。

 その中には、後世亡佚した元以前の書籍を多く含み、学術的に貴重な資料であると言えます。現在俗に「永楽大典本」と称する書籍は、『永楽大典』の中から拾い出して復元した書籍で、『旧五代史』や『宋会要稿』等がそれです。嘉靖四十一年(1562)に正副二本が作られ、原本は南京に、正本は南京の文淵閣に、副本は北京の皇城内にそれぞれ置かれていたと言われていますが、明末の動乱や清末の混乱で大半を失い、民国元年(1912)に国務院が接収した時には、僅か六十四冊(本来は一万一千九十五冊)に過ぎなかったと言われ、現在それは北京図書館に所蔵されています。

 中国国内を始めとして、日本・欧米に散在しているものは500余冊に及ぶと言われ、1945年以後、精力的に多方面から回収に努め、原本・抄本・複製本など八百卷前後が回収され、それを中華書局が影印出版していますが、それも『永楽大典』全体の三パーセント強の分量に過ぎません。日本では、静嘉堂文庫や東洋文庫などに、数十部乃至数部が所蔵されています。

『欽定古今図書集成』一万卷、蒋廷錫等奉勅撰。

 清の世宗の雍正三年(1725)に出来上がっていますが、先ず聖祖康煕帝の勅命を受けた陳夢雷が編纂に着手し、次いで世宗雍正帝の命を受けた蒋廷錫らが完成させたと言われています。

 広く古来の文献の中から同類の記事を集めて編纂し、項目を暦象・方輿・明倫・博物・理学・経済の六彙編に分け、更にそれを三十二典、また更に六千百九部に細分して分類したもので、中国最大の百科事典と称するに相応しい類書であろうと思われます。

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 代表的専門類書

群書治要』五十卷、魏徴等奉勅撰。

 唐の太宗の貞觀五年(631)に作られ、経・史・子に属する六十六種類の文献の中から、政治の要諦に関係有る語句だけを抄撮し、配列編次してありますが、その配列方法は、内容に因る分類ではなく引用文献ごとの分類で、第一『周易』から始まり、第五十『抱朴子』で終わります。

 この本は、中国では既に宋初に散佚していますが、幸いに日本では早くから伝来し、現存最古の卷子本(金沢文庫本)が部分的に東京国立博物館に所蔵されています。徳川家康がこの書を好んだため、江戸時代に至って出版され、元和二年(1616)の駿河版、天明七年(1787)の尾張版、弘化三年(1846)の紀州版などが有ります。尚、商務印書館出版の『四部叢刊』に収める『群書治要』は、天明七年の尾張版が中国に逆輸入されたものです。

『冊府元龜』一千卷、宋の王欽若等奉勅撰。

 成書年代は、眞宗の景徳二年(1005)から大中祥符六年(1013)にかけて出来上がったと言われています。中国古来の歴史事実を、部門別に分類記載したもので、その項目は、帝王・僣偽・列国・宗室・外戚・宰輔・将帥等三十一部に分け、更に一千百四門に分類されています。

 上古から五代に至るまでの史書から、記事を引用採取しています。その中には、南北朝時代の歴史の欠を補い、また唐や五代の史実を確認する材料など、貴重な史料を多く含んでいます。古来引用文献の質の高さは、夙に喧伝されていますが、残念なことにその典拠が明示されていません。しかし、『太平御覽』など他の類書の引用文献と比較検討することに因り、大概引用文献の推定が可能ですので、使用者側の意識と方法如何に因って、貴重な類書であると言えます。

『佩文韻府』二百十二卷、張玉書等奉勅撰。

 清の聖祖の康煕四十三年(1704)に作られ、正集百六卷、拾遺百六卷合わせて二百十二卷で、詩家の作詩の用に供せんとして編纂されたものです。全てを四声百六韻に分け、毎韻を一卷とし、各韻字ごとにその韻字が最後に来る二字から四字の熟語を、経・史・子・集の順に配列してあります。

 その引用採取文献は、経書・史書から詩文に及ぶまで博捜を極めていると言えます。しかし、叶韻を交えたり、仄韻を平韻中に入れたりしている部分が、まま見受けられます。尚、佩文とは康煕帝の書斎名です。

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 後記

 本拙文は、授業での講義用の単なる備忘録的資料に過ぎない。本来、本拙文は、学科編纂のテキスト原稿制作の副産物である。『中国学研究入門U』(新入生無料配布)のテキスト制作に当たり、「類書」の項目の執筆依頼を夏前に受けた。そこで、倉卒の間に纏め上げもので、代表的類書の、簡単な紹介に過ぎない。因って、本格的に類書を理解されたい方々は、拙文中に提示した中国の研究書等を、参照して頂きたい。

   茲欲補于吾生無知與健忘也

             歳在甲申(2004)夏月                       識於黄虎洞


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