《臺北零話》

《2007年・3月》

民族性の相違 3月 1日(木)

 昨日の228に関する報道を見ていて、重苦しい感じを受けると同時に、何か民族性の違いのようなものを感じさせられた。
 和解を呼びかけるマスコミが、同時に当時の残虐な記録フイルムを流す。これでは、頭で和解の重要性を理解していても、心情的に素直にはなれないであろう。同じような経験は一昨年北京でも感じた。終戦の日が近づくと、テレビが当時の日本軍の残虐シーンのフイルムを流す。一方で日中友好を呼びかけ、一方で反日を煽る様なテレビ番組、有ろう事かその終戦の日に、某大学副学長は我々日本人を招待して一席演説を打たれた。
 それは当然国策や党利党略が絡んでの事であることは十分承知してはいるが、毎年同じ時期になると、同じように繰り返して相手の残虐行為を記録したフイルム(中国に於ける終戦の日の日本軍、台湾に於ける228の国民党軍)が、テレビで放映され続ければ、当事者ではなくても感情的なしこりが蓄積されるのは避け難いであろう。
 翻って我が日本はどうであろうか、原爆投下の日が巡り来る毎にあの悲惨な記録フイルムが、毎年テレビで放映されただろうか、平和祈念の式典の様子は放映されても、特段アメリカに恨みを抱かせるようなフイルムは、放映されなかったはずである。
 同じ様に古い昔から儒教文化の影響を受けた、儒教文化圏の住人である中国人と韓国人と日本人ではあるが、過去の事に対する対応に、際立った差異が有る様に思えてならない。これは、恐らく民族性の相違と言うか民族的文化性の相違に基づくものであろうと思われる。嘗て日中平和条約が結ばれた時、中国の周恩来は「小異を残して大同に就く」と述べたが、日本のマスコミは「小異を捨てて大同に就く」と一斉に報じた。
 「捨てたり、水に流したり」する民族的文化性と、あくまで「残しておく」民族的文化性、一見大した違いは無い様に思えるかもしれないが、この「捨」と「残」の間には、天地の開き程の差が存在する。「捨」したものは二度と持ち出せないが、「残」したものは何時でも取り出せ、必要に応じて随時表に出てくるのである。
 同じ文化を受容し同じ漢字を使うから、中国、台湾、日本は「同文同種」だなどと、分かったような事を気安く言う文化人を良く見かけるが、とんでもない話である。あくまで中国、台湾、日本は「異文異種」の世界である。
 我々は今後も、この絶対「違う」「異なる」と言う意識を常に持ち続けて、中国や台湾と友好を深めて行く必要が有るであろう。ただ個人的には、「我愛台湾」の立場は変わらない。


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