《中國中世四川地方史論集》

 

【あとがき

 

 今般、齢六十の半ばを過ぎて、図らずもこの様な拙書を公刊する事となった。筆者は、退任を五年後に控え、既に身の回りの品々を処分し、終活に入っている状況の中で、此の如き仕儀に至ろうとは、将に「自らは意わざりき」であるが、その経緯の顛末は後に述べる事とし、先ずは、本書に収めた各拙論の初出一覧を示しておく。

                       
初出一覧

 
  第一編 先秦両漢篇
第一章
 古代巴蜀地方について─「蜀王本紀」の世界より─(『土浦短期大学紀要』第7輯、1973年6月)
第二章 西漢時代に於ける益州について─巴蜀地方を中心として─(『大東文化大学漢学会誌』第16号、1977年3月)
第三章 東漢時代に於ける益州について─「後漢書」を中心として─(『大東文化大学漢学会誌』第17号、1978年3月)
第四章 後漢末晋初に於ける地方学者の動向─?周グループを中心として─(『土浦短期大学紀要』第9輯、1981年6月)
第五章 試論・蜀漢政権の成立過程と其の存在意義─ドラマとしての三国鼎立─(『土浦短期大学紀要』第14輯、1986年6月)
   第二編 両晋篇
第一章
 西晋初期政治史の一断面─征呉問題と巴蜀人士─(『北京外国語学院大東文化大学交流協定十周年記念論文集』、1990年3月)
第二章 李氏集団の展開とその性格─西晋末益州の状況を繞って─(『中嶋敏先生古稀記念論集(上巻)』、1980年12月)
第三章 晋代巴蜀地方に於ける諸変乱の性格について─五斗米教の余風─(『大東文化大学中国学論集』第4号、1982年3月)
第四章 杜?の乱始末─建?軍府と巴蜀流民の動向─(『大東文化大学漢学会誌』第29号、1990年3月)
第五章 周・毛二氏と?縦の乱─東晋末益州の状況を繞って─(『大東文化大学漢学会誌』第30号、1991年3月)
   第三編 南北朝篇
第一章
 南北朝時代に於ける巴蜀地方について─人々の軌跡を追いながら─(『大東文化大学創立六十周年記念中国学論集』、1984年12月)
第二章 南北朝時代に於ける巴蜀地方についての補論─北朝に仕えた人々─(『土浦短期大学紀要』第12輯、1984年6月)
 附論
其の一
 袁宏管見─政治的動静と『後漢紀』─(『大東文化大学漢学会誌』第32号、1993年3月)
其の二 廬江・何氏考─南朝貴族の一形態─(『土浦短期大学紀要』第10輯、1982年6月)
其の三 温子昇管見─政治的動静と文学的評価─(『土浦短期大学紀要』第13輯、1985年6月)

 右の一覧を御覧頂ければ明白な事であるが、この各拙論は、新しいものでも二十数年前、古いものに至っては既に四十年程前の旧稿で、特に、第一編(先秦両漢篇)の第一・二・三章の各論は、二十五歳当時の修士論文の一部と言う代物であり、現在の中国史学の学問的研究レベルから見れば、所詮「昭和の残穢」程度の内容であり、それを再び公刊する事は如何なものであるか、何如に愚鈍の筆者とて十分に承知している。


                      経緯の顛末

 思えば筆者は馬齢を重ねた、若い時は一応痩狼を気取ってはいたが、今や無用の肥豚に成り果てた。正直に言えば、筆者は気まぐれで我が儘な性分であるが、それは極めて幼少の頃、衝撃的な事件に遭遇した事が、一因を成していると思う。
 確か昭和二十九年の四歳頃であったと記憶している。生家の神社で大遷宮の祭りが執り行われていた時、ほんの一寸の言葉の遣り取りから、ある人が突然彼岸に旅立たれるのを目撃した。旅立たれた人も旅出させた人も、共に顔見知りの人々である。祭りの高揚感がそうさせたのか、或いは御神酒が入っていた為であろうか、普段であれば何も問題無い言葉の遣り取りに過ぎない一言二言が、言葉が言葉を呼び遂には暴力沙汰となり、この衝撃的な惨劇が発生した。あまりにも突発的な一瞬の出来事に、狼狽え立ち騒ぐ大人達の中で、一人取り残された様な空間から、何が起きたか理解せぬまま、静かにそのシーンを眺めていた。
 その時、筆者には、不思議な事ではあったが眼前の惨劇シーンよりも、「人には何時何が起こるか分からない、それは己にとっても同じ事だ」との想いが、何故か強く残った。以後、決して自ら求めた訳では無いが、結果として同様な場面に一・二回遭遇した。その為か否かは不明であるが、十代の終わりから二十代の初め頃に懸けては、真面目に勉強などもせず、肩で風切るが如き無頼の刹那的生活もしていた。
 言い様に因っては、環境がそうさせたとか、時代がそうさせたとか、もっともらしい理屈は挙げられるが、それらは全て嘘であり、畢竟本人の持って生まれた「性」がそう言う道を歩ませたに過ぎない事は、筆者自身が一番好く心得ている。

 しかし、人の縁とは不思議なもので、大学二年の時、その後生涯の師と仰ぐ事となった故臧軒原田種成博士に巡り逢った。始めは博士の言葉に反発を感じ、「何をほざくんだ、このじいさんは」と思っていたが、徐々に無頼の反骨が強くなり、「分かったよ、漢文が読めれば良いんだろう、上等だ、じゃあ読んでやるよ」となり、取り敢えずの事と思っていた、漢文訓読の蟻地獄に填り込んでしまったのである。
 以来、数え上げたら切りがないが、幾多の先生・先達・諸叡・先輩・畏友らの学恩や教導を被り、どうにかこうにか現在に至っているのであり、この点に関しては、筆者は本当に人に恵まれたと思っており、心中より感謝せずには居られ無い。
 これも原田博士の手引きであったと思うが、筆者は学部生の時から日本中国学会に入っていた。国学院大学での大会の時と記憶しているが、余りにも場違いな若造が「大東文化大学」の名札を付けていた為であろうか、中国文学の大家吉川幸次郎先生から声をお掛け頂き、正直に学部生である事を申し述べると、怒られもせずただ呆れた顔をされて「原田君だね、入れたのは」と仰り、色々勉強等のお話をして頂いた。
 また「歴史の話が聞きたい」と願い、一面識も無かったが東洋史の大家曽我部静雄先生の御自宅に押しかけ、あれこれ質問をした事も有った。先生方から見れば、「このクソ餓鬼が」と思われたであろう事は、想像に難く無いが、それでも何故か懇切丁寧にお教え下さった。
 大学院の時は、宋代史の中嶋敏先生とマンツーマンの様な授業で、先生は頻りに「宋代をしなさい」と勧められ、あろう事か「中林君は島根の出身だろ、私の師匠の加藤繁先生も島根の出だ、だから君は宋代をやる可きなのだ」と、好く分からない理屈ではあるが身に過ぎた言葉を賜りながらも、「い・や・で・す」の一言で片付け、実に不遜な態度で好き勝手をし、『四庫提要』や『宋史』の訓読に明け暮れていた。

 所が運命とは分からぬものである。想像だにしなかった事ではあったが、大学院の博士課程に進んだ二十五歳の時、これも原田博士らの御推挽で学科の助手を拝命した。大学院生と助手の二足の草鞋、中国風に言えば「見任職事生員」となった。以来博士学恩の明を傷つけんことを深く恐れつつ、既に四十年以上の歳月が流れた。
 大学教員と言う職を奉じた為、その職責上何か「論文」らしき物を書かねばと思い、取り敢えず興味の有る所をあれこれ書き散らかして来たが、元より一つのテーマを設定して深く追求した様な研究成果などでは決して無く、それこそ必要に迫られて書き残した物に過ぎない。
 それとても、不惑の中頃より再び訓読の妙味に惹かれ出し、『芸文類聚』や『?余叢考』の訓読を中心として、授業資料の蒐集を口実に、中国陶磁器・青銅器・玉・儒者の書軸等々を集める事に邁進(結果として『中国博物館〜一〇〇館の収蔵物に見る文化とその歴史〜』DVD二十六枚の監修をする事になるのであるが)し、その合間に「類書」だ「書誌」だ「日本漢文」だ「陶磁器」だ「武侠小説」だ「三国志」だ「玉」だ「映画・テレビ」だと、それこそ全く脈絡も無いまま、必要に応じて興味の赴く所に従い、気儘な雑文を書いて来たに他ならない。
 言うなれば、筆者は漢文訓読の面白味に填った「漢文の読み屋」にしか過ぎず、「研究者」などと言う、身の程知らずのおこがましい事が言える人間では無い。因って『研究書』等は、真面目に研究に取り組まれた方々が、その成果として公刊されるものと心得ていた。
 故に、若さに任せて書いた様な旧稿を、どうこうしようなどとは、考えてもいなかったし、まして拙論を一書に仕立て上げようなど、思ってさえもいなかった。

 「人には何時何が起こるか分からない」とは、将にこの事であろうか。筆者の気まぐれで怠惰な性格を熟知しておられる二人の後輩、山口謡司氏(大東文化大学文学部中国学科准教授)と田中良明氏(大東文化大学東洋研究所専任講師)の二人が、一年程前から色々策を繞らして計画し、筆者の全く預かり知らぬ所で内々に筆者の旧稿をかき集め、何とか時代順に並べて編集し、あろう事か秘密裏に恩師進藤英幸先生(元、明治大学教授)に序文を依頼されていたのである。
 昨年末、田中氏が筆者の研究室に原稿と序文の束を持って来て、突然「先生、これ出すんだよ」と言って帰られた。何を馬鹿なと放り出していたら、今度は山口氏が「先生、出版社から連絡が行くからね」と、とんでもない事を仰る。筆者は今まで共著を含め数册の著書(『諸葛孔明語録』『訓註商卜文集聯附詩』『華陽国志』『三国志研究要覧』『後漢紀』等々)を公刊してはいるが、本人が全く関与せざる所で事が勝手に進む話など、一度として経験が無かった。
 「一体何がどうなっているのだ、話が能く分からんぞ」と、ドタバタ揉めている最中、今度は進藤先生までもが電話で「出せよ、出せよ」とお勧め下さる。何が何やらさっぱり訳の分らぬまま、「はあ、そうですか」と取り敢えず言を左右にしていたが、改めて先生の序文を拝読した所、どうも先生は一夏かけて筆者の拙論を全てお読み下さったらしい。
 「君命悶し難し」とは、この様な状況を言うのであろう。筆者としては先生の恩情に、ただただ天を仰いで嘆息するしか方途が無く、外堀も内堀も埋め立てられ、表門も裏門も押さえられ、事ここに至っては如何ともし難く、万已むを得ず、本書の出版を承諾する事となった次第である。

 今まで、若い研究者の方々から御著書を御恵与頂く毎に、「有難や、有難や」と思って楽しく拝読させて頂いていたが、今般、己自身が拙書出版と言う立場に立たされ、それに関わる現実の厳しさに直面し、改めて若い研究者の方々のご苦労と、身を置かれた環境の厳しさを、ひしひしと感じさせられるに至った。
 本来ならば、一書にするに当たり文章や表記の統一及び重複の削除・過誤の訂正等々、一書として体裁の整った脈絡有る形に手を加える可き事は、当然理解はしている。しかし、本書は、ただ旧稿を並べただけで、敢て最低限の漢字の誤りを正すのみに止めた。それは、例え論証が甘かろうとも、瑕疵が多かろうとも、それがまごう事無き当時の筆者の力量以外の何物でも無いからである。

 思えば筆者は果報者である。ただボソボソと漢文を読むことぐらいしか能の無い筆者如きに対し、この様な厚情を示される後輩諸氏に恵まれようとは、これを「先輩冥利に尽きる」と言わずして、一体何をか言わんやである。
 図らずも、本書に題字を揮毫賜った鈴木晴彦氏(日本大学教授)も、後輩である。更に言えば、本書の出版の労を引き受けて頂いた勉誠出版の編輯担当者萩野強氏(筆者のゼミの元ゼミ長)も、後輩である。無論、序文を賜った恩師進藤英幸先生は、同窓の大先輩でもある。
 とするならば、本書は、大先輩の恩情と後輩諸氏の芳情とでお膳立てされた、筆者の為のメモリアルの一書と言うことになるであろうか。誠に吾が身には過ぎたる果報で、感謝してもしきれるものでは無い。

 今茲に、改めて進藤先生は言うまでも無く、山口・田中・鈴木・萩野の諸氏に対し、衷心より満腔の謝意を表させて頂く。最後に、私事に渉り甚だ恐縮ではあるが、長年我が儘な筆者を見捨てる事無く支え続けてくれた妻文恵と、何一つ贅沢らしき事をさせてやれ無かった二人の娘梨紗と慧梨とにも、感謝の意を述べさせて頂きたい。


     乙未孟春吉日                       
識於黄虎洞 中林史朗
                         
追記

 最近何故か昔(十代の頃)の夢をよく見る、夢の中ではダチもレコも若く、好き勝手な事を言う、筆者だけが老残を晒して悪態をついている。「馬鹿野郎」と言いかけて目が覚め、「ああ、あいつら若えなあ、昔のまんまだ」と思うと同時に、「でも俺はまだ生きている」と言う現実と夢とが交錯し、何かえもしれぬ不思議な切なさが、吾が胸臆を掻き毟る。老人の夢とは、斯くも哀しく切ないものであろうか・・・

 

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