新元號令和に寄す

本ページは、大東文化大學東洋研究所『所報』NO71號(令和元年6月刊行)の元原稿であり、『所報』は本稿の簡略版である。

 

【中國に始まり今や日本のみに存在する元號】

 平成31年4月1日に、5月1日からの新元號が「令和(れいわ)」と發表された。『萬葉集』卷第五梅花歌三十二首序文の「于時初春月、氣淑風」から採取されたと傳へるが、更に時代を遡れば、中國後漢時代の天文學者張衡の「歸田賦」(『文選』や『藝文類聚』に採取)の「於是仲春月、時氣清」と有るのが、言葉自體の原典と言えるであろう。

又少數ではあるが、「大伴旅人張衡に想いを馳せていた」との意見もある。假に斯く有らば、「歸田賦」は、其の最初に「遊都邑以永久、無明略以佐時。・・・超埃塵以遐逝、與世事乎長辭」と記すが如く、仕へて志を得ざれば官を辭して隱遁せん(要するに、當時の政治體制に對する批判的意圖を示した)事を賦した(敢て其れを承知の上での元號選定であるならば、現政權に對してこれ程痛切な皮肉を込めた元號も無い、と言えよう)ものであれば、旅人が「歸田賦」の本來的意圖までも斟酌して「月風」を著したとは考え難く、單に言葉として「月時」が良かったから、使っただけに過ぎないであろう。京の都から遠く離れた九州の太宰府に在って、梅の宴を開いた旅人の心情は、同じ言葉こそ無いものの、張衡の「歸田賦」ではなく、寧ろ「温泉賦」(『藝文類聚』に採取)の「陽春之月、百草萋萋、余在遠行、顧望有懐」に相通ずるものが有ったやも知れぬ。

新元號「令和」が、人々に愛される事を衷心より祈念して已まないものではあるが、政府や総理の態度に、若干氣になる點が無い譯でも無い。

新元號發表の安倍総理談話で述べられた、新元號に込められた諸々の思いは、「令和」なる言葉にも、採取された『萬葉集』の其の部分にも、全く其の様な意味合いは含まれていない。要するに、総理の個人的思いを、新元號に假託して述べられたに過ぎないのである。あの様な立派な意味合いが、恰も新元號「令和」自體に有るかの如く述べるのは、新天皇即位改元と言う國家的祝賀行事を利用して、己が政治的スタンスを披瀝するものであり、元號自體に對する國民の自由な思考に豫斷を與へてしまう。一寸個人的見解を喋り過ぎの感が有り、流石に如何なものかと思う。

しかし、其れは其れとして熟語としての「令和」は、寡聞にして殆ど聞いた事が無い(『禮記』の月令には、逆の「命相布コ和令」は有るが)。確かに『爾雅』の釋詁に「令、善也」と有り、」には「善い・優れた・立派」の意味(令名・令聞・令望・令日・令辰等)が有り、「」にも「やわらぐ・なごむ・なごやか」の意味(平和・協和・温和・調和・融和等)が有り、個々の漢字としては、其れ成りに良い意味合いが有る。亦た元號を熟語として見た場合、「明治(易經)」は「明にして治む」、「大正(易經)」は「大いに正し」、「昭和(書經)」は「昭らかにして和す」、「平成(書經)」は「平にして成る」と、各々其の時代に馳せた人々の思い(意味合い)が何となく感じられる。では「令和(萬葉集)」は如何であろうか、「令和」を「良い和・立派に和す」と解すれば、良くない和が有るのか、と言う事に成り、出典の事例を無視して「令もて和す」とか「和せしむ」と解すれば、何か上から目線の言葉(政府から國民に對して和を彊要される)の様に感じられる。

確かに「令和(レイワ)」は、讀み易(善し悪しは別として新元號は、漢音と呉音の組み合わせ、漢音ならばレイクワ、呉音ならばリョウワ)く、書き易(五畫と八畫)く、且つ耳當りの善い點は、肯首し得る。だが意味は如何であろうか。外務省は「beautiful harmony(美しい調和)」と定めたと聞くが、不整合の調和(an balance harmony)も無くはない。亦た「令」は音通で、「伶」「瓴」「零」には通じるが、如何に音が同じとは雖も、「令、麗也」とか、意味的に「令、美也」とか言う解釋は、未だ文獻上に於いて其の用例を見た事が無い。一體何に依據して「」を「麗しい・美しい」と解釋するのか、些か解釋的飛躍さが見られる。

普段から漢學を講じていると、この様にあれこれ理屈や典據を考えるのが、長年の習い性の悪い癖である。とは雖も、決して「令和」を非難するものでは無いので、何卒御海容を賜りたい。

何はともあれ、高名な學識者に因って折角考案された新元號であれば、この際暫く出典や事例の事は忘れて、「」の字自體に就いて考えて見ると、『廣雅』の釋詁に「令、完也」と有る。然らば、「令和」を「和を完うする」と解してみようではないか。斯く有らば戰後の元號は、「昭和」で「平和を昭らか」にし、「平成」で「其の平和が成り」、「令和」で「其の平和を完う」するとなり、一貫して「平和」が、國民の念頭に在る事に爲る。些かこじつけ感は有るものの、「令和」の意味は、「put through peace(平和の貫徹)」で、一應目出度し目出度しと言えるのではあるまいか。

所で「令和」は中國の南北朝時代に、北魏に仕へて幽州刺史に至った趙邕(趙令和)と、南齊に仕へて左民尚書に至った江謐(江令和)、及び隋に仕へて荊州總管に至った乞伏慧(乞伏令和)(あざな)」でもある。しかし、實に殘念な事ではあるがこの三人、可成り人格的な點に問題が有った様で、各々人生の終わりが些かトホホなのである。

恐らくそう遠くない將來に、筆者も人生の終焉を迎えるであろうが、最晩年がトホホとならない保証等、決して何處にも無い幼少期頃から好き勝手な人生を歩んで來た筆者であれば、今更トホホもクソも無いと言えるが)。然からば、「昭和」の前半に生を受けた者の終焉の元號が「令和」と言うのは、其れ成りに相應しい元號と言えなくも無い。黄昏れた孤老は、「令和」の時代を謳歌されるであろう人々を横目に見ながら、世間の片隅で高笑孑歩しよう。「昭和(38年間)・「平成(31年間)・「令和(?年間)と受け繼いで來たが、果たして「令和」は、如何なる時代相を見せてくれるのであろうか。

筆者が職を奉じる中國文學科及び東洋研究所も、大正・昭和・平成・令和と發展し續けて來ている。斯く有れば、「令和」の新時代に在っては、昨今の如き人文學的研究を輕視する風潮の中で、其れこそ刮目に値す可き、學科や研究所の更なる「飛躍的活躍」と、教員間・研究員間相互の「美しき調和」とを見させて頂けるものと、本年度を以て退任する身は、固く信じて疑わないのである。

   平成31年4月2日

                     於黄虎洞 

 

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