隋書

 

【はじめに

 この『中国史書入門 現代語訳 隋書』を刊行するに当たり、一言付しておきたい。

 一般の諸士が概略的な中国の歴史を知ろうとした時、如何なる史料を読めば善いのか。時間的流れで知ろうと思えば、既に完訳の有る編年体の『資治通鑑』(但し、宋代以前までであるが)を読めば善い。しかし、歴史の間を駆け抜け、時の権力と血みどろの抗争を繰り返したり、黙々と臣節を尽くしたり、権力に翻弄されて右往左往したり、個々人の生き様を見ようとした時には、紀伝体で記された二十四史と称される所謂正史(尚、正史に関しては、コラム@を参照されたい)を見るのが便利である。但し、この正史に関しては、前四史と称される『史記』『漢書』『後漢書』『三国志』の四書こそ大部な完訳(現代語)が有るものの、『晋書』以下に関しては、研究者の目的や嗜好に基づいた部分的抄訳が有るだけで、未だ本格的な現代語訳書は存在しない。

 この様な状況の中で、現代語抄訳の本書は、それなりの意味を持つものと勝手な自負を持っている。振り返れば、当時訓読(漢文解読)が大好きな若手中国研究者が集まった時、「どうして三国志以降の時代は世間から無いように扱われるのだろう」とか、「一般の人が簡便に読める正史の訳本が有れば善いなあ」とか、「『隋書』は面白いよ」とか、「いやいや『五代史』の方が面白いぞ」等々話に花が咲き、「それじゃあ『隋書』『新唐書』『五代史』『宋史』の四書の抄訳を作ろうか」等と、無謀な与太話で大いに気炎を上げていたらしい。ところが、この与太話を取り上げてくれた出版社が現れたことから、話は一気に進み本格的作業となったのである。彼等は、毎月数回の会合を開き、担当箇所の訳本原稿を付き合わせて論議を繰り返し、分かり易い現代語訳を作り上げていたのである。

 無論本書は、『隋書』の完訳ではなく重要部分の抄訳に過ぎず、その取捨選択には、読者諸士の批判やご意見も有ろうかと愚行するが、本書で採取されている部分は、訳者四人が隋という時代を理解する上で必要と思われるであろう人々を、彼ら自身の見識と判断で取り上げた結果のものである。

 筆者は、元来低俗な性格であれば、彼等の真面目な学問的話を小耳に挟みながらも、意識はどうしてもエンターテイメントの方に向かい、『隋書』ならテレビドラマの「大唐双龍伝」や「隋唐演義」か、『新唐書』ならドラマの「大唐游侠伝」「則天武后」や「狄仁傑」ものだなあ、『五代史』なら映画の張徹監督「十三太保」や胡金銓監督「天下第一」か、『宋史』ならドラマの「楊家將演義」に「包青天」「岳飛伝」と言った所だろうな、等と勝手な想像をし、彼らの作業を横目で見ながら「実にご苦労なことをしているなあ」と思っていたが、図らずも本書の監修を引き受けることになった。

 筆者は、訳者達の漢文読解能力を高く評価して信頼しているが、監修と云う責務を受けた立場上、訳者達の原稿を逐一原文と照らし合わせてチェックし、その責任を果たさせて頂いた。因って、本書の現代語訳に過誤が有るとすれば、それは全て監修者の責任であり、逆に読者諸士に何か裨益する所が有れば、それらは全て訳者達の功績である。

 本書を手に取られた読者諸士に、「面白かった

」「分かり易かった」「中国の歴史に興味が出てきた」等々言って頂けたなら、それは望外の喜びである。また漢文に興味の有る諸士は、本書の現代語訳に基づいて、下段に有る原文を訓読されても面白かろうと思う。

 本書『隋書』の後に、果たして『新唐書』『五代史』『宋史』と続けて公刊出来るのであろうか、それは、一に本書の評価と訳者達の情熱に係っている、と言えるのではあるまいか。筆者は「若手研究者の情熱だけは消したくない」と常々思い続けているのではあるが、情熱だけでは如何ともし難い点が有るのも、また現実の一端である。

 平成二十九年四月

                            識於黄虎洞 中林史朗 

 

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