蔵書あれこれ
大東文化大学図書館に所蔵される貴重な漢籍、和書のいくつかについて、これまで『大東新聞』に解題を書いた。図書館所蔵のものについては、今後も、引き続き、新聞紙上に連載される予定であり、いづれ、まとまった段階で、この解題は、図書館のホームページ上にでも移されることであろう。しかし、いまだ数種のものしかないため、取り敢えず、ここに掲載する。ただ、今後、このページ上には、書影を入れて筆者個人蔵の漢籍・和書の解題をすこしく紹介したいと考えている。
元和四(一六一八)年刊古活字本『白氏文集』
この三月、本学板橋校舎図書館では基本・貴重書として江戸元和四年に古活字で印刷された『白氏文集』、所謂那波本と呼ばれるものを購入した。 これまで長い年月をかけて驚くような貴重書を購入してきた天理大学や慶応大学に比べれば、わが大学で指定している貴重書は、「中の上」位のものしかないかもしれない。でも、それでも、こうしてある程度纏まった蔵書に少しづつ「いいもの」を加えて行くことが出来れば、いつかは、一流の蔵書を作り上げて行くことが出来るだろうと確信する。例えば、何年か前には駿河版の『群書治要』、去年は阮元自筆の『爾雅図』、今年は秋の古典会の際に購入した慶安四年刊本の『新楽府』一巻とこの三月の『白氏文集』というように、確実に、本大学の貴重書は少しづつ増えている。そして、これらはガラス張りにして見る単なる貴重書ではなく、使える資料ということに意義がある。ただ、触ることも出来ずガラスを通してしか見れない貴重な本を探すなら、そんなものはどこかの美術館にでも行けばいいのだから。 さて、この度購入した『白氏文集』。これは那波道円(一五九五〜一六四八)という人が、校訂を行って出版されたものである。 『白氏文集』と言えば、すぐに頭の中に浮かぶのは「文は文集(ブンジュウ)、文選(モンゼン)、博士の申し文」という清少納言『枕草子』の言葉や楊貴妃と玄宗皇帝の悲劇を詠った『長恨歌』。また源氏物語を始めその注釈書である定家の『奥入』や四辻善成の『河海抄』を見れば、日本の古典文学は白氏文集なしには語れないし、はたまた書道の世界では尊円親王によって書かれた『長恨歌』などは、入木道本として書写出版されて筆の手本とされる、などなどその影響は計り知れない。そんな白居易の作品集である『白氏文集』だが、これを今、平安時代の文献に引用された文章と現在通行している宋版系のものとを比較すると、文字に少なからず異同がある。どうしてそんなことが起こったかというと、流布して人口に膾炙すると、人が読みにくい部分などに手を加えて読みやすく直したとか、唐から宋にかけての音韻の変化とか、いろんなことが考えられるのだけど、とにかくこれは今後の更に緻密な文献学的研究の成果を竢つしかない。(実はそして、こんな旧鈔本系の典籍と宋版系の文字の異同は『白氏文集』だけにではなく、経史子集のあらゆる文献に於いて起こっているのだ!!)であるから、当然、その辺に転がっている『白氏文集』とか『白氏長慶集』なんてものを見ても、そう言った資料では、清少納言が「めずらしきもの」としての「文集」を我々は追体験することは出来ない。では、どうすれば、平安時代に読まれたであろうと思われる『白氏文集』を復元することが出来るのか。 こうした『白氏文集』の文献学的問題の解明に無くてはならないものとして那波本というものが存在する。人は言うかもしれない。そんなもの、既に四部叢刊に影印されているじゃないか、と。アッカンベー!四部叢刊という本の怖さを知りませんね。あの本は影印と言いながら、中国人がやった仕事らしく、実は、見事に、巧妙に、手が加えられていることを。だから、どうしてもホンモノが必要になる。ホンモノから始めないと、ニセモノによっては見えて来ないものがあるのだ。だってね、那波道円はこの本を京都で印刷するのだけど、出来ると墨が乾くのも待ちかねて、江戸の林羅山のところに急ぎ持って上がるのですよ。…林と那波は藤原惺窩の所で学問に励んでいたころからの友達という間柄だったとか。そして、この本を見た林は喜び勇んで夜を日についで校異を施していった(この林の書き入れのある本は現在宮内庁書寮部に存在する)。あーた、そんな風に力のこもった書物に操作をして誤魔化したような四部叢刊を使っていい研究が出来ると思いますか? と、そんなわけでこうしたホンモノの那波本『白氏文集』が図書館に納められたわけだけど、この本には非常に貴重なわけがもうひとつある。巻四の末に、寛永元(1624)に西山期遠子貞子元というものが承久元(1219)年、弘安五(1282)年の識語を有した本を使用して校異を行ったものを、正保二(1644)年に藤資慶(この人は烏丸光弘の息子)が写しとった旨の識語があるのだ。それによれば、ここに記されるヲコト点は、菅原家に伝わったものとのこと。ぼくが少し調べた限りでは、この書き入れは、烏丸それ自身によるものではなく、江戸中期にまた、それを写したものと考えらるのだけど、烏丸の手になるものは、現在見ることは出来ないのだ。そして、この書き入れをした人は、非常に丁寧に、この烏丸のものを写したのではないかと思う(大東急記念文庫、鎌倉中期写本の巻四の末にも同じ識語があるものの、これは本文とは別の紙を巻末に貼付したもので、本文との関係は一切ない)。旧鈔本系統の書き入れがなされた那波本は、今のところ宮内庁書寮部(これは先ほど上に記した林羅山による書き入れ)、蓬佐文庫(林述斎の書き入れ)、大阪天満宮文庫に所蔵されているものが知られているけど、これらの本はもう無茶苦茶に手当たり次第に異本との異同が記してあって手がつけられない状態にあるのだ。しかし…この度、本学で購入した本、これはすっきり正確に必要なものだけを丁寧に写してあってこれを使えば、宮内庁書寮部や蓬佐文庫の書き入れを篩い分けることが出来る。そして…もしかしたら、今はなくなってしまった部分の金沢文庫旧鈔本を復元するための重要な資料になる可能性だって高い。あー、だと、すれば、紫式部が読んだであろう『白氏文集』本文へのアプローチもそんなに遠いものではない。(以上2357字) お詫びと訂正 先月号に掲載した『白氏文集』の林羅山書き入れ本は、現在宮内庁図書館から東京国立博物館に移管されている。また、「逢佐文庫」の「佐」は「左」の誤り。東博に行って実際にモノを見られた神鷹徳治先生(帝塚山学院大学)のご教示を得た。ここに記して深くお礼を申し上げる。『大東文化』497号
群書治要 五十巻(原闕巻四・十三・二十)(唐)魏徴等奉勅撰
元和二(一六一六)年刊 駿河版 銅活字本 大五十冊 排架番号 KA291 [江戸後期]改装褐色表紙(二七・五×十九糎)、書題簽「群書治要」と。四周双辺(二〇・九×十五・四糎)、有界、毎半葉八行十七字、注小字双行、江戸後期裏打ち修補。 家康が晩年出版に多大な精力を尽くしたことは、よく知られていることであるが、本書もまた、家康が駿府に隠居の後、林羅山、金地院崇傳に命じて出版させたもののひとつである。既に伏見にあって家康は、円光寺版乃至は伏見版と呼ばれる木活字で、唐太宗の勅命によって呉競が編纂した帝王学に拘わる『貞觀政要』を出版しているが、本書もまたそれに類する唐太宗の勅を奉じて魏徴等が王者治世の参考となるべき資料を編次した書物である。ただ、伏見版とは異なり、本書は朝鮮古活字を模した銅活字によって組版がなされている。この駿河版活字印刷の経費、人数、活字製作の状況については崇傳の『本光国師日記』に詳しく記されるが、現在、この活字は国の重要文化財として大字八百六十六個、小字三万千三百個が凸版印刷株式会社に保管され、印刷資料館に展示されている。 さて、本書は、中国宋初迄には亡佚し、本国にのみ残った所謂佚存書のひとつとして著名である。天明五(一七八五)年、尾張徳川家が整版によって開版したものが中国に伝わり、阮元が四庫未収書目に著録するに至って清朝の考証学者に与えた影響は大きいが、果たして、本書元和二年刊本及び、弘化三(一八四六)年紀州徳川家による本書と同じ銅活字による本書の翻印、また天明五年刊本の三種いづれも鎌倉文永健治年間(一二六四〜一二七八)写の金澤文庫本(現宮内庁書陵部保管)に拠ったものである。汲古書院から近時その金澤文庫本を昭和初年に複製したものを影印したものが出版されているが、これを現東京国立博物館保管平安中期写本に比較するなら、文字の異同甚だしく、これら鎌倉写本に基づく上記三種も含めて、旧鈔本段階の諸書復原に供する資料とは必ずしも言い難い。 しかし、江戸の極初期に出された本書の如き古活字版が、朝鮮、キリシタン版などの影響を受けながら、本文を校訂しつつ次第に写本の時代から本文の動揺を受けにくい整版の時代への移行期に、家康によってこうした帝王学に関する書物が出版されたことは、出版文化史のみならず日本思想史の上に於いても特筆すべきことであろう。惜しむらくは、本学所蔵本は印面摺刷後印に属し、また虫損甚だしきを江戸後期の厚手の美濃紙によって裏打ちし、天地を断裁してあるため駿河版原装の持つ雅致威厳に欠けること。機会あれば是非に慶応大学図書館所蔵本(島原藩主松平忠房級蔵本)等をも合わせ高覧され、上記凸版印刷資料館へも足を運ばれんことを。『大東文化』529号
明萬暦三十(一六〇二)年刊(分類補註)李太白詩
市場に本が無くなった、と言われてから既に久しい。「わたしが学生の時はまだいい本があったね。明版なんかゴロゴロしてたよ」と、先生たちは仰る。「そのころ買ってればよかったな」と。実際、明版とか清朝初期とか、江戸時代のものにしても、近頃は「コレ」と言うものが無くなった。それは、ひとつには、時代が下れば下るほど物が少なくなって行くという当たり前のことにもよるだろうし、近頃はこんな古い本は影印本が出て、もう自分で高いお金を出してわざわざ買う必要もなくなったという人の心理にも起因しているのだろう。物が無いということは、流通においては自然、出れば高くなるということにもなる。土地や株でもあるまいし、とても個人で買えるような値段じゃない。だって、そんな本があったからって飯が食えるわけでもないんだから。って思うのはみんな同じことで、「そいじゃ、図書館に買ってもらおうよ」と、いうことになる。で、図書館に入ってしまうと、これは(ほとんど)永久的に市場には出ては来ない。さて、今回、ここに記す『(分類補註)李太白詩』の表紙には、寄贈者である市村理吉氏の手でこんな覚えが書いてある。 「この本時価五〇〇〇〇円也。四三、九、三(鉛筆) この本時価二五〇〇〇〇円也。五六、二、八(ペン書き)」(括弧内は筆者注) さて、現在、もしこの本が市場に出たらどれくらいか。しかし、その見積もりをする前に少し、本書の書誌を記しておこう。 分類補註李太白詩二五巻附唐翰林李太白年譜一巻 宋楊齊賢注、元蕭士贇補注(年譜)明薛中■編 明許自昌校 明萬暦三十(一六〇二)年序刊 大本十二冊 排架番号三四〇一 ※[江戸中期]改装「李太白集」と打付書。巻頭「分類補註李太白詩巻一/春陵楊齊賢子見集註/章貢蕭士贇粋可補註/明長洲許自昌玄祐甫校」と題す。左右双辺(二一、四×一三、九)有界九行、二十字、注小字双行。版心白口「李詩補註 巻幾(丁付)」。「吉田英厚」(二種)「市村理吉氏四爲文庫」「市村」「四爲」朱印。全巻に亘って詳細に[江戸前期]墨朱返点、間々校語書き入れ。巻十五巻頭破損部分は裏打ち紙を入れて補写(墨筆書き入れと同筆ならん) 阿部隆一『中国訪書志』所収「(国立故宮博物院蔵)楊氏観海堂善本解題」(一三五頁)に同版本著録、また『明代版刻図録(初篇)』に書影あり。本版は集千家註杜工部詩集、唐陸亀蒙の詩集である甫里集と併せて開版されたものである。江戸延宝七(一六七九)年刊本は本書の覆刻(汲古書院『和刻本漢籍文集』に影印あり)。 もし、この本が原装(作られた当時の表紙のこと)で初印(刷られて間もないもの)、白紙本ピカピカのものだったら…やっぱり百万円位までは上ると思う。だけど、如何せん、補写はあるし、虫は喰っているし、尚かつ中の五冊は本の左頭の角が何かにこすられたようになって三センチ程無くなっている。…と、すればせいぜい行っても二十万円くらいかな。ではこんなもしピカ一で百万円位まで上る可能性のある本を買うとして、その価値は一体どのあたりあるか。価格を査定するための希少価値ではなく資料としての中身について一言。阿部隆一『中国訪書志』に翻字された楊守敬の識語によれば、本書のテキストは、この本が開版される以前に出された明嘉靖二五(一五四六)刊(玉几山人)本に直接拠っているらしい(体裁としては玉几山人本が八行十七字詰のところを、この本は九行二十字に直している)。そして、その玉几山人本は明嘉靖二二(一五四三)刊(呉会郭雲鵬宝善堂)本にそのテキストのもとを遡る(この本は四部叢刊に影印される)。今、台湾故宮博物院に所蔵される玉几山人校刊本を見ることが出来ないから、とりあえず四部叢刊本と本書の本文や注を比べるならこれらの間には無茶苦茶に違うという異同はすぐには見つからない。しかし、例えば静嘉堂文庫蔵元至大三(一三一〇)年刊本(京都大学『唐代研究のしおり』所収『李白の作品』の影印による)と比較するなら、本文の異同が間々見つかるし、注に至ってはかなりの削略がなされている。こんなに削略されたもので大丈夫なのかなって思うくらいに。でも、江戸時代に出版された李白の詩集はこの萬暦三十年刊本の覆刻(延宝七年、山脇重賢点)だけで、他に李白の詩を読むとすれば、『三体詩』や『唐詩選』『古文眞寶』に所収されたものということになる。…この延宝七年刊本がどれほど忠実に萬暦刊本を覆刻したかなんてことも興味があるけど、これは本が好きな学生がいたら是非やって欲しいと思うのである。『大東文化』530号