「Sierra Leone」
2003年12月20日提出
法学部 政治学科
01142352
藤岡 志津枝
はじめに シエラレオネ共和国はどこにある
1、植民地から独立へ
2、シエラレオネ内戦の背景
3、モモ政権の崩壊と各政権の紛争対応
4、カバー政権支援に向けた国際的圧力
5、ロメ和平合意とアブジャ和平合意
終わりに
シエラレオネ共和国という国をご存知だろうか。少なくとも、私の周りの友人に尋ねてみたところ、誰一人として知らなかった。名前さえも聞いたことがないという。
シエラレオネを形成する社会は、約20の部族が90%を占める。テムネ族、メンデ族がそれぞれ30%、リンパ族を含むその他の部族が10%という割合だ。残り10%は、クレオールと呼ばれる18世紀後半に、首都フリータウン一帯に入植してきたジャマイカ人など解放奴隷の子孫で、黒人と白人の混血という新たな社会層である。首都に住む彼らクレオールの子孫は、国の人口に占める割合は極めて小さいが、ミッションスクールなどで高等教育を受け、実業家、官吏、教師などの
正式名称はシエラレオネ共和国=the
Republic of Sierra Leone。首都はフリータウン。西アフリカ南西部、大西洋に面する共和国で、北半をギニア、南東をリベリアと接している。面積は71,740㎢で、
エリート階層を形成している。
一方、大多数の土着の人々は、結社を機軸とする伝統的な社会を構成している。15世紀以前はリンパ族が優勢であったが、今日、シエラレオネの北部はテムネ族が、南部の熱帯雨林地方は16世紀に南東から移住してきたメンデ族が占め、国を二分している。
最近では隣国リベリアの内戦からの避難民や、ヨーロッパ諸国、レバノン、パキスタン、インドからの移民なども見られる。
宗教はイスラム教(回教徒)が60%、伝統的な部族宗教が約30%、キリスト教が約10%という割合で、言語は英語が公用語。他に英語と西アフリカ諸語の混交したクレオール語、メンデ語、テムネ語など、部族特有の話し言葉が広く話されている。
シエラレオネを含む西アフリカのこの地域は、まさに欧州帝国主義による植民地政策の落とし子である。イギリスによる植民地統治から独立、クーデターによる政権交代の繰り返し。また、リベリアを含む周辺諸国の内戦の干渉。シエラレオネと言う国の歴史をたどり、なぜ未だに内政不安を拭うことが出来ないのかに焦点を当てていきたい。
ヨーロッパ人がやってくる前の、現在シエラレオネが存在する地域の歴史には不明な点が多い。その起源は、15〜16世紀に、ポルトガル人によって,「メーン」と呼ばれたスーダン帝国が崩壊した際、おちのびた人々が、この地域に侵入して土着の人々を結合したことによる、とされている。また、15世紀後半頃には、ポルトガル人が渡来し、奴隷、象牙などの交易に当たった。
植民地としてのシエラレオネは、自由な黒人や、イギリスや北アメリカに住んでいる白人の基地を見つける計画のひとつとして1787年に作られ、後にフリータウンと名づけられた。フリータウンはシエラレオネ会社によって経営され、イギリス、ノバ・スコシア(カナダ)、西インド諸島などからの解放奴隷が送り込まれた。
1808年、フリータウンはイギリスの直轄植民地となり、奴隷貿易取締りのための海軍基地が設けられた。大西洋上で捕獲された奴隷貿易船の奴隷は、フリータウンで解放された。これら解放奴隷の子孫が今日のクレオールであり、前述の通り大部分がキリスト教に改宗し、西欧型の教育を受けた。1827年にはフリータウンにフーラー・ベイ・カレッジが開設され、クレオールはシエラレオネならびに、他のイギリス領植民地で伝道師、教師として活躍し、19世紀を通じて、政治や貿易において目立つ存在となった。
19世紀後半にイギリスの勢力範囲は内陸部に広がり、1896年、現在のシエラレオネの領域をフリータウン直轄植民地を除いた保護領とした。ここでテムネ族とメンデ族の首長国は、1898年の小屋根戦争における主権の損失に対し抵抗した。20世紀に入ると、これらの国は、経済的に衰えてきた。クレオール人商人は国外の貿易商人に太刀打ちできなくなり、活動の場はフリータウンに限られた。同時にクレオール人たちは、政治における主導権の多くを失った。
第1次大戦後、フリータウンで労働運動、民族主義運動がクレオール人医師H.バンコーレ・ブライトやI.ウォレス・ジョンソンを指導者として進められた。第2次大戦後、保護領地域の住民にも選挙権が与えられ、1950年には医師マルガイMilton Margai(1896−1964)を党首としてシエラレオネ人民党(Sierra Leone People’s Party:SLPP)が結成された。51年の選挙でSLPPは、バンコーレ・ブライト、ウォレス・ジョンソンらのシエラレオネ植民地国民会議(NCCSL)を破った。57年の選挙でも大勝したSLPPのM.マルガイが首相に就任し、60年イギリスとの間で独立交渉を進めた。
一方、野党グループは60年に独立前選挙運動(EBIM.まもなく全人民会議(All People’s Congress:APC)に改組)をスティーブンスSiaka Stevensを中心に結成し、独立前の選挙実施を要求した。しかし初代首相に指名されていたM.マルガイは、独立直前に野党指導者40名以上を拘禁し、シエラレオネは61年4月27日、イギリス連邦に加わる独立国となった。
その後、南部のメンデ族を主たる支持基盤とするシエラレオネ人民党(SLPP)が政権党となったが、党首兼首相のマルガイは、一党制への移行を図った。この中央集権化の試みは国内の反発を招いたため、67年選挙では、都市部のクレオール人や北部に住むテムネ族から支持を受けた、首都フリータウンの市長であったスティーブンスが率いる全人民会議(APC)が第一党となった。しかしスティーブンスは71年に共和制移行の法案を通過させて大統領に就任した後、78年にはAPCのみを合法政党にするなど独裁傾向を強めた。
他のアフリカ諸国と同じく、政治の独裁化は経済の集権化を招いた。その始まりはダイヤ採掘業者の連合体が国有化され、71年には国立ダイヤモンド採掘公社(National Diamond Mining Company:NDMC)が設立されたことである。しかし国家によるダイヤ産業の独占は政府財政の安定に寄与せず、違法なダイヤの採掘と流通を増加させたが、APCはこれを取り締まるよりもむしろ保護し、見返りに国営企業を介さない違法なダイヤ流通の収益の一部を受け取る関係を築いた。この関係はダイヤ産出地域の違法な流通業者、APCの政治家と上級官僚に利益をもたらしたものの、疎外された地域では道路、水道、電気をはじめとするインフラストラクチャーの整備・維持が困難で、食料や日用品も不足がちであった。この減少は、不均衡な資源配分から生じた社会的・経済的危機であると同時に、中央政府に対する反発を生む原因ともなった。
シエラレオネは独立以来比較的養育の普及が進んだ国であったが、教育を受けた若者は地方では職を得られず、フリータウンに流入した。これはフリータウンの失業者を増加させる結果となり、スティーブンス政権に対する不満がさらに増大し、旧政権党であったSLPPを中心とする反政府運動が活発化することとなった。しかしスティーブンスは対立する勢力を権力への参加によって取り込むか、暴力的に弾圧することで権益保持に努めた。このため、不均衡な資源配分は是正されず、1980年代に入る頃には、国家財政は危機的な状況に直面することになった。
財政危機に陥ったAPCは、国際通貨基金(International Monetary Fund:IMF)と交渉を開始し、1984年から構造調整融資を導入しマクロ経済の回復を図った。しかし構造調整はインフレ率や政府財政を改善させたものの、失業者数増加や物価高騰によって都市住民の反発を招いた。それだけでなく、緊縮財政によって補助金や開発予算が削減されたことから、疎外された地方の孤立化を加速させることとなった。このため国民の不満は急速に増大し、民主化を求めて大規模なデモやストライキが発生したため、政権維持が困難になったスティーブンスは陸軍少将J.Sモモ(Joseph Saidu Momoh)を大統領に指名して引退した。
モモ大統領は構造調整に積極的な姿勢を見せ、スティーブンス政権から引き継いだ構造調整の継続と拡大を決定し、86年に5900万ドル、88年にさらに5500万ドルの融資をIMFから受けることとなった。しかし指導力を欠いたモモ政権にとって、スティーブンス政権下で発達した、政府と違法なダイヤ採掘者とのパトロン・クライアント関係を利用し続ける政治家を強く規制することは困難であった。違法なダイヤ輸出は構造調整による緊縮財政とあいまって、国民の生活環境を一層悪化させた。これに加えて安定した支持基盤のない政権にとって民主化は権力を失う危険性が高いものであったため、モモは内外の民主化圧力を無視した。この結果、モモ政権に対する国内の不満は出口を失って充満したのである。
不均衡な利益配分に対する社会の不満と、その不満を表明する機会が剥奪されていたことが内戦の遠因であったとするならば、これに火をつけたのは武装蜂起を支援する国や組織の存在であったといえる。革命統一戦線(Revolutionary United Front:RUF)はAPCの打倒を目指す活動家グループが87年から88年にかけてリビアで軍事訓練を受けて結成した組織である。当初彼らは、やはりリビアで軍事訓練を受けたC.テイラー(Charles Taylor)が率いるリベリア愛国戦線(National Patriotic Front of Liberia:NPFL)とともにリベリア内戦で活動した。やがてクーデター未遂事件で投獄された経験を持つF.Sサンコー(Foday Saybana Sankoh)がRUFの指導権を握り、NPFLとブルキナファソ人傭兵の支援を受けてシエラレオネへの侵攻を窺うようになった。
また、テイラーの支援は、シエラレオネのダイヤモンドに対する関心と同時に、リベリア内戦の際にモモ大統領が西アフリカ諸国経済共同体(Economic Community of West African States:ECOWAS) の停戦監視団(ECOWAS Monitoring Group:ECOMOG)の前線基地として空港使用を許可したことに対する遺恨によるとも言われる。いずれにせよ、リビアやリベリアによる支援はRUFの蜂起を物理的に可能にした直接的な要因であると言える。
不均衡な資源配分による生活水準の低下、そして社会的不満を表明する手段の欠如、さらに政府的不満を軍事的抵抗に転化させる支援国の存在が、RUFの蜂起、すなわちシエラレオネ内戦を発生させたと言える。
RUFは占領したシエラレオネ南東部でダイヤモンドを採掘し始め、それがRUFの資金源となった。採掘されたダイヤはリベリアをはじめとする周辺国へ密輸され、紛争を継続する上で必要な資金をRUFにもたらすこととなった。
一方、十分な資金に支えられたRUFと対峙するモモ政権は有効な対応が出来なかった。既に構造調整を導入していたシエラレオネでは、IMFの要請に従って軍事費が削減されており、一般兵士に対する給与も滞りがちであった。志気の低下と装備の不足によって、軍隊はRUFとの戦闘を回避しただけではなく、モモ政権に対する反発を強めさせる結果にもなった。
この不満を背景として、92年にV.ストラッサー(Valentine Strasser)陸軍中尉を中心としたクーデターが発生し、モモはギニアに亡命した。国家暫定統治評議会(National Provisional Ruling Council:NPRC)議長に就任して政権を掌握したストラッサーは内戦の終結、複数政党制への復帰、経済改革を約束して一般国民の支持を集め、RUFと戦闘中の部隊に対して撤退の指示を出して、93年に一方的に停戦を宣言した。しかしRUFはこれを無視し、前線では戦闘が継続した。RUFがNPRCと対峙した要因として、自らの支配下にあるダイヤ鉱山の権益に固執した他、NPRCに対する不信感を募らせたことがあげられる。NPRCはAPCが導入した構造調整を拡大させた一方、地方の孤立化を改善できなかった。そればかりか、政府と違法なダイヤ流通のパトロン・クライアント関係をも引き継ぎ、NPRC統治下での社会経済状況がAPCの頃のそれと大差なかったことも、RUFの対決姿勢に結びついたと言える。この結果、RUFはシエラレオネ南東部のダイヤ産出地帯から徐々に西部に侵攻し、95年初頭にはフリータウンから45キロの地点にまで迫ることとなった。
RUFとの戦闘で劣勢に立たされたストラッサーは、民間軍事企業と契約を結び、事態の好転を図った。まず94年にイギリスのグルカ警備保障(Gurkha Security Guards)と契約したが、カナダ人指揮官R.マッケンジー(Robert Mackenzie)が戦死した。そのため、95年には新たに南アフリカ共和国のエグゼクティブ・アウトカムズ社(Exective Outcomes:EO)と契約を結んだ。EOは要人警護、正規軍の訓練、通信の傍受といった後方支援の他、武装ヘリなどを用いた直接攻撃によって、95年5月から97年1月までストラッサー政権を支えた。
EOの他、ストラッサー政権下で軍事的に重要な役割を果たし始めた武装集団として、メンデの民兵であるカマジョー(Kamajor)があげられる。カマジョーとはメンデ語で「狩人」を意味し、元来はライフルや山刀で武装したメンデの自警団であったが、94年に同国南部のボー(Bo)近郊での衝突を皮切りにRUFとの対決姿勢を強めた。おりしも正規軍が敗退を続けていたことからストラッサー政権もカマジョーとの接近を図り、EOを経由して軍事訓練や武器弾薬を提供した。この結果、96年には正規軍が1万2000人であったのに対して、カマジョーは2万人以上となり、事実上政府側の主力になった。
EOとカマジョーの投入によってストラッサー政権は戦況を逆転させ、RUFはコノ地区から後退した。この結果EOに軍事訓練を受け、武器供与されたカマジョーによってダイヤ産出地帯が管理されることとなった。これはシエラレオネにおいて治安維持という原初的な国家機能すら麻痺し、各種アクターがこの機能不全を補完する状態を意味していた。
RUFの勢力後退以降、ストラッサー政権は和平プロセスと民主化に消極的な対応を見せ始めた。目立った和平交渉も行われず、96年2月に予定されていた選挙の実施も疑わしくなった。これはダイヤ産出地帯を奪回することで政権を支える財源を確保したストラッサーにとって、障害の多い和平プロセスと民主化に着手する必要性が乏しくなったことによると言える。しかし、特に民主化の延期は国内の市民団体やドナー諸国からの反発を招いたため、選挙予定日の直前96年1月、J.ビオ(Julius Bio)准将によるクーデターが発生し、ストラッサーはギニアに追放された。ビオはストラッサーが半ば放棄していた複数政党制への以降計画通り、翌2月に議会選挙を実施した。内戦終結後の民主化を主張したストラッサー政権に対し、ビオは民主化による紛争終結を目指したとも言われる。いずれにせよRUFは選挙に先立つ和平実現を主張して選挙に参加しなかったため、民主化そのものは歓迎すべきであるが、この選挙は内戦終結の手段としての有効性に乏しかったといえる。
96年2月の議会選挙の結果、SLPPが68議席中27議席を獲得して第一党となり、統一全国人民党(United National People’s Party:UNPP)が17議席を獲得した。その他、伝統的首長層に12議席が割り当てられた。大統領選挙ではSLPPから立候補した元国連職員のA.Tカバー(Ahmad Tejan Kabbah)が有効投票数の約60%を獲得し、大統領に就任した。カバーは3R(reconstruction:復興、reconciliation:和解、rehabilitation:戦闘に従事した者の社会復帰)の重要性を強調し、政党横断的な国民連合政府(National Coalition Government)を設立して、民主化による国内融和と信頼醸成に努めた。
これと平行してカバーはサンコーとの直接交渉による和平の実現を模索し、96年11月に両者はコートジボワール政府の仲介により、国連、アフリカ統一機構(Organization of African Unity:OAU)、英連邦の特使が立ち会う中、アビジャンで会談に臨んだ。サンコーの要求は以下の四点に集約される。@新政府とRUFの権力分有(power-sharing)、A無料の義務教育、充分な住居、各村の上下水道整備などを実現するための「人民予算」(people’s budget)の確保、BEOを含めて全ての外国軍隊の撤退、CRUFメンバーを政府軍に組み入れることであった。カバーはこれらの要求、特に権力分有に関する要求について難色を示したが、過去の歴代政府によるシエラレオネ国民への不当な行為を調整する「国民統一和解委員会」(National Unity and Reconciliation Commission)の設立を約束した。これは南アフリカ共和国の真実と和解の委員会(Truth and Reconciliation Commission)をモデルとしており、敵対勢力間および一般国民の間の信頼醸成を図るための提案であった。またカバーは国内避難民と難民の農村回帰を図るため、さらにRUFメンバーが速やかに武装解除し、生産活動に従事するために約4000万ドルの基金が必要であると訴え、OAUと英連邦がこれに応えた。カバーはアビジャン和平協議において、選挙で成立した政府の枠組みを崩さない範囲でRUFとの融和を図り、武装解除などの合意を取り付けたのである。
しかしアビジャン和平合意は当初から殆ど実効性のない取り決めであった。その要因として、まずカバー政権が政府側の軍事行動を管理できなかったことが挙げられる。カバーは同国の歴史的経緯から軍隊の政治化に神経質であり、さらにIMFからの勧告もあって軍事費と軍隊の政治的影響力の削減に努めた。軍事費削減の端緒は97年1月から実施された米の配給停止にあるが、これにはカバー政権と軍隊との関係を悪化させると同時に後者に対する前者の統率力を失わせた。内戦発生以来、生活に窮した末端兵士の中には占領地域のダイヤを私的に採掘したり、援助物資を強奪して生計を立てるいわゆる「ソベル」(Sobel:soldier/rebels)がみられたが、軍事費の削減はその増加を促した。「ソベル」の増加は軍隊の指揮命令系統を混乱させただけでなく、治安の悪化に拍車をかけた。このため、カバーは治安維持の必要性からストラッサー以上にカマジョーに依存した。これはカマジョーの指導者であるS.ヒンガー=ノーマン(Samuel Hinga-Norman)が事実上軍の最高司令官である副国防相に就任したことから看取される。しかし元来民兵組織であったカマジョーにはカバーの命令が必ずしも徹底されず、アビジャンでの和平交渉中もカマジョーはRUFの拠点を攻撃し続け、和平合意に基づいた正規軍の撤退後も前線に残ったのである。
同様に、RUFもサンコーの指示や命令が徹底されない組織であった。前述のようにRUFは明確な目標や理念を欠いたゲリラ組織であり、元来現場指揮官の判断によるところが大きかった。これに加え、97年3月にサンコーがナイジェリアで銃器不法所持によって逮捕されたことによってRUFは最高司令官を失い、一層統率が取れない状況に陥った。この間もリベリアからの支援は継続し、特にテイラーが97年の選挙で大統領に就任して以来、その支援は強化された。この結果カバーとサンコーの取り決めとは無関係に、末端の兵員同士の判断のもとで行われる戦闘が継続し、和平合意は有名無実化したのである。
カバー政権の紛争対応と資源配分は国民や軍隊には不満の多いものであり、特に軍隊は自らの周縁化に強い危機感を抱いた。この不満を背景にRUFに同調する軍隊の一部が97年5月にクーデターを起こし、カバーがギニアに亡命する事態となった。この後、96年9月のクーデター未遂事件で逮捕されていたJ.P.コロマ(Johnny Paul Koroma)少佐が刑務所から解放され、軍事革命評議会(Armed Forces Revolurionary Council:AFRC)議長として国家元首となった。AFRCは内戦終結のためにRUFとの権力分有を図り、政権への参画を呼びかけた。コロマの呼びかけによってサンコーがナイジェリアで拘束されたままAFRC副議長に就任した他、RUFメンバー3名が閣僚に就任し、RUFは武力活動を停止した。結果的にRUFの武力活動停止は、複数政党制の導入によってではなく、複数政党制を導入しようとしない軍事政権の誕生と、これとの権力分有によって実現したと言える。
しかしこのクーデターは内外の強い反発を招いた。国内では労働組合や宗教団体連絡評議会(Inter-Religious Council)が民政復帰を要求したが、国連、OAU、英連邦なども非難声明、禁輸措置、期限付き除名といった制裁を加えた。中でも最も積極的な関与を見せたのがナイジェリアである。ナイジェリアは91年からシエラレオネに部隊を駐留させていたが、AFRCのクーデターを契機にECOMOGの名目で軍事介入し、これにギニア軍とガーナ軍が合流した。ナイジェリアが介入した要因には、シエラレオネに駐留していたナイジェリア軍兵士がAFRC兵士によって殺害されたことや、当時大詰めを迎えていたリベリア和平に及ぼす悪影響への懸念、さらに自国の国際的立場を改善する意図が挙げられる。当時S.アバチャ(Sani Abacha)が率いるナイジェリアの軍事政権は、環境保護運動家K.B.サロ=ウィワ(Kenule Besson Saro-Wiwa)の処刑をはじめとする国内の人権弾圧について欧米諸国から非難を浴びていた。すなわち、欧米との政治的・経済的関係を回復する上で、近隣国の民主的政権を打倒した軍事政権に対する介入は格好の材料であったと言える。
しかしナイジェリアは当初からAFRCと全面的衝突に至ったわけではない。ナイジェリアに主導されたECOWASは1997年7月にAFRC非難声明を出したのに続き、ナイジェリア、ギニア、コートジボワール、ガーナの加盟4カ国が軍事政権との交渉に臨み、停戦と平和的解決の合意を取り付けた。ところがAFRCが最低4年間政権を保持する声明を出したため、ECOWASは8月にシエラレオネに対する経済制裁を開始した。この圧力を受けて9月にはコロマもカバーとサンコーによる三者協議を呼びかけ、コナクリで会談が開かれることとなった。ここでコロマはカバーを国家元首として迎え、1998年4月をもって民政移管することなどを約束し、紛争の平和的解決に対する国際的な期待が高まった。
しかしシエラレオネ国内では半ば外部から強制された交渉に対する不信感が根強く、特に物価上昇を招いた経済封鎖で中心的な役割を担うナイジェリアに対する反発が強まっていた。実際に9月に経済制裁違反の船舶をナイジェリア軍戦闘機が攻撃し、シエラレオネの民間人が死亡したことから、ナイジェリア軍の駐留に反対する数百人が参加した大規模なデモがフリータウンで展開された。しかしナイジェリア軍を中心とするECOMOGはカバー政権の生命線でもあったため、同軍の撤退に関して合意を形成することが出来ず、11月にカバーはコロマの政権に参加しない意向を表明した。さらにAFRC、ECOMOG、カマジョーからなる武装解除委員会(Disarmament Committee)がAFRCの武装解除を巡って決裂したこともあって、和平交渉は暗礁に乗り上げた。
和平プロセスの中断は内戦の再燃を招いた。98年1月にトンゴ地域でカマジョーとAFRCが武力衝突を起こしたのを皮切りに、ギニアに逃れていた難民が市民防衛軍(Civil Defense Force:CDF)と呼ばれる民兵組織を設立し、シエラレオネ北東部から進撃し始めたが、CDFの設立にはナイジェリアやイギリスからの支援があった。他方、ECOMOGもカマジョーや、カバー政権と契約していたイギリスの民間軍事企業サンドライン社(Sandline International Ltd.)と協力し、2月の大規模な攻勢によってフリータウン奪回に成功した。これによりコロマをはじめとするAFRCとRUFのメンバーの多くは南東部に逃れ、ECOMOGがフリータウンを含む西部を管轄するにいたった。リベリアはECOMOGの活動を批判し、ナイジェリア駐在大使を召還する挙に出たが、3月にカバーが帰国して民政復帰が達成された。
軍事政権打倒に止まらずAFRCとRUFを追討したECOMOGは、6月に同国の80%を解放したと発表し、ギニア軍はECOMOGから撤退した。しかしAFRCとRUFはナイジェリアの行動をダイヤモンドを狙った植民地主義であると非難して対決姿勢を崩さず、戦闘が頻発した。これに対して、従前の1万人のECOMOGにコートジボワール、ガンビア、ガーナ、ギニア、マリ、ニジェール、ナイジェリアから6000人の兵員を増強することがECOWAS国防相会議で決定された他、7月に国連シエラレオネ監視団(United Nations Observer Mission in Sierra Leone:UNOMSIL)が派遣され、シエラレオネ内戦に対する国際的な取り組みが活発化した。
AFRCおよびRUFとの戦闘が継続した一方で、カバー政権は荒廃した国家機能の回復に努めた。4月に新内閣を組閣した後、カバーはIMFと緊急支援計画融資について協議し、難民の帰還支援のために1600万ドルの融資を確保した。その一方で、逮捕されていた軍事政権の幹部34名とナイジェリアで拘留中のサンコーに対する裁判が始まり、10月に35名全員が反逆罪によって死刑を宣告された。この死刑判決は欧米諸国やアムネスティ・インターナショナル(Amnesty International)からの非難を招いたが、RUFによって手足を切断された800人以上の被害者によってフリータウンでデモが行われるなど反RUFの色合いが強い国内情勢に配慮して、カバー政権は強い姿勢で臨んだ。
しかしサンコーの死刑判決はRUFの強い反発をも招き、その結果ECOMOGへの攻撃や一般市民への無差別攻撃をエスカレートさせ、99年1月6日にRUFがフリータウンの大部分を占拠するにいたった。これに対してナイジェリア軍やカマジョーが反撃し、カバー政権から支援要請を受けていたイギリス軍からも軍艦ノーフォークが後方支援にあたった。ECOMOGは1月19日にラジオ放送でフリータウン奪回を宣言した後もRUFを追撃し、この地区の半分および海岸地区全体がRUFの支配下に置かれ続けた。しかし、南部のケネマ(Kenema)、ボー、プジェハム(Pujehum)といった拠点を解放することに成功した。
ところが軍事的優位を築きつつあったカバー政権は2月にサンコーに対する特赦を発表し、サンコー、コロマとの三者協議を開くことを提案した。その背景として、1月の戦闘が3000―8000名に及ぶ死者を出したため、民政復帰以降のフリータウンにおける「降伏も取引もしない」(“No Surrender, No Deal”)という空気を一変させていたことにくわえて、関係各国、特にナイジェリアの強い交渉要請に基づくものと言えよう。ナイジェリアがカバー政権に交渉の進展を促した要因には、ECOMOGの90%以上を占める部隊を派遣するための1日100万ドルの支出の負担、同年の2月の民政移管で大統領に就任したO.オバサンジョ(Olusegun Obasanjo)が早期に撤退を公約に掲げていたこと、さらに交渉による解決を求めていたECOWAS加盟国への配慮があげられる。ナイジェリアと同様に財政的・国内政治的要因からシエラレオネ内戦の平和的解決を求めるガーナ、イギリス、アメリカからなる会議が3月に開かれ、ここで出された交渉の早期開始を求める会議は三者協議の実現を後押しした。
しかしカバーによって呼びかけられた協議に対して、AFRCとRUFの対応は分裂した、すなわち、前者が正規軍への復帰を条件に高尚に前向きであったのに対し、後者はナイジェリアの保護下にあるカバー政権に懐疑的であり、交渉にも消極的であった。
しかしRUFの最高指導者であるはずのサンコーは自らの釈放と面積が交渉の前提条件であったため、カバー政権との交渉に積極的な声明を出した。結局サンコーは4月にナイジェリアからトーゴに移され、5月にロメで開催された三者協議にRUF内部の反対を押し切る形で出席した。98年以降のシエラレオネでは、フリータウン奪回、民生復帰、交渉開始の全てが外部アクター主導の下で実施されたといってよいであろう。
1999年5月のロメ和平協議では、主に内戦終結条件としての政治体制や、RUFおよびAFRCの処遇、さらにECOMOGを含む外国軍隊の取り扱いが焦点になったが、関係各国の強い交渉要請を受けたカバーはアビジャン会議で見せた強硬な姿勢を修正し、大幅な譲歩を見せた。具体的にはRUFの政党化が容認され、サンコーに戦略資源国家復興開発委員会(Commission for Strategic Resources, National Reconstruction and Development)議長の座が与えられた他、三つの閣僚ポストがRUFに提供され、権力分有が実現した。RUFの武装解除と平行してECOMOGは1999年末から2000年初頭にかけて段階的に撤退を開始し、99年10月までにナイジェリア軍は9000名の部隊を引き上げ、ガーナ軍も2000年1月までに撤退を完了した。これに伴い国連のPKO部隊が強化され、UNOMSILを引き継いだUNAMSILの任期延長と規模拡大が2月に安保理で決定された。UNAMSILは6000名から1万1000名にまで拡大し、武装解除までの任務を担うようになった。このほか、RUFやAFRCの「反逆」に関して特赦が認められたが、これに反対する国内世論に配慮して、アビジャン和平合意でも設置が決まっていた国民統一和解委員会が設立された。ロメ和平合意では、カバーは既存の政治体制に固執する姿勢を改め、RUFとの妥協を図り、和解ムードの鼓舞を図ったといえる。
しかしロメ和平合意はカバー、サンコー、コロマといった各陣営の上層部がナイジェリアやイギリスの要求に沿って一方的に進めた交渉であったため、紛争当事者内部の融和に対する自発性は乏しかった。特にRUFの末端では協議の応諾に不満が増大し、これに伴いサンコーの影響力は一層減退した。2000年5月の段階でUNAMSILの武装解除に応じたのは2万3000人あまりで、そのうちRUFメンバーは5075人に過ぎず、残りは旧AFRCメンバーであったため、2万人以上と見られたRUFの勢力は殆ど削減されず、むしろ密輸された兵器によって装備を強化した。これに加えてロメ和平協議を契機にテイラー大統領がサンコーに見切りをつけ、事実上RUFの指揮を取っていたS.ボッカリー(Sammuel Bockarie)を支援し始めたため、RUF内部の急進派はカバー政権への抵抗を強めることになった。
この対応として、カバー政権はいわゆる「二正面アプローチ」(Twin-track approach)を採用した。「二正面アプローチ」とは佐平合意内容の実現を図りつつ、RUF急進派をCDFなどを用いて内密に攻撃するというものである。相反する要素を内包する「二正面アプローチ」は、外部アクターからの強い交渉要請もあって和平交渉を進めざるを得なかったカバーにとって、政府内部の徹底抗戦派を懐柔し、RUFを制圧するための苦肉の策であったが、同時にロメ和平合意の信頼性を損ねる結果になった。
相互不信が高まるなか、RUFが支配するダイヤ産出地域にUNAMSILが侵攻するという流言が広まったため、5月にUNAMSIL兵士500名がRUFによって拘束される事態に陥った。この直後RUFメンバーがフリータウン市外をパレードするなど示威的な行動に出たため、カバー政権もRUFの政治部門である革命統一戦線党(Revolutionary United Front Party:RUFP)のM.ラミン(Mike Lamin)をクーデターを起こす危険性があるとして逮捕するなど、強硬な対応に出た。これに伴い、反RUFを訴える1万人を超す平和行進の群衆がサンコーの自宅に詰め掛け、その一部が投石したため、サンコーの護衛が発砲して22名が死亡する事件が発生した。この騒ぎにサンコーはフリータウン近郊の折に逃げ込んだが、数日後自宅付近に戻ったところを逮捕された。
これを契機に内戦が再び激化し、海外からの関与も一層増大した。特にイギリス軍は5月以降、パラシュート部隊を含む1000名以上の部隊がUNAMSILに協力し、情報収集、港湾およびフリータウンの警備、政府軍の訓練に当たり、カバー政権支援に積極的な姿勢を見せた。イギリス軍は自国の国内世論に配慮して直接的な攻撃には殆ど参加しなかったが、そのプレゼンスはRUFを支援するリベリアへの大きな圧力となり、テイラー大統領は人質解放を求める声明を出さざるを得なくなった。ただし、これはイギリスを中心とする外交的圧力を受けた対応でもあるが、同時にシエラレオネのダイヤ利権を保持する目的もあったといえよう。すなわちリベリアはRUFに膨大な先行投資をしており、軍事的敗北という事態を避けるためにも、RUFがダイヤ産出地域を実効支配している状態での停戦を望んでいたとも言われる。いずれにせよ、交渉や人質解放を求める声明を出す一方でリベリアを経由地とする「紛争ダイヤモンド」輸出と武器輸入は止まなかった。
シエラレオネからギニアに逃れた難民は2000年8月の段階で33万人以上と推計されるが、そのうち1万2000人以上が同年5月以降に避難してきた人々であった。難民の増加はギニア国民の不満を招き、L.コンテ(Lansana Conte)大統領は2000年9月に部分的に難民の国外退去を命じた。コンテは、シエラレオネ難民の中にRUFメンバーがまぎれ混んでおり、RUFとリベリア軍がギニアの反政府ゲリラと連携してギニア領内で軍事活動を展開していると主張し、難民追放を正当化した。このゲリラ組織はギニア民主運動(Rally for Democratic Force of Guinea, Mouvement des Forces Democratiques de Guinee:MFDG)と呼ばれ、MFDGとRUFの間には軍事協力がみられた。RUFPとリベリア政府は攻撃への関与を否定したが、RUFと見られる部隊によるギニア南部のフォルカレア(Forecariah)への攻撃が頻発し、ギニア、リベリア、シエラレオネ国境付近では2000年9月から12月までに約360名の死者と9万4000名の避難民が出るなど、紛争地域の拡大が見られた。
しかしアクターの内部分裂と紛争地域の拡大が見られた一方で、アブジャ和平合意は漸進的に成果を収めてきた。この大きな要因として、2001年5月の国連による対リベリア制裁の強化を受けて、テイラーがRUF支援に消極的になったことが挙げられる。リベリアからの支援が滞ったことはRUFの武力活動を弱体化させ、武装解除を加速させた。UNAMSILによる武装解除は同年11月までに終了させると言う当初の予定からは遅れたものの、7月には内戦発生以来最大の激戦区であったこの地区での武装解除も始まり、1月から10月までの間に全国で2万4000人以上の武器を回収した。懸案事項であった国境付近での戦闘についても、ギニア軍とシエラレオネ軍による掃討作戦が成果を上げる一方で沈静化に向けた試みも見られる。具体的には2000年12月にECOWAS国防相会議がマリ、ニジェール、ナイジェリア、セネガルの部隊で構成される1676名の平和維持部隊の派遣を決定した他、当事国であるギニア、リベリア、シエラレオネも2001年8月にモンロビアで外相会議を開いて大統領会談の開催と国境付近のパトロール実施に合意した。
さらに選挙実施への期待も高まった。2001年7月にRUF幹部の一人であるククポソワがカバー政権の正当性を承認する声明を出したほか、同月開催された政府代表との会談の席上でRUF代表は和平交渉の迅速化を訴え、選挙公約を戦後復興と若年層への雇用の創出に絞ることを明らかにした。この後、政府の「平和と開発のイニシアティブ」(Peace and Development Initiative)、国連開発計画(United Nations Development Programme:UNDP)、UNAMISILによって8月に開かれた会議では、同年12月に実施される予定だった大統領選挙と議会選挙が武装解除の遅延を理由に最大で2002年6月まで延期されることとなり、その後5月14日の選挙実施が決定した。しかしこの決定による大きな混乱は見られず、その後武装解除が進んだこともあって、シエラレオネ内戦の終結に期待が高まったのである。
アブジャ和平合意は武装解除、停戦監視、選挙実施への取り組みなどの面で成果を収めてきたが、カバー政権が対処せざるを得ない課題は山積している。RUF蜂起の要因に照らし合わせてみると、民主化によって意思表明の機会は少なくとも制度的に保証され、紛争支援国からの関与も国際的取組みによって制限されたが、RUF蜂起の遠因となった政治腐敗を伴う資源配分を是正することが重要な課題として残っていると言える。
さらに、復興に向けた大きな問題として難民の帰還支援が挙げられる。ギニアには2001年9月段階で19万人のシエラレオネ難民がいると見られ、難民キャンプの食糧不足と衛生状態の悪化に加え、ギニア国民との緊張状態が続いていることから、難民の早期帰還が望ましいといえるが、生活支援を含めてカバー政権が取り組まなくてはならない課題は多い。戦闘に従事したものの社会復帰を含め、「地方の孤立化」を改善することが紛争再発を防止する上で重要な条件となるであろう。
これに鑑みれば、大筋で武力活動が収束したとはいえ、シエラレオネには内戦の遠因ともなった課題が未だに山積みしており、予断を許さない状態にあると言える。
「シエラレオネ」 落合雄彦 総合研究開発機構(NIRA)
「シエラレオネ紛争における民間人への暴力の解剖学」 落合雄彦
「アフリカの国内紛争と予防外交」 横田洋三編 国際書院
「ECOWAS停戦監視団(ECOMOG)とは何か」 落合雄彦 『NIRA政策研究』第13巻6号
「シエラレオネ内戦とポスト冷戦期のアフリカの戦争」 栗本英世 『アジ研ワールドトレンド』第43号
「現代アフリカの紛争―歴史と主体」 武内進一 日本貿易振興会・アジア経済研究所
「アフリカの紛争―その今日的特質についての考察―」 武内進一編