山岳登山事故について

                          法学部 4年   神宮 賢二

 

目次

はじめに

1 遭難原因

 社会的要因

 技術的要因

 思想的要因

 

2 遭難責任

 山での責任の所在

 個人責任

 パーティー責任・判例

 契約書の違法性・判例

 

3 山岳事故の予防と対策

 教育活動

 登山環境の整備

 遭難救助

おわりに

 

 

 

はじめに

ここ数十年の間に、遭難者年齢が大いに変化している。山岳遭難が社会問題になった昭和30年初めごろから昭和45年ごろにかけて遭難者は圧倒的に20代の若者が多かった。遭難原因も先鋭的な登山にかかわるケースが目立った。ところが、最近の遭難年代のトップは50代と60代である。原因も一般道での転倒、捻挫などが7割を占める。長野県では2000年に遭難者80人と戦後最悪を記録した。このうち8割が中高年の登山者であった。なぜこのようなことが起こるのか。そしてこれらを防ぐためにはどのようにするべきか考えていきたい。

 

1 遭難原因

 

社会的要因

登山者層の高齢化その理由

現在の登山事故の増加の要因のひとつとして、登山者層の高齢化が第一に挙げられる。平成12年度における日本山岳会の会員数は約6000人となっており、そのうち20代、30代の会員はわずか69人で、全体の1%強にすぎない。同年度において、平均年齢は59歳、その前年では58歳と高い数値を示した。その他の山岳団体についても、同様の傾向にあり、日本の登山者年齢が全体的に高いことがうかがえる。その背景には、第一次登山ブームの世代が今日の第二次登山ブームにおいても主な層となり、それに加えて若者の登山離れが登山者平均年齢の押し上げに寄与したと考えられる。

登山人口高齢化の実態把握のためのデータとして、平成2年に長野県山岳総合センターがおこなった各アルプスと八ヶ岳の営業小屋35軒と登山者200人を対象に行ったアンケートがある。その調査結果は以下の通りであった。「中高年登山者が増加し始めたのは1985年以降」「若いときに登山を経験し、その後、新たに登山を始めた人が70%」「年間の登山回数が6回以上が50%、21回以上が10%」となっていた。登山の動機としては「山や自然がすき」が圧倒的に多く全体の3分の2を占める。次いで「健康に良い」「ストレス解消につながる」と回答が続く。平成2年の調査から10年の地の平成12年度の調査でもこの傾向は同一である。その中で「若いときに登山を経験し、その後、新たに登山を始めた人が70%」と回答した人は、大多数が定年退職した50代後半から60代前半であり、この十年ほどで急速に高まった登山ブームで大幅に増加したものと考えられる。

さらに、「健康に良い」「ストレス解消につながる」と答えた、もしくはそれらを動機とみなしうる登山者が増加した背景として、近年の健康ブームも、増加の動機の一端を担っていると思われる。

このように日本の登山者の平均年齢が上昇し、今後も更なる高齢化が予想される。そして、登山団体の平均年齢が上昇するということは、個々人には影響は小さいにしても、平均年齢の上昇は確実にその登山団体の相対的な弱体化につながるのである。

 

技術的要因

技術的教育の遅れ

日本の登山技術は世界の登山技術に比べて引けをとらない高い水準に到達しているが、それは一部のトップレベルの人たちに限ることであり、有名登山家の相次ぐ死亡事故や高齢化により、高いレベルの技術を持った人たちによる指導が遅れている。このため、広く高水準の一般人に対しての指導は、いまだ高い水準に到達していない。また現在の日本には登山の技術を基礎から体系的に、そして、総合的に教育できる場が極めて少なく、爆発的に増加している今日の登山人口に対応することが出来ないのが現状である。それに加え増加した登山者人口の中には、以前の登山ブーム時に登山を経験した人が、定年などで一段落したのを機に、もう一度登山を始めるケースなどが非常に多い。そのため体力面で不安を持つ登山者が増加している。反面、テレビ、雑誌などの登山情報では、安易に登山が可能なような印象を与え、登山の危険性をあまり重視しない報道なされている。登山に欠かせない「体力、技術、知識」を持たない登山者か増加すれば、当然それに伴う登山事故も増加していく。しかしその必要とされている「体力、技術、知識」を教えるものが極わずかしかいない現状では、それらを得るのは難しいのである。このように現在における登山事故、遭難などはその要因として技術的要因が挙げられるのである。

その解決として、日本では、登山学校や講習所などの登山の知識や技術を教える施設や機会の少ないので、登山に必要な全分野にわたって基礎から教えるシステムを構築することが必要ではないだろうか。高度な技術を持った登山家が数多く育成されれば、その中の幾人かは優秀なリーダーとして、また指導員として新たに優秀な技術を持った人間を育成できるのである。

しかし、現在において、育成されるべき若い世代の登山離れの著しい。登山教育の需要は決して高くないであろう。なぜなら、次へとつなぐ世代、現在の若年層の登山人口が極端に少なく、またその需要を持つ人たちは、一般に行われる指導などではなく、はるかに専門的技術的な指導をしてくれる団体に所属するであろう。

 特に、10代の若年層に対して行われる登山教育としての小中高校の各教育機関では、山離れが進んでいる。学校登山の動向を調べている長野県山岳総合センターでは、「一応、どの学校も登山を取り入れてはいるが、対象の山を管理しやすい易しい山に移す傾向が出ている」と分析している。長野県の登山学校では地元の山を優先させるものの、以前までは北アルプスでの一泊二日が主流だった。しかし、最近では標高2700メートルまで車道が通じ日帰りが出来るコースを選ぶなど、明らかに山岳学校の簡易化が進んでいる。こうした小中高校の「山ばなれ」は確実にその影響を周囲に与えている。現在高校では部活動に山岳部のない学校が急増し、最盛期に長野県では全高校の7割の約80校にあった山岳部が、いまや30校に激減している。登山人口はこのようにして確実に減少していくのであろう。そして、登山というスポーツが衰退していく中、登山者の技術の向上はやはり全体にはいきわたらず、一部の人のみにとどまるのであると予測される。

 また、現在最も登山人口を抱えている50代、60代の中高年者層はその登山の動機として「健康に良い」「ストレス解消につながる」などを挙げており、現在の山岳保険と同様に、効果的なシステムはあっても、登山をする上でそれらは必ずしも必要ではないと考え利用しない可能性がある。これは高い山は危険で低い山は安全であるとの間違った知識に由来するものである。また自身が若い時代に登山を経験した者の多くは、その登山経験の自負から新たな指導を望まないであろう。

 

 

 

思想的要因

主体性のない登山思想

 「登山はスポーツである」という考え方は今では当然のように私達に定着しつつあるが。一方で「連れてって登山」や「乗っかり登山」など主体性を欠いた登山が中高年者層に広がっていろ。単に山に行くことだけが目的となり、自分の技術を客観的に評価できない主観的な登山思想が横行している。

 この10年ほどで旅行会社などが企画する登山ツアーなどが急増している。その下地にはヨーロッパアルプスや、ヒマラヤなどの山麗を歩くいわゆるトレッキングツアーがある。もちろん、トレッキングといえば高所を歩くわけだから経験と自信のある人たちが参加する世界である。日本人にも人気が高く、ネパールを訪れる年間45000人のトレッカーのうち、10000人は日本人のトレッカーでる。欧米に比べれば10000人とやや少なめである。また日本人の滞在期間期間も欧米と比べて短い。しかし、日本の山岳ツアーは、中高年の登山ブームと相まって、爆発的とも言える増え方をみせている。ある大手の旅行会社は年間80000人を扱い、多い日には20〜30パーティーを東京などの首都圏から送り出すという。

 国内の山岳ツアーに関しては正確な統計資料がないので、推測の域を出ないが、大小の旅行会社、新聞社名アドの企画を合計すれば年間50万人の人たちが利用していると考えられる。しかし平成10年ごろには新規の登山者が頭打ちになり、それでいて山岳ツアーを企画する旅行会社などは増え続けている。このため、いわゆる高原状態に入り、新規の大手旅行会社による低料金攻勢で、営業面ではかなり苦しくなっている。このようにツアーに応募するのは、7〜8割が50歳代以上で、登山経験も浅く、日ごろのトレーニングもかかさず行っている人は少ないという。そういう人たちが、ツアー当日になって、まったく面識のないまま、にわか仕立てのひとつのパーティーに編成されるのだから、天候の急変などによって悲惨な事態を招くことは十分に考えられることである。平成12年に二人の犠牲者を出した北海道、しりべし山(標高1898)での遭難は、そうしたツアーの問題点が露呈した事故だった。

安全に山を登るための登山思想をなるべく多くの人が持ち、登山やトレッキングに対する見方を変えなければ、現在のままの他人に頼った登山が多い現状が遭難事故を誘発する原因といっても過言ではないだろう。

 

 

遭難責任

 

山での責任の所在

 第二次登山ブームといわれる現在において、新規参入者や道具の発達によって、登山形態が多様化したことは喜ばしいことである。しかしその反面、相対的に見れば急激な登山者の増加は、登山をする側の経験の減法を意味している。一昔前の水準から見れば明らかに自然環境を無視した行動や判断が増加しているようにも思われる。昨今、登山事故が急増し、登山事故についての民事訴訟が増加傾向にあるのも、そうした必然性があるものと考えられる。山で起こった事故、事件では、なにかと「山で起こったことだから」で済まされてしまいそうではある。しかし、登山はいかにあるべきかと考えたとき、少なくとも法律と道徳の分別が出来るよう、ここでは山での責任の所在を、いくつかの場合に分けて考えていきたい。

 ここでいう責任についてであるが、現在語られている責任のほとんどは、簡単に言えば当事者間の合意事項と技量や経験を秤にかけて、登山者間の対人関係を判定する作業になってしまっているのではないだろうか。極端な見方をすれば、法的責任を逃れるために、ありもしない関係を作ってしまう事もあるのかもしれない。「生きて帰ってくること」が絶対的な条件である登山について、責任という言葉は、あまりにも広く定義されてしまっている。ここではその責任を「登山者がするべきこととして」考えていきたい。

 

個人の責任

自己責任について

 たとえばテントを持って縦走する場合、一日10時間前後に及ぶ行動の中で、さまざまな場所に危険箇所があり、転落のような瞬間的に発生する事故に対して、それを数日間にわたって誰かが他人の安全を保障することは、現実に不可能である。自己責任という考え方の根拠は「事故を予防できる立場にあるもの」「事故の結果が及ぶのは誰か」ということである。

 第一の要件に自分の体調や技術、装備の取り扱いには間違いはないか、などを最もよく知る人物であるということである。第二に必要なトレーニングをし、自分には無理だと思った場合には参加しないなどといった事故に対する不確定要素を最も排除しうる場合にあるというものである。第三に、他人に自分の安全をゆだねた場合、言うも自分から注注意をそらさないとは限らないということ。第四に、個人的な怪我や病気は他人が代わってくれることが出来ないということである。このように「自己」の立場というものは、経験やパーティー内の地位によって委任できる性質のものではないということである。つまり「自分の身は自分で守る」ということである。

初心者は先に述べたような自己責任に関する事柄を、自分ひとりで補うことは非常に難しいことではあるが、初心者が経験者の援助のみを持って「自己責任」の事項を裏打ちすることは、自分のみは自分で守るという自己責任の考え方に反するものである。活動範囲を自ら限定したり、経験者の援助を求め自らの経験にしたりすることは、もちろん自分の身を守る上で大切なことであることには変わりがない。しかし、もし事故に遭遇したくないのであれば、それは他人から指図を受けて行動することではなく、また、他人に対して責任を求めることでもないのである。人気があり、比較的整備されて安全な山域では、観光目的や、親睦目的のメンバーがいることは良くあることである。もちろんそれは悪い事ではない。しかし、責任の所在を決定するのは周囲の環境であって、人為的な関係が効果を持てる範囲は自然の中では極わずかであるということである。通過に難儀するような危険箇所であれば、経験者であれ自分の身の安全を確保することに注意と労力を割かなければならなくなる。そうした観点から考えれば、引率という当事者間での合意の有無、引率者間での技量の高低などから、自動的に引率者の法的責任が追及されるのは幾ばくかの矛盾を持っているように見えるのである。

 

パーティー責任

リーダーの責任について

 単独登山は別にして、個人では安全確保が十分に出来ない場合に登山パーティーを組むことがある。そこでの管理者(リーダー)の責任とは、第一に「限られた時間に下山すること」である。第二に「可能な限りの登山目的の達成」にある。登山目的とは、注意しておくと何も登頂のみが登山目的ではないということである。技術の養成など訓練目的の登山もあると考えるからである。また、「引き返すことも勇気」という標語を見かけることがあるが、目的の達成よりも、安全に下山することの責任を最優先に考えていればに引き返すことに勇気は必要ないのである。そのような、安全に下山することという責任と一体のもと、リーダーにはパーティー全体の危険を回避し、目的を果たすための気象、装備、食料などの役割を、適性に応じて参加者に分配し個々の局面での決定をゆだねられるものであると考えるのである。また、リーダーが責任を負わない指示をした場合にはメンバーは異議を唱えず返答を保留しておくことが重要である。なぜなら、リーダーとはパーティーの機能を最大限に発揮できるようパーティーを導く立場にあるものであって、絶対的な権威者ではなく、また登山者個人を完全に保護してくれるものではないからである。つまり、リーダーの責任とはパーティー全体の危険を回避するためのものであって、それが個々の参加者の安全に役立つことはあっても、リーダーという個人が、特定のメンバーという個人を保護することはありえないということである。

 

リーダー責任の判例

これはある大学山岳部遭難事件の控訴審判決である。以下は要約したものである。

「大学の課外活動の登山に参加するものは、その年齢などから通常安全に登山するために必要な、体力、判断力を有していると認められるよって原則として、自らの責任において危険回避の努力を行うのが原則である」

これは大学山岳部や社会人山岳団体の活動における経験者同士の安全確保については、原則どおり損害賠償は認められにくいと考えるべき判決である。裁判所は従来どおり登山者の伝統的理念である「怪我と遭難は自分持ち」に一定の考えを示したものである。しかし、この判決にはいくつかの限定条件が付け加えられており「怪我と遭難は自分持ち」のすべてを肯定したわけではないことがわかる。

以下は判例の要約続きである。

「そうすると、大学の課外活動におけるパーティーのリーダーはメンバーに対し、通過するのに特定の技術を要し、事故の発生が具体的に予見できる場合を除き、山行中の危険回避についてはメンバーも安全を確保すべき法律上の注意義務を負うものではない」

としている。ここで注目すべきは「通過するのに特定の技術を要し、事故の発生が具体的に予見できる場合」との一文である。これは山岳団体には所属してはいるがまったくの初心者である人物を、オーバーハングありの岩陵帯をノーザイルで登らせ事故に遭遇したとき等に適用されると考えられる。

だが、「事故の発生が具体的に予見できる場合」とあるが、問題は上のような極端な場合を除き、これが曖昧であるということである。裁判所は「通過するのに特定の技術を要し、事故の発生が具体的に予見できる場合」の基準を明確に示さなかった。これは今後の山岳事故の裁判の争点になると考えられる。

 

誓約書の違法性

スキューバーダイビングでの判例をもとに考える

 アウトドア活動に参加したときに「事故が発生しても主催者の責任は一切追及せず、自分の責任において処理することを誓います」といった趣旨の誓約書(同意書)に署名捺印した経験を持っている方も多いと思う。だが、誓約書は無効なのである。ここでは登山スクール及び、クライミングジムなどで使用されるこういった内容の誓約書が無効であることを確認していく。

 たとえば、その文章は以下のようになる。

「私は、第〜回〜〜コンペに参加するにあたって、大会中の事故においては本人(保護者)の責任において一切を処理し、主催者の責任を一切追及をしないことを誓約の上、参加を申し込みます」

 結論から言えばこの誓約書の内容は少なくとも、重大事故において無効であることが法的に証明されている。なぜなら民法の90条には「公序良俗に反する目的の法律行為は禁止する」との規定があるからである。これを通常は「公序良俗違反」という。つまり、一般的な解釈で社会通念上大多数の人が「おかしい」と判断するような行為は、法律上無効であるという意味である。よって、前誓約書の内容の「事故においては主催者の責任を一切追及をしない」の部分が、基本的人権を無視した内容の約束を事前に誓わせてしまうため、公序良俗違反に該当する可能栄が極めて高く、法的には無効となりえるはずであるというわけである。

 そして、2000年と2001年にこの種の誓約書をめぐってスキューバーダイビング事故での損害賠償訴訟の判決が出たのである。以下はその内容を要約したものである。

「スキューバーダイビングは、ひとつ間違えば命に関わる危険性のあるスポーツであり、水中で行われる講習はこれと同様に危険のある行為であると理解できる。そのような危険なスポーツに関して、対価を得て講習会を開催する場合、専門的な知識と経験において受講生の安全を確保することは当然である。このような観点からすると人間の生命、身体に極めて重大な結果を及ぼす事項に関し、受講生がスクール側に対する一切の責任追及をあらかじめ放棄させるという内容の前免責事項はスクール側に一方的に有利になるもので、社会通念上その合理性を到底認めがたいものであるから、一切の請求権をあらかじめ放棄するという内容の免責事項は少なくともその限度で公序良俗に反するものであり、向こうであるといわざるを得ない」

 このほかにもこの種の誓約書は消費者契約法に照らしても無効であることがわかっている。「消費者契約法」は悪徳業者から消費者を守る目的で2001年に施行されたものである。この法律から免責同意書に関連する部分を抜き出してみると以下の条文が抜粋できた。

「第八条 次に掲げる消費者契約の条項は無効とする。事業者の債務不履行により消費者に生じた損害を賠償する責任の一部を免除する条項。消費者契約における事業者の債務の履行に際してされた当該事業者の不法行為により生じた損害を賠償する民法の規定による責任の全部を免除する条項。」

よって、この種の誓約書は消費者契約法においても無効なのである。ここで注意なければならないのはこれらは事業者と個人との間に結ばれた金銭を対価とした契約ということである。一般の登山者が初心者を山に引率するさいに、金銭のやり取りがなければこれらの誓約書は効力を失わない可能性があることに注意していただきたい。なぜなら、民法90条が根拠の判例では「対価を得て講習会を開催する場合」との記載があった。逆を言えば対価を得ず無償で行った場合は判決の根拠がひとつなくなるのである。消費者契約法は事業者がいることを条文の条件としているため、個人対個人の無償の誓約書は範囲外である可能性が高いのである。

 

 

山岳事故の予防と対策

 

教育活動

最も効果的な重要な事故対策

遭難を防止するためのもっとも有効な方法は登山者に対する教育活動を強化することであるといわれている。

第一は勤労者としての正しい登山観を不億普及することである。紳士にそして科学的に登山を感得る姿勢を身につけ、実践において厳格にそれを間も絵ウ習慣を身に着けることである。第二は初歩から体系的、総合的に高い登山技術を身につけることである。登山技術といってしまうと、雪も岩もない場合には不必要と勘違いをされてしまいそうではある実践敵的学習は怠らずに、しっかりとおこなっておくことが望ましい。登山技術を総合的に学習せず、部分的に学んだだけでは様々に変化のとんだ地形では的確に対応することは出来ないであろう。歩行技術、岩登り、沢登り、冬山登山、安全確保の技術、服装装備、気象、読図、救急法、トレーニング法、山での生活技術など学ばなければいけないことは数多くある。

第三に技術論だけでなく、パーティー論や、リーダー論などの登山における組織学を身につけ広く普及させることが重要である。登山を文化性の高いスポーツとして実践するならば、そこには複数の人間が存在しているからである。パーティーが安全で組織的に行動するためには、統一された組織論が常識になるまで高めることが重要である。

 

登山環境の整備

 登山を安全に楽しむためには、環境の改善を含め環境の整備が不可欠である。環境の整備は一見環境破壊と同列に見られてしまいがちではあるが、無秩序な自然開発とは異なった役割を持つ。登山口の整備や避難小屋の設置などは登山を安全で快適なものにするための環境を整備することで、遭難の減少を目的とするのである。

 しかし、登山道を例にとれば、金をかけて整備すればいいというものでは決してない。日本全国に登山道は数え切れないほどあり、それらすべてを整備することは自治体単位では金銭的にまず不可能である。数多くの登山等を持つ長野県では長野オリンピックでの赤字がかさみ登山道整備は地元の市町村に任せる方針を打ち出した。整備といっても重要なのはアスファルトなどで舗装してしまうことではない。今ある登山道を今後も残していけるよう、きちんと人の手で管理していくことが重要なのだ。

良い登山道というのはすぐに判るもので、地元の人や山小屋の管理人がこまめに手入れをしている道は、崩壊箇所の処置の仕方や、道標の状態きちんと手入れをしてあるのだ。逆に良くない登山道は、土木業者に任せきりにしているせいか、年々荒廃していく。ひどい場合には獣道との区別すら難しくなっているものですら数多く存在する。全国の登山道の数を考えれば大多数が整備不良の登山道であってもおかしくはないのかもしれない。有名な山でさえ荒れた登山道がメインルートと名手いるところがあるのだから。初心者はよく整備された登山道以外は進入しないほうが無難である。地図や本にルートが載っているからといって不確かな道に入ってしまうことは遭難の第一歩である。獣道と登山道の区別が出来ずにそのまま遭難してしまう例が実際に起こっているのである。

 

遭難救助

 遭難事故が発生すれば当然、救助捜索隊の出動となるわけであるが、今まで救助捜索隊は登山経験を豊富に持つ人の献身的な協力で成立していたところがあった。しかし、このような反省から、組織立った救助隊を作ることにより常に出動できるようにし、実際の遭難事故で被害を最小限に抑えられるよう、捜索や後方支援などの学習から実践的訓練を隊員を中心に積み上げていく努力をしているところなどがある。今後このような動きは登山ブームを受けてさらに加速するであろう。

 ヘリコプターでの遭難救助を例に取れば、最初に救助にヘリコプターが導入されたのが昭和32年である。それから45年余りの現在では、ヘリコプターは遭難救助だけでなく、食料の郵送にも使われとりわけ登山者の多い北アルプスや八ヶ岳ではへリコプターなしでは成り立たない世界へとなっている。

 そして時代がたつにつれ様変わりしたのは、ヘリコプターの性能やパイロットの操縦技術ではない。昭和55年(1980)ごろまでは、地上からの救出、遺体の搬出か主でヘリコプターの出動は年に30〜40回程度となっていた。しかもそのほとんどは民間機をチャーターしたものである。しかし、昭和56年に長野県警がヘリコプターを導入してからは年々出動回数が増加してゆき、平成11年には(1999)遭難発生件数あたりに占めるヘリコプターの利用率は85%と高い数値を示した。平成10年に導入された県のヘリも時として遭難救助に使われることがあるので、この傾向は今後ますます増えていくであろう。民間機の利用も決して衰えているわけではない。民間には質の高いパイロット、そしてヘリが多く存在するといわれ、難しい山岳地帯での救助には民間のヘリが導入されることも珍しくないのだ。

 しかし、事情としては民間のヘリは有料で、公的機関のヘリは原則無料だということである。このことは逆に考えれば、救出状況や、遺体の搬出状況では遭難者側の家族に不公平感が生まれるということである。民間のヘリに以来をすると莫大な金がかかることは周知の事実で、民間ヘリの平均費用はだいたい一時間につき100万円が相場であるという。

 

 

おわりに

登山の基本は安全を第一に考えることであると思う。そして経験をつまなければ決して上達することはなく。また、突然襲い掛かるだろう危険を何度か乗り越えて登山を趣味とする者として山との付き合い方を少しずつ学んで言うのだろうと思った。これからも常に謙虚な気持ちで登山に望んでいきたいと思う。

 

 

参考文献

「登山の誕生」    小泉武栄著 中公新書 2001年6月25日発行

「登山の社会学」   菊池俊朗著 文芸春秋 2001年6月13日発行

 

参考資料

登山事故に関する法的責任について考えるページ

http://homepage3.nifty.com/tozanzikosekinin/

長野県警ホームページ

http://www.avis.ne.jp/~police/