城
法学部 法律学科 鈴木 隆弘
1章1−1 城の意味
1−2 天守
2章2−1 館としての機能
2−2 館から城へ
3章3−1 城下町の発達
3−2 城下町の構造と特色
3−3 城下町と河川の関係
おわりに
「城とは人によって住居・軍事・政治的目的をもって選ばれた一区画の土地と、そこに設けられた防御的構築物をいう」
“人によって”ということは自然の地形の中で要害の場所は、これが自然の状態で存在する限りは城ではないが、人によって選ばれ戦いの拠点として利用された時から城となり、人によって利用されている地域もまた城なのです。
“住居・軍事・政治的目的をもって選ばれた一区画”ということは一群の人類が一つ土地に定着し種々の生活形体を形成すると、その地域に、城壁のような防御構築物を造ることは古代でも文明の進んだ地方では普通の現象でした。
集落の周囲に構築された城壁そのものは軍事構築物であったが、ヨーロッパにおける近世諸侯の居城や日本の大名の居城など社会情勢の変化による機能の変化は、政治的機能を持ち権力の誇示や統治のために利用されます。
“一区画の土地”ということは、地上の造られた構築物のみを指します。
“そこに設けられた防御構築物”とは、城の中には必ずしも軍事的構築物だけでなく直接戦闘に使用されない建造物もありますが、間接的には防御的機能を果たしているものも含まれます。 参考文献「日本の城の基礎知識」
と、定義づけられる城ですが、軍事的な側面だけで見られることが多いです。
そこで、この論文では城の象徴としての天守の構成や、現在の都市づくりの基本でもある城下町に着目します。特に、城下町と城との関わりで、そして住民生活で欠かせない河川との関係については詳しくみていきたいと思います。
1―1
城の意味
城・・・敵軍や盗賊の来襲を防ぐために築いた軍事的建造物。土石の築造物、都市城壁または辺地の要塞もしくは諸豪族・諸大名の居城などの壮大な構造のものから営塁、砦と呼ばれる小規模な構造のものまでの総称。古くは柵や石垣を言い、わが国では戦後時代以降、特に織豊時代に急速に発達し天険、丘陵を利用した「山城」へ発達する。専ら戦闘用であったが戦国時代以降は防御だけでなく領国統治・住居・権威表示を兼ねる建造物へと発達する。時が経つにつれ多くは小高い丘や平地に築かれ、二重・三重の堀をめぐらせ天守が設けられるなど平山城・平城へと発達し、いわゆる城郭が完成する。・・・『広辞林』三省堂『広辞苑』岩波書店 要約。
1−2
天守
日本の城の特徴といえば真っ先に思い出されるのが大阪城や名古屋城、そして姫路城に代表されるような高く築かれている石垣にそびえたつ天守です。天守とは天守閣とも呼ばれる城郭の中心となる櫓(やぐら・・・矢倉・矢蔵に始まり、武器を収める倉庫でしたが、のちに攻撃、防御の拠点、戦闘指揮の機能をもち住居として用いられることもあった)のことであって、通常外から見える屋根を何重と数え、内部の床で何階と数えます。天守の名称には諸説ありますが文字としては天主・殿守・殿主などがあります。通常は天守という文字が用いられていますが、昔は殿が住居として使用していたことから殿守といわれ、ついで高層の建物になり天守となったとする説が有力です。また、天主という字は安土城天守に織田信長が天主教の神ゼウスを祭ったことに始まると言う説があります。
過去にはいくつもあった天守ですが、徳川家2代将軍秀忠によって1615年に発令された一国一城令で、さらに明治維新当時40程残存していた天守は維新に際しての破却、第二次世界大戦による戦災によって水戸・和歌山・広島城などが失火で失われ戦国期から現存している天守は12しかありません。弘前・松本・丸岡・犬山・彦根・姫路・備中松山・松江・丸亀・高知・宇和島城・松山城です。現在松本・犬山・彦根・姫路城の四つの天守は国宝として、他の八つの天守は重要文化財に認定されるなど日本のシンボルとしても保存されています。これら以外に見ることが出来る天守は昭和6年に鉄筋コンクリートで造られた大阪城天守を復興天守第一号に復興ブームや地域の呼び物として復元されたもので、内部は資料の展示場として利用されていることが多いです。さらに近年では木造で築かれ当時と同じ漆喰を利用するなど、戦国期や江戸時代に築かれた姿により近づける努力がなされています。では、城の中心としてシンボルとして認識されている天守の機能は何であっていつ頃、どのようにして成立したのだろうか。
天守の機能は主に展望と指令であって、戦国時代は篭城した際に住居として戦闘の最後の拠点として用いられていました。平時には城主の威厳を誇示するために、武器庫・弾薬庫、あるいは倉庫として使用されました。
江戸時代の軍学者は「天守の十徳」と称して十の機能を挙げています。
@城内を見る・・・展望・配兵・味方の状況
A場外を見る・・・展望・配兵・敵味方の状況
B遠方を見る・・・展望・敵の状況・敵味方の援軍の状況
C城内武者配り・・・配兵の指図指示
D城内の気をみる・・・見方の士気
E守備下知・・・戦闘命令
F寄せ手の左右を見る・・・敵情の視察
G飛物掛・・・射撃命令
H非常改変化・・・情況によって緊急処置対策
I城の飾り・・・城主の権威、権勢を示す
というように様々な機能がありますが、@〜Hで分かるようにやはり天守は軍事においての機能を中心に考えられていたことが分かります。
天守の起源は、機能的に見れば中世の豪族や武士の居館で、人呼びのやぐら
といって見張りと戦闘指揮のために御殿の上に材木を組み上げた望楼を設けたものが原型と考えられています。もう一つは高櫓ともいわれ、簡単な四本柱の木組みの上につくられたやぐらがだんだん発達して天守になったというものです。その天守の構成にはいくつかの種類があって、天守が単独で建っているのが一番簡単なもので独立式天守と言われます。入り口にやぐらが付いた天守は複合式天守、大天守と小天守を持つものは連結天守、そして大天守と三つの小天守をロノ字に渡りやぐらでつないだものは連立天守式といわれます。これらの天守は独立式から、しだいに天守にやぐらが付き、小天守が連結し、と天守の構成が大型化し発達していく過程がわかります。
このように天守の役目や名称の由来や起源、構成の発達を見ましたが、いつごろ層を重ね現在見られる形に近い天守が造られたのかというと、最初に造ったのは松永久秀という武将がはじめて築いたと言われます。この武将は1560年信貴山城を築いたときに楼閣状の天守を築き、さらに多聞山城を造るときには大寺社建築に代表される南都の職人技術を生かした四層の天守閣を築いたと「多聞院日記」に記されています。そして、この天守を以後の城郭に定着付けたのは織田信長の築く安土城です。この城は七重構造で外柱は朱に塗られ内柱には金箔がはられ、内部には仏画が描かれ外に張り出した縁の下には中国皇帝のシンボルである龍が描かれていました。その他、儒教画や黒漆で彩色されるなどまさに高層の天守がその後の権威の象徴を示すようになりました。これらの特徴からいえるのは、内部の絵画の題材のみでなく、建築的にみてもその形態は中国的であるということが分かり、中世の文化には中国の影響が強くかかわっていることが表れています。
さらに、天守には望楼式と層塔式の二つに形式に分類できます。望楼式天守は古い形式で関ヶ原以前に多く、普通下層に入母屋造りの屋根を持つ建物の上に最上階から遠くを見ることが出来るように回り縁を持つ望楼を載せた形になっていて、実践での機能を重視しています。無骨で個性的な天守が多い・アンバランスな天守もある・黒い天守が多い、という特徴を持ちます。そして、層塔式天守は平時に築かれたものが多く構造的には内部に多くの通し柱を持ち、全体が一体化されたもので外観を見ると、下層から上層にいくにしたがい規則的に逓減していくのが分かります。均整のとれた天守が多い・望楼がついているものもある・白い天守が多いという特徴を持ち、城下の象徴、城主の権勢をあらわしています。望楼式には黒い天守が多く、層塔式には白い天守が多いというのは戦時と平時という時代の差が有り、夜間防衛や威圧という目的から権威・権勢の象徴へと天守の目的が変わっていったことを強く裏付ける事実だと考えることができます。
2−1
居館
日本の居館の歴史は長く、そのために居館の構造も多岐にわたります。すなわち、大和朝成立期の貴族的階級の居館、同時代の地方豪族の居館。大和朝成立後の居館、同時代の地方豪族の居館。平安朝初期からの居館。鎌倉時代からの武士の居館、守護・地頭の居館、同時代の地方豪族の居館、とその構造は一様ではありません。
しかし、構造的にみるとおおよそ二つの流れに分けられます。一つは王朝風とも言われる貴族、高官の居館のスタイルで、防備性よりは居住性が優先され建造物に主体が置かれたものです。もう一つの流れは地方豪族や武士の居館で、これらの居館は政情の変化、地方治安の乱れなどと共に防備性を高め、のちの戦国大名や豪族の居城の前身となります。貴族・高官の構造が時代を経るにしたがって建築物としての居住性の快適さや様式の華麗さを加えていき、逆に防備性が薄れていくのに対して、地方豪族や武士の館は防備性の工夫と武備の強固さを増していきました。
平安時代末期から鎌倉時代の頃の豪族は領地の真ん中にあった館に掘や塀や柵を廻らす程度の簡単な建造物を構築していました。この建造物には天守閣なども無く、門の上に物見の足場を組んだり、館の屋根の上に小さな物見の櫓を載せたりしていましたが、このような館では近隣の豪族達との小競り合いや野盗を防ぐ程度で、本格的な戦は出来ないので、時代と共に居館を山の麓に構えるようになりました。館の防御機能はさほど無くても背後の山に砦を築き、いざという時には館を捨て山頂の砦に立て籠もって戦をしていました。
将軍足利義満のきづいた「花の御所」を頂点とした室町の武家文化は、将軍の直臣衆などをはじめ各地の武士の館の規範となりました。
2−2
居館から城へ
室町幕府の将軍相続問題や管領の相続問題に端を発する山名持豊と細川勝元による応仁の乱(1467〜1477年)、は京都を燃やし尽くし全国に争乱を招きます。それ以降朝廷の政治力・統治力は無力化し室町幕府の足利将軍家の力が衰えはじめます。そして、幕府の統治力の低下は内乱による淘汰の中で生き残った豪族や国人(中小武士団の棟梁)達の私利私欲のための領国の争奪、勢力の伸展へと発展し階級制度を無視した下克上の時代を招きます。そして、この流れは日本全体が戦乱の場となって徳川家康が天下を治めるまで100年以上もの間続くことになります。この応仁の乱に始まり関が原の合戦で徳川家が天下を統一する1467〜1600年までの期間を戦国時代と呼び、各地で勢力を伸ばした諸大名はこの期間を中心に山や河川などの自然の地形を生かした場所に領国支配の中心になるような、住居と砦を兼ね備えた本格的な防御的機能を持つ城を築くようになりました。
戦国時代の初期には、大名の居城は主に天然の要害の土地に建つことが多く、防御で力を発揮し攻撃には困難な場所が選ばれました。要害である山の上に建てられることから山城といわれ連山の一つの峰に築かれたものやいくつかの峰を拠点としたものなどで標高150メートル以上の場所に造られたものをいいます。例えば上杉氏・築城年不明・春日山城約170メートル(
険しい山が無い土地では、平地にある小山や丘陵などの山頂から平地までを利用する平山城が構築されました。この平山城は山城との区別ははっきりとなされていませんが20メートルから150メートルほどの高さの小山や丘陵に造られた城のことをいいます。しかし、城内の最高所にいたるまでの周囲の地形が、極めてゆるやかな傾斜の場所に建つ山城でも、外郭と中心地でそうとうな差があっても感覚的には平山城と感じる事ができる場合もありはっきりとした区別はされていません。平山城は山城に比べ防御性が良くないため、塀や堀など防御性を高め弱点を補強しました。代表的なものに赤松氏・1441年頃築城・姫路城45メートル(
平地では小山や丘陵も少ないために平城が発達します。この城では他の城に比べ防御に関して全て人工的な構築物に頼るか、付近に河川や湖沼、海があればそれらの自然のものを考慮に入れていました。平城は徳川家が天下を統一し戦国時代が終わったあとに領国経営の中心として築かれることが多かったのですが、もはや戦が無くなった江戸時代の城は、大名の威厳を示す華美な建物と成ったので、簡素な中世城郭の様子を伝える城はほとんど無くなり、政治的な城へと変化していきました。
城の発達の形態を、山城----平山城----平城と時代の推移とともに移っていったと見られることが多いのですが、かならずしもそうではなく、築城された場所ごとにその形式は違い場所ごとに、一国の統治の中心として交通の便利な、城下町の経営に都合の良い土地が選ばれていたと思います。
3−1
〔城下町の発達〕
室町時代には各地の国ごとに府とよばれる役所があり、多くの宿とよばれる集落が発達しましたが計画的に集落を集めた町が造られることはありませんでした。領地を治める領主の力が絶対的なものではなく、都市を造る家来の数や領民の労働力が不足していたり絶えず戦に悩まされたいたからです。他に比べ大きい町であっても主として重臣たちの屋敷と商工業に携わる町人たちの家で構成された小規模なものばかりでした。
城は防御のための施設であり、時代と共に進化・発展した戦闘の形式が変化すると立地する場所も変化していきました。つまり弓矢・刀・槍をおもな武器とする時代には山城が主でしたが、1543年にポルトガル人によって鉄砲が伝えられると戦闘の形式が変化しました。鉄砲は従来の武器よりも射程距離が長く、殺傷力も強くなり、そのために鉄砲の攻撃を避けるために大きく深い堀や幅の厚い塀を造ることが出来る平野や盆地の中の平地または小高い丘陵の上に築かれた平城・平山城が多くなりました。また、地形的位置だけでなく質的にも変化しています。戦乱が次第に治まってきて、支配領域が広がり城の規模や家臣の数も増加するにつれて、防御のための城から権力を誇示するため、領内を統治するための行政のための城に変化してきたのです。すなわち、城の周囲に侍町を設けて家臣を集住させ、城に接して町人町(町屋)を設け、そこに商人・職人や寺院を集めて、領内の経済の中心となるような城下町を建設するようになったのです。さらに、戦後時代も半ばを過ぎると大名、領主も城下町の発達による経済の繁栄を重視し始め、商人や工人に様々な特権を与え保護を図ったので、特に有力大名の下では城下町が繁栄しました。
近世になると大名の領国経営、寺院・町屋・商業地の区画化、兵農分離が進行するに伴ってそれぞれの居住地を計画的に定めたために城下町へと発展していきました。城と城下町造りでは第一に地選地取といって地理的・地形的条件を考えて城を造るのに適した場所を選び、第二に縄張りといって堀や塀の位置、出入り口の場所を計画し、城下町に対しては町割といわれる都市計画を行いました。第三に普請といって山を削り谷を埋め、川筋を整え堀を掘り、その土を盛って土塁を造るなど城と城下町の土木工事を行い、第四に作事といって建築工事を行い、城内だけでなく家臣や町人たちが割り当てられた区画に住居や商店の建築工事を行いました。
このように、城の選定位置においては、城だけではなく城下町の建設のことを前提に置いて計画が進められた城下は発達していったのです。そして戦乱が収まると余裕ができ作事がだんだんと絢爛豪華になっていきました。
3−2
〔城下町の構造と特色〕
・構造
城下町は、もともと山城の山麓の集落、という意味でその原始的形態は、城を中心地として、あるいは城のある山下に一族や郎党が集落を営んだことに始まりますが、まだ計画的に造られていたわけではありませんでした。しかし、近世大名の居城では、城下町の経営は一国の経済政策上必要不可欠なものでしたから城下町は乱雑に造られたのではなく、その構造は一定のものにつくられていきました。
その基本的な構造は、城郭の中心に領主の居館や天守閣があり、その周りを取り囲んで外郭には重臣や高禄(高い給与)の有力家臣団の侍町、寺院・寺社を造り、その外側には侍、足軽などの町を造り、さらにその外側には街道・水路沿いに碁盤の目状に商人や職人の町屋があるというように、整然と地域区分されて、しかも全体として建築・諸施設がまとまって存在するのが一般的な形態でした。このように城郭を中心に、武家屋敷、町地、寺社地とはっきり分けられているのは、近世城下町が、武士による軍事的な拠点としての機能、商工業者が担っていた流通の場としての機能を限定された領域の中に有機的に組み込むことによって成立したことを示していることと言えます。この侍達の屋敷と商人たちの町屋の比率は、商工業の盛んな町ほど年代に従って町屋が拡大していく地域が広がっています。
・城下町の特色
いくつかある城下町の構造上の特色は、まず防御を念頭におかれた構造です。町を通過する街道は城下を迂回するように造られ、町の道は筋違いに、さらに袋小路を意図的に造るなどです。これは、いざ敵が攻めてきたときに敵の直進を防ぎ、大軍の行動を封じるために造られました。
次に町屋に同業職を集めてその職業名を町の名前としたことがあります。例えば米屋町、呉服町、魚屋町、大工町、鍛冶屋町などです。町屋でない侍屋敷では御徒士町、鉄砲町という名前がつけられました。これらの地名、町名は明治維新後も残された場所もありますが、現在では行政上の地名変更で消え去った場所も多いようです。
そして最も大きな特色として、城下町全体を防備する城壁を築かなかったことです。この傾向は戦乱の終了した江戸時代に入ってからますます強くなり職人や商人の町屋は外側に伸展していきました。
3−3
〔城下町と河川の関係〕
人々が生活するうえで、「水」は欠かせないもので河川や海、湖沼の側に城下町が形成されるのは当然でした。城下町と水の関係はいくつかの視点からみることができます。
・第一に飲料水や耕作用の灌漑用水として必要です。
これは、いうまでもなく人が生活するうえで飲料水として、そして作物を育てるために灌漑用水が造られました。
・第二に交通の手段として重要な役目があります。
現在の様に自動車や電車というものがなく、交通の手段として馬や馬車、籠などしか無かった時代には、河川や海は交通の手段としてとても重宝されていました。都市から都市へ大量の物資輸送を行うには人力では限界があり、舟にとる運搬に頼らなければならなかったために、川や海に接している場所に城や城下町を築くことが課題でした。そのため、河川が遠く離れている位置に造られた町では、大規模な河川改修工事で流れを変え、運河を築くなどして人工的にその立地条件の改善が行われました。
・第三に河川などは戦のとき防御用として重要です。
城や城下町を造る際には、常に敵軍の来襲に備えることを前提に考えられました。城の堀と同様に川や沼は自然の要害として重要な条件でした。湖城・川城ととばれる城ではその名のとおり湖や川の小島や中州を利用して造られた城で、これらの城は恒久的な用途のために築かれた城ではありませんが防御の主体として河川などを利用していました。
・第四に一から三の反面、水害として時に仇となることがあります。
三つの利点を生かすために河川の側に立地した結果、時として洪水による氾濫や長年の川の侵食で大きな被害をこうむることがありました。この水害に対してどのような対策を講じて三つの利点を生かすかが、城造り城下町造りの課題でした。ここでいくつかの例を挙げてみます。
対策として一つ目は例を四神の思想に基づいて立地選定が行われる事がありました。四神相応とは、陰陽学上、東に流水・南に低地・西に大道・北に山があればそれぞれ青龍・朱雀・白虎・玄武の四神が宿って都市や寺院の建設に適している地であるという考え方です。実際に建物を建ててみれば分かる事ですが北が山で南が低地であれば日当たりは良好で、東西に川と道があれば水路、陸路となり交通の便に優れている利点があり交通の要所になります。しかし、四神の思想による城下町の建築は立地としては三つの利点を十分に生かしていますが水害の対策とはまた別の話でした。
二つ目は洪水対策に困り、城と城下町を移転した例です。度々起こる河川の氾濫による被害は大きく、城だけではなく城下町ごと移転した例があります。 尾張の国(現在の
三つ目は、一度は城と城下町を放棄して移転したものの技術進歩によって、河川の改修に成功し元の土地に戻ることです。戦国末期に四国をほぼ全土手中に収めた長宗我部元親(ちょうそかべ もとちか)は豊臣秀吉に敗れた後、土佐一国の領有を認められ交通の便がよく土地が肥沃な場所に移ろうと大高坂山に平城を築きましたが、この場所は河川の氾濫による被害が多く侍や町人たちの不安から僅か3年で浦戸に城を移します。しかし、関ヶ原の戦いで長宗我部家は除封され変わりに山内一豊が領主となると一豊は土佐の国の政治・行政の場所としては浦戸では城下町の発展の余地が無いと見て、元親が失敗した大高坂に再び戻る決心をします。一豊の治世の元で河川には堤防が築かれ、さらには川の流れを変えることにより城下の治水工事は成功します。この城は「河中(こうち)城」と言われ二つの川の間に築かれた事に由来しますが、その後は「高智」と改められ現在では文字が簡略化され「高知城」と言われるようになりました。
四つ目は、洪水に対して根本的な解決方法として河川そのものの流れに手を加え川沿いに造られた城下町を洪水の被害から守ることです。元は荒れ川を自然の要害として利用しましたが、平和な時代になるにつれて洪水による被害ばかりが目立ち、その対策に手をこまねいてついには川が洪水を起こしてもその被害が町に及ばない場所へ移した例です。
盛岡城は北上川と中津川の合流点に築かれたために洪水時には危険を伴う場所でしたが、それだけに堅固な場所でした。この城は秀吉が奥州を平定した後に陸奥国(秋田・
流路の変更により防備力は弱まりますが、太平の世では防御のことより水害から城と城下町を守ることを優先させた例と言えます。
これらのことから城下町はいかに領国経営にとって重要かが分かります。織豊時代、つまり織田信長と豊臣秀吉という戦国の世を統一した領主が、その全国支配の必要から最も進んだ城下町の手法を開発し、実際に建設しましたが、先進的な城下町を造ることが出来たからこそ天下を統一し政権を手にすることが出来たのかもしれません。
現在の日本にある大きな都市東京や大阪、仙台などをはじめとする大きな都市は、16世紀末から17世紀初頭にかけて、すなわち豊臣秀吉が天下を統一したときから、そして関ヶ原の戦いの後、徳川幕府が成立した近世初頭のじきに数多くの城下町が計画的に造られ、それらの町が次第に発展し現在のような大きな都市になっています。県庁所在地のうち約三分の二は城下町に起因していて、その大部分が近世初頭に城下町として整備されたものです。このことは交通・流通の要所として中世・近世だけでなく現在においてもその立地条件が通用することを意味していると思います。
日本の文化の中心には必ず「城」があり、また文化の中心に「城」を造ることから権威の象徴として・繁栄の象徴として城は考えられていました。城は都市づくりと美術・工芸の発達を促し現代に残る数多くの伝統を作り上げてきたとも考えられます。残念ながら現在まで当時の姿で残る城は数多くはありませんが、山形・会津若松・宇都宮・川越・高山・萩・津和野・高知などは古くからの様子が残っていて当時をしのぶことが出来ます。すでに失われてしまった天守や大手門なども復元されることもあり、これからはコンクリートで固められた現代都市と木造で固められた中世・近世都市の融合という新しい都市づくりの発展を望むことが出来るのではないでしょうか。
城の語る日本史 朝日新聞社
日本の古代国家と城 新人類往来者
城と城下町 山川図書
新体系日本史6 都市社会史 山川出版社
建築の歴史 中央公論社
図説城下町都市 鹿島出版会
城下町の近代都市づくり 鹿島出版会
日本の城と城下町 同成社
日本の城の基礎知識 雄山閣
"http://www.rekihaku.ac.jp/kikaku/index56/rali.html"