現在の生活空間では、レストラン、喫茶店、スーパーマーケットなど、いたるところで音楽が流れ、わたしたちはそれを当然の存在として受け入れている。BGMは、その発展の中で、著作権やプライバシーの問題など、さまざまな問題と対立してきたのだが、なぜ今日このように広まったのか。BGM発展の歴史をたどり、考えてみたいと思う。
BGMの定義を明らかにしておきたいと思う。しかしBGMとは何かということを示すのは非常に難しいといえる。音楽かどうかということは聴き手に委ねられており、例えば、現実音(ノイズ)は、音楽に含むか含まないかということ関しても、人それぞれ感じ方が違うからである。そのため、この論文では、
BGMの起源は古代ギリシアの時代まで遡る。ギリシア神話には、風が吹くと音を奏でる仕組みになっている「エオリアン・ハープ」という自動演奏装置が登場している。ギリシアの詩人、ホメロスの叙事詩『オデュッセイア』には、黄金の羊毛を求めて航海したアルゴー船の乗組員(アルゴナウテース)の一行を勇気づけるために、竪琴の名手オルフェウスに、音楽を奏でさせたことが残されている。また、ピラミッドをつくるときも、石を運ぶ労働に音楽を使ったといわれる。
古代・中世のヨーロッパでは、ほとんどの場合、音楽は、環境を変え、神の加護を乞うために演奏されていた。聖書の中では、竪琴の名手であったダビデが、精神を病み始めたサウル王に仕え、狂気を食い止めようとしたことが記されている。また、初期の十字軍では、兵士は軍楽隊を雇って軍楽を演奏させ、士気を高めた。14世紀になると、キリスト教諸国では、教会の鐘が時間を告げるようになり、各地で人工の音が、聖人の声の代わりをつとめるようになった。また、修道士によるグレゴリオ単旋聖歌は、農作業をする人の意欲を高めるために、雲の間から神々の調べがこぼれてくるものとして修道院の外でも奏でられるようになった。
17世紀になると、BGMはヨーロッパの貴族の生活の中で一般化していった。水力オルガンや人工の鳥のさえずりなどを取り入れ、BGMは自然に対する文明の優位性を示すものとして用いられた。
このような音楽は18世紀半ばになると、さまざまな作曲家によって大衆化していった。ドイツの作曲家ゲオルク・フィリップ・テレマンは、「ターフェルムジーク(食卓の音楽)」を作曲して、聖と俗を隔てる壁を取り払い、堅苦しい宮廷音楽を「軽音楽」に変容させた。ヨハン・セバスチャン・バッハも、独自の方法でテレマンの軽音楽のスタイルを展開していった。バッハは、ドレスデン宮殿駐在の元ロシア大使、カイザーリンク伯爵の依頼を受けて、「ゴルトベルク変奏曲」を作曲した。伯爵は不眠症を癒すために、家来のヨハン・テオフィリウス・ゴルトベルクをバッハのもとにやり、やさしく明るい曲想の、基本的な和声がつねに同じように繰り返すピアノの曲を学ばせた。
以降、大衆に広まりつつあった音楽は、それまでにはなかった用途で使われるようになっていった。フローレンス・ナイチンゲールは、著書『Notes on Nursing(看護覚え書)』の中で、「音をとぎれさせずに奏でることができる管楽器は、一般に病人によい影響を与える。ピアノのような音が連続しない楽器は、その反対の影響を与える。ピアノの演奏は病人に悪影響を与えるが、『植生の宿』のような曲を・・・・・ごくふつうの手回しオルガンで弾いても、病人の心をかなり和ませることができるだろう」と述べている。
>産業革命によって、BGMの用途は、さらに広まっていくようになる。1つ目は、公共の場所における好ましくない音を、逆の波長の音を用いて相殺するという役目である。手工業的形態から機械制大工場への変化にともなって、発電機や内燃機関の轟音や、空調システム、電気照明の低周波音が生じた結果、まったく新しい種類の犯罪や、騒音がらみの病気が爆発的に発生した。金属をひっかく音が原因の「ボイラーメーカー病」もその一つである。聴覚障害、末梢循環器障害などの都市の絶え間ない騒音の苦しみを緩和するものとして、BGMは利用されるようになった。
2つめは、労働意欲の増進のための利用である。この時期アメリカ国内では、フレデリック・ウインズロー・テイラーが、『科学的経営管理法の基礎』において、科学的分析に基づく経営管理の方策を発表し、以降、「新しい労働管理」、「科学的な経営」、「産業界に心理学を応用すること」が熱心に議論されるようになっていった。先ほど述べたように、産業革命のはるか以前の時代から、労働と音楽は強く結びついていたが、科学的管理法の効果が注目されるようになると、しだいに産業界の一部の人々は、音楽が有力な勤労意欲増進策の一つであると考えはじめ、労働の場に音楽を導入することを試みるようになっていった。
音楽が労働におよぼす影響についての最初の科学的実験は、1910年12月4日から6日間にわたるマディソン・スクエア・ガーデンでの自転車レースのなかで行われた。この自転車レースは、一般の人にとってはスポーツ行事であり、娯楽の一つに過ぎなかったが、統計学者にとって、自転車レーサーは、きわめて勤労意欲の高い労働者と見られており、且つこのレースは、バンド演奏をともなって行なわれていたため、学者たちはこれを利用して調査を行なった。調査は、3日にわたって、それぞれ違った時間に、23マイルは伴奏をともなって走り、ほかの23マイルは伴奏なしで走るという方法で、全体で46マイル(約74キロメートル)の長さで行なわれた。結果は、バンドが演奏されている間の記録は、平均1マイルあたりで3分4秒、時速19.6マイル(31.5キロ)で、バンド演奏がないときの記録は平均1マイルあたり3分21秒、時速17.9マイル(28.9キロ)であった。結局、バンド演奏のあったときには、ないときに比べて、1マイルあたり平均17秒速かったことになり、結論として、このデータから、バンド演奏の音楽は、自転車レーサーに対して、かなりの意欲増進効果があったと報告されている。
また、エジソンもBGMの「ムード・テスト」を数回実施した。はじめに、彼は自ら発明し“A Set of Re-creations”と名づけた音楽を録音再生する装置を使って、音楽を聴いた人の気分の変化を示す表を作成した。1915年には、工場用に企画した音楽セレクションを使い、それにより、どの有害な音が消せて、やる気を高めることができるかを測定しようとした。しかし、当時のスピーカーと伝達技術が未熟であったために、この測定は不可能だった。
さまざまな科学的実験により、音楽の機能的効果が次第に認められ、事業所や工場で音楽が利用するところが増加するになると、この目的のために音楽を制作し配給する会社が現れた。今日、音楽配給会社で世界最大規模をもつアメリカの「MUZAC(ミューザック)」社は1934年、ニューヨークで開業した。
音楽やニュースを有線で民間に流すというアイデアは、元米国陸軍准将ジョージ・オーウェン・スクェアが考案したものである。スクェアは、自らが以前に開発した、複数の通信が可能な「多重送信」の通信技術を音楽の配信に応用した。スクェアは、家庭と小売店に配信するために、この特許をノース・アメリカン社のニューヨーク事務所に売りこみ、1922年10月、ノース・アメリカン社は「ワイアド・ラジオ」という子会社を設立した。一方、1920年、スクェアが有線放送と群衆操作の関係を研究していたちょうど同じ頃、科学的管理法にいち早く注目していたピッツバーグのウェスティングハウス社は無線の民間ラジオを始めていた。また、1930年には、クリーブランドの電灯会社が、同市のレイクランド地区で、変電所から各家庭に音楽を送るサービスを実験的に開始した。各家庭は月々1ドル15セントで、ニュースとダンスの音楽を中心に流す3つのチャンネルを受信することができたため、家庭でのBGMを無線ラジオに独占されていった。そのため、ワイアド・ラジオ社は、品質の悪い電力線をやめ、電話線を借り、レストランやホテルのダイニングルームを中心にとした小規模事業へのサービスに特化していった。そして、ワイアド・ラジオ社は、1934年、「ミュージック」と「コダック」の語呂合わせである「ミューザック」という名称に社名を変更し、業務を開始した。以後、BGMの需要にともなって、ミューザック社は成功を収めていく。
BGMは普及するにつれて、音楽著作権の問題と対峙するようになった。ある曲がいつ、どこで、何回、どんな目的のために放送・演奏されたかを、きちんと把握するのは難しく、音楽を流したい企業や施設は、音楽家や作曲家の組合との法律がらみの争いごとを避けるためにミューザック社を利用した。こうした事態に、全米音楽家連盟の会長ジェイムズ・シーザー・ペトリロは、ミューザック社を相手に長く厳しい戦いを展開していくようになる。
1940年、ペトリロは、音楽家の生計を脅かすことを理由に、シカゴから「缶詰音楽」を一切締め出そうと裁判を起こす。しかし、連邦巡回上訴裁判所は、ラジオでのレコード演奏は著作権を侵害しないという裁決を下した。この裁決に対し不満をもったペトリロはレコーディングと放送によって音楽家が失業することを証明するために、楽団のリーダーを務めた経歴があり、放送業界にも詳しいベン・セルビンに依頼した。ところがセルビンは、1941年の米国音楽家連盟総会において、「機械化された音楽を締め出すことはもはや不可能であり、スタジオ・ミュージシャンはレコード会社から何百万ドルという金を支払われて十分補償を受けているため、連盟の団体行動は解決策にならない」という報告書を提出した。このセルビンの提案に、米国音楽家連盟に所属するミュージシャンは、支持を表明した。
米国音楽家連盟の内部での反対意見が大多数を占める中、ペトリロは、レコード会社がラジオやジュークボックスだけではなく、全てのBGMサービスに音楽を提供させないようにするために奮闘した。1942年8月1日、ペトリロはストライキを命じ、全てのミュージシャンをスタジオから締め出した。また、1946年ミューザック社が、シカゴのマーケットに参入し、リグリー球場とコミスキー球場にサウンドシステムを提携していたブーム社とフランチャイズ契約にこぎつけたときもペトリロは、有線放送を使用するホテルには、生オーケストラを出演させないように働きかけ、ミューザック社の拡大を阻止しようとした。
結局この問題は、タフト=ハートレー法(2) に、ペトリロと米国音楽家連盟が違反しているとして全米労働関係委員会に訴えを起こしたミューザック社が勝訴したことで終結したが、ペトリロは、10社で4か月間、ミューザック社のBGMの使用を中断させた。
さらに、BGMと対立する問題として、1950年代になると、プライバシー侵害の問題がBGM業界を悩ませはじめるようになる。有線放送は個人のプライバシーを侵害し、聞くものを洗脳しさえするという論争が起こったのである。
論争のきっかけは、ミューザック社が「トランジット・ラジオ」というプログラムを放送しようとしたことではじまる。このプログラムは、ワシントンのラジオ局(WWDC−FM)が地元向けに作った番組とアナウンスを、市内のバスと列車に流すというものだった。
1948年3月、ワシントン首都交通局は、はたして、音楽だけで、憲法修正第1条から第10条(3) に保証された保護を侵害するのかどうかを明らかにするために、一部の路面電車とバスに「乗車中の音楽」を流す実験を行なった。乗客がどの座席に座り、どこに立っていても、音が聞こえるようにスピーカーが設置され、音量は会話を妨げないように設定された。プログラムの構成は、90パーセントが音楽、10パーセントが公共放送とコマーシャルであった。実験終了後の調査では、92パーセントの乗客がプログラムの継続を希望した。しかし、首都交通局が、ワシントン・トランジット・ラジオ社と契約を交わし、20台を越える車両に設置されるようになると、抗議の声が噴出した。アメリカ連邦議会は首都交通局に特権を与えていたため、首都交通局が連邦政府の管轄下にある独占企業だとみなされて、住民にほかの交通手段が与えられていないと考えられたことが、事態をいっそう複雑にした。
音楽とアナウンスは憲法で保障されたプライバシーと言論の自由を侵害するという反対派の申し立てに、ワシントンDCの公共事業委員会が調査に乗り出した。委員会の公聴会は、1949年7月に始まった。1951年10月の合衆国最高裁判所の報告書によると、委員会の結論は、「旅客車両内での受信機と拡声器を用いたラジオ番組の放送は・・・・・憲法修正第一条(4) に保障された言論の自由を侵害するものではない。車内放送のプログラムは、乗客どうしの会話を実質上妨げるものではなく、内容的に問題のあるプロパガンダのためにプログラムが利用されたとする事実も存在しない」として、「憲法修正第5条(5) は、連邦政府の監督下にある公共交通の車両内の個々の乗客に、自宅と同等のプライバシーを保証するものではない」という原告団に不利な裁定を下した。
その後、反対派の乗客は合衆国地方裁判所の公聴会でも敗北し、1952年3月3日に、DC公共事業委員会対反対派の訴訟は、ワシントンDC合衆国上訴裁判所に持ち込まれた。結果は、コマーシャルやアナウンスの放送によって「しかるべき法的手続きなしに、反対派の乗客の自由が奪われる」からというのを理由に、委員会の裁定を一部くつがえした。
上訴裁判所が2回目の公聴会を拒否したため、首都交通局、トランジット・ラジオ社、公共事業委員会は、この訴訟を最高裁判所に持ち込んだ。これに対抗して反対派は、放送だけでなく音楽も禁止することを求める請願を起こした。けれども最高裁は、上訴裁の決定をくつがえし、音楽とマインドコントロールの関係も、放送を禁じる憲法上の理由も否定した。ハロルド・バーン判事は、憲法修正第1条、第5条が危機にさらされていることはいささかもなく、音楽の放送は「公共の利便、快適性、安全と矛盾するものではなく、むしろ乗車中の環境を改善するものである」と述べた。バートン判事は、反対派の議論に反論して、「この見解は、憲法修正第五条が、連邦政府の監督下にある公共交通の車両内の個々の乗客に、自宅と実質的に同様のプライバシーを保証すると仮定しているが、それは誤りである。自宅では完全なプライバシーを得られるとしても、公共の道路を通行する場合や、公共交通機関に乗車する場合は、他の人々の権利によってプライバシーは実質的に制限を受ける」と述べた。断固とした反対意見を述べたのは、「放っておいてもらえる権利こそ、全ての自由の始まりである」と異議を唱えたウィリアム・O・ダグラス判事だけであった。
以上述べてきたように、誰が聞いているのか、何人が聞いているのかを特定することができないBGMは、音楽著作権の問題と対立するようになった。また、BGMは、人びとの気持ちをリラックスさせるものとして受け入れられるようになった一方で、人びとを管理統制する道具としても指摘させるようになった。
BGMと著作権保護の問題を解決する最善の手段はあるのか。また、BGMは、そこに集まる人びとのためにあるのか、あるいは、人びとをコントロールしようとする人間のためにあるのか。第4章ではこれらのことについて考えてみたいと思う。
日本では、平成11年度の著作権法の改正で、BGM使用料の徴収が行なわれるようになった。改正以前の著作権法でも、演奏権は、著作権者に与えられており、公衆に対して直接生の演奏を行うことに加え、録音されたものを再生することや、電気通信設備を用いて演奏を伝達することも、著作者の排他的権利に含まれていた(6) 。しかし、再生演奏BGMとしての適法録音物の利用を直ちに演奏権の対象とし、これを禁止し、もしくは対価を要求することは社会的影響が大きいことから、著作権法付則第14条 (7)によって、「喫茶店その他客に飲食させる営業で、客に音楽を鑑賞させることを営業の内容とする旨を広告し、又は客に音楽を鑑賞させるための特別の設備を設けているもの」、「キャバレー、ナイトクラブ、ダンスホールその他フロアにおいて客にダンスをさせる営業」、「音楽を伴って行われる演劇・演芸・舞踊その他芸能を観客に見せる事業」の場合を除いて、市販のCD等の適法録音物を用いて行う再生演奏については、当分の間、演奏権は働かないことになっていた。つまり、店内の背景として流れる音楽BGMには、使用料は課されていなかった。
しかし、
有線放送を用いる場合は、改正以前から、著作権法第23条(8) によって、著作権者の権利が働くことになっていたが、再生演奏の方法でも、有線音楽放送を用いる方法でも、同じ効果をもたらすものであるにもかかわらず、有線音楽放送のみ使用料の徴収を行うことはバランスを失する、というJASRAC(日本音楽著作権協会の判断によりその権利行使は控えられていた。しかし、附則14条が廃止され、録音物の再生演奏の場合にも著作者の演奏権が及ぶようになったのを受けて、CD等の録音物の再生演奏、有線音楽放送ともにBGM使用料の徴収が行われることになった。
しかし実際は、JASRACと利用者の主張が未だ対立している状況にあることから、この付則第14条の廃止は、最善の手段であるとは言い難い。有線音楽放送事業者やBGM貸出事業者の協力のもと、これらの事業者と包括的契約を締結している場合は、使用料の徴収は、比較的容易である。しかし、演奏家を雇っているような小規模店舗の場合、徴収の仕方が複雑になる。例えば、要望に気軽に応じてくれるアマチュアの演奏家を雇い、お客から数百円の食事代をもらって経営している小規模の飲食店の場合、「演奏したのはオリジナルの曲か、コピーの曲か」、「いつ何回演奏したのか」ということは把握しきれない。こういった場合、さまざまな相手から著作権料を徴収しなければならないJASRACは、以下のように外計標準的に定めた徴収方法を採っている。ここで「必要以上の著作権を支払うのはおかしい」という利用者の主張と、先ほど述べたような理由から著作権を保護しようとするJASRACの主張が対立している。
区分 | 店舗等の面積 | 年額使用料 |
1 | 500uまで | 6,000円 |
2 | 1,000uまで | 10,000円 |
3 | 3,000uまで | 20,000円 |
4 | 6,000uまで | 30,000円 |
5 | 9,000uまで | 40,000円 |
6 | 9,000uを超える場合 | 50,000円 |
区分 | 宿泊定員 | 年額使用料 |
1 | 100人まで | 6,000円 |
2 | 200人まで | 10,000円 |
3 | 300人まで | 20,000円 |
4 | 400人まで | 30,000円 |
5 | 500人まで | 40,000円 |
6 | 500人を超える場合 | 50,000円 |
次に、BGMはそこに集まる人びとのためにあるのか、あるいは、人びとをコントロールしようとする人間のためにあるのか、ということを考えたいと思う。
現代の商業界における重要なマーケティング方策としてフィリップ・コトラーは、何か買い物をしたいが、どの商品にするかまだ具体的に決めていないお客に、店内で耳にした音楽がその意思決定の大きなポイントになり得るとしている。アメリカ経営管理協会人事研究部会が全米の52の販売店を対象に行なった調査では、76パーセントの経営者が「店内に音楽があるとお客はより多く買い物するようだ」と答えた。実際に買い物客506人にも店内の音楽について意見を求めた同じ調査では、63パーセントの買い物客が、音楽の流れている店に入ると「つい多く買い込んでしまう」と答えた。
このような学術的な調査によって、BGMを利用して意図的に人間の心理を操作することは可能であると証明されている。しかし、BGMを薬と見るか毒と見るかは、BGMを聞いたことで得られる個人の満足の度合いに委ねられるため、その判断は難しいといえる。
日本においてBGMが、環境改善や雰囲気づくり、あるいは労働の刺激剤として使われるようになったのは、1960年代以降といわれる。昭和5年(1930年)、店舗にパイプオルガンを設置した三越デパートや、昭和7年(1932年)に包装工場で音楽を利用した江崎グリコ、また同じ時期、作業場にレコードの音楽を流した山口県にある帝国人絹等の一部のパイオニア的な経営者の試みはあったのだが、日本では演奏・鑑賞以外の目的で音楽が用いられるということは少なかったようである。戦争中も、生産の場での音楽は、単なる慰安としての価値しか認められていなかった。戦後になり、しだいに環境が与える心理的影響が議論されるようになったのだが、この時も、先に取り入れられたのは、カラー・コンディショニング(色彩調整)だった。カラー・コンディショニングは、迷彩を施された戦後の生活環境の改善にかなりの効果を与えた。1950年代の日本国内の環境改善は、色に注目した視覚的なものであったといえる。音による環境改善が取り入れられるようになるのは、高度経済成長期の真っ只中である1960年代頃になる。さまざまな公害問題の出現にあわせて、騒音防止という消極的な利用だけではなく、人の心理をプラスの方向に働きかけるというような積極的な改善のためにもBGMが用いられるようになった。そして現代の生活空間は、あらゆる場面で、空調設備によって温度が調節されているように、音の面でもBGMによって微細に調整されているようになった。しかし、音楽は知的財産であること、また、音楽には人の潜在意識に働きかける大きな効果があるという点で空調設備とは大きく違っている。こうしたことから生じる著作権の問題やプライバシーの問題は現在にまで持ち越されている。