『アメリカ政府とジエム政権』

はじめに

第一章 ベトナム戦争とは

第一節  ベトナムという国

第二節  ベトナム戦争とは

第二章 ゴ・ジン・ジエムと側近

第一節 なぞの人物、ゴ・ジン・ジエムとは

第二節 ジエムの側近、ニューとニュー夫人

第三章 アメリカ政府とジエム政権

第一節 宗教と弾圧

第二節 援助の使い道

第三節 アメリカ政府の見切り

第四節 アメリカのあやまち

第四章 クーデター

第一節 クーデター

第二節 次々と代わる政権

おわりに

参考文献

参考サイト

はじめに

 アメリカ合衆国、はじめての敗戦となったベトナム戦争。15年間という長い泥沼化した戦争、そして敗戦という最悪の原因ともいってもいい、南ベトナム政府のジエム政権。この論文では、ベトナム戦争初期のアメリカ政府とジエム政権にスポットを当てて書きたいと思う。

第一章 ベトナム戦争とは

第一節 ベトナムという国

 ベトナムという国は、歴史的に侵略を受け続けてきた。ベトナムは近世以前から中国などに20回以上も侵略を受け、その度にいくつもの王朝が滅んできた。やがて19世紀に入り列強帝国主義がアジアにも目を向け、1884年には、フランスが現在のベトナム、ラオス、カンボジアを次々と植民地化をして「インドシナ」と名付けた。多くの植民地がそうであったように、フランスは、インドシナに自国文化の強制をし、農民から農地を奪い、フランス人がそれを管理運営する、ヨーロッパの農園方式を確立させた。農園ではゴムなどが栽培されたが、農民の扱いは過酷を極め、安い労働力による生産は多くのフランス人に莫大な富をもたらした。やがて、キリスト教が広まり、フランス語が公用語になると、ベトナム人の下級官吏やベトナム商人が富を蓄え、有産階級になると、彼らは、無産階級の同胞に対し、フランス人と同じように振る舞った。第一次世界大戦(1914〜1918)を経て、近代化の波を受けベトナムでも有産階級を中心に、一気に独立の気運が高まっていく。 1939年再び世界大戦が勃発し、ドイツ軍の侵攻によりフランス本土は降伏した。これを契機に極東では、日本軍が南方資源確保のために南進し、インドシナ北部を制圧し、1941年7月にはインドシナ全土を手中に収めた。これに対抗して、ベトナム独立同盟(ベトミン)が結成され以降独立運動の中核を成していくことになる

同年9月にホー・チ・ミンはベトナム民主共和国の独立を宣言。同時に大統領に就任した。しかしフランスは、これをよしとせず、ベトナムの再植民地化をはかるための作戦に乗り出した。1946年、ベトナム南部にコーシチナ共和国を樹立。両者間の溝は深まり、全面対決に発展する。これが今後7年間続くインドシナ戦争である。1954年フランス軍の要塞ディエンビエンフーが陥落するとジュネーブでの停戦協定が始まり、北緯17度線で南北ベトナムを分断することになる。これにより、北ベトナム(ベトナム民主共和国:首都ハノイ)と南ベトナム共和国(首都:サイゴン)という2つのベトナム国家が誕生することになった。言語は南・北ともにベトナム語。しかし70年に及んだフランス支配の影響で、都市ではフランス語も使われている。また南では1960年以降、英語が重用され始めていた。

第二節 ベトナム戦争とは

 ベトナム戦争とは、1960年代初頭から1975年4月30日までベトナムの地で繰り広げられた、南ベトナムと北ベトナムとの武力衝突をいう。

しかし、実態は北ベトナム軍を支援する当時のソ連と中国に対し南ベトナム軍を支援するアメリカと他同盟国との代理戦争といえる領土に関係なく政略的な意味あいの戦争だった。

 アメリカの介入はドミノ理論によりはじまる。ドミノ理論は、インドシナ戦争を中国共産主義革命がベトナムに波及したもの。ジュネーブ協定に従って、総選挙を実施すれば、ホー・チ・ミン側が勝利し、ベトナムは共産化する。そうなれば、東南アジア全域が、ドミノ倒しのようにつぎつぎと共産化、さらにアジアにおける米国のもっとも重要な拠点である日本も共産化するだろう。このような東アジアの共産化ドミノを防ぐために、米国はフランスに代わって、南ベトナムの反共産化防波堤にする戦略を実施しなければならないと考え、米国のベトナム介入がはじまった。このようにして、援助からはじまり、アメリカ軍投入、終わりない泥沼化した戦争となった。

 アメリカは、ケネディ、ジョンソン、ニクソンと3代の大統領が関与し、当時の金額で50兆円以上の巨費と年間50万人以上の兵員を送り込み、国の威信をかけて挑んだ戦争だった。結果はといえば、北ベトナム側の勝利に終わりアメリカ軍はベトナムの地から撤退を余儀なくさせられた。この戦争には、アメリカからの経済援助とひきかえに各国の国策のもと、韓国、タイ、オーストラリア、ニュージーランド及びフィリピンから兵士が送り込まれた。その後ケネディ大統領暗殺され、さまざまな憶測を今なを残している。

 この戦争の犠牲は大きく、撤退したアメリカ軍でさえ5万5千人の戦死者を出した。南北ベトナム人民に至っては200万近い人が犠牲になったといわれている。そして、ベトコン※1のゲリラ的作戦に業を煮やしたアメリカ軍が大量に空中散布された枯葉剤の後遺症(特にダイオキシンの影響)が、四半世紀近くたった今でも残っている。

参戦国/団体規模(最大時もしくは、総兵力)
アメリカ軍548,000人
韓国軍51,800人
タイ国軍11,870人
オーストラリア軍7,670人
フィリピン軍2,200人
ニュージーランド軍500人
台湾軍30人
南ベトナム政府軍500,000人
NLF ※1100,000人
NVA ※21,000,000人
中国軍事顧問54,000人
ソビエト軍事顧問3,800人
その他の軍隊、組織の人的損害
以下はベトナム国内での死者数。
死者数(約)
南ベトナム軍250,000人
南ベトナムの民間人不明(推定500,000人)
NLF/NVA900,000人
北ベトナム民間人60,000人
アメリカ人5,8000人
オーストラリア軍700人
ニュージーランド軍200人
タイ300人
フィリピン300人
アメリカ軍の人的損害
アメリカ軍の死傷率の中でも最も高いのが、アメリカ海兵隊の8.33%となっている。これは、相当高い数値で彼らが勇猛であったと同時に、常に激戦区で戦闘をしていたことの証明となっている。
総動員数死傷者総数戦死者数事故死者数負傷者総数平均死傷率
陸軍4,368,000人134,921人360,867人7,252人96,802人3.08%
海軍1,842,000人6,694人1,605人911人4,178人0.36%
海兵隊66,141人66,141人13,066人1,683人51,392人8.33%
空軍1,740,000人3,249人1,715人603人931人0.18%
総計8,744,000人211,005人47,253人10,449人153,303人2.41%

http://www.special-warfare.net/data_base/101_war_data/vietnam_war/vietnam01.htmlより

 この戦争の特徴の一つに、戦争の前線が存在しなかったことが上げられる。北緯17度線上に非武装地帯が設定されたが、戦闘は南ベトナム領内のあちこちで発生した。北ベトナム側は、ベトコンと呼ばれる“南ベトナム解放民族戦線(NLF)”を中心に南ベトナム領土内でゲリラ戦を展開した。NLFは敵を待ち伏せ、地の利を生かしたゲリラ的戦闘に徹底し、持ち前の国民性である忍耐力と敵国の武器を造り替える器用さ、そして小柄な体型を利用したクチの地下トンネル等の戦法を用い、全てにおいて最新鋭武器とはかけ離れた戦いを挑んだ。これは、NLF側の知恵であり、軍備を湯水の如く投入してくるアメリカの近代戦争と真っ向から戦ったのでは勝ち目がないことをよく知っていたためだ。

このように、いつどこからともなく仕掛けられる戦いに、前線のアメリカ兵は恐れおののき、戦力を喪失し、軍隊の士気の低下を招いた。

当時のアメリカ兵の言葉に「ベトコンは何処にも見えないが何処にでもいる」という言葉がある。

 日本は、派兵こそしなかったが沖縄、厚木等の基地がアメリカ軍の後方支援の重要な役割を果たすなど、アメリカ軍の強い味方として存在していた。

 日本は、派兵こそしなかったが沖縄、厚木等の基地がアメリカ軍の後方支援の重要な役割を果たすなど、アメリカ軍の強い味方として存在していた。

第二章 ゴ・ジン・ジエムと側近

第一節 なぞの人物、ゴ・ジン・ジエムとは

 バオダイ(1949年3月のエリゼ協定でフランス連合内の1国として国内行政権を認められたベトナム国の元首となった)によって首相に任命されたジエムは、彼を引き立ててくれたはずのバオダイの追放運動を展開。南ベトナムにおいての世襲の王朝を打倒し、共和制の実施を願う民族主義の幾つかの政党によって結成された「革命委員会」と称する団体によって、サイゴン市の至る所でビラがばらまかれていた。このグループは、ジエムを新政府の首脳に任命し、残存するフランス軍の完全撤退を要求し、世論を扇動していた。 ジエムは時代遅れの官僚で、カトリック教徒の家庭出身であり、このことはジエムに封建的で偏狭な性格であったことを示している。

 バオダイ(1949年3月のエリゼ協定でフランス連合内の1国として国内行政権を認められたベトナム国の元首となった)によって首相に任命されたジエムは、彼を引き立ててくれたはずのバオダイの追放運動を展開。南ベトナムにおいての世襲の王朝を打倒し、共和制の実施を願う民族主義の幾つかの政党によって結成された「革命委員会」と称する団体によって、サイゴン市の至る所でビラがばらまかれていた。このグループは、ジエムを新政府の首脳に任命し、残存するフランス軍の完全撤退を要求し、世論を扇動していた。 ジエムは時代遅れの官僚で、カトリック教徒の家庭出身であり、このことはジエムに封建的で偏狭な性格であったことを示している。

理由は、ジエムは1950年代の初め、アメリカ・ニュージャージー州のカトリック神学校に学んだことは、西洋の価値観を共有している証。しかし、マクナマラらが状況を次第によく知るにつれて違っていたことに気づく。ジエムと彼が取り巻く人たち、それにジエムが打ち立てた政治構造は、南ベトナム国民との結び付きを欠いていた。信頼のきずなを築けなかった。ジエムはうちとけない人物のうえ、まったく違った文化的背景の出だったため、マクナマラにとってナゾの人物であり、実際ところ彼と出会ったほとんどすべてのアメリカ人にとってそうだった。マクナマラはジエムを理解できず、ジエムは貴族的で疑い深く、秘密主義で国民から孤立していた。

第二節 ジエムの側近、ニューとニュー夫人

 ジエムには実弟のゴ・ジン・ニューがいた。ニューは秘密警察を私的軍隊として使い仏教寺院を襲わせ、僧侶を殴打し逮捕した。

 ジエムは女性といるのは居心地が悪いと言われ、一度も結婚もせず、性的関係をもったこともないと信じられていた。しかし、最も心を許した最近の一人は義妹のニュー夫人(本名=チャン・レ・スアン)だった。ニュー夫人は陰謀好きで非常な影響力を持つ実弟のゴ・ジン・ニューと結婚していたが、同時に事実上はジエム夫人の仕事をしていた。ニュー夫人はジエムをなぐさめ、緊張をほぐし、しばし議論し、ジエムがものの見方を形作るうえで明かに重要な役割を演じていた。

 ニュー夫人はジエムの威光を背景に贅沢きわまりない生活を満喫。国民が貧困にあえぐなかジエム一族は高価な外国製品を身につけ、浪費を続けた。夫人の買い物は美容整形のために軍の輸送機を使い、香港まで出かけるほどだった。

 ジエムを含め、彼らはすべてカトリック教徒であり、またアメリカ政府と太いコネクションを握っていた。このような事実が明らかになるにつれて、1963年の春からジエム政権の圧制と仏教徒迫害に反対するデモが南の国内を揺るがしはじめる。同年5月、これが、最高潮に達し、武器を持たない仏教徒の抗議手段のひとつとして僧侶の焼身自殺が相次ぐ。この事件に対し、ニュー夫人は以下の言葉を発言。「あれ(僧侶の焼身自殺)は、単なる坊主のバーベキューにすぎない」これは、世界的に報道され、サイゴン市民の憎悪を買った。

 こうしたジエムの限界に気付いたにもかかわらず、ジエムを代えなかった。宗教と政治的な対立によって大きく割れた南ベトナムを再建しようとして、困難な任務に立ち向かったこと、南ベトナムを支配化に置こうとする北ベトナムの決意に直面しながらそうした行動をとったと、マクナマラらはジエムの功績を正当に評価した。なろより、ジエムには多くの欠点があったが、ジエムに勝る人物が見つかる見込みは、ほんどなかった。

第三章 アメリカ政府とジエム政権

第一節 宗教と弾圧

南ベトナムの宗教は大きく分けて三つに分けられる。

カトリック(ローマ教会)

永くフランスの植民地であったことから、国民の10パーセントがカトリック教であった。そして、同時にこの国の権力と富のほとんどを握っていた。軍の将軍、政治家、高級官僚、上流階級のほとんどすべてがカトリック教徒であり、国民の大部分を占める仏教徒を明かに見下していた。

仏教

1950年代の終わりには、南ベトナム国民の85パーセントが仏教徒(大乗仏教)であった。しかし社会的地位は決して高いとはいえず、発言権も弱かった。1961年の総選挙後の組織は首相以下14人の官僚のうち、仏教とはわずかに2人。これさえも、カトリック教との人々が、反政府色を強める仏教徒の矛先をかわすために、嫌々ながら組み入れた。

新興宗教

19世紀に起こった宗教で、カオダイ教、ホアハオ教、仏教ビンスエン派などがこれに属する。1950年代の中ごろ、一部の宗徒が武器を手に政府と衝突、以後徹底的に弾圧される。それでも、中部を中心に人口5パーセントに当る教徒を有した。しかしその勢力は時代とともに弱体化しつつあった。

1961年に再選したジエムの治世は、仏教徒にとって最悪だった。少しでも、反政府運動の兆しが表れただけで、ジエムは軍隊、野戦警察を使ってこれを弾圧。「カンラオ」といったカトリック教会関係者がつくった組織さえも、農民、山岳民族の土地を奪い、地方では独自に税を取り立てていた。ジエムはあらゆる反政府運動を取り締まるために特別の法律を設け、いっさいの行動を封じ込めようとした。この法律にもかかわらず、すべての仏教徒たちは団結し、ジエム政府、反カトリック運動に立ち上がった。

こうした運動のなかで、サイゴン路上での高位の僧侶イック・クアン・ドクが焼身自殺を遂げた。彼の死の知らせは瞬く間に南ベトナム全土に知れ渡り、津波のごとく反政府、反ジエムの動きを強めた。ドクの後に、各地で焼身自殺が相次いだ。しかしこれにもかかわらず、ジエムの後を継ぐ形になったグエン・カオ・カキも仏教徒に対する弾圧と迫害の手をゆるめなかった。

 焼身自殺に対し、ニュー夫人は上記でも述べたように「僧侶の焼身自殺は、坊主のバーベキューにすぎない」と発言し、世界的に報道され、サイゴン市民の憎悪を買った。

 焼身自殺に対し、ニュー夫人は上記でも述べたように「僧侶の焼身自殺は、坊主のバーベキューにすぎない」と発言し、世界的に報道され、サイゴン市民の憎悪を買った。

北ベトナムは南ベトナムと違い、社会主義国のため表面的には宗教は存在しない。

第二節 援助の使い道

 南ベトナムの共産化を防ぐという名目で、アメリカから経済、軍事援助はその後増加し続けた。これによって南ベトナムの経済はかなり順調にすべりだしてはいたが、一方で官僚組織の腐敗が広がりはじめた。

 1955年から60年までの5年間に、アメリカの南ベトナムに対する経済援助は年平均2.0億ドル。これを同国の住民数(約1600万人)で割ると、当時の円ルートで1人あたり約1万5000円の金額。一家族4人と仮定すれば6万円であり、これは平均的なベトナム人の同じ時期の個人総所得の2倍。これだけの援助にもかかわらず、国の大部分を占める農村には電気も水道もなく、新生児の死亡率は3割を超えた。

 1955年から60年までの5年間に、アメリカの南ベトナムに対する経済援助は年平均2.0億ドル。これを同国の住民数(約1600万人)で割ると、当時の円ルートで1人あたり約1万5000円の金額。一家族4人と仮定すれば6万円であり、これは平均的なベトナム人の同じ時期の個人総所得の2倍。これだけの援助にもかかわらず、国の大部分を占める農村には電気も水道もなく、新生児の死亡率は3割を超えた。

この状況は、70年間続いたフランス支配時代と同様であり、同じ人種間の貧困の差が激しくなった分だけ民衆の憤りと不満は高まった。

第三節 アメリカ政府の見切り

 仏教徒と南ベトナム政府の間の抗争は、63年の8月21日、政府は突如弾圧に踏み切った。ジエムの承認を得たニューはこの日未明、精鋭部隊で寺院を襲わせ、数百人の僧侶を連行、投獄した。ジエムは近く交替して帰国するフレデリック・ノルティング米大使に仏教徒へのこれ以上の弾圧措置はとらないと直々に確約していたにもかかわらず、今度の行動をとった。

この襲撃はタイミングが悪く、ケネディ大統領、ラスク国務長官、マクナマラなどが同時にワシントンを空けていた。8月24日サイゴンでの武力行使の報道を受けたワシントンの当局者は、ジエム政権に対し行動(軍事クーデター)をとるチャンスが来たと考えた。ワシントン当局者は、サイゴンに以下の内容の電報を送っている。

「ジエムが頑固な態度を改めず、拒否するようなら、ジエム政権を保持しない可能性がある。逮捕、拘束されている僧侶たちを釈放する措置がただちにとられないかぎり、アメリカが南ベトナムへの軍事的、経済的援助をやめる可能性がある。釈放を実施するにはニュー夫妻を政権から追放する」、という内容。

ケネディは、「政府最高幹部たちが承認するなら、私も同意する」とし、残りの反対派の人間もケネディが承認したと聞くと同意した。

ワシントンでもジエムのクーデターを支持するかどうかの論議が始まり、南ベトナムでの政治的安定の重要性が水面下で続いた。

寺院襲撃について、ケネディは「ジエムとニューがどんなに気に食わない存在であるにしても、アメリカの希望する路線に沿って現実に多くのことをしてくれる」と、思うと述べる。このため、「メディアの圧力があっても、われわれはこの2人を排除すべきでないし、成功しそうにない、クーデターは試みる意味がない。さらに、アメリカがここまで深入りしているというだけの理由で、ことを進めるべきではない」としている。これに対し、ジョージ・ボール国務次官「アメリカは南ベトナムでの戦いに敗れており、クーデターが起きなければ撤収する」他の米政府関係者は「将軍たちをもはや止めることはできない」、という意見もあれば「将軍たちが政権を握っても、どんなふうに国を統治するか検討がつかない」、「バラバラになった南ベトナムをまとめられるのは、ジエムしかいない」、という意見もあった。

ケネディの信念は「これは彼らの戦争。勝つも負けるも彼ら次第。われわれに出来る事は彼らを助けることだけ。アメリカは撤退すべきだ、という人たちには同意できない。」というものだった。

 マクナマラは、「南ベトナムの対ベトコン闘争の効果を測り、成功の見通しの評価」そして 出来るだけ幅広い意見を聞くため、サイゴンを訪問した。

 ロンドン大学の東洋・アメリカ研究大学院のP.J.ハリーは「アメリカはジエムとなんとか一緒にやっていけるし、この方針を変えるのは危険。政権を自由化、することもジエムを替えることも不可能。クーデターや暗殺が起きても、事態が好転するのは五分五分。しかし、ジエムのままでは負ける」とした。

ローマ法王庁代表アスタ猊下は、「政府への反対派が根こそぎ排除されるのを知識人や学生たちは見守っている。ある人たちはベトコンに身を投じ、それより多くの人は中立化に傾いている」と述べた。

CIAのサイゴン支局長ジョン・リチャードは、「ジエムに代わるのに十分な道義的権威を持つ人物はいない。アメリカはジエムに対する圧力をかけ弾圧をやめさせ、ニューを追い出さねばならない。そうしなければ、クーデターになる」とした。

 こうした意見を聞き、マクナマラはジエムとの会見に望んだ。会見が始まって、2時間半はジエムの自分の政策と賢明さお戦争の進展ぶりをフランス語で独演。ジエムの独演後、マクナマラは「この戦争はベトナムの戦争であり、アメリカに出来る事は支援だけ。ある程度の軍事的みられるが、南ベトナムの政治不安に対するアメリカの懸念を持ち出し、これが、戦争遂行の努力とアメリカの支持を弱めている。」と発言。これに対し、ジエムは「自分の政府と家族に対する新聞の報道が、南ベトナムの現状についてアメリカの誤解の原因。一連の逮捕は“未熟で”、訓練ができておらず、“無責任”な学生が悪いと非難。自分は連中に“優しすぎた”とし、自分は仏教騒動にある種の責任がある。」、と反論。さらにマクナマラは「ニュー夫人の発言の中で、南ベトナム駐留のアメリカ軍の若手将校は“ちゃちな外人部隊のようにふるまっている”この種の発言はアメリカの世論を深く傷つけている。」、と続けた。これに対しジエムは、一瞬動揺したが、すぐにニュー夫人の弁護をした。

 サイゴンの訪問を終えたマクナマラは、以下のような報告を大統領へおこなっている。

軍事作戦は非常に前進していて、引き続き進行中。サイゴンには重大な政治的緊張があり、ジエムとニューは次第に不人気になっている。ジエムとニューにこれ以上抑圧的行動をとれば、現在の望ましい軍事的行動が変わるかもしれない。アメリカが加えている圧力が、ジエムとニューを穏健化の方向に動かすか分からない。ジエムに代わる政権を作っても、今よりよくなる見通しは五分五分。

報告の他には勧告としてアメリカ軍事顧問の1000人撤収なども盛り込んだ。

 ジエム政権に対する国民の不満は、とくにニュー顧問とその妻に対して集中。CIAと将軍たちのとの関係はきわめて密接であった。ロッジ大使がクーデターの実行計画にCIAが参加することを許可すると、CIAは彼らに、ジエム支持の将軍派の軍隊の装備や配置に付いて重要な情報を提供した。この陰謀にはロッジ大使自身も深く結びつきをもっていたので、クーデターが失敗した場合には、将軍たちの家族を引き受けると申し出たばかりでなく、そのためワシントンの承認もとりつけていた。

 ロッジ大使とハーキンズ大将は、主要問題についてはほとんどの点で衝突し、2人の論争はワシントン政府の最高レベルまで反響を巻き起こした。だが、米政府に決定的な影響力を及ぼしたのは、大使として絶大な自信と共和党の元副大統領候補であった権限をフルに行使したロッジだった。

 米国民の大半は、南ベトナムの“政治的崩壊”すなわち、独裁的なジエム政権に対する不平がはびこって、政治は腐敗し、軍部の内部でも、抑圧された不満が高まっていたことに気付かなかった。

南ベトナム軍の将校たちは、すでに60年1月と62年2月の2回にわたり、ジエム大統領の暗殺を企てていた。軍部に対して強い不信感を抱いたジエムは、忠実な将軍にサイゴン周辺の軍部を指揮させたほか、どの省にも信頼できる司令官を配置して彼の政権をおびやかす恐れのある者や、不満分子から、指揮権を取り上げていた。このような方法が南ベトナム軍の士気をむしばむ悪影響を与えていた。また、農民も都市の中産階級が横暴な政治支配に憤り、またその主張が政治に反映されないことに絶望して、政府を見捨てるようになったという報告もあった。

第四節 アメリカのあやまち

南ベトナムが真に中立国になること決してなく、中立ベトナムは北ベトナムに支配させることになり、そうなればアイゼンハワー(前大統領)が想像していたドミノ理論を事実上引き起こすだろうと、マクナマラらは考えた。しかし、中立という道を真剣に検討しなかったのは、アメリカのミスだった。というのも、中国の存在が脅威だった。

南ベトナムが真に中立国になること決してなく、中立ベトナムは北ベトナムに支配させることになり、そうなればアイゼンハワー(前大統領)が想像していたドミノ理論を事実上引き起こすだろうと、マクナマラらは考えた。しかし、中立という道を真剣に検討しなかったのは、アメリカのミスだった。というのも、中国の存在が脅威だった。

第四章 クーデター

第一節 クーデター

 63年10月になると事態は急に動き出した。後に大統領となる、ズオン・バン・ミン将軍は2つのクーデター案をもっていた。1つはジエムには手をふれないが、実力者として恐れられていたその弟2人、ニュー顧問と中部ベトナム総督ゴ・ジン・カンを暗殺するというもの。2つ目はサイゴンと政府機関とを支配するため政府派軍隊に決戦を望むものだった。10月2日、ケネディはクーデター積極的に推奨することは避けながらも「代わりの指導者となりうる人物」と秘密接触を保つことマクナマラ提案受入れる。南ベトナムの商品輸の入を支えてきた補助金の支払停止、サイゴン地区の水道と発電所建設用に提供した借款の凍結。さらにニューが支配していた特殊部隊に対する経済援助を、部隊の指導権がクーデター派の将軍たちが率いる統合参謀本部に移されない限り打ちきることとした。 ロッジは、11月1日のワシントンでの政府と協議のため、サイゴンを離れる前にジエムを表敬訪問した。そこで、ジエムはロッジにこんな電報を打ってもらいたい、と伝えた。 「どうかケネディ大統領にこうお伝え下さい。私は善良で率直な盟友である、と。私としては、われわれがすべて失ったあとで、あれこれ問題を話し合うよりも、いま率直に話し合って問題を解決したいと望んでいる、と。……ケネディ大統領にはまたこうもお伝え下さい。私としては大統領のすべの提案を非常に真剣に受け止め、実行に移したいと思っているが、タイミングに問題があります。と。」つまり、ジエムは「アメリカが何を望んでいるかをいってくれれば、われわれはそれを実行します」といった。

ロッジはこの件をワシントンの協議で話し合いたいとして、通常ルートとして打たれたこの電報は、国務省には11月1日の午前9時18分(ワシントン時間)に着いた。電報は、マクナマラらとケネディがサイゴンでの出来事について討議を再開していたホワイトハウスに9時37分に到着。この時クーデターは、始まっていた。

 翌11月2日午前9時30分、サイゴン情勢についての会議の最中に至急電報が入る。電報の内容は、「サイゴンのCIA支局からの連絡でジエムとニューの兄弟が、“市内から統合参謀部の司令室に向かう途中”自殺を遂げたむね、南ベトナムの情報当局から通告された」、というもの。しかし、これは事実ではなかった。

 事実は、午後1時半(ベトナム時間)、クーデター部隊は警察本部、放送局、空港その他の施設を占領し、大統領官邸と特殊部隊の兵舎に攻撃を始めた。大統領官邸以外では、すべての抵抗が3時間たらずで鎮圧され、将軍たちはラジオを通じて、ジエム兄弟に辞任を要求。ジエムは援軍到着までクーデターを長引かせようと、話し合いを提案したが将軍たちは拒否。それから間もなく、ジエムはロッジに電話をかけアメリカの態度をたずねた。ロッジは電話で「…もしあなたが辞任するならば、あなた方ご兄弟が無事に国外へ出られるようにすると提案。」ジエムは夜一晩中、将軍たちと電話で連絡をとり続けた。将軍たちは降伏を要求し、南ベトナムを立ち去れるようにするため、空港まで身の安全を保障すると提案した。ジエムも午前2時これに同意した。ジエムとニューは降伏する意思があることを表明したあと、サイゴンの下町の南側にある中国人街のチョロンにあるカトリック教会で待っていた。ズオン・バン・ミン将軍が、兄弟を連行するためにジープ2台と装甲車兵員輸送車1台をさしむけ、兄弟は兵員輸送車の中へ押し込まれ、両手を背中で縛られた。一行が統合参謀本部に着き、兵員輸送車のドアが明けられた時、ジエムとニューは死んでいた。二人は銃で撃たれており、ニューはさらに銃剣で数回刺されていた。

第二節 次々と代わる政権

クーデター後、ロッジはワシントンに電報を打ち、「政権交替は南ベトナムの士気の高揚したため、ベトコンとの戦いは早く終わる」、と報告した。また、「ジエムを擁して勝とう」と言ってきた専門家たちも、「今や今度のクーデターのおかけで戦争が大幅に短縮できた」と発言した。

しかし、それから3ヶ月もたないうちに、クーデター派の一人だったグエン・カーン将校が政権を奪い、政府部内の権力闘争に口火を切った。そのためワシントンはその後2年間にわたり、次々と交替する南ベトナム政府を支えようとして、ますます深く、ベトナム戦争の泥沼にはまり込んで行くこととなった。

おわりに

当時の歴史的背景を考えれば、ベトナムへのアメリカ政府の介入は仕方なかったとではないかと考える。社会主義、民主主義にしても正当な選挙で選ばれた者が国を統治するべきで、不当に選ばれた者では国民の支持は得られず、限界がある。宗教、政治、そして金は切っても切れない縁で、今も昔もかわらない。また、力は力を呼ぶだけである。

アメリカにしてみれば、ジエムしかいなかったのも事実であり、ベトナム国民、アメリカ政府、国民の怒りが限界だったのも事実。ジエム兄弟のクーデターが正しかったか、正しくなったかは今でも答えをだすのは難しい。

どちらにしても、ジエムがアメリカ政府に従うとの電報がもう少し早く届いていれば、同じ結果にはならなかっただろう。これだけ重要な電報が遅れたのは歴史的背景からみて、アメリカが意図的に遅らせたのは明確である。

参考文献