マリー・アントワネットが非難の的にされた理由

目次

はじめに

第1章 マリー・アントワネットの生涯

1−1 オーストリアからフランスへ

1−2 マリー・アントワネットの全盛期

1−3 首飾り事件

1−4 革命期

第2章 非難の特徴

2−1 非難のはじまり

2−2 非難の特徴

第3章 マリー・アントワネットが非難された理由

3−1 国民国家の特徴

3−2 女性として非難された理由

3−3 外国人として非難された理由

おわりに

参考文献

はじめに

18世紀末のフランスは、絶対王制の専制政治で農民は苦しめられ、商工業者も自由な活動をさまたげられ、不満が高まっていた。国王ルイ16世は、なしくずしに近代化をくわだてたが、特権階級の反対でうまくいかず、財政は危機におちいっていった。国王は増税による財政立て直しをはかるため三部会を召集したが、第三身分(市民など)の代表は、一部の貴族や僧と合同して国民議会をつくり、憲法の制定を要求した。国王がこれを武力でおさえると、パリの民衆はバスティーユ牢獄をおそい(1789年7月14日)、革命が始まった。

フランス革命では、民衆が強力に介入することによって身分が一掃され、自由・平等の革命理論とともに、国民国家の原理がうちだされた。しかし、法の上で平等な市民からなる国民国家の原理がうちだされても、さまざまな地域で多様な生き方をしてきた人々が、すぐに、同質の国民になれるはずがない。

このような社会情勢のなかで、フランス王妃、マリー・アントワネットは非難の的にされた。彼女の生涯と、国民国家をつくりだそうとしていた社会を見つめ、なぜ非難の標的となってしまったのかを、考えていきたい。

第1章 マリー・アントワネットの生涯

1−1 オーストリアからフランスへ

1755年、オーストリアの女帝、マリア・テレジアの15人目の子どもとして、マリー・アントワネットは生まれる。マリア・テレジアは、子どもたちを可愛がっていたが、女帝という重責を担う中で子どもたちの世話をすることはできず、子どもたちの教育は、すべて養育係にゆだねられていた。そのような環境の中で、マリー・アントワネットは、兄や姉たちと明るくのびのびと育っていく。

マリア・テレジアは、国家のためなら、子どもたちを利用することもいとわなかった。婚姻による同盟を、重要な外交手段としていた。

当時、フランスとオーストリアは、長い間険悪な関係にあった。フランス・オーストリア戦争、7年戦争等の泥沼の戦争、おまけに両国の間に、イギリスやプロセイン、ロシア等の利害が複雑に絡み合い、お互いを信用することが出来ない状況だった。しかし、フランスとオーストリアが争い続けることは、他の国を喜ばせ、両国を無駄に疲れさせるだけであった。そのことに気付いた両国は、今までのことを忘れて、フランス‐オーストリア同盟を結ぶ。この同盟は、両国に平和と繁栄をもたらすものであるはずだった。フランスよりも、オーストリアに有利だったこの同盟を、括弧たるものにするために、オーストリアは、婚姻による結び付きを考える。それが、マリー・アントワネットを、ルイ15世の孫である、未来のフランス国王ルイ16世のもとに嫁がせることであった。マリー・アントワネットがルイ16世の相手に選ばれたのは、資質を見こまれてのことではなく、年頃が合うという理由のためだけであった。

結婚の話が出てからしばらくは、ルイ15世はなかなか返事をしなかった。フランス国内では、オーストリアとの同盟が不評だったからである。王家の人間もまた、オーストリアから、未来のフランス王妃を向かえることに乗り気ではなかった。事態を配慮したマリア・テレジアは、フランス大使にマリー・アントワネットの長所を吹聴した。結婚の話が出てから、1769年の正式な婚約を迎えるまでに、6年もかかってしまった。

こうして、マリー・アントワネットは、オーストリアからフランスへ嫁いでいくことになった。ルイ16世は15歳、マリー・アントワネットは14歳の時のことである。

1−2 マリー・アントワネットの全盛期

マリー・アントワネットは、フランスに嫁いで落ち着いてくると、ヴェルサイユ宮殿を、不思議で、魅惑的な世界だと感じ始めるようになる。しかし、宮殿の中で、国王一家は、朝起きてから寝るまで、非常に厳格な礼儀作法に従って、1日を過ごさなくてはならなかった。オーストリアで、自由にのびのび育ったマリー・アントワネットにとっては、宮廷の礼儀作法は、意味がないと考え、窮屈で仕方がない生活を受け入れることができなかった。

そんな、マリー・アントワネットも、1773年に盛大な行列とともに、はじめてパリを公式訪問して以来、新しい生活を楽しみ始めるようになる。パリの民衆に、歓呼の声で迎えられた彼女は、一目でパリを気に入った。民衆の歓迎を見て、その場にいた公爵は、「ここには、妃殿下に恋する20万人の人々がおります。」と、マリー・アントワネットにささやいたという。この頃は、平和が訪れて、戦争が起こる気配もなかったため、民衆は、マリー・アントワネットを和平の象徴として、彼女が備えている優雅さ、持って生まれた気高さを、愛していた。

1774年、国王ルイ15世が崩御し、ルイ16世が誕生した。マリー・アントワネットは18歳で王妃の座につくことになった。この時、前国王の政治に失望していた民衆は、心から新国王と王妃に期待し、喜んだ。マリー・アントワネットに民衆が望んだことは、美徳にあふれ、あらゆる女性らしさを備え、立派な息子を生むことであった。民衆は、王妃に対して、社会が繁栄している時は、幸福のシンボル、国家が不幸の時は、母のように慈愛に満ちた存在であってほしいと考えていた。しかし、マリー・アントワネットは、王妃の立場・責任を全く理解していなかった。理解するには、彼女は若すぎ、無経験すぎた。

若くして王妃となったマリー・アントワネットは、自分のわがままがすべて通ることを知り、身勝手な行動をとるようになっていった。

マリー・アントワネットは、宮廷の古いしきたりを嫌い、自分流のやり方をどんどん取り入れていった。マリー・アントワネットは、年老いた人々を宮廷から追放していった。やがて、自分のお気に入りの人間だけを、周囲において楽しむようになっていった。お気に入りの中でも、ジュール・ド・ポリニャック伯爵夫人は有名である。ポリニャック伯爵夫人は、素晴らしい美貌と物憂げな気品で、マリー・アントワネットをすっかり魅了した。当時、上流社会では、同性愛的な意味ではなく、お気に入りの女友達をもつことが、貴婦人たちの間の高級な趣味として流行していた。マリー・アントワネットは、ポリニャック伯爵夫人と片時も離れてすごすことができなくなり、彼女をヴェルサイユ宮殿内の住居に住まわせるようになる。マリー・アントワネットは、彼女に行きすぎともいえる程の友情を示し、法外な特典や年金を与えて、莫大な国費を浪費した。

マリー・アントワネットは、もともと遊び好きであったため、毎日のように、劇場や舞踏会、賭博場で、大衆の中に紛れ、楽しさに夢中になり、朝になるまで、ヴェルサイユに戻らないということもしばしばであった。この乱交ともいえる行為は、ルイ16世と正式な夫婦関係を築けなかったことも原因であったと言われている。ルイ16世には、肉体的な欠陥(包茎)があり、いつまでも、本当の夫婦になることができなかった。マリー・アントワネットは、国王の子どもを身ごもることができず、そのことに対して、長い間屈辱を感じていた。夫婦のベッドは、王妃にとって、屈辱を耐え忍ぶ場所と化していたため、彼女はできるだけ夫と寝ることを避けようとした。夜になって、国王が眠ると、王妃は、陽気なとりまき連中とともにパリへ出かけ、オペラ座の舞踏会などで楽しいひとときをすごした後、明け方になってから宮殿にもどるという生活を続けた。ルイ16世が、手術を受け、夫婦の関係を結び、子どもを産んでからは、夜遊びはぴたっとなくなったと言われている。

マリー・アントワネットは、スウェーデンの貴族である、ハンス・アクセル・フォン・フェルゼンと、お互いに心惹かれる仲であった。2人は、1774年の仮面舞踏会で巡り会い、恋に落ちていく。この2人の関係は、マリー・アントワネットが死ぬまで続いていった。

マリー・アントワネットのこのような様々な軽率な行動に、人々は困惑し、敵意を抱く人間の数は、増えていった。やがて、マリー・アントワネットの悪評は国じゅうに広まっていった。こうして、貴族・民衆の信頼を少しずつ失っていき、1785年に起きた首飾り事件で地に落ちていった。

1−3 首飾り事件

この有名な事件は、マリー・アントワネットのイメージを決定的に傷つける役割をはたした。

まず、ロアン枢機卿という家柄は良いが、軽薄で遊び好きの高位聖職者がいた。彼は、宮廷の大臣職につくことを望んでいた。彼には、ラ・モット伯爵夫人という愛人がいた。彼女は、策略家で、ロアン枢機卿が、大臣職につきたいと思っていることを知ると、自分は、マリー・アントワネットと親友であると嘘をつき、マリー・アントワネットに、ロアン枢機卿の願いを伝えておくと約束する。

ロアン枢機卿が、この話を信じるように、ラ・モット伯爵夫人は、マリー・アントワネットに似た人を、王妃として仕立て上げ、ロアン枢機卿に会わせたり、王妃と文通ができると嘘をつき、手紙のやりとりをさせたりした。こうして、ラ・モット伯爵夫人は、ロアン枢機卿を信じさせ、巨額のお金を騙し取った。そして、ラ・モット伯爵夫人はもっと巨額のお金を得るチャンスをつかむ。それが、首飾り事件だ。

この頃、2人の宝石商が、豪華なダイヤモンドのネックレスを売るために、ヨーロッパ中を歩きまわっていた。日本円にすると、192億円もする。マリー・アントワネットのところにもやってきたが、高価すぎて諦めていた。宝石商も売れずに途方にくれている頃、ラ・モット伯爵夫人と会う。ラ・モット伯爵夫人は、ロアン枢機卿に、王妃がこのネックレスを欲しがっているから、保証人になってほしいと、契約書を見せながら言った。ロアン枢機卿は、信じきっているので、ネックレスを購入し、ラ・モット伯爵夫人に、ネックレスをマリー・アントワネットに渡すようお願いする。ネックレスは、マリー・アントワネットのところにいくわけもなく、解体され、様々な国で売られた。

宝石商は、なかなかお金が支払ってもらえないので、マリー・アントワネットに直接会いに行く。全く何も知らないマリー・アントワネットは、激怒し、侮辱罪として、ロアン枢機卿を逮捕させる。マリー・アントワネットは、大変傷つき、この事件はロアン枢機卿1人でやったことだと思い、公表裁判をお願いする。

裁判官は、事件に関わった者の証言を検証して、主犯がラ・モット伯爵夫人であるとたどりつく。ラ・モット伯爵夫人は有罪で終身刑になったが、ロアン枢機卿は、無罪であった。ロアン枢機卿が無罪であると知った時、人々は、「枢機卿万歳!」と叫んだという。このことは、マリー・アントワネットを大いに傷つけた。理由は、思いもかけぬ判決であったことと、人々が、ロアン枢機卿の味方であるということを知ったからである。人々は、マリー・アントワネットに罪があり、ロアン枢機卿は犠牲者だと信じていた。マリー・アントワネットの浪費癖は、すでに民衆にも広まり言われ続けてきたことであった。「あの女なら買いかねない。」と信じて疑わなかった。

民衆は、192億円のネックレスが、平気でとびかう宮廷にも、頭にきていた。自分たちは、一生懸命働いても、毎日パンを食べられるかどうかの生活をしているのに、自分たちの納めている税金で、高価なネックレスを平気で、買う話が出ていることは、民衆にとって腹立たしいことだった。

こうして、マリー・アントワネットは、信用を完全に失っていったのだ。

1−4 革命期

1787年以降、適切な助言者たちを次々と失ったルイ16世に対し、マリー・アントワネットは、政治面での助言を積極的に行ないはじめた。1789年に、バスティーユ牢獄が襲撃され、フランス革命がはじまると、マリー・アントワネットは、夫が代々受け継いできた王権を守り抜くために、みずからの身を捧げようと決意する。革命は、王政にとって非常に不利なものであった。王権を守り抜くためにマリー・アントワネットは、国王とともに表面では民衆の要求にこたえるふりをしながら、陰では、権力の奪回をめざした。

その一方で、フェルゼンの計画するヴァレンヌ逃亡も考えていた。国王夫妻が頼りにしていたミラボー伯爵が死去すると、気持ちは一気に亡命へと傾いていき、1791年6月20日に計画を実行した。しかし、翌日の夕方囚われの身になってしまう。

パリに帰ってきてからは、国王一家は囚人のように扱われた。戻ってきてからも、マリー・アントワネットは、地力を尽くしたが、1792年に王権は停止され、国王一家は、タンプル塔に投獄された。タンプル塔に幽閉された国王一家は政治犯とみなされるようになり、ルイ16世は、裁判にかけられ、1793年に処刑された。マリー・アントワネットはその後、「国庫を浪費した」件と、「外国に軍事秘密を漏らした」件と「息子と不適切な関係を結んだ」件で逮捕される。全ての件においてマリー・アントワネットは、自己弁明し、裁判所は、確実な証拠を得ることができなかったが、この裁判は、最初から有罪が決まっているもので、1793年10月16日に、処刑された。

第2章 非難の特徴

2−1 非難のはじまり

王妃に対する不満は最初宮廷内にだけとどまっていた。1774年ごろから、彼女のゴシップを、貴族に買収された人々が、文章に書くようになり、それらが民衆に広まっていった。やがて、王妃の性的肉体に興味津々の嘲笑をなげかける書き物が急増し続けた。

2−2 非難の特徴

旧体制度末の数十年間、革命の間自体においても、エロティックで、ポルノ的な文学の層が厚く、その主題は、マリー・アントワネットだった。マリー・アントワネットは、こうした書き物の中でも、特異な位置をしめている。ルイ16世の性的不能な事から、マリー・アントワネットの性的話の書き物が増えていった。自分の子どもとの近親相姦、お気に入りたちとの同性愛、沢山の男たちとの乱交、ポルノ的なパンフレットがとびかっていた。ポルノグラフティが急速に数を増やし、徐々に手厳しくなっていく中で、彼女は、風刺され、卑しめられた。そればかりか、裁判にかけられ、処刑されたのである。

1789年の革命の到来で、王妃を攻撃するパンフレットの数は急増していった。それらは、歌や寓話から、自称伝記作家ものや告白や演劇にいたるまで、多様なかたちをとった。ポルノ的ばかりで、政治的含みのほうは、はっきりしない書物もあった。

革命期の、マリー・アントワネットに対する、ポルノ的なパンフレットの特徴は、マリー・アントワネットに対する個人的嫌悪の色彩が強まっていることである。ポルノ的な脚色と、王妃の口から出る政治的な説教やおどしが交互に描かれている。王妃は、貴族の退化の代表として描かれた。1789年以前のパンフレットは、下卑た話をこっそり語った。1789年以後のパンフレットは、自覚的に、より広汎な読者によびかけはじめた。こうしたパンフレットは、民衆を引きつけるのに成功した。民衆は、曖昧な状況であるからこそ、証拠なくこうしたものを信じてしまう。民衆は、印字メディアを通じて宮廷の噂を「聞く」ばかりでなく、進行中の堕落を「見る」のである。

マリー・アントワネットは、パンフレットで、「悪い妻、悪い娘、悪い母、悪い王妃、あらゆる点で怪物」などと呼ばれるのが常であった。また、オーストリアのスパイとして、陰謀をたくらんでいるなど疑われ、もともと、フランス人は、反オーストリア感情が根強かったために、「オーストリア女」などとも呼ばれていた。やがて、獣になぞられる比喩に移行し、「危険な獣、狡猾な蜘蛛、フランス人の血を吸う吸血鬼」などと表されるようになった。

第3章 マリー・アントワネットが非難された理由

3−1 国民国家の特徴

マリー・アントワネットが非難されたことは、フランス革命期に生まれた国民国家と大きく関係している。国民国家とは何か。国民国家の特徴を、5点あげる。

(1) 明確な国境の存在。

国民国家は、国境線に区切られた、政治的・経済的・文化的空間である。

(2) 国家主権。

国民国家の政治的空間は、原則として国家主権の及ぶ範囲である。

(3) 国民概念の形成と国民統合のイデオロギーの支配(ナショナリズム)。

国民は、法的に規定される(憲法、民法、国籍法など)だけでなく、国民統合のための国家イデオロギー(愛国心、国民文化、歴史、神話、等など)によって形成されたイデオロギー的な存在である(国民化)。国民とは、解放のイデオロギー(自由・平等・友愛、人権、社会政策、福祉国家、等など)である。それと同時に、差別と抑圧のイデオロギー(能動市民と受動市民、外国人、非国民、文明化、等など)でもあった。

国民国家において、国民はすべて、登録管理されなければならず(戸籍など)、身体的・イデオロギー的再生産(学校や家族など)が、重要な課題となる。国家主権の概念が、現実の国家間の不平等を覆い隠しているように、国民主権や国民の概念が、現実の国民の間の多様性や不平等を覆い隠している。

(4) 政治的・経済的・文化的空間を支配する国家装置と諸制度。

諸装置や諸制度は、統合という観点から眺めると、大まかに分けて、経済統合、国家統合、国民統合、文化統合のための装置や制度に分類できる。しかし、政治的、経済的、文化的要素を明確に分類することはできない。また、諸装置や諸制度はそれぞれの内部において、あるいは、他の諸装置や諸制度との間に、対立や矛盾を含みながらも、全体としては統一された国家装置として作動している。

(5) 国際関係。

国民国家は、他の国民国家との連関のなかで、存在するのであって、孤立した単独の国民国家は考えられない。

世界資本主義の搾取−被搾取の関係のなかに位置づけられた諸国家は、国家間のシステムのなかで覇権を求め、あるいはより優位な位置を求めて競争し、征服や戦争を繰り返してきた。この意味で国民国家は、つねに潜在的な戦争状態にある国家である。

国家主権と国民主権、自由・平等・友愛、民族自決、等などの神話にもかかわらず、国民国家はつねに、支配と従属、搾取と被搾取、差別と被差別の構造化されたネットワークのなかに位置づけられ、その一環としての機能を果たしてきた。また、一国のなかでも同様に、搾取と被搾取の構造が存在している。

国民国家とは、近代的な国家すべてのことである。そのため、国民国家の定義は、さまざまな立場があるため、定義づけが難しい。上記の5つは、沢山ある国民国家の定義のなかで、共通していえることである。

非難された特徴と、国民国家の特徴をみて、マリー・アントワネットが非難された理由は、「公的領域で活動する女性」であったことと、「外国人」であったことが、主な理由であったと思われる。

3−2 女性として非難された理由

いままで、排除されていた女性が、革命期になりはじめて、少数だが政治的にみえてくる存在となった。女性も、街頭や革命クラブなどで、大いに活躍した。それだけでなく、革命は、政治に対する女性の影響力という観点に立つことによって、旧体制から新時代への変化をきわだたせもした

フランス革命は、ブルジョワを権力の座にすえた。もともと旧体制下でも排除されていた労働者、農民、女性といった社会のその他の要素にたいして、政治的な権能をわかちあたえようとはしなかった。革命は、貧困や非識字といった基準によって労働者や農民から公式の政治参加の機会を奪った。フランス革命のもたらした混沌は、既成秩序を構成していた身分制をはじめ、社会のあらゆる境界に混乱をもたらすが、その混乱のなかでもっとも恐れられたのが、性差の崩壊であり、新しい秩序は、性差の境界を一層強化することで、形成された。女性が性格面で男性と異なり、異なるがゆえに受けいれがたいなどとして、女性を政治から排除するイデオロギーを発展させた。

フランス革命における政治文化は、全女性を排除し、男性の一部に権能を集中させるという、男性性と女性性に関係したイメージを定着させることによって成り立っている。こうした女性性排除の観念は、公共の場での女性の活動を認めないとしてきたし、男性間にそうした観念は根強い。革命の政治文化は、英雄的な男性性のイメージをつうじて、男性の政治参加を正当化し、女性を排除貫徹するものだった。

フランス革命は、集団的迫害を助長する大きな危機の特徴を兼ね備えていた。性的差異を解消することは、集団的脅威だと感じていた。マリー・アントワネットが非難の的にされ続けたのは、いけにえである、スケープ・ゴートが必要だったからだ。マリー・アントワネットが近親相姦だと告発されたのも、差異解消という責めを負わされてのことだった。スケープ・ゴートを共同体の暴力にふさわしい犠牲者にするためには、その罪は、「差異解消をもたらす罪」でなくてはならなかった。近親相姦は、差異解消の顕著な例である。家庭において差異を定めた境界をおびやかすとともに、異族婚という全体的な体制や、家族と社会の間の境界をおびやかすものだからである。

マリー・アントワネットと、一般的な女性の地位に関する問題は密接に関係している。それは、マリー・アントワネットが公的領域で行動する女性のもっとも重要な例だからである。公と私が交わる重要な立場にあったため、マリー・アントワネットは18世紀における女性と公的領域の問題を、象徴する存在であった。それは、マリー・アントワネットが共和国にもたらされるかもしれない脅威を象徴していることでもあった。マリー・アントワネットは、共和主義的自由の女性の負の形とされたのだった。

共和主義的理想は、女性を家庭生活という領域にとじこめ、女性が公的領域に出てくることを激しく拒んだ。マリー・アントワネットのように、公的領域で活動した女性たちを攻撃することで、共和主義者の男たちは、彼らの相互の絆を強化したのである。

3−3 外国人として非難された理由

フランス革命では、どのような憲法を作るかということが最大の問題であった。その憲法のなかで、もっとも重要なのは、「市民」をいかに規定するかということであった。フランス革命は、新しい権利義務をもつ近代的な「市民」を生みだした。しかし、「市民」概念の誕生は、同時に、「市民」にふさわしくない国民(犯罪者、女性、子ども、禁治産者、狂人、等など)の「非市民」と、「外国人」という概念の誕生でもあった。「市民」の誕生は、その資格を有するものの解放であると同時に、その資格をもたないものの排除と抑圧につながった。

1789年の「人権宣言」は正確には、「人間と市民に関する宣言」である。人間は、普遍的でインターナショナルな概念があるのに対して、市民は限定的でナショナルな概念であるとしている。この「人間」は、フランス語で「男」を意味し、女性は市民のなかに含まれなかった。

革命の初期は、インターナショナルな傾向が強く、多くの外国人が革命に参加し、議員としても選出された。ところが、革命が危機的な状況をむかえて、いっそう急進的になると、外国人を排除しようとする傾向が強くなり、選出された外国人議員も、反革命やスパイ容疑で追放されたり、処刑されたりした。

マリー・アントワネットは、オーストリア人「外国人」であった。そのため、排除される対象として、非難を浴びせられたのである。

おわりに

フランス革命は、市民革命といわれているが、「男の革命」であった。女性が公的領域で活動することを、激しく拒んだためである。国民国家をつくるために、「外国人」も差別された。王妃として、公的領域で行動し、「外国人」であったマリー・アントワネットは、非難の的にするにはもってこいの人物であったのだろう。

マリー・アントワネットは、「いけにえ」であった。性的差異の解消の防止と、国民国家をつくるためのいけにえであった。マリー・アントワネットが処刑されてから、女性の結社の禁止、外国人の排除がはじまっている。マリー・アントワネットはみせしめとされたのだ。「女性」と「外国人」であるということで差別し、仲間はずれをつくり、自分たちは仲間意識を強めていったのだ。

参考文献

・「フランス革命事典2」人物T 

フランソワ・フュレ/モナ・オズーフ著 河野健二他監訳 みずほ書房 1998年

・「王妃マリー・アントワネット」

エヴリーヌ・ルヴェ著 塚本哲也監修 創元社 2001年

・「フランス革命と家族ロマンス」

リン・ハント著 西川長夫・平野千果子・天野知恵子訳 平凡社 1999年

・「フランス革命と身体」性差・階級・政治文化

ドリンダ・ウートラム著 高木勇夫訳 平凡社 1993年

・「フランスの解体?」もうひとつの国民国家論

西川長夫著 人文書院 1999年

・「国民国家論の射程」あるいは<国民>という怪物について

西川長夫著 柏書房 1998年

・「ヨーロッパ統合と文化・民族問題」ポスト国民国家時代の可能性を問う

西川長夫・宮島喬編 人文書院 1995年