スパルタクス奴隷戦争



法学部 政治学科 3年

清水里紗


目次

はじめに

第1章 剣闘士奴隷とは何か

1−1 ローマ人が愛好した見世物

1−2 剣闘士試合と侵略戦争の関係

1−3 剣闘士の悲惨な生活

1−4 剣闘士の試合とローマ社会

第2章 奴隷制社会の構造

2−1 侵略戦争と巨大の蓄積       

2−2 ローマの属州支配         

2−3 奴隷の流入による社会の変化

2−4 侵略戦争後の奴隷制の変容

2−5 奴隷蜂起と反ローマ同盟への動き

第3章 スパルタクスの蜂起

3−1 スパルタクスという人物      

3−2 剣闘士奴隷の逃亡        

3−3 奴隷軍の急速な拡大

3−4 奴隷軍内部の矛盾

3−5 逸脱行為とスパルタクスの規制

3−6 女奴隷の登場

3−7 奴隷軍の整備強化と海賊の接触

3−8 奴隷たちが目指したもの

3−9 スパルタクスの最後

第4章 スパルタクス蜂起はなぜ敗北したのか

4−1 反ローマの違い     

4−2 ローマの支配者との力量の差         

4−3 イタリア住民との関係

4−4 装備不足、食料不足

4−5 その他

第5章 スパルタクスのその後

おわりに

注釈

参考文献・参考ホームページ


はじめに

古代ローマというと、多くの人々は、カエサルやパクス・ロマーナ時代に生きた人物 の華々しい活躍や、ローマにある凱旋門やコロッセウムなどの巨大な古代の建造物を思 い浮かべるだろう。その時代に、しばしば奴隷蜂起が起こったこと、紀元前74年にス パルタクスを指導者とする蜂起が起こったことなどについては、あまり知られていない だろう。

本文では、スパルタクス蜂起がどのように起きて、どのような経過をたどって、ロー マ軍に抑えられていったかについて簡略的に説明し、蜂起が起こるまでのローマ社会の構造や、なぜその蜂起は敗北したか、現代に何を残しているか、併せて述べたい。 スパルタクスは、蜂起を起こすまで、剣闘士奴隷として惨めな生活を送っていた。まず 剣闘士奴隷とは何かについて述べていきたい。


第1章 剣闘士奴隷とは何か

1−1 ローマ人が愛好した見世物

ローマにあるコロッセウムとは、高さ48.5メートル、周囲527メートルの楕円形、4階 建ての建物であり、五万人の観客を収容する能力がある。この建築物の中央に、闘技場があり、その周囲に観客席が設けられた。

紀元80年、コロッセウムの落成式が行われた時、時の皇帝ティトウスは百日間に渡って 各種の競技を行った。剣闘士奴隷同士の血生臭い競技に、人間と猛獣との格闘、この競技場を水で満たして模擬海戦なども行われた。

共和政期には、コロッセウムのような巨大な闘技場はまだ造られてはいなかった。しかし、剣闘士奴隷の試合の見世物は各地で盛んに行われていた。現在残っている闘技場の中で、最も古い闘技場は、ポンペイで発掘されたもので、それは2万人の観客の収容能力をもっていた。このポンペイの競技場は、紀元前80年頃に造られたといわれている。

1−2 剣闘士試合と侵略戦争の関係

 紀元前264年から紀元前105年までの間に、剣闘士奴隷の試合は、多数のローマ人に愛好され、ローマ市民のあいだに広がっていった。この150年間は、イタリア半島を統一したばかりの都市共同体であったローマが、地中海地域を征服して、大帝国を作り上げた時期であった。紀元前264年に始まった第1次ローマ−カルタゴ戦争(ポエニ戦争)で、カルタゴに勝利して、初めてイタリア半島以外に植民地を獲得してからのちは、ローマにとっては、侵略戦争につぐ侵略戦争の時代であった。

そして、この侵略戦争の時代に、剣闘士奴隷の試合が、ローマ市民に愛好され、普及していったのは、偶然ではなかった。いうまでもなく、この侵略戦争はローマ軍によって行われたのであり、ローマ軍の主力を構成したのは、ローマ市民であった。フランスの思想家であるモンテスキューは、戦闘の始めに、敵におされて味方に負傷者が多く出ても、ローマ軍が動揺しなかった一つの理由として、「彼らは剣闘士奴隷の見世物で、流血や負傷を見慣れていた」ことをあげている。ローマの政治思想家のキケロが、「多くの人々にとって残酷で非人間的にみえる見世物が、役に立ち、効用ありと信ぜられていた」と言ったのはそのためであった。

つまり、当時のローマの支配者も、剣闘士奴隷の見世物が「残酷」であるとは認めつつも、ローマ軍の強さを保持し、軍事訓練を推進するためには、ローマ市民が平常から剣闘士奴隷の試合を観て、流血に慣れておくような男性的訓練をする必要があると考えていたのである。ローマ市民にとっては、ローマ軍の構成員として侵略戦争に参加し、そこで奮闘することと、娯楽として、剣闘士奴隷の試合に熱中することとは、深く結びついていた。

1−3 剣闘士の悲惨な生活

剣闘士の試合が行われる闘技場から少し離れたところに、ポンペイの剣闘士養成所があった。そこの広場で行われる剣闘士奴隷の訓練は、激しいものであった。彼らは、専門の剣技師範のもとで、最高の技術を習得するために、激しい練習を強いられた。練習時に使う剣は木製のものであり、彼らは、本当の武器を闘技場で初めて手にすることが出来た。激しい訓練や、劣悪な住居、最後には命が保障されない見世物としての試合、しかも、生き残ろうとすれば、仲間の剣闘士奴隷を殺さねばならないことは、剣闘士たちにとっては耐え難い苦痛であったため、自殺者が出てきた。

剣闘士養成所は、ラニスタと呼ばれる経営者によって経営されていた。ラニスタたちは ローマの支配者たちにとっては軽蔑すべき存在であった。つまり、その下にいる剣闘士奴隷は、最も賤しい存在であった。剣闘士奴隷は、娼婦の位置よりもさらに悪く、剣闘士奴隷であることは、ローマの支配者からみれば、人間的没落の最後の段階であった。彼らは、奴隷の中でも、最も凶悪な奴隷であり、最も犯罪的な奴隷であり、奴隷でありながら、奴隷の世界に住めない最も賤しいものとみなされ、その最下位に位置づけられていた。そして、剣闘士として戦うことは、斬首刑や十字架刑などと並ぶ極刑の一種となっていた

1−4 剣闘士の試合とローマ社会

ローマの政治家たちは、市民の人気を獲得するためには、剣闘士の試合を無料で提供せねばならず、そのために莫大な散財をした。

なぜ、ローマの政治家が、このように莫大な金を使っても、無料で民衆に、こうした見世物を提供したがったのだろうか。それは、こうした形で民衆の人気を獲得して、高級な政務官(執政官、法務官など)に当選するためだった。つまり、見世物の提供は、選挙人の票をかう贈賄の一形態だったのである。

 選挙戦を勝ち抜いて、高級の官職に就任することは、単に個人の名誉のためだけではなかった。執政官、法務官になると、戦争時に、インペリウムと呼ばれる命令権を与えられて、将軍としての資格ができ、そして将軍として戦場に臨んだ場合、戦争の掠奪品を自分のものにして一儲けすることが可能となり、その任期終了後、属州長官として属州を割り当てられ、そこで原住民を搾取して、大きな利権を獲得できたのだった

剣闘士奴隷の試合の提供には他の側面もあった。それは、ローマという都市共同体が一方では、元老院身分などの富裕者・実力者、他方では、貧しい民衆という形に分解していくなかで、その富裕者・実力者たるローマの政治家が、民衆の人気を獲得するための手段であると同時に、こうした見世物で彼らの精力を発散させ、楽しませ、彼らをこうしたローマの政治家の思い通りにするための方法でもあった。だから、その政治家が、より高級な官職に昇進するために、剣闘士の試合を提供しただけではなく、そうした地位を実質的に持続的に確保するためにも、引き続き提供し続けなければならなかった。


第2章 奴隷制社会の構造 

2−1 侵略戦争と巨大の蓄積

第1次ローマ−カルタゴ戦争が開始された紀元前264年からの約200年にわたるローマの歴史は、戦争と領土拡大の歴史であった。  ローマ軍の侵略に際して、諸民族・諸種族の抵抗がなかったわけではない。カルタゴが滅ぼされた第3次ローマ−カルタゴ戦争に際しては、ローマに弩砲3000、鎧20万などすべての武器を取り上げられた後、無条件降伏を強いられたカルタゴは、このローマの強硬措置に激昂して、最後の抗戦に立ち上がった。しかし、このようにして籠城したカルタゴ人の3年にもわたる必死の抵抗も空しくカルタゴは陥落した。5万5000人もの男女がローマ軍の捕虜となった。

また、小アジアのペルガモン王国においても、紀元前133年にローマの侵攻に対するペルガモン人民の根強い抵抗が展開された。しかし、ローマ軍によって、諸種族・諸民族はその抵抗も空しく屈服させられてしまったのである。

 ローマによる侵略戦争は必ず掠奪・破壊を伴い、それは習慣化していた。ローマ軍には必ず財務官が従軍していた。ローマ軍の最高司令官は、命令権を持った将軍であった。命令権の保持者は、執政官・執政官代理、時によっては法務官であった。この将軍を補佐するために何名かの副将がおり、財務官も、財務のこと、その他の問題で将軍を助けた。また、軍隊には、従軍商人も連行した。彼らは、食糧品の調達なども行ったが、戦闘の時の掠奪品は、まとめて財務官を通して従軍商人に売却され、現金にかえられた。そして、この現金の一部が、将校を通して兵士に分配されたのであった。こうした現金は、戦争中に兵士に分配されることもあり、戦争終了後、凱旋式のときに分配されることもあった。

戦争の際の掠奪で、従軍した兵士は、こうした形の利得があり、これは公的なものとして、一種のボーナスと考えられた。しかし、戦争によって最大の利得をえたのは、命令権を持った将軍であった。もともと、掠奪品で最も良い物は、個人の手に帰すべきものではなく、凱旋式の行列に運ばれて市民にみせられたのち、ローマの国庫に納められるべきであったが、将軍には、自己の責任で公的な目的の為に、その物を自由に処分する権限があった。彼らは、掠奪品でえた現金で、神殿や、公共の建物を作った。  このように、戦争によって一儲けすることは、ローマの将軍にとっては容易なことだったのである。

2−2 ローマの属州支配

侵略戦争によってローマ支配下にはいった諸地域は、ローマによって属州とされた。これまでの征服の侵攻過程のなかで、シチリア、サルディニア=コルシカ、イスパニア・ウルテリオル、イスパニア・キテリオル、アフリカ、マケドニア、アジア、ガリア・トランスアルピナ、キリキア、ガリア・キスアルピナなどの属州が続々と設定されたのである。

属州になったからといって、原住民の土地がすべて取り上げられるということではなかった。ローマの侵略戦争に際して、その地域の住民が、ローマ側に協力したか、ローマ軍に徹底的に抵抗したかによって、征服後のローマ側の処置は違った。属州シチリアのメッサナ、タウロメニウムなどの都市は、ローマに協力したために、同盟都市として課税を逃れた。シラクサ、リリュバエリウムなどは、その土地をローマに没収されて、ローマの公有地となった。その原住民は、ローマから土地を借りて使用料を払わねばならなかった。しかし、ローマの支配下に入った大部分のシチリアの都市は、穀物の生産高に10分の1税をかけられていたのである。

10分の1税は、シチリアをはじめ、東部の属州に課せられていた。しかし、西部の属州には、人頭税がかけられていたのである。こうした課税の方法は、ローマ支配以前から存在した税制を継承したものが多かった。ところが、ローマはこのような課税を徴収するための官僚組織を持っておらず、プブリカーニという徴税請負人に委ねていた。つまり、彼らは、ローマ国家と徴税についての契約を交わし、この地方の原住民から税を徴収し、国家には、契約した額を納めたのである。

徴税請負人になったのは、騎士階級のローマ市民であった。(注1)彼らは、徴税請負人として属州に活躍の場を見出した。彼らは、ローマ国家と契約する際、予想される税額を見積もり、徴税の為の所要経費と適当な利潤を加算したが、実際の原住民からの徴税に当たっては、税という大義名分のもと、住民から多額の金を搾取し、ローマ国家には予想税額だけを納めて、残りを自分のものにした。彼らはこうして儲けた金を納税出来ない人々に貸し付ける高利貸業をも営んだ。もし、金を貸し付けて利息を支払うことが出来ない場合は住民の土地・財産を差し押さえるなどして、属州民の搾取と収奪のうえに、その財産を蓄え経済的実力を伸ばしていったのである。

属州の原住民は、ローマ支配の前には、全く無力であった。課税だけではなく、どんな無法にも耐えなければならなかった。

属州アジアでは、以前からローマの重圧に苦しんでいたが、第1次ミトリダテス戦争後紀元前85年、ミトリダテスに加担した諸都市の住民は、独裁官スルラによって課せられた2万タラントン(144億円)の賠償金の支払いに四苦八苦していた。ここでは、カエサル暗殺後の紀元前42年に、共和派のブルートゥスが原住民にアントニウスとの内戦準備のために10年分の税の前払いを強制し、ブルートゥスを破って次の年に長官として赴任したアントニウスは、西アジアへの侵略戦争を準備するため、さらに9年分の税の前払いを要求したのであった。いわば、属州アジアの原住民は、ローマの戦争準備の犠牲者となって2年間に19年分の税を払わねばならぬという苦しみを味わわねばならなかった

こうした賠償金や、重税を支払うためには、どうしても借金をせねばならなかった。こうした原住民に金を貸したのは、徴税請負人であった。

ポントス王ミトリダテスがローマに反抗して属州アジアを占領した時、多くの原住民がミトリダテスを支持したのは理由があった。ミトリダテスが債務に苦しむ住民を救い、債務や税の免除を行ったからである。紀元前88年に、ローマ人やイタリア人の徴税請負人が小アジアで虐殺されるという事件が起こった。これは、原住民の徴税請負人に対する激しい憎しみと恨みが爆発したためと言うべきであろう。

このようにして、侵略戦争による掠奪、その後の属州支配のなかでの原住民に対する残酷な搾取によって将軍・属州長官などの官職に就くことが出来たローマの有力者、徴税請負人であるローマの騎士は、あくどい儲けを獲得することが出来た。

2−3 奴隷の流入による社会の変化

ローマによる侵略戦争は、属州を獲得して、そこの住民を搾取することだけにとどまるものではなかった。侵略戦争によって、ローマは多数の戦争捕虜や被征服民族を奴隷として、ローマ社会に投入した。

大量の戦争捕虜の奴隷化と並行して、海賊や徴税請負人による人さらいや債務による奴隷供給も行われた。海賊は、元々、ローマの属州支配の中で、ローマの搾取のためにおちぶれた原住民が、これに投じたものであり、この当時は、キリキアやクレタなどがその拠点であった。彼らは、その生業の一つとして、地中海域の各地の住民を捕らえて奴隷商人に売った。この頃の奴隷貿易の中心地はデロス島で、ここでは、1日に1万人以上の奴隷が取引されたと言われている。

ローマの徴税請負人は、属州の原住民の負債を追求して奴隷化することもあったが、同時に盗賊から住民を奴隷として購入し、それをローマの奴隷市場に周旋して投入することも行った。このようにして、ローマの帝国化の時期に、大量の奴隷がローマ社会にもたらされた。これらの奴隷は、ローマ人からではなく、被支配民族や地中海周辺の諸種族からなっていた。

このような大量の奴隷の流入は、ローマ社会に大きな変動をもたらした。ローマは、ローマ−カルタゴ戦争が始まる前には、既にイタリア半島の大部分を統一していたが、それはイタリア半島にある諸都市国家を滅亡させたのではなく、それらの都市と同盟条約を結び、自治を認めつつも、被征服都市の領地の3分の1以上をローマの公有地にするという形をとって進められたのであった。(注2)

ローマ軍がイタリア人の都市国家を次々と服属させていく過程で、大土地所有(ラティフンディウム)が発生しつつあった。ローマ人がイタリア人を次々と征服していったとき征服地の一部をその手に収めて都市を建設したり、または、既存の都市に植民者を送った。しかし、獲得した土地の大部分は戦争によって荒廃しており、植民者に分配するのには適当ではなかったので、一定の税を払うものに賃貸した。牧畜者からは家畜頭数に応じて税を取ることとした。さらに、隣接する貧しい人々の土地を、様々な手段を使い、取り上げて大地主となっていった。彼らは、こうした土地に軍務に呼び出される恐れがある自由人を使わず、奴隷を使用して農耕・牧畜を行わせた。ある人々は、非常に多くの富を獲得したことに反して、イタリア原住民は貧困や税や軍部の負担のために疲幣した。このことから、大土地所有と奴隷労働に結びつきがあることが分かる。そして、このような結びつきは、侵略戦争にともなう大量の奴隷の流入がより促進する原因となった。

ローマ−カルタゴ戦争、それに続く侵略戦争は、ローマの中産農民の没落を促進した。その理由は、ローマの中小農の男子は、17歳から46歳まで兵役の義務があり、ローマ軍の中核となって、長期にわたって、その生業から切り離され、農業に従事することはできなくなったからである。侵略戦争の過程で、彼らはローマ軍の兵士として各地で掠奪し、長期にわたる従軍の後、ボーナスを貰って帰郷した場合、そこにあるのは荒廃した農地と負債であった。そのため、働く意欲を失って土地を放棄することもあったであろうし、借金の抵当として土地を手放さねばならないこともあったであろう。

没落した農民のうち、どうしても生活ができない多数の農民は、ローマ市に流れこんでたいていは無産市民(プロレタリー)となった。彼らは、きまった仕事を見つけようともせず、その生活は公共の費用でまかなわれた。

中小農民の没落とその土地の放棄は、大土地所有の発展を促進し、大土地所有が奴隷制と結びついていたことは、すでに指摘した通りである。相次ぐ侵略戦争とローマの帝国化による戦争捕虜・被征服民の奴隷としての大量の流入は、大土地所有的奴隷制経営を著しく発展させ、中小農民の没落に更に拍車をかけることとなった。(注3)

ローマという都市共同体内部における中小農民の没落を防止する問題とイタリア半島の他の都市共同体の征服の問題とは密接に関連していた。つまり、ローマはイタリア半島統一の過程においては、植民などによって、中小農民の没落を防止することができたが、この征服の過程で公有地を元老院議員などの貴族・騎士が占有して大土地所有が発生し、それが奴隷制と結合したことが、ローマ市民たる中小農民の没落の発端となったのである。

そして、このローマの中小農民の没落は、戦争とローマの帝国化、それにともなう奴隷の大量流入、奴隷制と結びついた大土地所有のよりいっそうの発展によって、決定的となったのである。

2−4 侵略戦争後の奴隷制の変容

大土地所有と結びついた奴隷制は、明らかに、ローマの侵略戦争と帝国化以前のものとは違うものとなっていた。奴隷は、「ものいう道具」として扱われ、主人の財産の一形態として家畜と同一視された。彼らは、起きている間は間断なく酷使され、しかもその生産物はすべて主人のものとされた。奴隷たちが「今あっている以上の不幸に遭うことはない」と考えるほどであった。

2−5 奴隷蜂起と反ローマ同盟への動き

 第3次ローマ−カルタゴ戦争が終わって、カルタゴが滅亡後、ローマ支配に対する原住民の強い抵抗があった。紀元前143年のヌマンティアでの反ローマ闘争から始まり、紀元前139年の第1次シチリア奴隷蜂起、紀元前133年のペルガモンでのアリストニコスの蜂起、紀元前100年の第2次シチリア奴隷蜂起と続いた。

ローマの征服戦争の過程で、反ローマ闘争を、従来から最も頑強に行ってきたのは、イスパニアとアジアの原住民であった。イスパニアでは、原住民が反スルラ派のローマの将軍セルトリウスを指導者として反ローマ闘争を始めた。属州アジアでは、第1次ミトリダテス戦争の結果、アジア地域の原住民はローマから課せられた賠償金のために、塗炭の苦しみをなめ、反ローマの意識を強めつつあったし、また、こうした結果、債務のために没落させられた下層民は、続々と海賊に身を投じつつあった。彼らは、その根拠地をキリキアにつくり、1千隻もの大艦隊をようして、ローマの穀物輸送や公共輸送を脅かした。ローマは、紀元前79年以降、この海賊を掃討するための努力をしたが、それほどの効果をおさめることはできなかった。一度は、スルラによって抑えられていたポントス王ミトリダテスは、スルラの死後、反ローマ勢力結集のための外交的な布石をうっていた。ミトリダテスは、海賊を通して、反ローマ同盟の結成をイスパニアのセルトリウスに申し入れ、東のミトリダテスと、西のセルトリウスの間に、反ローマのための相互援助を約束する条約が成立したのであった。

ミトリダテスが、紀元前74年の第3次ミトリダテス戦争で、反ローマ闘争に立ち上がり属州アジアに出兵したことは、情勢を激動させた。海賊がこの進出をバックにして全地中海に跳梁し、ローマを悩ませていたことは、頑強にローマと戦っていたトラキア、マケドニア系の諸種族をも励まし、勇気づけることになった。この戦争の勃発をみて、トラキアは、ミトリダテスと同盟を結んだ。こうしたなかで、アポロニア、オデッソスもミトリダテス側に移行していた。

こうして、帝国ローマの属州民に対する搾取が、原住民に根ざす各地域の反ローマ闘争を引き起こし、それを意識的な反ローマ同盟の形成に向けて激化させた。それを容易に鎮圧できないローマの戦争に伴う社会経済的混乱が、イタリア本土における被抑圧者である奴隷の存在条件を悪化させ、それが、奴隷蜂起を起こせざるをえない条件を作りだしていった。


第3章 スパルタクスの蜂起

3−1 スパルタクスという人物

ここからは、スパルタクス蜂起について非常に簡略的(蜂起〜アルプス越え決意・最後の戦い)ではあるが、述べていきたいと思う。

ローマが各地で困難な戦いを強いられていた頃にスパルタクス蜂起は起きたのだが、蜂起の組織者であるスパルタクスとは、一体、どのような素性の人物なのだろうか。

スパルタクスは、トラキアのメディ種族の出身であり、今日のブルガリアのサンダンスキーの近くで生まれたとされている。

 第1次ミトリダテス戦争の際に、トラキア諸族は、ミトリダテス側に立って、反ローマ闘争に参加した。彼はこの反ローマ闘争後の紀元前76年にローマ軍の捕虜となり、イタリア本土に連行され、剣闘士とされた。スパルタクスの人柄は、勇気と力に優れ、知恵もあり、温和であったといわれている。しかし、それにも増して彼の優れた感性は、自由の為に戦おうとする強い意志と気迫であった。

3−2 剣闘士奴隷の逃亡

紀元前73年の早春、カプアの剣闘士養成所で脱走を呼びかけるものがいた。その奴隷こそトラキア出身のスパルタクスであった。「見物人の慰み者になるよりは、自分たち自身のために戦おう」と説得を続け、200人が計画に荷担した。しかし、奴隷内に内通者がでたため、急遽計画を実行に移した。彼らは台所を襲撃し、包丁や焼き串を奪って養成所を飛び出した。この時脱走できた奴隷は、約70人であった。

カプアの町にでた奴隷たちは、剣闘士用の武器を運ぶ一団に出くわし、これを奪った。そして、ウェスウィウス山に向かって駆けにかけた。早速カプアから追っ手が差し向けられたが、戦闘のプロ集団である剣闘士たちの必死の抵抗の前に、武器を捨てて逃走する始末であった。剣闘士たちは戦士が捨てていった武器を手に取り、奴隷の武器を不名誉であるといって投げ捨てたのであった。

 奴隷たちはウェスウィウス山を占拠すると、合議により指導者を選出した。トラキア出身のスパルタクスとゲルマン人またはガリア人と思われるオエノマウス、クリコスの三人である。ウェスウィウス山南方の肥沃な地帯を略奪しつつ、より多くの奴隷の参加を呼びかけた。ローマから鎮圧のために軍団がやってきたときには、奴隷軍の数は数千人に達していたと思われる。

 ローマから派遣されたのは、法務官のクラウディウスと3000人の軍団であった。しかしそれは、「単なる」奴隷の脱走をさっさと鎮圧するために、急遽寄せ集められた軍団でしかなかった。クラウディウスは山頂に通じるたった一本の山道を封鎖し、奴隷たちが飢えるのを待った。しかしスパルタクスは、ローマ軍が封鎖した道の反対斜面のがけには見張りがいないのをみて、山頂に生えていた葡萄の枝を編んではしごを作って山を降りた。そして奴隷たちを閉じ込めていると思い込んで、油断していたローマ軍の宿営を包囲して急襲した。不意を付かれたローマ軍は、算を乱して敗走した

この緒戦での勝利は、単にクラウディウス軍が残していった武器や装備を奴隷軍にもたらしただけでなく、ローマ軍に勝利したという実績と自信を与えた。これにより、奴隷軍の士気は高まり、更なる奴隷の参加をもたらした。  この時点から、剣闘士たちの脱走は単なる奴隷の蜂起を越えて、イタリア全土を震撼させる大反乱へと変貌していくのである。

3−3 奴隷軍の急速な拡大

クラウディウスを撃破した奴隷軍は、さらにノーラ、ヌケリアを占領した。その後カンパニアも制圧し、奴隷の解放の要求に支えられて、劣勢な力を持って優勢な力を破り、勝てば必ず勝ち、勝てば敵から武器・装備・食糧などを奪って、ますます強大となった。敵地の真っ只中での戦闘ではあったが、奴隷制の展開にともなう奴隷の多数の存在、奴隷所有者の奴隷に対する残酷な搾取は、敵の中に多数の味方を作り出す条件となっていた。このことは、スパルタクスの明敏な戦闘指導とあいまって、奴隷軍の急速な拡大をもたらしたのである。

3−4 奴隷軍内部の矛盾

このような形で急速に力を蓄え、強大化し、カンパニア平原を制圧しつつあった奴隷軍の内部に、その力の増大にともなう矛盾が出始めていた。

奴隷軍内部の中に生まれ始めていた内部の矛盾は、第1にウェスウィウスの緒戦における勝利以来の相次ぐ勝利から生まれたある種の自信過剰であった。

第2は、奴隷軍の装備が、奴隷軍の急速な拡大に追いつかないということであった。

こうして、カンパニアを制圧しつつある段階で、今後の奴隷軍の行動をどのように展開するかについて、奴隷軍の軍会の中で、活発な意見がたたかわされていた。一方では、ローマ帝国によって奴隷化されて以来、彼らに加えられた苛酷な搾取と不正義に復習するために、勢いに乗じて、奴隷所有者への攻撃を強めて掠奪によって奴隷軍を強化し、さらにローマ軍と戦い、首都ローマをも攻撃しようとする意見が主張された。また、他方では法務官ウァレリウスが増援をローマに求めて、積極的な行動が取れなくなっているこの時期に、奴隷軍の隊列を整えようとする主張があった。

この二つの意見は明らかに、奴隷軍の置かれていた現実を反映するものであった。ウェスウィウス山で選ばれた奴隷軍の3人の指導者のうち、オエノマウスは、ローマ軍との戦闘の中で、既に亡くなっていた。残っていた指導者はスパルタクスとクリコスであった。この奴隷軍内部の論争の中では、前者の傾向をクリコスが代表し、後者の意見をスパルタクスが代表する形となった。

その後、ウァレリウスの軍隊が増援されたのを聞いて、スパルタクスはクリコスの主戦論をおさえた。奴隷軍の内部では、ローマ進軍という意見が強まりつつあった。スパルタクスは数次にわたる討論と懸命な説得のなかで、増援されたローマ軍と対決し、さらにはローマ進軍を行おうとする多数意見を変更させることができた。

討論の後、当面、ローマ軍を避けつつ、カンパニアからルカニアに進むことを決定した。しかし、今後の目標をどうするかについては、大きな問題となっていた。

スパルタクスは、今彼らが手に入れることができた自由を永久的に保持し続けるためには、奴隷にとって牢獄のようなイタリアを脱出し、おのおのの故国に帰って、かつてのような自由な生活を取り戻すよりほかないと指摘したこともあった。しかし、このスパルタクスの意見は、どのようにすればそれが実現するのか、全く見当がつかないため、大多数の人々からの賛成を得ることはできなかった。

3−5 逸脱行為とスパルタクスの規制

奴隷軍が、カンパニア地方を出発したのは9月のことであった。それまで奴隷軍は、カンパニア地方を掠奪し続け、多くの奴隷の参加を得ていた。この期間、ローマ軍との小競り合いはあったが、決定的な戦闘はなかった。

追撃してきたローマ軍を振り切って、1日かかってエブルムから、ナーレス・ルカニアを越え、山合いの険しい道を行軍して夜明けに、眼下に広がるタナログ川谷に沿った平野にあるアンニ・フォルムに達した。ここは、その耕地がローマの公有地になっており、大土地所有が展開していた。奴隷軍は、ここの奴隷所有者を襲撃し、掠奪すると同時に、その家族である中年夫人や娘たちに対して強姦・暴行をほしいままにした。いかに、憎悪すべき奴隷所有者に対するものであったとはいえ、これは、あまりにも逸脱した行為であった。スパルタクスは、直ちに軍会を開き、こうした逸脱行為を禁止する措置をとった。その後奴隷軍の軍紀は回復していった。

3−6 女奴隷の登場

アンニ・フォルムを占領した後、奴隷軍にルカニア地方の奴隷・牧人・イタリア系無産市民などの参加がみられ、奴隷軍の数は倍加した。

この後、奴隷軍は二手に分かれ、スパルタクスは約3万の奴隷を率いて、イオニア海の方へ山地を抜けて下り、メタポントゥムを占領した。他方、クリコスは約1万の奴隷を率いて、レギウムに通ずる街道を南に下り、コセンティアを占領し、その周囲の山々を支配下においた。次いで、スパルタクスは、海沿いに西に進み、クリコスは山を下って、トウリイを占領し、ここで奴隷軍の両部隊は合流して、ここに奴隷軍の司令部をおき、冬営をはることになった。この時、奴隷の総数は7万となっていた。ローマ軍は、奴隷軍の追撃を諦めたわけではないが、奴隷軍の後衛部隊と戦って敗北し、またもや奴隷軍は分捕品を積んで本拠地トウリイに引き上げたのであった。

トウリイに本拠をおいて冬営に入った奴隷軍の中に、この頃になると注目すべき変化が表れてきた。蜂起の当初は少数しかいなかった女奴隷が目立つようになってきたのである。

3−7 奴隷軍の整備強化と海賊との接触

トウリイにおける冬営は、スパルタクス並びに奴隷軍にとって、極めて重要な意味を持っていた。この冬営における奴隷軍の基本的任務は、食糧などの生活必需品を調達するとともに、奴隷軍に結集した奴隷の訓練と武器の製造など、奴隷の訓練と武器の製造など奴隷軍の整備・強化を行うことであった。

しかし、このことは、厳しい訓練だけではなく、それにふさわしい武器の補充をしなければ、達成されなかった。奴隷軍はトウリイに武器工場を建設した。そこで、かつては奴隷たちを縛り付けていた鎖は、この工場で溶かされて奴隷所有者と戦うための武器となった。

鉄の鎖からだけでは、7万の奴隷軍に十分なだけの武器を作ることはできなかった。武器を作るためには、大量の鉄や青銅を購入しなくてはならなかった。奴隷軍に大量の鉄や青銅を売ったのは、いうまでもなく商人だった。その、商人とは地中海に猛威を振るっていた海賊であった。

海賊から大量の鉄・青銅を買い付けるためには、金が必要であった。その金を、奴隷たちは、奴隷所有者から掠奪することによって獲得していた。奴隷軍は、鉄・青銅だけではなくて、その他の必需品や武器そのものも海賊から買ったであろう。このような鉄・青銅などの材料の購入によって、奴隷軍は武器を整備したが、それは作り直された粗悪なものが多かった。奴隷軍は、懸命に武装を強化したが、ローマ正規軍の武装に比べれば、それはまだ不十分の域を脱することはできなかった。

海賊との接触は、単に鉄・青銅の購入と、それにともなう武器の整備、奴隷軍の武装の強化をもたらしただけではなかった。当時、海賊は、小アジアで反ローマ運動を行っていたセルトリウスと密接な連絡をとり、海賊、ミトリダテス、セルトリウスの間には反ローマ同盟が結ばれていた。だから、海賊は、ミトリダテス、セルトリウスの動きを知っており、それをかなり詳細にスパルタクスに伝えたに違いない。また、彼らは海賊活動を通して知り得た、シチリア島における奴隷の動きやガリア・トランスアルピナにおける不穏な形勢などについての情報をも、もたらしたであろう。

奴隷軍にとって何よりも重要なことは、このとき初めて、奴隷軍が国際的視野を持ち得たことであった。これまで、奴隷軍は、ローマ軍と対決しつつ、ローマ軍をいかに打ち破るかということだけに、全力を傾けてきた。自分が行動している地域以外で、誰がどのように動いているかなどに気を止める余裕などは全くなかったし、また、そのようなことを認識することができなかった。今や、奴隷軍にとって新しい視野と展望が開けたのである。

3−8 奴隷たちが目指したもの

紀元前72年奴隷たちは冬営地のトゥリイで春を迎えようとしていた。

周辺の農場などから逃れてきた奴隷たちによって、スパルタクス軍は今や7万人を数えるまでに膨張しており、軍隊としての訓練や、装備の充実によって、半年前とは比べものにならないほど強力な軍隊に成長していた。しかし、人数や戦意の高さでは敵を圧倒していたものの、装備は十分とは言えず、未だローマ正規軍に匹敵するところまでは達していなかった。

奴隷の指導者たちの急務は、これからの目標を決定することであった。これだけの強大な軍隊を擁して、何をするのか、また、どこへ行くのか。 当然議論は紛糾し、諸々の意見が出されたことだろう。

最も魅力的で急進的だったのは、これらの軍隊をもってローマに進軍し、支配者階級を打倒することであった。しかし、この案はあまりにも実現性に乏しく,たとえ実現したとしてもローマを打倒した後のビジョンに乏しかった。 このような議論の末に彼らが出した結論は,軍を北に向け,奴隷たちをアルプスを越えて故郷に帰すというものだった。そこからガリアやトラキアへと帰り,それぞれの故郷で再びローマに対して戦いを挑むことが、真の自由を取り戻す唯一の道と考えたのだ。

大軍でイタリア全土を北上し,アルプスを越えることは、決して簡単な選択ではなかったが,永続的な自由を得ようとする奴隷たちの、唯一実現性の有る選択肢であった。紀元前72年の春、スパルタクスは冬営を解いて、メタポントゥムに軍を集結させ,そこから一路アルプスを目指して北上を開始した。

3−9 スパルタクスの最後

以降の文は、スパルタクスの最後までの簡略的な説明である。

アルプスを目指して北上中に、メタポントゥムにてクリコスは、戦死してしまった。その後、奴隷軍はサムニウム、中部イタリアと、順調に前進を続けた。その後、ガリア・キスアルピナまで進むが、社会的・経済的・地理的諸条件が悪かったことから、奴隷軍は苦戦を強いられることになり、ムティナに着いたときには、冬が始まってしまったため、彼らはアルプス越えを諦めざるを得なかった。

討論の末、奴隷軍はイタリアを南下して、海賊の協力を得てシチリアを渡航し、それぞれの故郷に帰ることを決定した。しかし、海賊にはすでにローマの手がまわっていた。ローマは、海賊を買収して、スパルタクス軍と手を切らせることに成功していたのである。

スパルタクスがシチリア渡航を諦めているころ、将軍クラッスス率いる軍は、ブルッティウムに包囲網を作って、奴隷軍を袋のねずみ状態にしようとした。奴隷軍は一度入ってしまったが、何とか脱出することができた。

その後、スパルタクス軍はクラッススに追われながらも、北東へ進軍した。しかし、クラッススとローマ軍に挟み撃ちにされ、再び南に向かうことになった。奴隷軍の疲労は限界にまで達していた。

スパルタクス軍がタレントゥムの近くまでたどり着いた頃、偵察に出していた斥候が恐るべき情報をもたらした。タレントゥムの西方に位置するブルンディシウムに、ルクルス率いるローマ軍が上陸したというのである。スパルタクス軍は,ローマの精鋭部隊であるルクルス軍と、執拗に食い下がるクラッスス軍に完全に挟み撃ちにされてしまった。常に冷静で的確な判断によって、幾多の困難を乗り越えてきたスパルタクスだったが、このことを聞いた瞬間にすべてのことに絶望してしまった。

イタリアに帰還したのがルクルスだったことが,スパルタクスの未来への展望を奪ってしまった。この時帰還したのは、トラキアを平定したマルクス・ルクルスだったが、ポントスでミトリダデスと戦っていたリキニウス・ルクルスが帰還したと、スパルタクスが勘違いしてしまった可能性が有る。帰還したのはリキニウス・ルクルスであると著述している、古代の歴史家もいるくらいである。リキニウス・ルクルスが帰還したということは,ミトリダデスが敗れたということである。つまり、イタリアの奴隷軍は完全に孤立無援になってしまったと思い込んでしまったのである。何とかミトリダデスと連絡をとって結びつこうとしたスパルタクスは、最後の希望を失ってしまった。そのため、すべてのことに絶望してしまったのではないか。

スパルタクスが選んだのは,クラッススと戦う道であった。奴隷たちはタレントゥムからルカニア方面へ引き返し始めた。そして、メタポントゥムの北西の山地で、堀を作って陣営を設営しようとしていたクラッスス軍と遭遇した。当初は、奴隷たちがクラッスス軍の作業を妨害しようと小部隊で攻撃を行ったが,両軍から次々に増援が送られ,戦闘はどんどん拡大していった。クラッススは、ルクルスやポンペイウスが到着する前に,何が何でも奴隷軍を壊滅させたかった。

この段階において,スパルタクスはこの地で決戦を行うことを、ついに決断した。

スパルタクスは全軍をローマ軍の前面に配置した。そして、最精鋭の騎兵部隊を先頭に、ローマ軍めがけて突入して行った。スパルタクス軍9万、ローマ軍6万の大軍同士の激突が始まった。奴隷たちは、負けることが許されないことを認識しており,絶望的な力を振り絞ってローマ軍に立ち向かった。戦いは凄惨なものとなった。

次第に、装備・錬度で劣るスパルタクス軍は劣勢に陥った。スパルタクスは局面を打開するために、一隊を率いてクラッスス本隊めざし中央突破を敢行した。しかし、ローマ軍の陣は深く,気がつくとスパルタクスの仲間はほとんど倒れてしまっていた。それでも彼はクラッススに向かって突進した。クラッススを守るために打ちかかってきた小隊長二人を倒したが,その時後ろから槍で太腿を刺されてしまった。スパルタクスはたまらず落馬してしまい,ローマ兵の集中攻撃を受けた。足を引きずり、盾を持って格闘したが,最後は多数のローマ兵に切り刻まれてしまった。彼の抵抗があまりにも凄まじかったため倒れていている死体がスパルタクスであることさえ判らないほど、細かく刻まれていたという。

スパルタクスが倒れてからは,一方的な殺戮の場となってしまった。この地で6万人もの奴隷たちが戦死した。しかし、捕虜となった6千人の奴隷たちには,もっと悲惨な結末が待っていた。クラッススは、捕虜となった奴隷たちを、アッピア街道沿いにカプアからローマ市に至るまで、見せしめのために十字架に磔にした。ローマ人にとっては,主人に逆らった奴隷に対する当然の報いであった。彼等はなぶり殺しにされ、体は鳥がついばむのに任された。結局奴隷たちの肉体は,故郷に帰ることも、ローマから逃れることもできなかった。紀元前71年3月、スパルタクス軍は指導者の死とともに壊滅した。


第4章 スパルタクス蜂起はなぜ敗北したのか

前章でも述べたように、スパルタクス蜂起において、奴隷軍は、ローマの支配層を戦慄させ、ローマ社会を危機にまで追い込んだ。この蜂起が勃発した時期は、ローマ国家は、各国での反ローマ蜂起や海賊が勢力を伸ばしていたこともあり、根底からぐらついていたのである。その有利な条件にもかかわらず、なぜ敗北してしまったのだろうか。

4−1 反ローマの違い

反ローマの違いというのは、スパルタクスがミトリダテス、トラキア、セルトリウス 海賊と大連合を作っていたら、敗北という事態はのがれていたかもしれないということである。しかし、それぞれ反ローマの内容が違っていたため、連合は組むことはできても反ローマという理由で連合を続けることは不可能であった。

ミトリダテス、トラキア、セルトリウス、海賊の反ローマ同盟は一度は結ばれはしたものの、実質的にはほとんど機能しなかった。

4−2 ローマの支配者との力量の差

ローマの支配者は、帝国主義的支配の経験から、前述した反ローマの違い、反ローマ勢力の弱点をよく知っていた。また、視野の狭い被抑圧者の側に対して、ローマの支配者層は、国際的視野から、諸事件を統一的に捉え、これに対する分割的支配的方法を、巧みに運用する力量を備えていた。

4−3 イタリア住民との関係

奴隷蜂起に参加した奴隷は、ガリア、ゲルマニア、トラキアなどバルカン半島から移行された人たちであり、イタリア本土の人たちにとっては、異民族であり、異種族であったので、彼らは、この地で生産労働に従事している、同様な境遇にある奴隷に支持される事はあっても、イタリアの住民の支持を得る事は極めて困難だったのである。

4−4 装備不足、食糧不足

 奴隷軍の維持のためには、奴隷軍は絶えず、奴隷所有者その他から略奪せねばならず、しかも、奴隷の蜂起への参加は、生産の放棄を意味するのであるから、奴隷軍は一時的な武器の製造を除き、生産しつつ戦う、あるいは自ら生産を組織し、それに依拠して戦うことはありえなかった。彼らは絶えず、ローマの支配者集団からの掠奪物なしには、戦うことができなかったのである。

4−5 その他

その他の要因として、奴隷軍は敵地の中で、奴隷だけを味方にし、その他に味方を拡大することがほとんどできないという条件のなかで、極めて苦しい戦いを余儀なくされたこと、逃亡して蜂起に参加することに踏み切れなかった場合、奴隷軍内部で分裂があったことなどがあげられる。


第5章 スパルタクスのその後

古代の歴史家は,奴隷たちの蜂起とスパルタクスの名前を恐怖と驚きを持って書き記した。

しかし、中世の暗黒の中で彼の名前は忘れ去られてしまった。そして18世紀に入り、啓蒙主義の登場と,支配者と被抑圧者間の闘争の活発化により、スパルタクスの名は自由を求める闘士の代名詞として復活した。

18世紀後半、絶対王政が揺らぎ始めたフランスで,ソランがオペラ「スパルタクス」を上演し、スパルタクスの偉大さを描いて大きな賞賛を得た。この後に頻発する市民革命や労働者の闘争において、自由を求めたスパルタクスの戦いは模範となり精神的な支柱となった。

啓蒙思想家ヴォルテールは「スパルタクスと奴隷の戦争は歴史において最も正しい戦争であった」と述べているし,ドイツの啓蒙文学者レッシングはスパルタクスを「私の英雄」と呼んでいる。また、マルクス、エンゲルスに始まる共産主義では、自らの階級闘争とスパルタクスの自由を求める戦いを重ね合わせた。

第1次世界大戦中のドイツの反帝国主義勢力が「スパルタクス団」を称したり,第2次世界大戦中ファシズムに抵抗するイタリアのレジスタンスの機関紙が「スパルタクスの叫び」を名乗るなど、自由を求める戦いにはスパルタクスの名前が数多く登場している。


おわりに

古代ローマの奴隷制度ならびに帝国政策は、スパルタクスをはじめとする、奴隷たちが蜂起を起こすまで追い詰め、苦しめた。奴隷となった一人一人の人権などは、もちろん保障されておらず、奴隷たちは物と同等に扱われ、重労働で毎日苦しめられ、見世物にもされた。

恐らく現代の我々にはこのような社会状況を理解することは難しいだろう。しかし、祖国帰国と自由を求めて、絶望的ではあったが、最後まで戦ったスパルタクスは多くの人々の共感を呼び起こしている。それは、彼が最後まで信念を貫き、奴隷軍をまとめあげたという功績を評価する人が多いからである。スパルタクスの死から、2千年以上たった今でも彼は正義の戦争の英雄として、世界中で称えられている。我々は、彼の意思を受け継いで支配と抑圧のない未来を築かなければいけないのではないだろうか。


注釈

参考文献・参考ホームページ