一般に「ユダヤ人」というと、大体はドイツのナチスによるホロコーストや、イスラエルのパレスチナ問題等の事が思い浮かぶと思う。しかし今日、世界にはおよそ1290万人のユダヤ人が存在すると推定されており、その実に43%の人がアメリカに在住している。これはイスラエルをしのぐ世界最大のユダヤ人口を持つ国家である。ここでは一般的に印象が、やや薄いと思われるアメリカ国内でのユダヤ人問題について論じていきたいと思う。
アメリカには植民地時代からユダヤ人はおり、最初に移住してきたのはスペインとポルトガルからのユダヤ人であった。アメリカに移住してきたユダヤ人は歴史的経緯に基づくと、大まかにスペインやポルトガルからのユダヤ人、ドイツからのユダヤ人、ロシア等の東欧からのユダヤ人、と三つに大別される。
アメリカへ移住してきたユダヤ移民の第一波が、スペインやポルトガルからのユダヤ人で、1654年にサン・シャルル号の渡航者にはじまり、アメリカ史の期間を通じ、三々五々と渡来を続けていた。初期入植者の指導者達は、ほとんどがスペインかポルトガル風の名前であった。しかし専ら彼らが主であったというわけではないが、それでも別波の移民が流入しはじめた時も、スペイン系ユダヤ人の渡来が中断することはなかった。彼らは主として商人であり、その中のある者は様々な他の土地と商取引を行う富裕商人で、初期の13の植民地にある少数の主要な商業都市に住居し、独立革命の頃には、全部で五集団の会衆組織をもっていた。彼らは厳格に宗儀を守るユダヤ人で、彼らの制度はほとんど、その宗教生活を保つためのものであった。少数の家族が、あるひとつの町へ移住してきた時、共同墓地を持つことから、彼らの典型的な共同生活が始まり、その共同体に、礼拝のための成人男性が十人揃った時、彼らは早速、会堂を設立した。そして最後には、貧乏人を救済するため、病人や死者がでたとき、相互に扶助するため、彼らは組織をつくっていったのである。
スペイン系ユダヤ移民の波の後の第二波は、ドイツからのユダヤ人で、1820年頃もしくはそれより早くから始まり、1890年代まで続いたドイツ人の大規模な移民の動きの一部として渡来した。彼らは主に貧困層か中流階級の労働者や商人で、中にごくわずかの専門職の人が混じるといった、いわば一般大衆の人々だった。このように、ドイツ人がアメリカに移住してきた理由は、ナポレオン戦争の後、ドイツは戦争により疲弊し、ひどい貧困に陥り、富の増大をはかる機会も、未来への展望もほとんどない状態で、しかも中枢になる政府はなく、ばらばらの小国が多数に存在しただけであった。そうした状況に乗ったこれらの小国が、すべての自由思想や、自由を求める全活動を弾圧し、自国のけちな専制政治を維持しようとした。ある国では、ナポレオンが覇権を握った時停止させた、ユダヤ人差別の中世の法律が、きわめて厳格に再び施行され、国内は政治も産業も後退し、政策は軍事優先の過酷なものになり、特にユダヤ人にとっては厳しい状況になった。そこで、カトリック教徒や、プロテスタント教徒、そしてユダヤ教徒がアメリカで自由を見いだすために、ドイツから逃げ出した。こうした人達は自由を愛する人々であり、自由を求めて新世界へ渡った。
彼らの特徴は、初期のスペイン系ユダヤ人とは、多くの面で異なっており、ドイツではユダヤ人の特定居住地区であるゲットー内に居住する事、特殊なユダヤ服を着るか特殊な徽章をつける事、キリスト教徒の迫害から逃げて身を護る事、法の執行人に金銭や賄賂を差し出す事等、長い間、そのように強制されていた。
また、彼らは働き者であり、進取の気象に富み、たいがいは信用のできる商人で、勉学する意欲を持っており、彼らは子供達の教育、時には自分自身のための教育に向かって熱意を燃やし、たとえ自分達の頭に学問をたっぷり詰めこんではいないにしても、学問への大きな尊敬心と欲求は、ドイツから持ちこんでいた。学問への裏づけを必要とする専門職は、彼らが最も尊敬する対象だった。
アメリカへの移民第三波は、ロシアを筆頭に、ポーランドやルーマニア等の東欧からのユダヤ人である。1880年までのユダヤ人の人口は、ドイツ系ユダヤ人が主体であったが、初期のユダヤ移民の数をはるかに越える、膨大な数の東欧系ユダヤ人が、突然、渡来し始め、1881年から1920年までの40年間に、200万人のユダヤ人がアメリカに入国した。これらの移民の70%はロシアから、25%はオーストリア・ハンガリーとルーマニアからそれぞれ移住してきた。
このように、東欧系ユダヤ人が大量に移住してきたのは、彼らは東欧において、ひどく貧乏で、最も圧政に苦しめられている中で、さらに最も貧しく、最も圧迫された要素だった。また、彼らの宗教、商業の企画、愉楽、安全保障については、差別規定のある特殊な法律を耐え忍ばなければならなかった。更に、ユダヤ人としての特別税を納めなければならず、制限居住地域という特定の地域にしか住むことができないという義務を課せられ、それ以外の地方での生活は禁止されていた。農地についても所有や借用が不可能で、きめられた数種の商業にしか従事できず、それ以外の事業は禁止だった。
このような、要因のうち、次の二つの出来事が、移民の時期のはじめに存在した。一つは1881年のポグロムである。ポグロムとは大量虐殺を意味し、政府によってそそのかされた暴徒による暴力行為の暴発の事だった。それは想像を絶するような事であり、アメリカではリンチを加えようとする暴徒の暴走は、どんなものでも保安官や警察に反対する行為であり、多くの場合、役人がそれを阻止することができるが、ロシアの独裁政治の時代には、絶えず反乱の不安がつきまとっており、政府はしばしば、ユダヤ人を犠牲の山羊(スケープゴート)にしたてあげ、社会の悪をすべてユダヤ人のせいに帰し、無知な暴漢をユダヤ人襲撃にけしかけ、それによって反乱が起こるのを防止しようとし、それに成功した。そのポグロムは、1881年、1892年、ならびに1903年から1905年にかけ、また、第一次大戦中の最中とその戦後に起こった。こうした暴発のなかには信じられないほど恐ろしいものもあったが、その発生ごとに、都市の近辺に住んでいた何千人というユダヤ人が被害を被った。ロシアという広大な帝国のへんぴな遠隔地にいた別のユダヤ人は、わずかの身の回り品をたずさえ、アメリカへと逃げてきた。もうひとつは1882年に、五月法が実施されたことである。数世代にわたり村々に住んでいた何千人ものユダヤ人が、もとの居住地から追われ、すでに人口の密集していた町や都市へ強制移住させられ、それはユダヤ人にむけられた経済上の攻撃であり、一部のユダヤ人がもっていた富や様々な職業に打撃を与え、住居や商売や職業上の機会を統制し、彼ら全員を同一の狭い地区内に強制集合させた。ユダヤ人の多数が被ったものすごい難儀、また、別のユダヤ人にむけられた剥奪の恐怖などのなかで、多くのユダヤ人は新世界のなかにある新しい機会に心を向けていた。制限を強制するような法律が、新たに通過するごとに、また、多くの苦難の時期がおとずれるごとに、結果として、その翌年の1883年には、移民の増加という現象が見られるようになった。
このように、今日のアメリカに居住しているユダヤ人の圧倒的多数は東欧系であり、1880年代から1920年代に、ロシア等から大量に移住してきたユダヤ人達の子孫である。
反ユダヤ主義は、ヨーロッパにおいて確立され、一般的には12〜13世紀になってからのことで、この時代はちょうど十字軍遠征の時代と重なる。イスラム教徒から「聖地」奪還を目指すキリスト教的な「聖戦意識」が発揚された時、ヨーロッパ世界の内なる異教徒ユダヤ人に対してもまた、憎悪の目が向けられるようになった。また、この時代は、貨幣経済システムに直面し、古い倫理観にとらわれていた土着のキリスト教徒達は、このシステムに十分適応できず、不安を募らせていた。彼らは、貨幣を思いのままに操り、消費者金融業の中心勢力としていち早く巨万の富を蓄えはじめたユダヤ人に対して、恐れの念を抱くようになった。この「恐れ」を「蔑視」に転化したのが、中世キリスト教会で、ユダヤ人は「キリスト殺しの民」であり、その罪のゆえに永遠に隷属的地位におとしめられるべきであるという教えが教会によって確立され、教会法規のなかに様々な差別規程が制定されたのである。
北米植民地に生きた大半のキリスト教徒の住民達は、中世ヨーロッパ起源の宗教的反ユダヤ主義をその意識下に潜ませていたが、日常生活のなかでユダヤ人を差別したりはしなかった。反ユダヤ主義はいわば社会の地下水脈として、まだ人々の意識下に流れているだけだった。むしろ当時、英国政府は商業の発展に貢献するあらゆる植民者を、北米植民地へ積極的に招く政策を採用していた。また、当時の北米植民地は人手不足に悩まされ、白人でありさえすれば、ユダヤ人でも歓迎されていた。しかし、ユダヤ人がキリスト教徒とまったく平等な法的地位を享受してはいなかった。大半の英領植民地はまだ政教未分離の状態に置かれていたため、公職就任権や植民地議会の議員選出のための投票権は、法的にキリスト教信者のみに制限されていた。しかし、ユダヤ人に対するこのような法的差別も、独立革命後に発布された合衆国憲法で政教分離の原則が確認され、各州でも州憲法にあたる差別条項を削除する動きが次第に広まり、1877年のニューハンプシャー州を最後に条文上は、完全に消滅した。
アメリカのユダヤ移民第二波であるドイツ系ユダヤ人が移住し、彼らの中から、大勢の者が驚異的な速さで、経済的上昇を遂げた。しかし、このような、ドイツ系ユダヤ人による経済的成功のスピードは、彼らを他の人々の怨嗟の的にしてしまった。そして、彼らの成功とその能力に対する反感が世間に満ち溢れるようになったのは、南北戦争の時期だった。物資の窮乏と軍事的脅威の挟み撃ちにあった国民は、その不安や不満のはけ口として、ユダヤ商人を真っ先に非難するようになった。北部と南部、その双方において世論や新聞は、戦時利得者、利敵行為によって祖国を裏切る不忠の輩としてユダヤ商人に対する非難の大合唱を始めた。これはアメリカ史上、大きな盛り上がりをみせた最初のイデオロギー的反ユダヤ・キャンペーンだったが、やがて南北戦争も終わり国家的危機が去ると、急速に鎮静化していった。
また、南北戦争の終了から1890年代までの時代は「金ピカ時代」と呼ばれた。それは未曾有の経済ブームのなかから雨後のタケノコのごとく現れた人間類型、にわか成金達が、これみよがしに富を見せびらかしあう俗悪な世相を反映した言葉だった。そのような成金達の間に地位と特権を求める競争が激化していくなか、同じレベルの富を持つ、ユダヤ人の成金を「地位を求める競合」の場から追い落とす手段として、ユダヤ人に対する「社会・経済的排斥」が生み出されたのである。
反ユダヤ主義は、中世ヨーロッパで生まれ、ヨーロッパ系移民が築いたアメリカ社会に移民達を通じて移植されていったのだが、アメリカで出現した反ユダヤ主義はただ単に、ヨーロッパの伝統を受け継いだものばかりではなかった。アメリカ固有の社会状況や経済環境のなかで独自に生み出された、いくつかの特色が確認できる。例えば、法的措置に基づいた政府主導型の反ユダヤ主義がなかったことで、市民的・宗教的自由が、歴史的に尊重され続けてきたアメリカでは、政府や教会によって反ユダヤ主義が制度化されることはなかった。アメリカの歴代政府は多くのヨーロッパ諸国の政府と異なり、反ユダヤ主義を政治的に利用することはなかった。アメリカに出現した反ユダヤ主義は、いわば私的生活領域における反ユダヤ主義であり、その水準もヨーロッパ大陸諸国と比べれば、社会・経済的排斥の分野を除けば、穏やかだったといえる。そのようなことから、ユダヤ人はアメリカに移住した。
第二の特色は、人種・民族集団の重層的な対立構造のなかで反ユダヤ主義が生み出されたという点である。多人種多民族国家であるアメリカでの反ユダヤ主義は、ただ単に、先住の白人多数派のキリスト教徒対ユダヤ人という、一元的な対立の図式からだけではなく、その他の被差別少数派の集団対ユダヤ人という重層的な対立図式のなかからも生み出されていったものだった。例えば、19世紀末から20世紀初めにかけての北部諸都市では、WASP(アングロ・サクソン系白人でプロテスタント)から劣格視されたアイルランド系移民がユダヤ人攻撃の担い手になったことは注目に値する現象である。
第三の特色は、社会・経済的排斥、とりわけ高等教育機関における排斥が相対的に激化した点である。これはアメリカと同様、市民的権利が歴史的に尊重され、成熟した民主主義国家である英国と比べると、より明確にみえる。英国では教育を足がかりに社会的地位の上昇を目指す気風は比較的弱く、ホワイトカラーや専門職従事者による「地位を求める競争」がエスカレートすることはなかった。これは英国が伝統的な階級社会であり、歴史的にも労働者層と中産層との間には溝が存在していたからだった。
一方、アメリカ社会には、アメリカン・ドリームという言葉に代表されるように、社会の底辺から身をおこし、上昇を目指す気風が古くから国民文化として根づいていた。このような社会では必然的に「地位を求める競合」も激しくエスカレートし、競争の場に新規に参入する部外者、とりわけ競争力に抜きんでていたユダヤ人に対して、ことさら厳しい排斥が加えられるようになった。そして、アメリカが他の国よりも自由な競争社会だったがために、より激しい排斥が起こるといった皮肉な現象が生まれたのである。
もちろん、自由の国と呼ばれているアメリカであるだけに、ユダヤ人のことを擁護した人々も当然いる。例えば、ウィリアム・ホワード・タフト大統領は、「合衆国における反ユダヤ主義」について、全国各地で講演を行った。1920年12月5日にユダヤ・アピール(1920年12月1日に、アメリカ・ユダヤ委員会は、公正心をもっている非ユダヤ人たちにむかい、正義と公平をもってユダヤ人に対応するよう訴えかけた。他の全国規模の九つのユダヤ人組織は、次のように決議するアピールに署名した。つまり、「我々は、真のアメリカ人の間に浸透している正義と公正の精神にゆるがぬ信頼を寄せており、我々の仲間である市民たちが、我々ユダヤ人に浴びせられる中傷と誹謗の宣伝を放置しておかないならば、そのことに満足するものである。アメリカが表明するすべての美点を永続させるため、また、この広大な国土に不正と不寛容のはいる余地はありえないことを万人に熟知させるため、平和と協調、統合と友愛が必要とされるこの土地に、憎悪と誤解を発生させてはならない」というアピールだった。)がでた同じ週に、アメリカ・キリスト教会全国評議会というプロテスタントの教会組織大連合が、恐ろしい非難からユダヤ人を守り、いかなる形の不寛容に対しても、それを攻撃するという決議を採択した。翌月には、「ユダヤ人とアメリカの理念」に関する著書もあるジョン・スパーゴ氏が、反ユダヤ主義に反対する抗議文を発表し、それにはタフト大統領やウッドロー・ウィルソン大統領、ウィリアム・ヘンリー・オコンネル枢機卿をはじめ、119人の著名なアメリカのキリスト教徒が著名した。彼らによると、「我々の市民仲間でありユダヤ教の信徒でもある人々の忠誠と愛国心は、合衆国国民の誰のものとも同一であり、我々の手によって擁護しなければならない筋合いのものではない。」ということだったのである。
クー・クラックス・クラン(略してKKK)は、南北戦争の直後、黒人達の政治・経済的自立を阻むために組織された白人の秘密結社だった。一度、1870年代に衰退し、消滅したが、1915年にジョージア州にて再び結成した。KKKは黒人の他、東洋人やカトリック教徒、外国人、そしてユダヤ人も排斥の対象である。団員としては、白人プロテスタントで、アメリカ生まれの非ユダヤ人男性しか加入できず、「100%アメリカ人」のみを擁していると主張しており、商店ボイコットや政治上の反対行動、時には暴力行使によってユダヤ人を排撃した。小さな町や農村地帯では、ユダヤ系の教員が解雇され、ユダヤ系の商人が不買運動の目にあい、その地域社会から追い出された。それが主要な目的ではなかったにしても、KKKは反ユダヤ主義を団体の主義主張の一つに掲げ、1920年から1925年にかけ最も勢力をふるい、現在もなお、南部諸州などに分散し、存続している。
先ほど第二章の3節でアメリカ史のなかで、政府によって反ユダヤ主義が政治的に利用することはなかったと述べたが、特例はある。反ユダヤ現象が政界にも現れたことがあった。カーター大統領の弟であるビリー・カーターがユダヤ嫌いを無作法にも表現していた時、カーター大統領はきぜんとした態度をとらなかった。彼の側近は抗議に対し、カーター大統領とその弟は、ユダヤ人が考えるように同じではないと答えている。しかし、カーターの気持ちは、アンドリュー・ヤング国連大使の辞任問題によく反映されているといえる。1979年にヤング国連大使が辞任した時、黒人指導者はユダヤ人にごうごうの非難を浴びせたが、カーターはミシシッピ地方で演説をしていて、これについてのコメントは避けた。ヤング辞任に関してユダヤ人側から留任要請がでていたことをカーターが発表したのは、それから四週間もたってからだった。
カーターは典型的な南部の指導のやり方で、黒人とユダヤ人を対立させ、彼の国内政策への黒人の不満をかわそうとしたのではないかと疑われる。そして、二年後レーガン政権になり、事態はもっと悪化した。レーガンはAWAC(空中早期警戒管制システム)機をアラブに売却する認可を議会に求めてきた。売却に奔走するサウジ・ロビイストのフレッド・ダットンは、この問題をそれ自体の持つ意味で論議するのに満足せず、「ユダヤ勢力の大きさを測るテスト」だと定義するのに成功した。それまでに各新聞も反対意見を掲げ、下院は結局、多数票でこの法案を否決していた。サウジはアメリカ・ユダヤ人が、また彼らを通してイスラエルが、アメリカの中東政策を支配していると攻撃した。この複雑な問題を、イスラエルのベギン(当時のイスラエル首相)をとるかレーガンをとるかに単純化し、繰り返しダットンは上院工作に動いた。フォード元大統領も「これだけはユダヤ人にやれない」。アメリカに忠誠なら、上院は売却に賛成すべきだと発言した。
1981年10月1日の記者会見で、レーガンが「アメリカの外交政策に他国は介入できない」と発言した時、翌日のワシントン・ポスト紙は「大統領はベギンかレーガンかの二者択一に迫ったわけでもないし、AWACの反対者をイスラエルの国益優先者だと決めつけたわけでもないが、彼は明らかにイスラエル・ロビーにあてこすっていて不愉快である」と書いた。ポスト紙はしばしばイスラエルの対外強硬策に批判的であるが、レーガンの発言は不当だと感じた。
そして、法案は上院で可決され、レーガンは会合でユダヤ人指導者に向かい、談話はイスラエルを非難するつもりはなかったこと、イスラエルではなくサウジの干渉を非難したものである、と説明し、ユダヤ人側の不安は増幅された。サウジ側の指導者バンダル・ビン・サルタン王子は、大統領の招待でアメリカの政策会議に出席していたこと、王子とダットンは、議決当日にも多数派リーダー、ハワード・ベイカーのオフィスから議会工作していたことが知られているからである。この事件はアメリカ・ユダヤ人に一つの転機と映ったようだった。ニューヨーク選出の民主党ダニエル・パトリック・モイニハン上院議員は、自分の生涯のうちに起こるはずがないと思っていたことに出くわしたのだった。つまり、反ユダヤ思想が政争の道具に使われ、「第二次大戦後初めて、大統領、閣僚、上院議員、その他の要人が、アメリカ・ユダヤ人の意見をアメリカに対する忠誠心とからめて非難した」と、アメリカ・ユダヤ委員会のミルトン・エラリンは書いた。これを新しいユダヤ排斥の始まりと考えた人は少なくなかった。しかしその後、外的な状況に大きな変化が起こり、このような心配はなくなったのである。
アメリカのユダヤ人問題で、最も特徴的だと思われるのは、黒人による反ユダヤ主義である。第一次大戦記に、南部農村から黒人達が北部大都市にある移民集住地区に移住した。移住先で黒人達が出会ったのは、公民権運動に尽力してくれたエリート層のユダヤ人とはまったく別のタイプのユダヤ人で、自身の経済的基盤を築くことのみ専念し、弱者をかえりみるゆとりなどないユダヤ移民達だった。このようなことから、反ユダヤ主義へと転化するのは時間の問題だった。
1960年代中期以降、キング牧師をはじめとする主流派黒人指導者の考えは、黒人だけの解放運動には限界があり、北部ユダヤ人に代表されるリベラルな白人達との幅広い連携が必要である、というものだったが、これを真っ向から否定する考えが急速に台頭しはじめた。それは、黒人は自分達以外の者に頼るべきではなく、自力で解放を達成せねばならない、リベラルな白人との連携など幻想にすぎない、という考え方だった。これは、いわゆるブラック・ナショナリズムの台頭だった。これ以後、黒人社会に若年の知識層を中心に反白人色、反政府色が急速に広まり、ブラック・ナショナリズムの指導者達は、ユダヤ人社会との関係を最も損なう結果を招いた、「黒人居住区の学校経営は黒人の教師が行う」という要求をした。このことはユダヤ人社会にとっては大変な脅威だった。それは、1960年代初めのニューヨーク市内の公立学校では、教師の50%、校長クラスにいたってはその大半をユダヤ人が占めていたからだった。これを機に身分保障を求めるユダヤ人と黒人教員の採用を求める地域住民との対立が激化した。
続く1970年代に、黒人とユダヤ人の関係修復を妨げる新たな火種となったものは、黒人側から出されたアファーマティブ・アクション(積極的差別是正措置)実施の要求だった。それは大学、政府、自治体や企業への就職や昇進の際、その成績や能力のいかんに関わらず、全人口に占める黒人の人口比率分だけ黒人の優先的採用を求める要求だった。長い間、歴史的に蓄積されてきた差別を早急に解消するためには、黒人に対する優先措置が必要である、といのが黒人側のいい分だった。
また、1970年代以後、黒人とユダヤ人の関係を悪化させたもう一つの背景には、黒人指導者達が反ユダヤ主義を政治的に利用しはじめたことが挙げられる。彼らは反ユダヤ的発言をすることで黒人大衆の注目と支持が集められることを発見し、大衆動員の手法として反ユダヤ的発言を繰り返すようになったからだった。例えば当時、若手指導者の一人だったジェシー・ジャクソンは1970年代を通じて、自分の支持者に向かって反ユダヤ的発言を繰り返してきた。彼が次第に、全米屈指の黒人指導者の地位に登りつめてきた1984年の大統領選挙で、彼は黒人として史上初の民主党大統領候補の指名獲得をめざし、予備選挙に出馬した。(結果は落選)この選挙戦の最中にも、彼は70年以来の「お家芸」を披露し、84年2月、彼はニューヨーク市のことを「ハイミータウン」と呼んだ。「ハイミー」というのはユダヤ人に対する蔑称であり、ジャクソンは慌てて謝罪はしたものの、大半のユダヤ人有権者それを許すことも忘れることもなかった。
そして、1991年8月19日、ニューヨーク市ブルックリン地区でアメリカ史上、ユダヤ人に向けられた黒人による集団的暴力行為のなかでも、最悪ともいえる事件が発生した。事件の発端は不幸な交通事故だった。この日の夕刻、ルバビッチ派のラビ(ユダヤ教の教師の敬称)とその随行者達が数台の車を連ねて、墓参りに出かけた。出発してまもなく、一行の最後尾を走っていた車が先行車両に遅れまいと、無理に赤信号を渡ろうとして加速した矢先のことだった。運転を誤り歩道に乗り上げ、7歳の黒人少年を轢き殺し、同じ歳の黒人少女に重傷を負わせてしまった。この車を運転していたヨセフ・リフシュは、自分が轢いた子供達を助けようと車外へ飛び降りた。そして、その途端、現場に居合わせた黒人達が彼に襲いかかり、その所持する金品を奪いさった。さらに現場に警官が到着するまで、リフシュに殴る蹴るの暴行を加え続けた。かけつけた警官はそれを見て、リフシュの身柄を守るため、まず、最初に現場に到着した救急車に彼を乗せ連れさせるよう指示してしまった。これは警察の大失態で、リフシュの車の真下にいた血みどろの二人の子供の救出こそ最優先すべきだった。「ユダヤ人を優先させた」この処置は、現場に集まってきた黒人達は怒り、彼らは暴徒と化した。そして、たまたま現場近くを通り過ぎようとしたオーストラリア出身のユダヤ青年ヤンケル・ローゼンバウムに、いきなり約20人の若い黒人達が襲いかかった。彼らは「ユダヤ人を殺せ」と叫びながら彼に殴りかかり、刃物で殺害してしまった。彼が殺害された後も、三日三晩にわたって黒人達が路上の車や建物に火を放つなどの暴動が起こり、鎮圧するために1500人の警官隊が投入されたが、主にユダヤ人からなる38人の住民が負傷した。そして、この暴動の最中、多くの黒人暴徒が「俺達はヒトラーの生まれ変わりだ」や、「今度は黒人ヒトラーが現れるぞ」といった反ユダヤ的スローガンを叫んでいた。
以上のように、このような黒人とユダヤ人の関係を和解へと導くための努力は、対話を続けている一部の学生や知識人を除いて、今のところほとんどなされていないのが現状である。
アメリカ合衆国においては、政府主導型での反ユダヤ主義はなく、あくまでも私的生活の領域で反ユダヤ主義が起こってきた。ユダヤ人にとってアメリカで生活をするのは、それなりに安全な方であった。確かに、彼らにとってKKKやブラック・ナショナリズムの存在は脅威であると思うし、ユダヤ人に対して偏見を持っている人も少なからず存在していると思う。しかし、今日においてニュースや新聞等で、大規模な迫害が行われたという報道もみたことがない。また、アメリカは移民国家であり、様々な人種や民族が混在しているという事を考えると、ユダヤという民族もその多種多様な民族で構成されている国家の中の一民族であり、周りから特異な存在に思われるような存在ではないのではないだろうか。このように、ユダヤ人にとってアメリカはそれなりに暮らしやすい国なのではないだろうかと思う。
「アメリカのユダヤ人迫害史」(2000年)集英社新書 著者:佐藤 唯行
「アメリカ合衆国とユダヤ人の出会い」(1997年)創樹社 著者:ラビー・リー・J・レヴィンジャー 訳者:邦高 忠二、稲田 武彦
「アメリカのユダヤ人」(2001年)明石書店 著者:チャールズ・E・シルバーマン 訳者:武田 尚子
「ユダヤ移民のニューヨーク 移民の世界と労働の世界」(1995年)山川出版社 著者:野村 達朗