心とはいったいどこにあるのだろうか。心が躍る。心が苦しい。心に伝わる。心はさまざまな所で使われている。なぜこれほど心とは世界中に伝わり世界に広まっていったのだろうか。1995年講談社のQuark紙(講談社)が「心とは身体のどこにあるのか?」というアンケートを小学生から大学生まで調査した。結果、「脳以外の部分に心があり、身体の胸の部分の近くにある。」と答えたのが、小学生から高校生まで78%であった。大学生は54%であった。この結果は順当なものだろう。そうだと信じている人も多いと思われる。心によって喜んだり、悲しんだり、笑ったり、怒ったりしている。しかし、果たしてそうなのであろうか。皆さんも人生で一度は考えたことがあると思う。心とはどこにあるか、答えは見つかったであろうか。見つけることは難しいと思う。
近年、この問題は、研究者の間でも物議をかもしている。この論文では、心とはいったい何者なのか、ということを研究していく。
人前で話す時、私たちはうまく話そうとする。しかし、大きな舞台で話すときや大勢の人の前で話すとき、不安や緊張が起きてしまい、うまく話すことができなくなる。そして、うまく話すために、不安や緊張を抑えようと自分に言い聞かせればするほど、ますます心の不安や緊張が強まり、うまく話すことができなくなる。うまく話そうとする意志、理性、知性の働きを自分の意志でコントロールすることができる部分が心である。この心の働きとは「意識層」にある。一方、不安や緊張などの感情の働きは自分の意志でコントロールできない心の働きである。この心の働きは「潜在意識層」の領域にある。潜在意識というのは簡単に説明すると、良いことを思えばよいことがおき、悪いことを思えば悪いことがおきる。これが潜在意識の法則である。何かの拍子やアクシデントなどで意識に浮かびあがってくる心の領域である。意識の下に潜ってしまった意識なので潜在意識というわけである。例を挙げると結婚したいと思っているが、結婚して失敗してしまうかもしれないとパッと浮かび上がってきてしまい、迷ってしまうようになる。そのような心理状況である。心という言葉を辞書で調べてみると心とは人間の感情・意志・理性などの精神活動をつかさどると考えられているもの。また、その思考・配慮・感受性などと書かれている。精神活動というところに着目すると精神とは曖昧なものであり、ある特定したものではない。辞書に「考えられているもの」という辞書の文からしても解明されていないことが読み取れる。辞書には心を使った例文が載っている。心を打たれる。心が通う。心が動くなどと相手の気持ちや自分の気持ちを表現するときに使われている。心とは文学的にこのように考えられているということが分かる。さて、文学的には抽象的に書かれていているのだが、考え方・視点を変えてみよう。
わかりやすく説明すると、あなたがある人に対して好意を持ったと仮定してみよう。人を好きになり目と目があったり、話しかけられたりする。そうするとあなたはどのような反応を示すだろうか。緊張してしまい目をそらしてしまう。そして、うまく話をすることができないだろう。体にも大きな変化が起きている。体の変調としては顔が赤くなる。心臓の動悸が激しくなるがあげられる。ここで、心臓の動悸が激しくなるというところに着目してみよう。心臓の動悸が激しくなるということは一般的には心臓がドキドキするといわれている。ほかのあらわし方では胸(心)がときめく、となる。この場合、胸(心)がときめくという風に表現されているように、心とは心臓の部分にあるのではないであろうか。では、なぜそのような現象が起きてしまうのだろうか。
心の定義において見たように、心とは心臓の近くにあると考える人もいる。ここで、あらためて、心とはそもそも身体の一部分にあるのか、それとも身体以外の部分に存在しているのか、ということを考えてみる。その場合、身体以外のところに心があると思う人はなかなかいない。他方、多く見られる考え方は、身体の中に心が存在するというものである。この考え方は、身体によって感情や経験などが培われ、心として表れているというものである。日本では、古来、心と身体はひとつであると考えられてきた。心身一元論とは、心が身体のどこかの一部分にあるという考え方である。このように考えている人が多いだろう。
心身一元論に対して、心は身体に存在していないという考え方がある。これを心身二元論と呼ぶ。心身二元論は、紀元前古代エジプトにおいて考えられていた。心と身体は別々に存在し、人間が死んでも魂は死なずに肉体から離れていくと考えられていた。その帰結がミイラである。ミイラのように身体を保存しておけば、一度死んだ人間の肉体の中に魂(心)が、もう一度戻ることができるとされた。心身二元論の考えをよりいっそう明確にしたのがデカルトである。デカルトは物質には精神が存在しないし、精神と物質はまったく関係がないものであると説いた。心とは科学的に解明することができない。心をとりだすことができない。心というものは内観による真理の把握であると説いた。内観とは精神を統一して、自分自身の心の状態を観察することである。デカルトは、心を数量化することができず、内観の方法によってのみ新しい世界を作り上げることができた。新しい世界というのが精神の世界である。もうひとつは物質として存在する世界である。この精神とは私たちが想像している精神とは異なっている。デカルトの精神は思考や意識のみをさしている。感情はデカルトの生み出した精神のなかに含まれていない。感情は動物の中にも存在する。動物は敵と向かい合うと威嚇しあいお互いに感情を表す。デカルトは、精神とは人間だけが持つものであると説いた。
二つの考え方をまとめると、心身一元論によれば、身体の中に心が存在するから動いている。見えない物質であっても身体の中に存在する。心身二元論はでは、物質と精神(心)はまったく違うものと考える。心とは目に見えない部分である。身体の中にあるとしても、腕なら腕、月なら月と目に見える形であらわすことができるものではない。だから、心とは身体の一部分には存在しないと考える。
私の見解としては、身体の中に存在するか存在しないかということに関して、心身二元論のように心と体が離れていてどこか違う場所に心が存在しているということは非現実的に感じる。心という物質は見えない物質であって、抽象的である。心身二元論におけるどこか違う場所とはどこに存在するのか。科学的に根拠がない。曖昧さが大きい。ある特定の場所に存在し、私たちからもその場所にあると確信がもてないとなかなか立証することは難しい。もし仮に心身二元論が立証できるとしたならば、心という物質が存在しなければならない。物質が存在しないと曖昧さだけしか残らないからである。心と身体がどのようにしてつながりあっているのかが問題になってくる。デカルトは、物質と精神は異なったもの同士だといっているが、物質と精神はどのように影響を及ぼしているのだろうか。何か他に結ぶものがあるのかどうか明確に記されていない。別の角度から考えると、物質と精神が異なったもの同士であるが、それらは密接につながっているのである。そもそもデカルトは、あえて別々に考えたのであるが、物心の間に相互関係が働いているため、物質と精神はつながっている。この二つがつながっているということは、心と身体はひとつである。つまり身体のどの部分かに心は存在するということが説明できる。このように考えることによって、私は心身一元論の方が正しいと思う。
心身一元論が正しいと仮定してみよう。では、いったい身体の中のどの部分に心とは存在するのであろうか。核心に迫っていきたい。まずは、人間の一番重要な部分である脳について考えてみる。
人間の脳は非常に大きく、人間にとって重要な部分である。脳にはさまざまな機能がある。脳は大脳と小脳と脳幹が存在する。神経を伝達する機能、目で見たもの(視覚)、嗅覚、感覚さまざまなものが神経を通して伝わっていく。脳は記憶を蓄積する能力があり、脳には小さなときからの記憶が残っている。私たちは肌で感じ、見て、聞いて、味覚を味わう。つまり、五感が働いている。この感覚や何気ない行動とはすべて脳によって動かされている。脳の働きが心というものを作っているのではないだろうか。脳には先ほど述べたように記憶する能力がある。大脳辺縁系の扁桃体が、記憶と照合して行動に移す。ここで重要となってくるのが扁桃体と海馬である。扁桃体は視覚、味覚、聴覚、嗅覚、触覚など五感の情報が集まっている。その情報が視床下部に送られA-10神経からドーパミンがでる。扁桃体は好き嫌いと判断する役割も持っている。喜びや楽しさから快情動が生じ、その状況を前頭連合野がもう一度審査して再認識する。この感情が喜びと楽しさである。不快の感情が出る場合も同じである。不快を継続していくとうつ病やトラウマが生まれてくる。人間の情動評価は、感覚器から視床、感覚野を経て、扁桃体に来た情報についてなされる。神経生物学的には、視床から扁桃体への視床扁桃体路の存在が知られている。この神経路は小さな哺乳類の感覚の発達が未熟なために、情動判断に重要な経路である。ほとんどの情動判断はこの経路から来た刺激の情報から成り立っている。この機能は危険から自分の身を守るものであり、小さい哺乳動物の自己防衛という点では大きな役割を果たしている。しかし、人間や類人猿では、この経路からの刺激情報が情動反応を起こすことはほとんど無いと考えられている。とても大きく強い刺激や、特殊な条件下では、この視床から扁桃体路の存在が大きな役割を果たすときがある。
海馬は記憶する機能を持っている。海馬はウマの前半身と長い魚の尾をもったギリシャ神話における動物に似ている所からこの名前がついた。脳から五感が伝わり、怒ったり、笑ったりする行為が行われていると考えられている。
次に、心が心臓の近くにあるという説は根拠をあげて説明する。スポーツ選手は試合の前に母国の国歌が流れ、国旗が掲揚されると胸(心臓)の位置に手を置く。試合で勝利し、胸(心臓)を軽くたたいて喜ぶシーンがある。ホームランを打った選手が胸をたたく。テレビや演劇を見ていても気持ちを込めるところは胸(心臓)に手を当てて感情をこめている。母親が子どもの胸(心臓)に手において「しっかり考えるのよ」と教える。仮に脳の中に心が存在するのなら国歌や国家掲揚のときに胸に手を置くのではなく、頭に手を置いてみよう。皆さんも想像してみるとよい。なんとなくおかしいような気がする。演劇のときに一番盛り上がるところで頭に手を置く。想像すると滑稽な気がする。心は物質的に存在していないため胸に当てたという見解がある。感情が表現されるとき、手を胸におくと一番落ち着いて見ることができる。文学的にも心の考え方はそのように考えている人が多い。
さらに、先ほども述べたようにドキドキと鼓動が速くなる心臓という存在がある。科学的に脳が好き嫌いを判断しているといっているが、好きな人を前にすると心臓が速くなるということが起こる。この感覚によって心が心臓で動いているという風に考えてしまう。ひとつの例を挙げると動物に元気の出るホルモン剤を注射したところ、見違えるほどに動物は元気になり飛びまわった。これを人間に置き換えてみると、人間も激しく気持ちが高まり、情熱がある。心臓の鼓動は激しくなり、全身の交感神経が興奮状態になる。この状態は、不安がなく、意欲的に活動していると思われる。心というものは心臓や全身の神経系の活動に影響を与えているから、心は心臓にあり、身体の中心である左胸に心があると考えられるようになった。
他に全身そのものが心であるという考え方も存在する。たとえば、サッカー選手は足にキスをする。こうしてみると、個人個人いろいろと心の解釈をしている。手に心が宿っているといっている人もいる。つまり、身体のいたるところに心がある、と考える人がいても不思議はないのである。
では、心とはいったいどこにあるのであろうか。私の考えとしては心とは脳に存在していると考える。脳の構造と脳の働きは生理学的に研究されている。心は心理学において研究されている。生理学と心理学の二つの分野はそれぞれ独立している分野だが、二つの学問の側面のいくつかは、重なり合った研究領域を持っている。脳のある部分の働きが、心のどのような働きと関係しているのだろうか。逆に、心の働きがいったい脳にどのように影響しているのだろうか。
20世紀の初頭から、脳と心のなぞを解こうとして多くの努力がなされてきた。そして、心理学の立場から脳と心の問題に取り組んできたものが、生理心理学と呼ばれる。生理心理学とは、行動や心の働きを研究対象としている心理学と、脳・神経の働きを研究する精神生理学の分野から成り立っている。いわば、生理心理学でとは、心理学と神経生理学の境界領域に成立している知識体系である。1例を挙げると大勢の人の前で話をしなくてはならない場面で、強いストレスによって胃が痛くなることがある。仕事で長時間ストレスを感じていていると、不眠や血圧上昇、胃腸障害などが起きる。試合の前や面接の時などに緊張すると、汗をかいたり、心臓がどきどきしたりするだろう。これは、目や耳で見聞きしたものが脳に伝えられ心理的状況が追いつめられて緊張状態が生じ、脳が汗を出せとか心拍数を上げろと命令を出しているのである。このとき、体は五感→脳→自律神経→身体現象がおきている。心理的状況から生じる生理的変化を研究するのが生理心理学と呼ぶ。緊張することの原因が脳にあるという考えとは、脳のさまざまな記憶や機能があるからである。脳から記憶や機能が伝達され、ドキドキしたり怒ったり、笑ったりする。過去の思い出やさまざまな感情が脳に残っておりそれが心と一体化しているということである。大脳辺縁系の扁桃体が、視覚、味覚、聴覚、嗅覚、触覚などの五感を身体のはたらきとともに常に相関させながら、世界を意味づけし続けていることから、身体の機能と精神の機能との融合を実証的に考察し、 精神とは身体であると結論付けることができる(市川浩『精神としての身体』講談社学術文庫)。身体のはたらきは、道具を使う時、あるいは「見る」という行為により、無限に「ひろがり」をもち、そのつど相関的に個性的な意味を付与していく。悲しいという気持ちが起きるのは、感情中枢が興奮しているのである。悲しいと思った行動や感情、思考は、脳の働きに過ぎないのである。一方、精神のはたらきは、 多元的な対象世界に個性的な意味を付与していく。コップがある時、その対象の属性(形、色、素材、機能等)の一つを抽象化し、「コップ」を分節化するのである。すなわち、脳のはたらきは、身体のはたらきと融合しているのである。
心が脳に存在する問題として四つの仮説が立てられている。
唯物論とは人間の本質は物質だけであると考える立場である。物質だけが存在する。心などという非物質的なものは存在しないという考えである。私たちが心と呼んでいる概念は、物質の言葉で作られている。
人間の本質は心だけであるという考えである。すべては心に還元できる。いいかえれば物質は実在しないことになる。人間が意識しているものや意識に存在しているものだけが存在している。人間が認識している限りにおいて世界は存在すると考えている。
二元論は前章で述べたように心と脳が両方あるという考えである。心身二元論は心と身体は別々に存在するという考え方であり、少々、心身二元論とニュアンスが違う。前章でも述べたように、二元論には大きな問題がある。物と心とはどのように関係しているのか。この論理を立証することは非常に難しい。
同一説は心と物の両者を認める。この点で、二元論に似ている。しかし、同一説が二元論と異なる点は、物としての人間と心としての人間とは、同じ何かの異なる見え方にすぎないと考える点である。心脳問題においてはこのような四つの仮説が出されている。近年ではクオリアということばが出てきた。クオリアとはラテン語で「質」という意味を表している。意識の質感という意味で用いられている。意識の質感とは、分かりやすく言うと、赤いものを見たときにありありと感じられる赤さである。このクオリアは、近年において重要な分野として研究者の間でも脚光を浴びている。しかし、科学の非常に難しい分野まで関わってきてしまう。ニューロンの問題や他にもさまざまな分野にまで広げていかないといけないため、この論文では省略する。
このように四つの仮説が出てきた。それぞれの仮説を説明していく。これらの仮説を解明する前に、これらの仮説を解明する手がかりとなる著者と書物を説明しておく。ドイツの哲学者カントである。カントは、1781年に主著『純粋理性批判』を書き上げ、世に問うた。このカントの作品がこの四つの仮説に関する答えを導き出している。『純粋理性批判』は、理性の本性を徹底的に追求している。カントは本文で「人間の理性はある種の認識について特殊の運命を担っている。すなわち理性が退けることもできず、さりとて答えることもできないような問題に悩まされる運命である。退けることもできないというのは、これからの問題が理性の自然本性によって理性に課せられている。また答えることができないというのは、かかる問題が人間理性の一切の能力を越えているからである。」(カント純粋理性批判「上」岩波文庫P.13)。人間の理性にとって、自分で答えが導き出すことができるような問題ばかりが存在するわけではない。人間を悩ませ、答えを導かせることができない問題をアンチノミーと呼ぶ。アンチノミーとは日本語で「二律背反」であり、矛盾しあうものがどちらも同時に成立することを意味している。
もう少し分かりやすく説明すると、人間に自由がある。それとともに自由がないこともある。つまり両方とも妥当性を持っているということである。喜びとはテストでいい点を取ったから喜んでいるのか、それとも感情中枢の働きなのか。このジレンマはアンチノミーの現代的展開であった。アンチノミーという概念によって、心脳問題に関して考えることが容易になった。
唯物論について説明すると、唯物論では、人が心理的現象と呼ぶものとは本当は脳内活動によるものであると考える。しかし、唯物論は、一方で存在しないはずの心理的現象の圧倒的な自明性を前提としていると考えられる。この立場では、論理的に完結することができない。
唯心論の考え方は、唯物論と正反対のことである。正命題しか存在しない立場だといえる。人間の本質は精神だけである、という唯心論を主張することは、少々難しい。唯物論は本当に存在するのは脳内だけであると主張しているが、脳内だけとなるとこの世界のすべて脳が作り出したということになってしまう。世界が脳の産物になるということは私たちが生活しているものがすべて脳から作り上げられているということになってしまう。例えば、動物や家、海などそんなことは絶対にありえない。作り出している世界が物体ではないということは観念であるほかならず、心しか存在しないことになる。よって、唯物論は唯心論に反転することになる。
二元論の考え方は、唯物論や唯心論とは少々違う。しかし、二元論においては、心と脳の両者をつなげるようなものは存在していない。異なったカテゴリーに属する語彙を同列に並べてしまい、理論として成り立たないカテゴリー・ミステイクが起こってしまう。
同一説も、二元論と同様にアンチノミーを受け入れる。ここでは、心と脳が同じものというが、いったい何が同じなのかを考える。同じ何かとは人間であると解釈しても、それではその人間とは何か、とどんどん追求されるようになってしまう。追求が続いてしまうと心脳問題のはじめの考え方に戻ってしまう。悪無限に陥ってしまう。
以上のようにこれらの四つの考え方を短くまとめると、唯物論、唯心論はアンチノミーなどないとするだけである。二元論はカテゴリー・ミステイクに陥ってしまう。同一説は堂々巡りをしてしまう。結局、カントによれば、心脳問題とは答えが見つけることができないものであることを立証されてしまう。
心脳問題においてのジレンマとは、アンチノミーをとおして示された人間理性の限界にほかならない。以上のように、さまざまな観点から心脳問題を説明してきた。その中で最大の問題は、喜びという実感は体験できるが、喜びを実感しているのは感情であり、感情中枢の働きの方は喜びを実感していると感じることはできない。ここに大きなジレンマが発生している。このように考えれば考えるほど混乱が生じてしまう。
さまざまな書物を読み自分なりに心の存在はどこにあるのか理論を立ててみた。私はこの研究を通して、心は脳に存在しているのではないかと思う。科学の分野で考えることが一番根拠があり、立証しやすいからである。感触、視覚、嗅覚などのさまざまな感覚を使い、その感覚が脳に伝わり、神経として信号がおこなわれる。その信号によって過去にこのような出来事があったと感じる。人を好きになり、その人と話すときに心臓の鼓動が速くなったりする。脳に心が存在するということは、私なりに理論づけることができた。心という物質は存在していない。そのため脳の感情や経験が重なり合って表情として表れ、脳からの信号によって心臓の鼓動が速くなるようにできている。心臓に手を当てたりする行為は、一種の儀式である。心臓が人間の中心の部分であり、血液を送り出す重要な部分であるためである。心臓は人体の中で大きな役割をしている。脳に手を当てて国歌を聞いたりすることは少々不恰好なところもある。この行為は、心臓を守ろうとしている心理も表している。心の分野は科学、医学、心理とさまざまな分野が融合しているため、なかなか確定した論理づけをすることができない。私は、この研究の中で、心の状態、日常的な経験、脳についての科学的な知識がどう結びついていくのかをめぐって結論に達するに至っていない。まだまだ発展途上である。この心脳問題は二千年以上前から考えられてきている。二千年以上も解決されていない問題はなかなかないであろう。しかし、確実に進歩している。古代よりも現代の方が、科学、医学ともに成長しているためである。科学、医学の発展によってますます心と脳の関係をより明確に理論づけが可能になるであろう。