ダンススタイルからライフスタイルへ

はじめに

第一章 オリジナリティ

1、オリジナリティ

2、対象的オリジナリティ

3、主体的オリジナリティ

第二章 発動性

1、発動性

2、我性的能動的独創性

3、個性的能動的独創性

第三章 真の独創性

1、真の独創性

2、近藤良平

おわりに

はじめに

 私は、大東文化大学に入学し、それまで全く未知であった「ダンス」に挑戦しました。早くも三年が経ち、ダンスを通じてたくさんの人々とコミュニケーションを築き、友情や人間関係を深め、たくさんの感動に巡り会うことができました。松本千代恵先生は、その著書『体で語る人間社会』では、体から発せられる言葉・表現は心の内面を表すと言われています。身近な例で、日本の挨拶を見ると分りやすいと思います。日本人のお辞儀の深さは相手に対する想いの深さとも言われています。その意味で、私は、ダンスを通じて心かよわせるコミュニケーションをとることができたと思います。

 私が関わってきたのはモダンダンスで、それもほんの一部にすぎません。「ダンス」の定義は様々なものがあり、あまりにも幅が広く、深いものだと知りました。またそのことは、現在ダンスを続けている私自身、日々感じていることです。三年間ダンスの練習をしてきたのですが、そのダンスについて、あまりに自分が無知なことに気づき、ダンスそのものについて調べてみたいと思いました。ですから、このゼミ論を通じて、少しでもダンスに関わることを学び、ダンスに対する知識を広げ、その中で自分の興味・関心を持ったものに対し、自分の考えがより深められたらと思います。

 今回のこの論文でとりあげたいテーマは、「オリジナリティ」です。これは、私が三年間ダンスをやってきた中でずっと気になっていたことです。現在「オリジナリティ」という言葉で言い表されているものは、「最初の」「独自の」「本人」などという意味ですが、現在では「新しい」と言う意味で使われていることによってなじみやすいものとなったと思います。その「オリジナリティ」のダンスとはどのように生まれるのか、何らかの方法があるのか、それを主題にしていきたいと思います。

 私のダンス経験はたった三年間という短いもので、まだまだ知識が浅く説明不自由なところもあります。今回のゼミ論は部活を引退したばかりなので、ダンスに対する考え方を見つめ直すいいチャンスだと思っています。私にとってここで何か形に表すことは結論ではなく、新たなスタートだと考えています。私のダンスにおける成長にご協力をよろしくお願いします。

第1章 オリジナリティ

1-1 モダンダンスについて

 モダンダンスの原点は、イサドラ・ダンカンだと言われている。イサドラは、1877年、アメリカ合衆国西部のカリフォルニア州サンフランシスコで生まれ、海、波、太陽という自然に恵まれた地域で育った。イサドラは、自然を肌で感じようと露出した服装で自由に踊っていた。

 当時、ヨーロッパとアメリカにギリシャブームが起こり、ギリシャ風の服装をして踊ることが流行した。しかし、当時のアメリカにその魅力は理解できなかった。なぜなら、合衆国東部(ボストンなど)で支配的であったピューリタンの宗教的影響のもとで、公的な場所で女性の露出は許されないとし、服を着なければ駄目だという習慣が定着していた。ピューリタンの考え方からすれば、露出は卑猥なものであるという受け止め方が一般的であった。これに対し、イサドラは、「女性の自由」「女性の美」を主張したのである。

 1899年、ダンカン家はヨーロッパに渡った。当時のヨーロッパはバレエが盛んで、イサドラのダンスは評価され始めた。バレエは、バレエ着とトウ・シューズと言うのがお決まりだったが、イサドラは裸、裸足になって自分のダンスを見せた。その優雅さ、ダイナミックさに、たくさんの人が魅了されていった。後に、ドイツのラバンらによって身体表現の研究がなされ、しだいに自己表現していくダンサーが増えた。それが現在モダンダンスと呼ばれるようになったのである。自分の生活をダンスによって表現することによって、さらなる自由な発想が生まれ、その結果、この新しい表現方法が評価されていくようになった。

 現在の日本にも、モダンダンスが普及しており、毎年8月には全国高校・大学ダンスフェスティバル(神戸)大会が開催されている。そこでは、6分間という短い間に、自分たちの考えを伝えるようダンスを踊る。そして、毎年新しい発想が生まれている。現在では、それをオリジナリティと呼ぶことが多いが、オリジナリティはどのようにして生まれるのか、その方法を求めて行くのが今回の主題である。

1-2 対象的オリジナリティ

1-2-1 独自性の説明

 はじめに独自性について例をあげて説明したい。ここに一枚の絵がある。その絵には、並木の歩道が描かれている。それは私たちが毎日学校へ行く道で見馴れた景色である。しかし、その絵は独創的な美しさを持っている。何がその絵に独創性を与えているのか。今その歩道の景色を見馴れたものとした。けれども、果たしてそのような歩道の景色は平凡で、どこにでもあるものであろうか。実際は、一つの歩道の一箇所について同じものは決して二度とないのである。朝と夕方では違っているし、晴れた日と雨の夜では異なっている。春と秋とでも同じではない。またその並木の枝や葉、それらが歩道に投げかける影は、その時限りのものなのである。さらに、その時行き違う人々やその人たちの足どり、眼ざしに注意するならば、その歩道の眺めはその時、その場限りのものである。画家はそれに独自の美しさを捉えるのである。それが、その絵を独創的なものにする一つの理由がある。すべて、ある対象、ある現象、ある問題、すなわち一般的にいって与えられているすべてのものには、それだけが持っている固有の性質がある。それは、他のものに還元しえないという意味において単純なものと言える。しかし、単純という言葉は、普通、同質化されたものの単位という意味で用いられるから、ここではむしろ純粋という言葉が適当である。所与の純粋な姿、それがそのものの独自性なのである。

1-2-2 独自性の捉え方

 対象の独自性を捉えるためには、捉えようとする主観は何か特別な態度が要求されるのか。与えられているものをその純粋な姿で捉えるためには、私たちは既にもっているものを捨てなければならない。暗黒の中の本性を知るためには、懐中電灯を照らすことをしてはならない。その時限りの歩道の眺めを、いつもながらの退屈な道と感じるのは、過去の認知で現在を解釈するからである。対象の独自性を捉えるためには、心を空にしなければならない。自我を透明にするのである。むしろ自我を完全に無にする時、はじめて対象の独自性は私たちに明らかとなる。

 例えば、あるダンサーが今流行っている黒人のヒップホップダンスを習う時、もし自分が既に持っているダンススタイルを心に描いていたら、黒人のヒップホップを把握することはできない。黒人のヒップホップダンスを習う時、彼の生きた時代、彼の世界、その時期、その人になり切ることが必要である。しかも、このようにすることによって、かえってそのダンサーについて独創的な見地が生まれるのである。最初から独創性を求める人には真の独創的ダンスは生まれない。どこまでも無にして与えられたものになり切るところに独創性が生まれる。ここでそのような独創性を受動的独創性と呼びたい。

 第18回全国高校・大学ダンスフェスティバル(神戸)で神戸市長賞を受賞した東京女子体育大学「太郎爆発」では、岡本太郎「芸術は爆発だ」という独創的なデザインに共感し、太郎の世界・生き様を表現しようとした。そのために太郎の美術館を見学し、直接そのデザインを肌で感じた。その美術館で見たものをこう語っている。「真っ赤に染まった強烈な入り口。中に入るとブルーの照明に浮かび上がる数々の作品。外に出ると大きく聳え立つ真っ白なやさしいオブジェ。…」そこで見た衝撃的なデザインを衣装やボディペイントなどを工夫し、太郎の世界を出していった。しかし、それだけでこの作品に独創性を生んだ訳ではない。この場合は、オリジナリティがあくまで対象の側にあるという捉え方としてのことである。

1-3 主体的オリジナリティ

1-3-1独自のものを作り出すには

 普通、独創という言葉は、ある主体が独自のものを構想し製作することを意味する。すなわち独創性は対象の側にあるのではなく、主体の側に成立すると考えられる。私たちは、この点についてさらに考えなければならない。

 ここでまた、一つの例をあげたい。周知のようにレオナルド・ダ・ヴィンチのモナ・リザ・デル・ヂォコンダの絵はルゥヴル博物館に陳列されている。その博物館では模写が許可されているために、このヂォコンダの前には幾人の人が模写に専念し、それらの模写はどれも相当よく原画に似ているのを見る。いったん原画から眼を離し、模写との類似を見ると意外なほどそれらはそう似ていないのである。これらは何を意味するのか。それは、それぞれの模写はただ原画の一面しか写しえなかったのであり、逆にいうならば、原画は一つ一つの模写が別々にもつものを全部含んでいるということである。もちろん、模写する人は模写を目的とする限り、意識的に自己を示そうとはしない。しかしその模写を通して、彼らは、レオナルド・ダ・ヴィンチの個性の豊かさに対する自分の個性の貧弱さを認めている。この一例で明らかなように、個性がより豊かであるためには主体はそれだけ多くの質料を内に含まねばならない。

1-3-2 広い知識から生まれる独創性

 私たちは一つの問題に対してある独創的な解決を与えるためには、一つの道にできるだけ専門化しなければならないと考えてしまうだろう。その考えももちろん必要なことであるが、独創的見地を生むためには、できるだけ多くの領域について知識を持つことが望ましいのである。

 第18回全国高校・大学ダンスフェスティバル(神戸)で最優秀賞を受賞したお茶の水女子大学「人形あそび」では、児童虐待問題の表現を追求していく中で、仮面、衣装や音響、鏡張りの小道具の工夫や、球体間接人形の動き、等身大の操り人形などの幅広い研究がされている。その作品で使われた「仮面」の意味は「愛しているのか、虐めているのか判別がつかなくなっている母親の象徴としての仮面」を示し、母親の麻痺した感覚を「仮面」によって表現したのである。この一例でわかるように一つの独創性が生まれるためには出来るだけ多方面の知識を持ち合わせていくことが必要である。

 私は、先に(1-1-2)受動的独創性は「自我は透明でなければならない」とした。しかし、この例で独創性はすべての色彩を吸収する黒のような主体から生まれると言える。つまり主体はできるだけ多くの質料を内に持たなければならないのだ。

第2章 発動性

2-1 発動性

2-1-1 独創性は質料でなく、それらを統一する発動性から生じる

 ここで大切なことは、質料はあくまでも材料であり、単に個性を豊かにする素材に過ぎない、ということである。主体の個性は材料の存在だけからは成立しない。それらを個性にしていくものは何であるのか。個性が成立するためには、それらを統一する何かがあるのであろう。そして、その「何か」をここでは「発動性」と呼んで説明していきたい。個々の材料は発動性とともに統一体を構成するのである。その質料と発動性の関係を、一つの比喩的な解説によってイメージしてほしい。

 「淀んだ水が静まりかえっている。水は果てしなく広がり、死んだような水面にはさざ波一つ立たない。そこには色々な花びらが散っている。どこからともなく木の葉が落ちてくる。その上にさらに、いろ様々な色紙や糸屑が投げられる。水面は色の氾濫であり、混乱である。突然、人がその水の一ヵ所を廻し始める。はじめの運動は極めて困難であろう。そこに雑多が投げられていることは、その運動を一層難渋にしよう。しかし、その努力が続けられるとともに回転は容易となり、その速度を増すのみである。そうして、それとともに雑然たる色彩は次第にその混雑を消し統一色を生み出してくる。こうして、最後に色調を生じ、渦巻の鋭い尖端となって、水中深く切り込んでいくのである。」(澤潟久敬『個性について』第三文明社 レグレス文庫)

 このように質料は単に質料である限りは、単なる雑多ナ集合体に過ぎない。そこで、それらに統一性をもたらすものが発動性なのである。従って、発動性が強さを増すとともに、そこに生じる主体の個性は、ますます明らかになる。逆に言うならば、既にあるもの、外部から与えられたものを、そのまま受け入れる主体には独創性は生まれない。発動性のないところに個性はなく、独創性もないのである。しかもその発動性は強まれば強まるほど、多くの質料を自らのうちに吸収する。まるで強い渦巻が遠方のものを巻き込むように。すなわち、発動性は強まるとともに、一見偶然とも見える発明をも自らの内に取り入れるのである。独創的な発明は偶然できるかもしれないが、偶然的事象はそれが単に偶然的であるならば、独創的な見地や発明を生まないであろう。

 ここで、黄色・青といった質料を「既にあるもの」と呼び、それから生み出された緑を「未だなきもの」としたい。「既にあるもの」とは、時間的に既に生起したものであり、従ってそれは固定化し不動化したものである。例えば、一つの問題に対して既になされた研究も、その研究をした学者の身体を構成する細胞も、すべて既にあるものとし、質料「既にあるもの」とする。その「既にあるもの」に対し「未だなきもの」を生むものが発動性である。ここにおいて1-1-2で述べた受動的独創性に対して能動的独創性が生まれることが言える。

2-1-2 質料と発動性の区別

 発動性は新たな個性を生み、その意味で発動性は新たな質料を成立させると言えよう。けれども、それはあくまで新たな配合によって出来た質料であり、質料そのものは発動性からは生まれず、質料は常に質料から生み出されるのである。例えば、緑色は黄色と青が混合することによってできるのであって、黄色も青もないところから緑を生み出すことは出来ない。そこには混合しようとする発動性が必要なのである。

2-2 我性的能動的独創性

2-2-1 能動的独創性

 能動は受動の反対である。その能動性は「ただ自らの行動を起こす主体のみが自らのうちに捉えうるもの」という意味であり、すなわちある主張に対して主体が自己を主張する時、そこに能動性が生じるのである。受動的独創性は、「主体が自ら自己を無にすることによって生み出す独創性」であるのに対し、能動的独創性は「主体が自己主張によって生み出す独創性」である。いずれも発動性が生じる訳だが、ではその能動的独創性の主体や自己主張とはどう言ったものなのか。また、それらの発動性は同じものなのか。

2-2-2 我性的能動的独創性

 もし自己が既にあるものとして存在し、その既にあるものを不動のものとして、その既にあるものを守ろうとするならば、その自己主張の態度は頑固と呼ばれるものである。頑固とは自らの正・不正にかかわらず、ひたすら既にあるものを主張しようとする態度である。またそれが周りの環境やどの外的存在にも拘らず、どこまでも一つの立場に終始しようとするならば、それは偏狭と言われるものである。偏狭とは、他者を包容し、自らを更に広く深くする寛大さを欠く狭小な自己主張の態度である。これら頑固や偏狭はいずれも能動的であり、その立場においては新たなものを生むが、それは独創性と呼んでいいのか。

 では、真の独創性はどのように成立するのか。それについては独創性を生む発動性を追求していく必要がある。発動性を生むものは何なのか、またどのような態度が必要なのか。オリジナリティという言葉には「独創性」と「風変り、珍奇など」の2つの意味がある。頑固や偏狭な態度は風変りと呼ぶべきであろう。それらは自我を主張するのみであって、ただその主体性のみを唯一の価値とし、我性が高まるほど非我との共通点がますます減少していく一方である。このように能動的独創性には我性的な態度を持つ能動性があり、それによって生み出される独創性を我性的能動的独創性としたい。

2-2-3 我性と個性の区別

 ここにおいて我性と個性の区別を明らかにしておきたい。我性は連続的に自我を主張し、それによって、非我との相違は増加するのみであるのに対し、個性は非連続的にその独自性を高めるとともに、それによって多くの個性が内面的に融合されることである。

2-3 個性的能動的独創性

 「既にあるもの」が「未だなきもの」を生むのであれば、「未だなきもの」を発動性とし、「既にあるもの」を静止として考えたい。それは静止に対する発動を意味するもので、静それによって発動性をあばきたい。

(一)今ここに解決されねばならぬ問題があるとする。それには既に、A・B・Cという解決が与えられているとする。そのA・B・Cは、それぞれの長所をもち、一般にはそのいずれによってもXに対する一応の解決となり得るものである。従って我々もまたその一つをいわば隋性的に使用することもできるし、またそれぞれの長所をとり短所を除いて混合的な解決をしようとする。また、その既に存する解決に満足せず、自ら発動的に新たな解決を発見しようとすることもある。その場合にはA・B・Cは完全に消化されねばならない。そして、それが完全にその解決者自らのものとして、消化され、更正する時、そこに解決Sが生まれるのである。

 次に、今までに解決がAのみ与えられている場合はどうであろうか。その場合には、それをそのまま受け入れるか、それを否定するほかないであろう。Aをそのまま承認する時には独創性はない。既に存ずるAを否定することにより独創的Sは生み出されるのであるが、仮定により、私たちはAから出発するのであるからSはAの自己否定として生まれるのである。即ちここでは既にあるものが不動のものと承認されず、その自己否定によってのみ新たなものが生み出されるのである。

この場合、自己否定には二種類あることを見逃してはならない。一つは、自己を絶対に否定することであり、その場合には所謂死んで生きる真の創造が行われる。しかしまた、自己の不純なものをとり取り除こうとするいわば純化による自己否定も可能であり、実際的には多くの独創性がこの方法で行われるとも考えられる。即ち独創性は多くの場合、完全に先行的解決のないところから生ずるのではなく、むしろ一つの立場を純化し徹底するところに生まれるのである。そして、ここでは我性的能動的独創性に対して個性的能動的独創性が望ましいといえる。

第18回全国高校・大学ダンスフェスティバル(神戸)で特別賞「独創的な発想」を受賞した千葉大学「考えるカメレオン」では、1度でき上がった作品を半年かけて作りなおしてできたと語っている。1度できた自我を捨てながら、試行錯誤しできたといえる。ここで私が言っているのは、特別賞とは関係なく、この「考えるカメレオン」を表現する創作過程における自己否定に着目していることに注意してほしい。

 最後に、Xに対し今までいかなる解決も与えられていない場合はどうであろうか。答えがないところに否定することもできない。その場合には、まず解決者が発動的に解決を開始するほかならない。よって発動性は発動性自ら生じることがここで明らかになる。あたかも先に述べた比喩において静止する水を廻転する発動性は、自ら発動することによって始まるように、ここでは前例よりもさらに明らかに、独創性を生むのは発動性であることが示されている。よって真の独創性は個性的発動的独創性なのである。

第三章 真の独創性

3-1 真の独創性

3-1-1 これまでのまとめ

 初めに、私たちは、オリジナリティを2つに分け、対象的オリジナリティと主体的オリジナリティとした。対象的オリジナリティとは各々の存在のもつ純粋な性質であって、それを独自性と訳し、それに対して主体が自ら行動して生み出す新たなものを独創性と呼んだのである。次に、その独創性を2つに分け、受動的独創性と能動的独創性を区別した。前者は、主体が自己を無にすることによって生まれるものであり、後者は主体が自己主張することによって生み出すものである。またその能動的独創性について更に2種類あることを知った。その1つが我性的能動的独創性であるが、それは独創性ではなく「風変り」と呼ぶことにし、それに対する個性的能動的独創性が望ましいと考えた。しかしながら自己否定する対象がない場合は、発動的に問題解決をし、それを個性的発動的独創性とし真の独創性とした。

3-1-2 真の独創性について

 私は、真の独創性を個性的発動的独創性としたが、具体的に何を意味するのか。それが個性的発動的である以上、あくまでその主体は独自性を強調して積極的に活動を開始しなければならない。その意味において、それは一面において、できる限り能動的でなければならない。しかしながら、この個性的能動性が我性的能動性に対して異なるところは、後者はただ自我を主張するのに対し、前者は非我を自らの内に包容するために、却って既に存する自我を否定することになる。従ってこの個性的独創性は他面においては、できる限り他者を受け入れるものでなければならない。結局、真の独創性は、能動的独創性であると同時に受動的独創性でなければならない。しかしながら、受動的にして同時に能動的な認識はどうして可能であろうか。しかし、その疑問を問う前に「その事実」「既にあるもの」をとらえることが必要である。その疑問に対し、私はコンドルズの近藤良平さんの考えを紹介させていただきたい。

3-2 近藤良平

3-2-1 コンドルズ

 近藤良平は、1990年代初頭全国高校・大学ダンスフェスティバル(神戸)に出場していた。その後、その大会で出会った日本各地のモダンダンス部の男子らによって男性のみのダンスグループであるコンドルズを結成する。しかし、当時モダンダンスの男子人口は少なく、関東近辺で12?3人ほどだった。1996年からダンス活動を本格化し、近藤良平がコンドルズの中心となっていった。1999年、東京グループ座公演でブレイクし、毎年、東京、京都、大阪、福島、札幌、広島、新潟など日本各地で公演をしている。またアメリカ、韓国、香港、シンガポール、チリ、中国、オーストラリアなど世界各地を回り活躍している。『ニューヨーク・タイムズ』紙では、「21世紀の日本を最高の形で我々に伝えた」と絶賛を浴びせている。ロサンゼルスでの公演では、ダフ屋まで出たという。

3-2-2 コンドルズの特徴

 コンドルズの特徴は、メンバーが特異な身体でユニークなキャラクターを持っていることである。また、衣装ということからみると学ランが印象的である。また、ダンス、映像、生演奏、人形劇、演劇、お笑いなどを計蜜に組み合わせ、様々なものに取り組み、自由な発想を生み出していく。そんなばらばらなものを融合していく近藤良平は個性的発動的独創性を生む人物だと言えるだろう。

2-2-3 近藤良平の考え

 近藤良平自身の考え・精神はどのようなものか。2つのコメントに着目し、考えていきたい。(1)まず、「ダンスにやっちゃいけないことはない」と主張している。一見我性的能動性でもある考えだが、これはあらゆる質量を内に吸収するための個性的能動性、自己をより純化していると考えられる。(2)次に「ダンスをダンスとして捉えない」。それは「ダンス」という言葉の固定概念によって、ある表現を「ダンスにしなくてはならない」と束縛され、自分を狭小にし、自由な発想を邪魔するからである。新しい発想、独創性を生みたいという考えから、「新しい発想、独創性を生まなくてはならない」という価値観が生まれ、それによって発想が制限されてしまうのである。

では、ダンスをどのように捉えるのか。近藤は「ダンスする時は、飲み会の一発芸やる時の気持ちと同じ」と言っている。これを言い換えるなら、ダンスはダンススタイルでなく、日常生活の自分そのもののライフスタイルということを示しているだろう。ダンスが身体表現、体の表現であるならば、その身体表現は、生活の中でありふれたものなのである。例えば、相手に挨拶する時のお辞儀や握手などのしぐさは、その人に対する気持ちを伝えている。またサッカーの試合で応援して騒ぐのも身体表現と言えるだろう。身体表現は私たちの生活にとって当たり前のことであって、身近なものなのである。そして、その生活に自ら発動的に取り組んでいくことで人々との関わりや経験を自らの内に吸収し、ダンスに新たな発想を生むのである。

おわりに

 私は、ダンスに独創性を求めるが、ダンスはやっぱり楽しんでやりたい。理屈なしに踊ることを楽しみたい。楽しく踊れば発動性も高まると思う。またこれからも多くの人とダンスがしたい。体から発する言葉は、心の内面を出す。恥ずかしかったら、恥ずかしくていい。体は素直で、自分の本音が出る時でもある。共に汗かいたり、笑ったり、同じ時代、同じ空間を共にしたい。体で語り合って素直な自分を見ていきたい。

参考文献