『日本のODA―より良い援助とするために―』

はじめに

この論文では、日本のODAの歴史(戦後から現在まで)、海外(アメリカ・ヨーロッパ)の援助を見た上で、今後、日本のODAをより良いものとするための方策について書いていきたい。

まず、ODAとは発展途上国の経済発展を支援することを経済協力と呼んでいるが、ODAはこの経済協力の一種であり、ODAはOfficial Development Assistanceの略称で、日本語では「政府開発援助」と訳されている。

ODAは以下の3つの要件を満たす資金の流れと定義(DAC(※1)での定義)されている。

1.政府あるいは政府の(経済協力)実施機関によって供与されること

2.途上国の経済開発や福祉の向上に奇与することを目的としていること

3.資金協力については、その供与条件がグラント・エレメント(※2)25%以上であること

援助供与国の間で、援助政策について意見調整を行う国際フォーラム。1961年9月の経済協力開発機構(OECD)※3発足に伴い、右傘下の委員会の一つとなり、開発援助委員会(DAC)に改組された。現在の加盟メンバーは、OECD加盟国(30ヶ国)中のアイスランド、トルコ、メキシコ、チェコ、ハンガリー、ポーランド、韓国及びスロバキアを除く22各国と、欧州委員会の合計23メンバー。

(※1)開発援助委員会(DAC)

援助供与国の間で、援助政策について意見調整を行う国際フォーラム

(※2)グラント・エレメント【grant element】

発展途上国への援助の中に占める贈与的要素。経済協力開発機構(OECD) の開発援助委員会(DAC)が採用している政府開発援助(ODA)の質を示す指標。贈与相当分。

ODAのうちどれだけが贈与または贈与に近い低利の借款であるかを示す指数。贈与相当指数ことである。

※3経済協力開発機構(OECD)…1948年、アメリカによる戦後の欧州復興支援策であるマーシャル・プランを受け入れる体制を整備するため、欧州経済協力機構(OECD)がパリで設立された。その後、1961年に欧州とアメリカ合衆国が対等なパートナーシップとして協力を行う機構として組織された。加盟国は、30カ国。

第1章 日本のODA

第一節 ODAのはじまり

日本のODAは、1954年(昭和29年)10月6日にコロンボ・プラン(※1)に加盟したことから、「技術協力」の形で開始された。同時に日本は、戦後復興から高度経済成長が開始された約20年間米国や世界銀行から援助を受け入れていた「被援助国」でもあった。日本が被援助国としての顔と援助国の顔という二つの顔をもっていることから、今後、リーディング・ドナーとして成長が期待されている。このことは、日本が非西欧国家として唯一の先進国に成長した事実とともに、被援助国側の気持ちや事情を理解する上でも利点がある。

しかしながら、日本のODAは、明確な援助理念・哲学を欠いたままスタートし、その時々の内外の情勢に応じて援助理念をはじめ援助形態、実施方法などについて必要な修正・変更を行いながら発展軌道を描いて、今日に至っているところに特徴がある。

このように発展してきた日本の援助は、戦後復興期、戦後賠償期、援助伸長期、計画的拡充期、トップ・ドナー期の5期に分類できる。

戦後復興期(1945〜1953年…米国からの援助の受け入れと世界銀行からの第1号借款供与)

この時期、日本は、米国から、ガリオア(占領地域救済政府金)・エロア(占領地域復興金)による救済・援助を受けていた。ガリオアは、米国が軍事予算から支出した援助基金であり、食料・医薬品などの生活必需品物資の緊急購入に使われた。また、エロアは、綿花、羊毛などの工業原料の輸入に使われた。ガリオア・エロアは、旧敵国たる日独を対象に、1946〜1951年までの6年間で総額50億ドルが供与された。また、1953年、日本は初めて世界銀行からの借款(対象案件は、関西電力多奈川火力発電所建設計画)を借り入れている。

戦後賠償期(1954〜1963年…賠償中心の援助と世界銀行からの借入を行った援助揺藍期)

1954年10月6日、コロンボ・プランに加盟し、日本の技術協力が開始されたが、日本のODAが技術協力から開始されたことは、当時の資金不足などから考えると当然といえる。コロンボ・プラン参加への意義は、何より敗戦後9年の日本が、技術協力を通じて、速やかにアジアの国際社会への復帰を図らんとする政治外交上の意思表示であった。

日本の国際社会復帰に当たって、サン・フランシスコ条約(※2)第14条(対日賠償条項)で、戦後処理として義務付けられ、賠償請求国と日本との間の二国間の個別交渉に委ねられた。賠償を請求し、交渉を行ったのは、フィリピン、ベトナムの2カ国であった。ビルマ(現ミャンマー)は、サン・フランシスコ会議に欠席し、インドネシアは、同条約に署名したが批准はしなかった。ビルマ、フィリピン、インドネシア、(南)ベトナム共和国の4カ国に、22年間に及ぶ総額3,643億円(10億ドル余)の賠償を支払った。対日賠償請求を放棄したカンボジア、ラオスに対しては、両国と「経済・技術協力協定」を調印して無償援助を行った。

また、日本は援助をする一方、1952年8月、世界銀行に加盟し、1953年、世界銀行からの第1号借款を受け入れている。これ以来、1965年に終了するまで13年間にわたり、合計34件、総額8億6,290万ドルの借款を受け入れた。この投資は、戦後の日本の経済発展の基盤となった重要インフラ、基幹産業、特に道路、電力、鉄鋼の分野に大きく貢献している。この主な事業として、東海道新幹線、東名高速道路・名神高速道路、黒部第四水力発電(黒四ダム)、愛知用水などがある。

1958年、インドに対して、最初の円借款が供与され、その後日本のODAの3本柱の1つとなる円借款が開始された。これは、賠償とはまったく無関係の経済協力であり、当時日本経済の至上命令であった輸出振興を図るためのタイド(※3)の有償資金協力の開始であった。こうした援助は、欧米諸国から「商業利益追求のための援助」として強い批判を浴びることとなり、賠償・援助の開始にともない、援助の実施体制も整備されていった。

援助伸長期(1964〜1976年…援助の量的拡大・形態の多様化が図られた援助成長期)

日本は、1964年4月、経済協力開発機構(OECD)に加盟し、先進国への復帰を果たした。また、ODAの額も1964年の1億1,580万ドルから1976年の約11億490万ドルへと10倍の規模に成長している。この時期は、援助の量的拡大のみならず、援助形態の面でも多様化が図られ、実施体制もさらに整備された時期である。また、1967年7月には対フィリピン賠償支払を最後に日本の賠償は完了している。

計画的拡充期(1977〜1988年…中期目標設定による援助拡充期)

この時期、賠償以後の援助は「中期目標の設定」に基づき実施するとした点で、日本の援助が着実な拡充期に達したことを示している。1975年に文化無償援助、1976年に災害緊急援助、1977年には食糧増産援助などが開始され、援助形態の充実が図られた。さらに、この時期には国際的なベーシック・ヒューマン・ニーズ(BHN)(※4)重視を受けて、日本のODAもBHN重視、人造り重視の姿勢がとられた。また、援助地域もアジア中心から、中近東、アフリカ、中南米、太平洋地域へと拡大されている。

トップ・ドナー(1989〜現在…トップ・ドナーとしての援助拡充期)

 日本は、1989年に初めて米国を抜いて、世界最大の援助供与国(トップ・ドナー)となり、1990年を除き、それ以降の数年間、トップ・ドナーを維持してきた。トップ・ドナーとなった日本は、被援助国である開発途上国における民主化・人権、さらには被援助国における軍事支出・武器の輸出など紛争を助長するような要因と日本の政策との関係に注目し、1991年「ODA四指針(※5)」を決定した。続いて、1992年、「政府開発援助大綱(ODA大綱)」を閣議決定した。

第2節 日本のODAの特徴

第1節のような経緯がある日本のODAには、以下のような特徴がる。

(1)有償資金協力(円借款)の比率が高い

(2)アジア地域への供与が多い

(3)供与対象は経済の基礎整備事業が多い

(4)調達条件のアンタイド(※6)が高い

(1)有償資金協力(円借款)の比率が高い

他の先進国は有償資金協力の比率が低いのに対し、日本のODAは円借款の比率が高い。この理由として、日本のODAは基本原則として途上国の自助努力を支援する目的のためであり、被贈与国に大切に使ってもらうためとしているが、一部の援助国から反対の意見もある。しかし、日本も発展のより遅れた返済能力の乏しい国々に対しては無償資金(贈与)で対応し、有償と無償の双方で対応する無償資金(贈与)はイギリス、カナダなどのODAの総額(有償と無償の合計額)より多いのが現実である。

(2)アジア地域への供与が多い

なぜ、飢餓に見まわれているアフリカや、貧困の程度が大きい中南米地域に大幅な援助をしないのかと思う人もいるであろうが、日本とアジア地域が地理的・歴史的・経済的に深い関係があるからである。また、戦争による被害への贖罪としてのアジア地域への援助の配慮が強く認識されているためでもある。次に、アジアには世界の途上国に住む人口の約7割の人が生活している。さらに、アジア地域は他の途上国に比べ順調に経済成長してきている。今日、韓国、台湾、シンガポールはODAを受取る立場から供与する立場になっている。

(3)供与対象は経済の基礎整備事業が多い

日本のODAは経済の基盤整備事業が中心である。経済の基盤とは、工業生産、農業生産等の生産活動を直接的、間接的に支える設備等(電力・ガスなどのエネルギー分野、道路・港湾・鉄道・空港等の運輸分野、電話等の通信分野、河川改修等の農業分野)である。このような経済基盤を整備することによって、民間セクターの活動を活性化させ、発展途上国の経済活動を直接的・間接的に活性化させ、人々の生活水準を向上させるというのが狙いである。

(4)調達条件のアンタイド(※6)が高い

調達条件については、日本企業だけを調達適格国とするタイド、日本と途上国を調達とする部分タイド、全世界に門戸を開く一般のタイドの3つがある。実は、日本は一般タイドがほとんどを占めている。このような国は世界を見ても日本だけである。

日本のODAの形態は、「二国間援助」と「多国間援助」の二つに大別できる。前者は、「贈与」と「借款」に分類され、後者は、「贈与」、「出資等」、「貸し付け」に分類される。

贈与は「無償資金協力」、「技術協力」がある。「無償資金協力」は返済義務のない資金贈与で行う資金援助であり、基本的には収益性が低く、円借款では対応が困難な医療・保険、農業開発、上下水道などのBHN、教育、研究関連分野が中心だが、DACの勧告もあり後発開発途上国(LLDC)(※7に)対して「原則無償化」の方針のもとに、電気、電気通信、橋などの基本インフラ整備の分野まで無償資金を供与している。対象国の選定基準はIDA(国際開発協会・第二世銀)の無利子融資適格基準を採用し、配分は、アジア地域・アフリカ地域に重点がおかれている。

※1コロンボ・プラン…アジア・太平洋諸国の経済・技術協力機関のことである。1951年発足した。

※2サン・フランシスコ条約… 第二次世界大戦以来の戦争状態を終結させるために,1951年(昭和26)9月8日,サン・フランシスコで,日本が連合諸国とのあいだで調印した講和条約(「日本国との平和条約」)であり,翌1952年4月28日に発効して日本の独立が回復された。

※3タイド…特定の国にのみに限られることをタイド(いわゆるヒモ付き援助)条件という。

※4ベーシック・ヒューマン・ニーズ(BHN)…人間としての最低の生活条件、基礎生活分野。

※5ODA四指針…被援助国における軍事費の動向・兵器の開発、製造等の動向・武器輸出入の動向、民主化の促進および市場指向型経済導入の努力ならびに、基本的人権および自由の保障の状況などといった諸点に十分注意を払うというもの。

※6アンタイド…援助資金を利用して物資を購入する際に、世界中のどの国からでも輸入できることは一般にアンタイド条件という。

※7後発開発途上国(LLDC)…開発途上国の中でも特に開発の遅れている諸国。国連開発計画が1人当たりのGNPや人口などを指数化して認定基準を設けている。

第2章 海外のODA

ここでは、日本以外の国、地域としてアメリカ、ヨーロッパ(フランス、ドイツ、イギリス、北欧諸国)のODAについて、特色、援助理念に触れたい。

主用援助国の二国間ODA対象分野別シェア(1995年)
日本 アメリカ フランス ドイツ イギリス DAC平均
社会的インフラ 24.1 32.2 42 37.9 29.4 30.5
経済インフラ 45.1 9.0 8.6 20.4 16.4 23.7
農業分野 9.3 6.0 6.1 6.1 10.9 7.4
工業その他生産分野 5.9 9.3 9.7 5.4 7.1 8.2
食料援助・救急援助 0.2 9.2 0.2 6.0 14.2 5.2
合計 100.0 100.0 100.0 100.0 100.0 100.0

出典:『ODA実施状況年次報告(1997年度)』226項。

第1節 アメリカのODA

まず、アメリカのODAについて見てみる。そもそも、ODAのはじまりはアメリカである。アメリカは第2次世界大戦後の西側自由主義諸国の経済復興に資金面、技術面、組織面などで巨額の援助を行い、この経験を生かしながら、積極的に取り組んできた。その援助額は、一時は日本に抜かれたが世界で第1位の援助額である。

アメリカのODAの特色として以下があげられる。

(1)米国の援助が世界戦略と密接な関連を持っている。

(2)「ベーシック・ヒューマン・ニーズ」(BHN)の重視。

(3)途上国への大量の人員の投入による援助。

(1)米国の援助がその世界戦略と密接な関連を持っている

その高度な戦略的色彩は、戦後初期の「東西対立」の時代が原点となり、自由主義世界を防衛し、共産主義勢力の浸透を防ぐために、西側に属すると見られる途上国に対して、とくに強力に支援してきた。この米国の援助の性質は、戦後一貫して変わらない。ただ、このような政治的色彩がしばしば米国の援助の有効性に障害となってきたという指摘は多いし、またこれが内政干渉であるとする途上国側の反発も根強い。

(2)「ベーシック・ヒューマン・ニーズ」(BHN)の重視

(1)の特色が政府の考えから出ているのに対し、BHN重視の伝統は基本的に議会の姿勢を反映したものである。1973年に議会の主導で対外援助法が改正された。それ以来、米国は貧困問題に精力的に取り組み、食糧・栄養、人口計画、保険・衛生、教育などの社会セクターの分野に優先度を与えてきた。

(3)途上国への大量の人員の投入による援助

これによって技術移転と組織づくりを進めることを目的として、現場に援助のために大量のスタッフが派遣されている。このためきめこまかい援助が可能になる。ただ、近年の米国の財政事情や全般的な「援助疲れ」(※2)は、伝統的な大型の援助体制の維持を困難にしている。なお、援助に際して途上国側の「自助努力」を強調する点は、西欧諸国の中では異色である。米国の場合は、「自助努力」の中身は、民主的な政治体制や市場原理の重視などを含むことが多い。

また、米国の二国間援助は、経済支持援助、開発援助、食糧援助の3つの形態から構成されている。二国間ベースは資金協力、技術協力とも国際開発庁(AID)の担当となっている。最近は、AIDの人員削減と機構縮小で活動拠点の整理が行われている。なお、米国には、対途上国を専門にするシンクタンクとして「海外開発協議会」(ODC)があり、援助問題について国内だけでなく、国際的に大きな影響力をもっている。

第2節 ヨーロッパのODA

次は、ヨーロッパのODAを検討する。ヨーロッパ諸国は、1996年にDACメンバーであって援助実績のある21カ国中16カ国(現在は22カ国中16カ国)と大半を占めており、2003年におけるヨーロッパのシェアは58,6%となっている。ただし、ヨーロッパには経済規模が小さい国も多く、フランス、ドイツ、イギリス、オランダ、イタリア、スウェーデン、ノルウェー、スペイン、デンマーク、スイスの10カ国でヨーロッパ全体の90%を占めている。

ここでは、フランス、ドイツ、イギリス、北欧諸国のODAについて触れる。まず、フランスについて。伝統的な援助理念は、国際的な連帯や世界平和への貢献などに加え、「フランス語とフランス文化の普及」が重要な位置を占める点に特徴がある。最近は、フランス語・フランス文化の普及を中心とする技術協力(教員や技術者の派遣、および、留学生の受け入れ)は著しく低下しているが、依然として重要な要素であることに変わりがない。また、旧仏領地域に対する旧宗主国としての支援の責任という「使命感」は今でも一貫しており、地理的配分にも反映されている。フランスのODAの特徴は、その地理的な配分である。旧仏領諸国がアフリカに集中していることもあって、サブ・サハラ・アフリカ(※2)向けの援助が多く、ODA全体の6割に達している。

次に、ドイツについて。ドイツのODAは、西欧の他の主用援助国と比較すると、必ずしも特別な個性を示してこなかった。1991年には新たな援助基準(人権尊重、政策決定プロセスへの住民参加、法の支配、市場志向型経済、貧困克服)が公表されたが、バランスのとれた方針となっている。世界各地域の開発ニーズに対応して着実に援助を実施してきた結果といえる。援助上位を占める国は人口の多い国々が中心となっており(エジプト、インドネシア、中国、インドなど)、堅実な拠点志向といえる。分野別配分にしても、社会インフラ、経済インフラ、生産セクターなどにバランスのとれた分配となっている。

イギリスについて。いわゆる「援助疲れ」現象が顕著になっており、金額面では援助活動は長期的に停滞しているが、明確な理念・方針を持って援助活動をしている。そのため存在感は決して小さくない。すなわち、イギリスは一貫して貧困の緩和を目的とし、サブ・サハラ・アフリカの重視、LLCDの重視となっている。1990年以降は、民主化、人権を重視した援助姿勢をも打ち出している。

また、ドイツと同じように、多くの国を援助供与の対象国としている。分野別では、社会インフラ、とくに教育を重視した配分となっている。条件面では、贈与を原則としているが、二国間援助のアンタイド率はDACのメンバーの中でも最低水準である。

最後に、北欧諸国について。スウェーデン、デンマーク、ノルウェー、フィンランドの北欧4カ国は、援助の規模はあまり大きくはないが、明確な理念があるゆえに存在感がある援助をしている。各国の援助理念・援助政策として、以下のようにおおむね一致している。@持続可能な開発に向けて環境面への配慮、A貧困の緩和、B社会セクターでの女性の地位改善の重視と、それを通じての人的資源開発、C民主主義、人権、市場原理の強調。

また、対象地域は、サブ・サハラ・アフリカが5割を占めており、LLDC向け比率も高い。重点分野は各国により多少違うが、スウェーデン、デンマークは社会インフラを、ノルウェー、フィンランドは経済インフラを重視している。各国とも、特定国および特定領域への援助に限定している傾向もみられるが、一方で各国ともにNGOの活用で実績を上げている。

各国とも基本的によく似た体制を取っていて、援助担当組織の一元化、議会の影響力の強さが共通点である。実施を担当する「スウェーデン国際開発庁」(SIDA)、「デンマーク国際開発局」(DANIIDA外務省の一部)などには、経験豊富な専門家を擁している。

※1 援助疲れ…国際収支と財政収支の赤字が続くことによって援助余力が低下する現象。

※2 サブ・サハラ・アフリカ…サハラ以南のアフリカ地域。表のように、サブ・サハラ・アフリカの人々の生活は、他の途上国を著しく下回る。ただし、同じサブ・サハラ・アフリカでも、国ごとに状況が違う。

サブ・サハラ・アフリカと途上国平均の生活条件の比較
サブ・サハラ・アフリカ 途上国平均
平均寿命 51.4年 63.30%
保険サービスへのアクセス(85〜95年) 57% 80%
安全な飲料水へのアクセス(90〜95) 45% 70%
1人当たりのカロリー摂取量(92年) 2,096Cal/日 2,546Cal/日
識字率(93年) 56.0% 70.6%
就学率(93年) 42% 55%

(出典)UNDP、Human Development Report,1996

第3章 より良い援助とするために

第1節 日本のODA理念

日本のODAの量は、世界でも第1位、2位を競るにも関わらず、「哲学や理念がないバラマキ援助」、「顔がない援助ゆえ、途上国は警戒心や疑念が増大している」という内外からの批判があった。つまり、日本が援助で何を目指しているのか判然としないという批判である。このような批判や意見に対し、日本政府は1992年に行政大綱において、ODA大綱を策定しODAに対する我が国の理念等に関する包括的考え方が国レベルでまとまった。

日本のODAの特徴については第1章の第1節で触れたが、ここでは日本のODAの理念の内容と、問題点について書きたい。

外務省HP

http://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/oda/index/seisaku/taikou.html

このODAの理念には以下のような、3つのキーワードがある。

(1)「人道的配慮」

(2)「相互依存」

(3)「自助努力の支援」

(1)「人道的配慮」

人道的配慮の根底に、世界全体をひとつの共同体として、また人類を地球市民としてとらえ、その連帯をはかるという1993年に発表されたブラント委員会報告を基礎とした認識がある。つまり、豊な国が貧しい国を助けるのは当然であり、放っておくことは許されないということである。

(2)「相互依存」

「相互依存」とは、南北の格差拡大が危機をもたらすというマイナスの認識から出発しているが、別の言い方をすれば、南と北がひとつの世界経済の中で、お互いが依存し合って共存していくべきであり、またしていかなければならない、というプラスの前向きな認識でもある。

これが衝撃的意味をもつにいたったのが、1973年の第一次オイルショックの時である。石油という北の経済に欠かすことの出来ない第一次産品を有する南の途上国が、北の諸国の経済を根底から揺るがすことができることを知らしめることになった。

(3)自助努力支援

ODAは、途上国の経済発展または自立させるための手段の一つにすぎず、ODAのみによってそれを達成することはできない。つまり、途上国自身の強い意思と実行努力なくしては、経済の発展・自立はなしえないのである。

日本が自助努力支援を理念の一つとしたのは、日本自身の経済発展の経験からであり、日本古来の質素・倹約・勤勉の思想の実践が背景にあったのではないかと考える。しかしながら、この理念に基づいて莫大な金額が動いているにも関わらず、しっかりと運営されているかを監視する機関、また、これを取り締まる拘束力もない。これは大きな問題である。

第2節 ODA基本法

日本のODAは、量の面では今後も確実に増えつづける。どんどん金額は増えていくのに対して、ODAは野放しのままであるし、その状態に変りがない。

 日本政府も、質の改善などと言い出してはいる。しかし、批判を受けて、そのつど取り繕ったり反論したりしても、自ら日本のODAの問題を明らかにし、積極的に改善していこうという姿勢からはほど遠い。それどころか、湾岸危機、湾岸戦争を契機としたネオナショナリズム、大国志向の台頭は、「国際貢献」の名のもとにODAの戦略化を促した。今やODAは、自衛隊の海外派遣とともに、日本の外交、安全保障政策の最大の武器となっている。

自衛隊には、憲法9条をはじめとするさまざまな規制・制約がある。一方、ODAに関しては、何ら規制する機関・法規がない。それゆえに、依然としてODAは、他人ごととして片付けられてしまう風潮がある。

ODAが恣意的に用いられ始めているいま、私たちの手でODAを律することができる制度改革が緊急課題となっている。世界最大規模になったODAを統括する法律は存在しない。関連法律として、ODAを執行する機関を定めた国際協力事業団(JICA)(※1)法や海外経済協力基金(OECF)(※2)などがあげられるが、これらは、特殊法人の設置を定めただけにすぎない。

ODA基本法に最低限盛り込まなければならない内容として、以下の条項が挙げられる。

(1)ODAの理念

現在、日本政府はODAの理念として「人道的配慮」、「相互依存」、「自助努力支援」などという用語を挙げている。ところが、これらの用語だけでは、ODA供与を裏づける理念ではあり得ない。ODAは、それ自体の目的が受取り国民側の生活向上、福利厚生の改善にあるとするならば、目的に沿って最貧国・地域の最貧層に供与することを理念とすべきであり、このことが法律に明文化されなければならない。

(2)ODAの原則

1991年4月、日本政府はODA四指針を発表した。受取り国の事業、民主化、人権、市場経済への動向などをODA供与の参考にするというものであるが、原則というには、あまりにも不十分である。それを証明するかのように、1991年8月には海部首相(当時)訪中時に、中国がODA四指針のすべてに反しているにもかかわらず、ODA供与再開が表明された。このように、手前勝手な指針ではなく、明確な原則が確立・堅持されなければならない。その際、ODAの理念に基づき、受取り国民側の主権を尊重する、軍事政権、独裁政権には供与しない、供与にともない人権侵害、環境破壊を引き起こさない、軍事転用は絶対に認めない、などが最低限必要となる。

(3)統括執行行政機関の設置

省庁再編される以前は、無償資金協力の場合は外務省と財務省で、有償資金協力の場合はこの2省含め経済産業省、内閣府を加えた1府3省体制でODA執行の意思決定が行われていた。現在は、省庁再編が行われ多少スマートになったが、依然として意志決定に時間を要している。

最近、この問題に関して、経済財政諮問会議の民間委員が、政府や関係省庁内に分散している経済協力の関連部門をまとめ、「ODA庁」に統合し、首相直属にするように主張している。実は、独立したODA庁を作る構想は2001年の中央省庁再編の直前にも浮上した。しかし、「省益」を失うことを恐れた外務省や大蔵省(現、財務省)の抵抗で実現には至らなかった。

(4)独立した監視機関の設置

ODAをめぐる問題で、もっとも大きなものの一つが事後評価の不備である。日本は世界最大クラスのODAを供与しているが、その使途についての調査はきちんと行われていない。外務省が一部の案件に関し有識者に事後評価などを委託しているが、調査方法、調査内容、調査期間などの点で満足のいくものとはなっていない。再び、「哲学や理念がないバラマキ援助」、「顔がない援助ゆえ、途上国は警戒心や疑念が増大している」などの批判をうけないためにも、またODA供与の過程で生じた問題点を明らかにするためにも、事後評価はODA供与に不可欠である。そのためにも、政府機関から独立した評価・監視機関を設置する必要がある。

(5)情報公開と住民参加の原則

 ODAに関する情報は、供与する日本側でさえも、一部の限られたものしか公開されていない。一方、受け取る側でも当該政府の手に委ねられており、一般にはほとんど公開されていない。日本政府が公開しない理由として、外交機密、受け取り国への内政干渉の危険性、金融機関の守秘義務がある。しかしながら、ODA案件には、供与により影響を受ける住民の参加を義務づける必要がある。具体的には、案件の詳細な情報を公開し、公聴会などにより住民の意見をくみ取っていく。そして、住民の利益と対立する場合には、計画を修正する。一方、日本側も徹底した情報公開を行う。受け取る側、供与側、双方への徹底した情報公開の結果生じうる異議申立てに対しては、双方ともにその批判を認め、以後の改善のための資料とする必要がある。

 もちろん、ODA基本法を制定したからといって、ODAの問題が一挙に解決するものでもないが、制度改革の第一歩として重要である。

※1国際協力事業団(JICA)…開発と途上国・地域に対する協力を目的とする特殊法人。途上国・地域への経済および、技術協力のほか、青年海外協力隊の活動促進も行う。

※2海外経済協力基金(OECF)…発展途上国地域の開発に必要な資金を提供する機関として、1961年に設立された。全額政府出資の機関である。

おわりに

日本のこれまでの援助は、日本が被援助国だったころの成功例をそのまま供与国に押しつけたものである。確かに、この援助で成功した国や地域もあるが、もっとその国、地域の歴史や文化を理解した援助が必要である。つまり、現地(被供与国・地域)の人物、また現地(被供与国・地域)に精通した人物を援助機関に招く必要がある。こうした面で、ODA基本法が制定されれば、法的な拘束力があり、しっかりとした援助ができるのではないかと考える。

しかし、3章に書いたように、ODA基本法を制定しても、日本の援助が「絶対に良くなる」とはいえない。私は、理念や基本法も大切だと考えるが、援助において一番大切なことは「意識改革」だと考える。私も含め、援助供与国側の人間は「援助をしてやっている」という考えが少なからずある。そうではなく、「援助をするのが当たり前」という考えが必要となる。前者の考えには、マスコミとくにテレビの力が大きいと考える。テレビでは、特別番組を組み、良い面(援助を受けた一部の人の、泣いている顔から笑っている顔)しか映し出していない。そうすると、私たちは、ろくに援助の内容も知らないで、「良いことをしている」と納得しまう。

 前者から後者の考えにするのは、時間と労力がかかる。そこで、教育の現場でぜひ子供たちに、今の現状(供与側の実態と、供与される側の実態)を伝えてほしい。これも、また、時間がかかるかもしれない。しかし、実際に、これから先も援助は何十年と続くだろう。今の子供たちが成長し、伝えられる側から伝える側、そして、本当の意味で供与する立場となったとき、日本のODA(援助)が世界から名実ともに認められるものとなっていると考え、また、そうなっていると信じたい。

参考文献

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  • 青木 直人『怒りを超えてもはやお笑い 日本の中国援助・ODA』(祥伝社、2001年)
  • 大石 進『ODAの経済学』(日本評論社、1998年)
  • 藤林 秦・長瀬 理恵『ODAをどう変えればいいのか』(コモンズ、2002年)
  • 西垣 昭・下村 恭 『開発援助の経済学』(有斐閣、1997年)
  • 『日本のODA環境・人権・平和JICAの環境社会配慮を考える!〜ガイドライン(2004)をめぐる動きと課題?』(特定非営利活動法人「環境・持続社会」研究センター(JACSES)、2004年

    参考資料

  • 朝日新聞 2005年8月5日付 8面・2005年8月30日付 2面

    参考サイト

  • 政府開発援助 ODAホームページhttp://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/oda/