地方競馬存廃問題

 

大東文化大学

法学部 政治学科 3年

学籍番号 03142356

大橋 秀幸

 

はじめに

 

第1章   競馬の歴史

第2章   地方競馬存廃問題

     第1節    廃止された競馬場〜高崎競馬〜

     第2節    存廃論議の続く競馬場〜笠松競馬〜

第3章 問題の背景

第4章 今後の復興策

 

おわりに

 

参考文献・参考ホームページ・参考資料

 

 

はじめに

 

日本において競馬は長い歴史を持ち、かつてのギャンブルという性格から、現在では1つのレジャー産業として成長を遂げた。

中央競馬では平成7年に4兆円の売り上げを記録した。

しかし、近年は売上不振が続き、地方競馬にいたっては、経営難から廃止が相次ぐ事態となっている。

地方競馬の廃止の続く要因は何か。不振の続く地方競馬の復興策はあるのか。地方競馬の歴史を見ながら考えていきたい。

 

第1章 競馬の歴史

 

 現在、日本において競馬は中央競馬と地方競馬の2種類が行われている。一口に競馬と言っても、この2つは起源が異なる。まず、中央競馬は、日本の近代化とともに始まった「洋式競馬」に起源を持ち、1862(文久2)年春、横浜(現在の中区)で居留外国人によって行われた競馬が最初とされる。日本人による「洋式競馬」は、1870(明治3)年、東京九段の招魂社(後の靖国神社)で、同神社例大祭の「奉納」を目的としていた。日本人による馬券の発売は1906(明治39)年に開始されたが、この時点では政府の黙許によるものであり、馬券に熱中する者の出現や、また施行者の不手際もあって、08年に新刑法により馬券発売が禁止された。以後、既存の15競馬施行団体を11競馬倶楽部に再編成し、馬券を売らない競馬が続行された。だがこの間、馬券復活を願う人々と国産馬改良の為には馬券発売を法的に認めることが最上の策だとする考えから、1923(大正12)年、競馬法制定と共に全国11倶楽部で馬券発売が認められた。その後11倶楽部は日本競馬会に統一され、第2次大戦中は、開催は一時中止された。戦後、GHQは、日本競馬会だけが競馬を開催するのは独占禁止法にあたるとした。それを受けた日本国政府は競馬の国営化・公営化を決断した。1948(昭和23)年、新しい競馬法が制定され、法律上わが国の競馬を体系化し、国営競馬(後の中央競馬)と地方競馬という2つの競馬体系が定められた。一方、地方競馬は馬術の流れを汲んでいる。日本の馬術は神事に由来し、地方競馬は神社の祭典において奉納されてきた神事競馬を源としている。戦前は統括団体が帝国馬匹協会であり、1910年に競馬規定の改正により実施は認められるものの、馬券発売は禁止されていた。そのため、地方側は財政難に苦しみ、優勝馬当てクイズのような形で入場者に景品を出すといった苦肉の策を強いられていた。1939年に軍馬資源保護法の制定により、軍用保護馬の鍛錬を行うための鍛錬馬競走として馬券発売を許可されたが、1943年に太平洋戦争の激化で地方競馬は停止された。戦後、1948年に地方競馬法が制定され、馬券発売も公認され、都道府県・市町村主催として開催されるようになった。

 このように、1口に競馬といっても中央競馬と地方競馬では、起源が異なるものであった。中央競馬と地方競馬の売上げ額の推移をみると、1970(昭和45)年度では、中央競馬が約4070億円・地方競馬約3172億円であったが、1975年以降両者の格差が広がり始め、中央競馬は1997(平成9)年度に約4兆円、地方競馬は平成3年度の約9862億円を頂点に、以後減少基調が続き、2003年度には、中央競馬が約3兆円、地方競馬約4450億円まで減少している。

 

第2章 地方競馬存廃問題

 

   第1節   廃止された競馬場〜高崎競馬〜

 

 まず、地方競馬存廃論議の中で、2004(平成16)年12月に廃止が決まった群馬・高崎競馬を見てみる。高崎競馬は1923(大正12)年、当時の高崎市の有力者が中心となり、高崎常設倶楽部を設立した。それに伴い現在地に総面積72000uの高崎競馬場を創設した。競馬開催は翌24年、群馬県畜産連合会主催の優勝馬景品付競馬、勝馬投票券の発売を伴う競馬開催が始めだった。1943(昭和18)年、太平洋戦争の激化による地方競馬の停止に伴い、高崎競馬も開催出来なかった。第2次大戦後、1946年、地方競馬法が公布され、群馬県馬匹組合連合会主催による第1回競馬が高崎競馬場で開催された。48年制定の競馬法によりこれまでの連合会が解散となり、群馬県が財産を継承し、群馬県と高崎市・前橋市・伊勢崎市主催による公営競馬が開催され、1961年には、県・3市に太田市を加えた1県4市による群馬県競馬組合が設立された。

 1961(昭和36)年度から1994(平成6)年度にわたり、高崎競馬は、群馬県競馬組合の構成団体への配分金として、群馬県に対し約143億円、高崎市に約36億円を拠出してきた。来場者数は1961年度から2002年度までの間に約1500万人を数え、近年では馬の姿をみるなど動物とのふれあいの場としての役割もあった。しかし、2002年度は75日の開催で、23万7千人の来場者があったが、前年に比べると2割減少しており、1日あたりでも約3200人で1割減であった。勝馬投票券発売額は、1990年度は245億円の売上げがあったが、この年をピークに毎年度減少を続け、2003年度には47億円となり、この間で総額で2割弱へと、1日あたりの発売額も3割へと大幅に減少した。また、単年度収支についても、2002年度で収入総額57億9,000万円に対し、支出総額66億4,000万円で、約8億5,000万円の赤字見通しとなった。単年度収支は、1994年度に赤字に転落して以降、2003年度まで12年連続で赤字となり、03年度末の累積赤字は約51億円となった。

 この間、群馬県競馬組合では、人件費や開催日数の削減など経営合理化を図るとともに、同じ地方競馬の北関東ブロックであった宇都宮競馬(2005年3月に廃止)、足利競馬(2004年3月に廃止)との「北関東Hot競馬」の名称で北関東同士での交流レース開催などによる連携、他の競馬場の場外発売強化、新賭式の導入など増収策の実施やファンサービスの拡充など行ってきた。その一方で、高崎競馬の今後のあり方について広く意見を聞く場として、2002年2月に11名の有識者からなる「高崎競馬検討懇談会」を設置した。翌年4月、「2003(平成15)年度から2年間、経営改善のために最大限の努力を行い、収支の改善がみられず、収支均衡の見通しが得られなかったときは、速やかに廃止の決断が必要」との答申が提出された。この答申が提出された2年目の04年度になっても、昨年度と比較して減少が続いて下げ止まりがみられず、短・中期的に経営が好転することが見込めず、開催日数についても赤字幅を解消するまで削減するのが難しいとの見通しを得た。こうして、経費節減が限界にきていることなどから、総合的に見て収支均衡の見通しを得ることは困難であるとして、2004年9月28日、定例県議会において、高崎競馬廃止を表明し、同年12月31日の開催をもって廃止された。

 廃止後は、これまで高崎競馬に関わってきた関係者の生活再建が問題となった。2005年9月1日、失職した厩舎関係者の有志が中心となって設立した競走馬の休養・育成施設を経営する株式会社「境共同トレーニングセンター」が本格稼動した。同社は、伊勢崎市境の旧トレーニングセンター(県所有)の土地約28ヘクタールのうち、土地12・4ヘクタールと建物14棟ほどを賃借し、JRAや南関東の4地方競馬で走る競走馬の休養・調教などを請け負う厩舎に貸し付けるほか、獣医師や装蹄師とも業務提携し、馬の育成環境を整備することを主な業務とする。高崎競馬廃止時に失職した調教師・騎手・厩務員など183人のうち、この育成事業にかかわるのは30〜40人で、また敷地内にウォーキングマシーンやパドックなども整備する予定である。

 また、生活支援金について、県は厩務員労働組合に対し、支援金を01〜03年の年間収益の平均額の8割を12で割った金額を1カ月分として、就職が決まった時期に応じてこの額の9〜12カ月分を支払う事とし、また、調教師に対しては、厩舎を経営する特別事情に配慮し、1人あたり200万円を別途支給する対応を行った。

 

   第2節   存廃論議の続く競馬場〜笠松競馬〜

 

 次に、現在存廃論議の続く競馬場として、岐阜県笠松競馬をとりあげる。笠松競馬は、1934(昭和9)年が起源である。1930年創立の笠松競馬倶楽部が、不振にあえぐ中津競馬の移転を計画し、1934年、中津川市にあった中津競馬場を笠松町へ移転させ、現笠松競馬場ができた。現在の笠松競馬は、1970(昭和45)年、岐阜県・笠松町・岐南町が競馬実施に関する事務を共同処理するため「岐阜県地方競馬組合」を設立したことに始まる。」その後、1996年4月に「笠松競馬管理組合」を統合して現在に至っている。2004年度は月曜日から金曜日を基本に5日間を1開催単位として、年間21開催、110日間にわたるレースが行われた。

 笠松競馬の収益金は、構成団体である岐阜県(約192億円)・笠松町(約33億円)・岐南町(約19億円)の合計約244億円が配分されて、畜産振興・社会福祉・医療普及などの事業への投資を通じて地方財政に大きく貢献してきた。また、競馬組合設立以降の勝馬投票券売得金額(発売金額から返還金を控除した実質的収入)の推移をみると、1970年度に約207億円で始まり、80年度の約445億円を頂点に、その後は減少し、2003年度では約174億円という最低水準に落ち込んでいる。

 当初、笠松競馬は、勝馬投票券売上の伸びに応じて収益も順調に推移し、1991年度には実質単年度収支で約14億円の黒字を計上し、基金残高も約52億円を有した。93年度に実質単年度収支が赤字に転落後、基金取り崩しによる赤字補填が行われ、2003年度末の基金残高は、約5.6億円という危機的な経営状況となっている。この笠松競馬の経営を改善する動きとして、2000年4月、公営競技の開催されていない長野県等からの競馬ファンを誘致し売上げの増加を図るため、恵那市に専用場外施設「シアター恵那」を開設、00年度は約26億円の売上げがあり、笠松自体における発売額の減少分を補っていた。そのほか、笠松競馬の経営改善の試みとして、1991年度までは、元旦レース・薄暮レースの開催、公営競技で初めての電話投票制度の導入や特別観覧席設置等、ファンサービスの充実による積極的な競馬振興策が図られた。92年度〜2000年度まで、シアター恵那のオープンのほか、名古屋競馬場等との場外発売開始、中央競馬との交流レース・オグリキャップ記念開始、投票方式拡大など競馬そのものの魅力強化策が図られた。しかし、99年度以降、勝馬投票券の売上減少の傾向が強まり、開催経費の一律カット等思い切った対策が実行されている。

 この笠松競馬は、地域の雇用確保と地域経済への貢献、畜産の振興や健全な娯楽の提供といった面においては、その存在意義はあり、最近ではイベントによる動物とのふれあいなどという新たな役割も生まれつつある。笠松競馬は、地方競馬の第一の目的である地方財政に対する貢献という点では、過去に約244億円を構成団体に配分することにより、地方財政に対して大きな役割を果たしてきた。しかし、平成5年度以降収益金の配分はなく、勝馬投票券発売額が年々縮小し、また競馬組合の経営自体が厳しい状況では、地方財政への貢献は全く期待できない。こうした現在の経営状態を踏まえ、笠松競馬をこれ以上継続することに意義を見出す事は困難で、速やかに廃止すべきとの提言が出された。

 しかし、2005年2月、平成17年度に関しては大幅な支出削減を行ったうえで、試験的に存続させ、年度を通して赤字見通しとなれば廃止、という方向で存続が決まった。05年度予算は前年比27.9%減の134億2,015万円、馬券収入は前年度当初より49億9,000万円少ない124億円と見込んだ。レース賞金は4割減の4億1,717万円に絞り込んだものとなった。中央競馬との交流レースだった1着賞金4千万円のオグリキャップ記念や同3千万円の全日本サラブレッドカップは、名古屋や金沢など他の地方競馬との交流レースに変わり、約1億2千万円の経費削減につながるが、「レベルの低下はやむを得ない」との声もある。この他、企業や個人に協賛金を出してもらい、レース名に「冠」をつけることができるスポンサーレースの募集を始める。広告看板の設置といった特典もあり、組合は新たな競馬ファンの開拓につなげたいと期待する。協賛金は、企業は5万円以上、個人は1万円以上。10万円以上の出資者は、競馬場内に広告看板を設置することが出来るシステムである。

 

第3章 問題の背景

 

 では、なぜこのように、地方競馬は廃止・存続論争がおこるような低迷に陥ってしまったのだろうか。まず考えられることは、レジャーの多様化である。宝くじの参加人口は、1997年の3550万人から年々増加し、2003年では4,670万人となった。平成16年度の地方競馬の参加人口が110万人で、中央競馬の参加人口がその8倍にあたる約880万人であったことを考えても、この両者の参加人口に差が出ているのが分かる。また、ギャンブルの代表格的存在であるパチンコ・パチスロは、2003年度の貸玉料は29兆6340億円で、同年の中央競馬の10倍近い数字だった。また、パチンコの性別・年代別活動参加率では、パチンコの参加率は20代男性で31.2%、30代男性で35%で、中央競馬の20代男性の14.5%、30代男性の18%に比べても多いことが分かる。公営競技は、ファンが投票券を購入してくれることで成り立っている事業であるにもかかわらず、ファンに対するサービスが行き届かず、収入は一般会計に繰出し、ファンサービスが2の次、3の次になってしまったことがあげられる。また、情報化社会の進展とともに公営競技は衛星放送によって、いつでも全国のレースをリアルタイムで見ることができ、電話投票、インターネット投票によって、いつでも投票券を購入できるまでになってきた。そうなると、ファンのニーズは、「最高レベルのレース」に集約され、下級ランクのレースは「やればやるほど赤字になる」という傾向に押し流されてしまった。公営競技事業は自治体の業務のうちで専門的な知識や経験、企画力が問われる仕事であるが、自治体の定期異動でこの部署に配属され、2〜3年で再び異動していくという人事サイクルであったために、中長期的視点にたった人事計画、事業運営が不可能であった。また、公営競技事業にとって、景気の変動や顧客ニーズに応える新たな設備投資のための内部留保は不可欠であったのに、財政調整基金や施設改善基金等の積み立てが不十分で、単年度収益額(当年度のみの収入から経費を差し引いた額)を上回る額を一般会計に歳出してきたため、わずかな積立金や繰越金をも取り崩してしまう状態になり、急激な経営危機に陥ってしまったことなどがあげられる。また、地方競馬と中央競馬では、中央競馬では競馬施行・運営、馬券発売、情報発信を一つの組織の下で全国展開しているのに対し、地方競馬は資金規模・興行エリアが小さく、基本的に自己の小エリアで開催・運営・発売を個々バラバラに行っているという2者の違いも問題であると考えられる。

 では、地方競馬以外の公営競技の現状はどのような状況なのであろうか。各公営競技の2004年度の売り上げはそれぞれ前年比で競輪6.9%、競艇8.8%、オートレース11%減少であった。03年度の競輪に続き、競艇も1兆円の大台を割った。オートレースは全国に6場しかないが、埼玉の川口オート以外は軒並み経営難という厳しい状況にある。競輪についてみてみると、公営の競輪事業は全国計87自治体が実施しているが、03年度の全国売上高は5年前に比べて3割減の9,831億円で、30年ぶりに1兆円を割り込んだ。茨城・水戸市は8月、県営取手競輪場で開催している競輪事業から撤退を表明した。同競輪場では県と、水戸市、土浦市、取手市が年12回、競輪事業を開催している。水戸市、土浦市の両市は1958年度から一部事務組合を設立して事業を運営。これまでに2市で計160億円以上の交付金収入を得ていたが、2002年度は5,000万円、翌03年度は3,000万円の赤字を計上し、繰越金を充当しても1000万円程度の累積赤字がでる見込みである。埼玉・さいたま市では、市の大宮競輪場で開催している競輪事業から撤退の考えがあることを明らかにした。さいたま市の競輪事業はバブル絶頂期の1990年度に車券売上額が約157億円に達し、91年度は黒字額も約16億円を記録したが、車券売上額も黒字額も減り続け、99年度には単年度赤字に転落した。昨年度の車券売り上げは約28億円に落ち込み、累積赤字は約1億6,200万円に膨らんでいる。このように、地方競馬の収支悪化、廃止・存廃論争は地方競馬のみの問題ではなく、競輪など他種公営競技においても同様の状態にある。

 

第4章 今後の復興策

 

 地方競馬が近年、人気復興策として打ち出しているのがJBC(ジャパン・ブリーディング・ファームズ・カップ、以下JBCと略)である。JBCは、アメリカで行われている競走馬生産者の祭典ブリーダーズカップを参考に2001(平成13)年に始まったものである。アメリカでは、1970〜80年代にかけて、サラブレッド市場の拡大期を迎えた。生後1年数カ月の幼駒に1000万ドル以上の値がつくほど異常なほどの馬の価格の高騰が見られたのに対し、競馬場の状況は入場者数や発売金額の伸び悩みに苦しみ、このブームと反比例するかのように、大衆の支持を失っていった。沈滞した競馬を救うために生産者自らが何かをしなければならず、できるだけ幅広い層に競馬の魅力をアピールし、競馬が大衆的な娯楽、つまり野球やフットボールのようなスポーツとしての支持を得るという思想に基づき、生産者自らの発案、主導によりレースを行う、これこそがブリーダーズカップの原点であった。1984年にブリーダーズカップが創設され、現在ではカテゴリー別(各年齢・性別・距離)ごとに1つの競馬場で1日8レースのG1レースを行い、まさに生産者の祭典と呼ばれるにふさわしいものとなっている。

 日本においても、近年の地方競馬場の不振や、賞金の減額による馬の価格の低下や売れ残りは、すでに生産者に打撃を与えている。競馬の現状に対する危機感、自ら立ち上がるべきという決意は、生産者としてアメリカに共通するものであり、その危機感は主に地方競馬に向けられた。アメリカのように生産者の発案、主導によるレースという原点に立ち、競馬を幅広い層にアピールして大衆の娯楽、スポーツとして支持を集め、地方競馬の窮状打開によって日本の競馬全体の発展を図ろうとしている。そのため、地方競馬を中心に行われているダート競走においてチャンピオンデーを設けることが計画された。2001年10月31日、ダートの選手権距離である2000mで行われるJBCクラシックと、生産馬のスピード能力を問う1200mのJBCスプリントの2競走をもってスタートした。

 このJBCは、1日に2つのG1レースを行うことと、JBCの開催競馬場を持ち回りで行うという点で画期的なものであった。JBCは2001年から第1回・第3回・第4回を東京・大井競馬場で、第2回を岩手・盛岡競馬場で、第5回を愛知・名古屋競馬場で開催した。しかし、第1回大井競馬場でJBCが開催された日の売上げ額は39億3766万円で、期待された40〜50億円の売上げには届かず、JBCクラシックとJBCスプリントの2レースの売上額の合計も1996年に同競馬場で行われた東京大賞典の1レース売上げにも及ばなかった。また、入場者数も4万8,454人で、こちらも最多入場者数の7万8,061人に届かなかった。2004年大井競馬場(第1回と同じ)で行われた第4回では、売上げ・入場者共に第1回を下回り、1日の売上げは36億3623万円(対第1回比92.3%)、入場者数は4万0576人(対第1回比83.7%)にとどまり、JBC2レースだけでは、スプリント8億1,432万円、クラシック11億3,730万円で、同じ競馬場で行われた1回・3回に比べても下回っている。地方競馬の中でもっとも売上げをあげている東京の大井競馬場で開催されても、売上げが第1回を下回っていることからして、今後、広告宣伝のさらなる向上などJBCの知名度を高める必要性があると思われる。

 また、JBCにおいて問題となるのは、全国の地方競馬の祭典でありながら、過去に行われたJBCにおいて、地方馬が優勝したことがないことである。2001年の第1回から2005年の第5回までで優勝した馬は全て中央競馬所属の馬であり、地方競馬所属の馬は2着が最高位であった。中央競馬所属の馬は、地方競馬所属馬に比べ出走枠が少なく、5〜6頭しか出走できない。それにもかかわらずここまでのJBCで中央競馬所属の馬が勝っているのは、地方競馬所属馬は中央競馬所属馬よりやや見劣りする点が否めないと考えられる。

 また、2005年1月に競馬法が改正されたことにより、馬券発売の民間委託が可能となった。IT企業大手のソフトバンク子会社のソフトバンク・プレイヤーズは、これまで地方競馬の場外馬券発売を担当してきた日本レーシングサービスとのネット事業分野においての提携に合意し、現在日本レーシングサービスが展開している「D−net」を共同で運営し、システムの管理・運営、また全国各地の競馬場で開催されているレースの映像をネットのホームページなどで配信を行ったり、ネットでの馬券発売を共同で進めていくこととなった。画期的な事業ではあるが、地方競馬のファン層は年々高齢化しており、どこまでファンを取り込むことが出来るのかが注目される。

 

おわりに

 

地方競馬の現状は非常に厳しく、今後も存廃論争が進むにつれて各地で廃止が相次ぐ可能性が考えられる。

笠松競馬のように条件つきで存続していても、赤字が出た時点で廃止というのであれば、毎年廃止の危機に瀕してしまう。

この状態で開催しても、地方所属馬のレベルも上がらず、さらに集客や馬券収入が低下してしまうのではないかと思う。

2005年に改正された競馬法では、馬券発売が民間企業でも行えるようになったから、まだ未知数ではあるが、今よりも身近に地方競馬に触れる機会は多くなるように思われる。

レジャーの多様化した現在であっても、長年の歴史を持つ地方競馬の存在は大きい。

これからも地方競馬によって、競馬が身近な存在として感じる機会が増大して欲しいと願う。

 

参考文献

 

 ・競馬よ!夢とロマンを取り戻せ 野元賢一著 日本経済新聞社

 ・競馬の経営学 堀紘一著 PHP研究所

 ・レジャー白書 社会経済生産性本部

 ・週刊エコノミスト 2003年81号

  エコノミストレポート 破綻寸前の地方競馬 地方から中央へ 岩崎徹著 毎日新聞社

 

 

参考ホームページ

 

 ・JRAホームページ  http://www.jra.go.jp/

 ・地方競馬情報サイト  http://www.keiba.go.jp/

 ・高崎競馬場  http://www2.ttcn.ne.jp/~kuro/mezura/46%20takasakikeiba/top.htm

 ・群馬県地方競馬対策室  http://www.pref.gunma.jp/e/08/keiba/

 ・笠松競馬経営問題検討委員会 中間報告書(案)  http://www.uranus.dti.ne.jp/~amane-u/k-future/keiei_kentou/040913/index_1.html

 ・行革国民会議  http://www.mmjp.or.jp/gyoukaku/index.html

 ・21世紀に公営競技は生き残れるか  http://www.jichiro.gr.jp/tsuushin/693/693_03.htm

 ・宇田川 淳の地方競馬コラム  http://olive.zero.ad.jp/~zbh38794/

 ・ウィキペディア  http://ja.wikipedia.org/wiki/

 

参考資料

 

 ・朝日新聞記事(朝日新聞記事検索「聞蔵」より参照)