フランス革命で女性の権利が獲得できなかったのはなぜか

はじめに

 女性は、古代から中世にかけて、家族・宗教・社会の中で、軽視され続けてきた。その理由として、出産・母性にかかわる女性の性役割が劣等性のあるものとして強調されていたこと、ローマ法以降の法制度の中で固定されてきた家父長制と強大な家父長権力のもとで、女性は隷属するものとして扱われてきたこと、さらに、封建的な身分関係の確立によって身分上の差別を受けてきたこと、などが挙げられる。

中世から近代への展開の中でも、女性を軽視する考え方は存続し、絶対王政期にあたるアンシャン・レジーム(旧体制)期にも、前時代からの家父長制と身分制秩序のもとで、女性の権利や自由が制限され、剥奪されていた。

1789年7月14日にフランス革命が勃発し、同年8月26日には、「人権宣言」(人および市民の権利宣言)が成立した。「人権宣言」では、「人は、自由、かつ権利において平等なものとして生まれ、生存する」と定め、すべての人間の自由、平等を宣言した。だが、実際には、女性に対して男性と等しい権利を保障したわけではない。「人権宣言」成立以後も、女性の従属状態は継続していた。

この論文では、「人権宣言」の内容と矛盾、革命の中で女性の権利を求める活動を見ていき、なぜ、女性の権利がフランス革命期に認められなかったのかを考察していく。

第1章 人権宣言

1−1 人権宣言の成立

フランスでは、絶対王政と呼ばれる旧体制(アンシャン・レジーム)のもとで、社会は3つの身分に分かれていた。第一身分(聖職者)と第二身分(貴族)は特権身分で、税金が免除されるなどの特権を持っていた。しかし、人口の9割以上を占めた第三身分(平民)は、国の財政を支えるために、重い税金に苦しめられていた。しかし平民には、政治的に権利は与えられず、苦しい生活を送っていた。

やがて、第三身分の中でも、啓蒙思想やアメリカ合衆国の独立の影響が広まり、市民的権利や経済活動の自由を求める動きが起こってきた。

フランスは、イギリスとの戦争や、アメリカ独立戦争への援助のため、18世紀終わり頃になると、国の財政は大変厳しいものになっていた。この財政難を立て直すために、全国三部会(身分制会議)を開いて、増税を認めさせようとした。これに対し、平民の代表は、第一身分、第二身分の会議とは別に平民だけの議会である国民議会をつくり、憲法の制定に着手した。国王は、この動きを武力でおさえようとしたため、1789年7月14日にパリの民衆は武器を取って立ち上がり、バスティーユ牢獄を襲撃した結果、革命が勃発して、封建的な特権が廃棄された。

1789年6月19日に、「人権宣言」の起草が提案され、国民議会成立後は、カイエ(陳情書)の検討作業が始められていた。7月6日、憲法予備草案作成の30人委員会が発足し、次いでバスティーユ占拠のおこった7月14日にはムーニエ、シェイエス、タレイランなど8名からなる憲法起草委員会がこの中より選ばれた。このとき、憲法よりも人権宣言の作成を優先させることで意見が一致した。人権宣言に関しては、第六部会で進められていた論議をもとに、8月12日から本格的審議にはいった。

この「人権宣言」の議論の過程では、ラファイエット草案、すなわちアメリカ独立宣言の影響を受け、自然権思想を強調し、抵抗権を規定し、権力の分立を盛り込んだものや、シェイエス草案、すなわち政治制度の目的を強調した純理的色彩が強く、自由について多岐に及ぶ定義が含まれているもの、ムニエ草案、すなわち君主政を明示し、国民と国王のあいだの契約としての国家を構想したものなど、個人の草案をはじめとする多数の草案が議会に提出され、憲法委員会や30にも及ぶ部会での熱心な議論を経て、人権宣言は、8月26日に成立した。

「人権宣言」は、短期間ながら、複雑な過程を経て、さまざまな思想的要素が一体となって形成されたもので、自由・平等などの人権についての普遍的観念が基礎になっていた。

1−2 人権宣言の内容

 「人権宣言」の内容をみると、大きく分けて2つの権利を保障している。1つは、「人としての権利(自然権)」と、もう1つは「市民の権利」である。この2つの権利が、「人権宣言」によって、どのように保障されたのかを見ていきたい。

すべての人間の自然権の存在を承認した「人権宣言」では、「人の権利」の主体は、国家に対峙する人=個人であった。個人の権利が尊重されていたため、「人権宣言」の特徴として、個人主義的性格があげられる。

「人権宣言」の中でいわれる「人」の概念は、とても抽象的で、1789年の国民議会でも、「人」の概念の具体的内容については、少しも問題とされないまま、すべての人に自然的に帰属すると解されていた4つの権利として、第2条で、「自由」・「所有」・「安全」・「圧制に対する抵抗」が掲げられた。

4つの権利のうち最初に記された「自由」については、第10条で、宗教上の意思表明の自由、第11条で思想・表現の自由という、精神的自由の保障が宣言された。精神的自由の規定の特徴として、第1に、人権の普遍性を追求するための礼拝の自由が排除されているという点である。第2に、表現の自由が広く認められたにも拘らず、結社の自由が明文化されていない事から、「中間団体の否認(個人主義)」の思想がみられる点である。第3に、明示的に保障された思想・表現の自由についても、法律の限定があった点があげられる。

次に掲げられた「安全」については、身体の自由(人身の自由)をめぐる諸規定が「人権宣言」のなかに豊富に盛り込まれている。法律による処罰の平等(刑罰平等の原則)(第6条第3段)、訴追・逮捕・拘禁等についての法定手続きの保障(第7条)、罪刑法廷主義・刑罰法規不遡及の原則(第8条)、無罪推定の原則と過度の強制の禁止(第9条)などがそれにあたる。このような法的保障の強化は、身体の安全を確立するためでもあったが、一般意思の表明としての法律自体の優位を確立するためでもあった。

「所有」に関しては、第17条に1ヵ条だけ規定された。第17条では、所有権は「神聖かつ不可侵の権利」として宣言されたが、他の自由に関する条項と同様に、法律によって拘束されるものであった。

最後に、第4の自然権として掲げられた「圧制に対する抵抗」については、「人権宣言」の中では、具体的な規定はおかれていない。これを明確にしないことによって、法律の支配を優位させるという構成をとっている。その背景としては、国民議会議員たちが抵抗権を宣言する必要性を認識してはいても、抵抗権を明記すると、無政府状態を招く危険性が生じることに対して警戒していたことがうかがえる。

「市民の権利」は、もともと社会状態で認められる権利であるため、法律による具体化や制約は当然なされた。

「人権宣言」でいわれる「市民」の概念は、宣言自体の中では明確にされていないが、多くの国民議会議員たちは、「社会状態における人」いいかえれば、「能動市民」(25歳以上の一定の租税要件を満たす成年男子)のみを「市民」とすると考えられていた。

「市民の権利」の具体的内容については、立法参加権、公職就任権、租税決定権、行政報告請求権が定められている。

まず、立法参加権については、第6条で定められている。『人権宣言』では、すべての市民に対して、立法参加権を認められているが、『人権宣言』を前文とする1791年憲法では、代表による他はその権力を行使することができないと定められており、本当の意味でのすべての市民の参政権は権利として、実現されていなかった。

同じく第6条では、市民の公職就任権が定められた。この規定は、法律の前の平等原則を具体化したものであり、その後、1793年人権宣言でも継承された。

第12条・第13条では、権利の保障には、公の武力が必要であり、その維持と行政の支出のために共同の租税が不可欠であることを前提として、租税は、その能力に応じて平等に分担されなければならないと定め、市民は、租税に関して、直接決定に参加できる手段が認められた。

最後に、第15条に定められている行政報告請求権は、『人権宣言』では、単に行政公開原則を定めただけでなく、社会=市民の全体(=国民)を主体とする報告請求権として構成していたことが重要であった。

1−3 人権宣言の矛盾

このように、『人権宣言』は、「人の権利」と「市民の権利」を明確に保障した体系的な宣言であり、すべての人と市民の権利を一般的に保障した、普遍的な人権宣言であったといえる。しかし、法律の優位、「法律による自由」の原則を優先していたこと、多くの国民議会議員によって、市民が「能動市民」に限定して理解されていたということから、普遍性には限界が存在していたことがわかる。

実際に、この宣言が採択されてから行われた憲法案審議で、男子制限選挙制の構想が明らかにされた。これによって採用された選挙法制では、選挙人は能動市民に限定され、女性のみならず、一定の税金が払えない男性も選挙権を排除された。

 さらに、少数者としてのユダヤ人、有色の自由人、植民地の奴隷などが、権利の主体から排除された。これらの人々の権利は、19世紀中葉、法制上の権利の平等が確立されることになった。しかし、女性は決して少数ではなかったにもかかわらず、女性の権利だけはその後も排除され続けたのだった。

第2章 女性の権利を求める活動

2−1 革命期における女性の台頭

『人権宣言』以後の諸法制は、女性に「市民」の資格を与えないことによって、選挙権を否認したことをはじめとして、女性の諸権利を否認し、制限することで、女性を未解放のままにとどめた。しかし、女性の権利の展開にとって、フランス革命をネガティブな側面だけで捉えることはできない。革命によって、女性たちは、開かれた公的政治空間から法的に排除されたが、異なる形で公的政治空間への参加を果たそうとした。

フランス革命の初期、様々な政治活動のなかに、女性たちは先頭をきって参加していた。1789年7月14日のバスティーユの襲撃、1789年10月のヴェルサイユ行進などの民衆運動における女性の活躍はよく知られている。とくに、食糧危機による暴動の際の担い手であったのは、下層の民衆女性であった。革命の主要な担い手となった女性たちは、みずからを解放するための諸権利の要求運動をも展開し、フランス革命期に、先駆的なフェミニズムをもたらした。この点からして、女性の権利の歴史にとって、フランス革命がポジティブな側面を持っていたことを見逃すことはできない。

 革命期のフェミニズムの展開過程を4つの時期に区分することができる。コンドルセやオランプ・ドゥ・グージュなどによって、両性の平等が唱えられた黎明期、民衆協会やクラブで実際に女性による活動が実践された絶頂期、ロベスピエールやジャコバンクラブとの反目が始まる斜陽期、国民公会の命令によって女性のクラブが閉鎖され、女性がクラブに参加することが禁止されて、ナポレオン法典への基礎がつくられる終焉期である。

革命期における女性の権利要求運動は、黎明期と絶頂期に、主に議会外で展開した。それは、革命直前から出現した女性新聞・パンフレット等の文筆活動や、政治集会での活動を中心として展開していった。しかし、女性の運動のうちのいくつかは、議会にむけて発せられたり、直接に議会で要求されたりした。その中には、女性の経済的な復権を求めたもの、女性のための教育を求めたもの、女性の軍隊に参加する権利を求めたものなどがあった。

このように、女性の権利の要求は、教育、経済、政治的諸権利など、広範囲にわたっていた。しかし、これらの要求のほとんどは否認され、女性の政治的権利は無視され続けた。それだけではなく、これらの女性の諸要求を担った者のほとんどが、革命政府が樹立された1793年10月前後から、反革命容疑をかけられ、弾圧・処刑された。フランスにおける先駆的なフェミニズム運動に終焉がもたらされたのである。

2−2 女性の権利宣言

革命期の女性の権利要求のなかで、理論的な体系をもって、指導的な役割を果たした文書としては、コンドルセの『女性の市民権の承認について』と、オランプ・ドゥ・グージュの『女性および女性市民の権利宣言』(以下『女権宣言』と略す)がある。

コンドルセの著作は、1790年、女性の市民権=公民権を要求し、男性と同じく理性的な能力を備えた女性にも、市民権と参政権を認めることを主張したものであった。

これに対して、オランプ・ドゥ・グージュの『女権宣言』は、1789年の「人権宣言」でいわれる「すべての人」、「すべての市民」のなかに女性のことが入っていない「男権宣言」であることを鋭く見抜き、当時の女性が無権利な状態におかれ、女性の権利が無視されていることに対する批判を込めて、1791年9月に発表されたものである。「人権宣言」と対比するためにも、この『女権宣言』ついて、詳しくみていきたいと思う。

オランプ・ドゥ・グージュの『女権宣言』は、『人権宣言』の構成や文言をほとんどそのまま変えずに使い、主に、権利の主体について、「人」を「女性」あるいは、「男性と女性」に、「市民」を「女性市民」あるいは「男性市民および女性市民」に改める形で書かれた。

構成は、「人権宣言」と同様に、前文と17ヵ条から成り、第1条で、「女性は自由なものとして生まれ、かつ、権利において男性と平等なものとして生存する」ことを定めていた。

第2条では、自由・所有・安全・圧制に対する抵抗などの自然的権利が男性と女性の双方にあるものと定めた。一方、女性市民の権利、すなわち市民の政治的権利については、法律は、第6条で、一般意思の表明でなければならない。すべての女性市民と男性市民は、みずから、またその代表者によって、その形成に参加する権利をもつ。法律は、すべての者に対して同一でなければならない。すべての女性市民および男性市民は、法律の前に平等であるから、その能力にしたがって、かつ、その徳行と才能以外の差別なしに、等しく、すべての位階、地位および公職に就くことができる。と定めた他、租税負担の平等(第13条前段)、租税の確認・決定権(第14条)、官吏に対する報告請求権(第15条)なども保障している。とくに、第13条で、女性も男性と同じ賦役・労役に貢献することから、当然に、地位・職業(雇用)・負担・位階・産業に男性と同様に参加すべきことを明らかにしていることが注目される。

2−3 『人権宣言』と『女権宣言』の対比

フランス革命の中で、1789年『人権宣言』と、オランプ・ドゥ・グージュの『女権宣言』とで「男性の権利」対「女性の権利」という構図が、直接的な形で示されている。『女権宣言』の内容を4つのグループに分類し、これら2つの宣言を対比する。

Aグループ1789年

『人権宣言』の表現とほとんど変わりがない条文。そこには、社会的差別についての第1条後段や、主権行使について定めた第3条、法律が一般意思の表明であることを定めた第6条1段、罪刑法定主義を定めた第8条前段、法律による禁止に関する第5条など、一般原則を定めた諸条項が含まれる。

Bグループ

『人権宣言』における主語を、「人」あるいは「市民」から、「男性および女性」ないし、「男性市民と女性市民」に単純におきかえて、変更した条文。ここには、「すべての政治的結合の目的は、女性と男性の自然権を保全することにある。」と定めた第2条や、主権が男性と女性からなる国民にあたることを定めた第3条前段、法律の前には、女性も男性も平等であるとし、両性の参政権を保障した第6条・第12条・第14条・第15条などが含まれる。A・Bグループでは、どちらとも人権論にとっては、男女にかかわらず、普遍的な意味をもつことを示している。とくに、Bグループでは、権利の主体として男性と女性を並列することで、男女に同等な権利があることを強調している。

Cグループ

これに対して、『人権宣言』の主語を「女性」あるいは、「女性市民」のみに改め、より明確に、女性の権利としての保障を強調したり、加筆・変更したりした条文。このなかには、女性の自由・平等を宣言した第1条、表現の自由に関する第10条、第11条、女性の租税負担の条件や参加に関する第14条・第15条、女性の財産権に関する第17条、男性による専制を女性の自然権を阻害するものとしてあげた第4条、刑罰の適用について『人権宣言』の表現を改めた第7条と第9条などがある。これらに示される女性の権利の特徴や内容は、当時の女性の地位向上という固有の目的をもつものと解される。

Dグループ

男女の性別に直接かかわらない問題について、『人権宣言』の枠をこえるもの。このなかには、『女権宣言』第16条は、『人権宣言』第16条の内容に「国民を構成する諸個人の多数が、憲法の制定に協力しなかった場合は、その憲法は無効である。」という1文を追加し、民主的な憲法制定参加手続きが要請していることである。『女権宣言』が、当時の革命指導者の構想と比べても劣ることのないものであり、『人権宣言』の内容を超えるものであったことが示されている。

第3章 女性の権利要求の限界

3−1 女性の未解放

これまでみてきたように、普遍的な人権を保障したはずの『人権宣言』にも、内容の点で様々な限界があることがわかった。とくに、女性の権利については、当時の男性のみから構成される国民議会議員の間でほとんど問題にされなかった。なぜ、女性の権利が問題とされず、女性の権利を求める活動があったにもかかわらず、女性の権利が認められなかったのか。それには、次のような要因があったと考えられる。

近代市民革命としてのフランス革命が目指した理想社会は、反特権・反封建の上に成立した自由・独立の小生産者の社会としての市民社会であった。その社会が基礎においた家父長的家族制度は、女性の従属によって支えられていた。近代市民革命は、「外」に対しては平等で均質な市民の社会を形成することを理想としつつ、「内」においては、妻や娘に対する男性の支配を温存し、市民社会の構成員としての「市民」を男性(家父長)によって代表する体制を維持した。小市民的独立生産者の社会=近代市民社会では、近代の課題としての人間解放の目的のなかに女性解放のそれが含まれることは、本来的に不可能であったのである。このことは、ルソーが理想形として平等な市民社会の実現を目指していながら、「家父長的権威を支柱とする自己完結的家族観」や、男性社会に従属し、寄与することを前提とする女子教育論が展開され、国家の人間解放の考え方と家族のあり方との矛盾が認められていたことに端的に示される。そのために、成立した近代社会のなかで、男性支配が確立し、女性の従属的地位が固定化されるとともに、女性は、社会の主体としての市民の権利・資格さえ否認され続けることになった。

さらに、『人権宣言』によって、「人」の権利と「市民」の権利との区別をもとに構築された近代人権論の二重構造のなかで、女性には、仮に「人」としての権利が実現されたとしても、「市民」の政治的権利は認められないとして、市民社会の構成員になることから排除された。こうして、女性に対する「階級差別」と「性差別」との二重の差別に加えて、もう1つ、成立した市民社会の構成員としての「市民」の権利を拒絶する「公民権差別」によって、女性は、近代市民社会のなかで、「三重の差別」のもとにおかれることになった。さらに、経済史の展開に注目した場合、反封建革命=ブルジョワ革命としてのフランス革命の成果として、革命後に資本主義化が進展し、ブルジョワジーの経済的・政治的支配が確立した結果、女性は、男性無産大衆とともに、従属的地位においやられる。こうして、フランス革命は、女性を解放しなかったばかりか、女性を、性差別と階級差別の二重の差別のもとに置いた。

『人権宣言』によって「人間」としての自由と平等を確保したはずの女性は、前近代の封建的家父長制の支配にかわる・新たな近代的家族制のもとでも、変わらない性支配が存続したため、婚姻や身分にかかわる市民的(民事上の)権利をも制限され、妻の所有権や表現の自由などの自然的権利(自然権としての人権)も否定された。

 3−2 フェミニズムの限界

一方、近代市民革命社会を形成した近代市民革命の男性指導者たちは、このような、女性の権利(政治的権利)排除の理由について、次の3つの点をあげている。

女性の権利否認論の第1の論拠は、妊娠・出産などの肉体的性差にもとづく母性の強調であり、この性差から導かれる男女不平等論である。そもそも、男女は異なるものであるという自然的差異から、女性の権利や権利の平等を考慮する必要がない、と考える理屈がこれにあたる。

第2は、このような肉体的差異を前提として、女性の特性や一般的性格を論じることによって、女性の権利制約を正当化する女性の「特性論」である。これは、女性の能力や教育の欠如、あるいは、女性の羞恥心や興奮しやすい性格など、典型的性格論に関する固定観定から、女性の権利を否認する理屈である。

 第3は、同じく肉体的性差に依拠しつつ、女性の性別役割分担を固定化し、この役割に抵触する女性の権利を否認しようとする「性的役割分担論」である。この立場は、女性の役割を家事・育児等に留めることによって、「男は外に、女は内に」という社会分業を維持するために、女性の権利の獲得と行使に反対するものである。

これらのうち、とくに第2の「特性論」と第3の「性役割分担論」は、実際に女性の政治的権利(政治結社の自由や政治活動の自由、選挙権・被選挙権)を否認する際に強調されたものだが、女性の市民的・民事的権利の制約についても、妻の法的無能力を前提とする多くの権利制限の理由として用いられた。

このような理論が支配する中でも、近代的な女性解放思想がうまれ、先駆的なフェミニズム運動が展開された。しかし、フランス革命期の先駆的なフェミニズム運動と理論には、限界があった。

第1は、フェミニズムの問題が、少数者の関心にとどまり、革命期の主たる綱領に入らななかったことである。女性のクラブや民衆協会にしても、多くのフェミニズムの問題を論じていたわけではなく、また、革命期の有力な活動団体からの支持を見出すことはできなかった。

第2は、卓抜したリーダーがいなかったことである。アンシャン・レジーム末期には、サロンなどで影響力をもった有能な女性たちもいたが、その多くが、フェミニズムの担い手ではなかった。

第3は、革命を主導した男性支配者の中に支持者がいなかったことである。コンドルセは例外であり、ミラボー、シェイエス、マラー、ロベスピエールなどの有力な人物が、いずれも、フェミニズム運動に対して、無視や敵対の態度をとっていた。また、民衆運動のリーダーやジャーナリズムも女性の権利要求を必ずしも支持せず、フランス革命期のフェミニズムは、運動において孤立化を免れなかった。

また、先駆的なフェミニズム運動も、女性の権利を求める側も、先に示した「性役割分担論」の考え方から抜けきることができなかったことも、大きな限界であったといえる。

このほか、近代市民革命期に女性の権利が未成立だった外的要因として、女性に対する教育制度の未発達(女性の識字率の低さ)、女性蔑視の思想や慣習を定着させるのに役立った宗教の影響などがあった。

このようなことから、女性の政治的権利は、1789年の『人権宣言』の制定直後から、性役割分担論や女性の特性論を根拠とする女性の権利否認の論理によって、一貫して排除され続け、1804年に制定されたナポレオン民法典制定によって、妻の無能力、夫権への従属を基調とした諸規定が確立され、女性の地位は決定的に低下した。

おわりに

 女性たちは、1789年7月14日フランス革命、同年10月のヴェルサイユ行進など、様々な政治活動のなかに、先頭をきって参加していた。また、同年8月26日『人権宣言』が発せられた。その第1条で「人は自由、かつ権利において平等なものとして生まれ、生存する」と定め、すべての人間の自由、平等を宣言した。だが、実際には、女性に対して男性と等しい権利を保障したわけではなかった。女性は、無視されていただけではなく、公務に参加する能力・資格のない無産者、子供、外国人のような「受動市民」とともに公的生活から除外された。この『人権宣言』が女性を除外していることに対して、女性の中から批判の声がわきあがった。1791年、オランプ・ド・グージュは、『女権宣言』という著作を著した。これは、1789年の『人権宣言』の書き換えで、権利主体を女性と女性市民に変更する形で再構成し、王妃マリー・アントワネットへの請願として執筆され、国民議会へ私案として提案された。このような、フランス革命期の女性の権利の要求は、教育、経済、政治的諸権利など広範囲にわたって展開された。

しかし、当時の市民社会が家父長的家族制度によって支えられていたため、女性を解放するという考えが、国民議会議員たちのなかになかったこと、先駆的フェミニズム運動のなかにも、「性役割分担論」の考え方があり、そこから抜け出せなかったことなどから、女性の権利は獲得できず、ナポレオン民法典によって女性の従属的地位は決定的なものになった。これらのことを克服するには、20世紀終盤の「女性差別撤廃条約」を待たなくてはならなかった。

参考資料

  • *1)『人と市民の権利宣言』(辻村みよ子著「女性と人権」)

    前文 国民議会を構成するフランス国民の代表者らは、人の権利の無識、閑却もしくは軽侮が、公共の禍患と政府の腐敗との唯一の原因であることを考慮し、厳重な宣言において、人の天賦の譲渡することのできないかつ神聖な権利を規定することを決議し、この宣言が社会団体の総員によって終始牢記され、彼らの権利義務を絶えず回想させることを期し、立法権の行為と行政権の行為とが、各政治制度の目的と毎瞬時に対比せられることを可能にして、これらが一層崇敬されることを期し、かつ公民の主張が、将来においては、簡明にして論争の余地なき原理に基かしめられるが故に、つねに憲法の維持と一般の慶福とに資すべきことを期するのである。

     これらの理由により、国民議会は、上帝の前において、かつその保護の下に、人および公民にかんする左の諸権利を承認しかつ宣言する。

    第1条 人は、出生および生存において自由および平等の権利を有する。社会的の不平等は、公共のための外作ることはできない。

    第2条 すべての政治的結合の目的は、人の天賦かつ不可譲の権利を保持することにある。これらの権利は、自由、所有権、安全および圧制にたいする反抗である。

    第3条 全主権の淵源は、必ず国民に存する。如何なる団体も、如何なる個人も、国民より出でない権力を行使することはできない。

    第4条 自由とは、他の者を害しないすべてをなしうることをいう。各人の自然的権利の行使は、社会の他の者に、同一の権利を享有させることの外に制限されない。この制限は、法律によるのでなければ、設けてはならない。

    第5条 法律は、社会に有害な行為の外、禁止する権利を有しない。法律の禁止しない行為を、妨げてはならない。何人も、法律の命じない行為を、なすことを強制されることはない。

    第6条 法律は、総意の発表である。すべて公民は、自らまたはその代表者によって、法律の制定に参与する権利を有する。法律は、保護を与えるものと処罰を定めるものとを問わず、すべての者にたいして均一なることを要する。法律の前には、すべての公民は、均等であるから、その能力に応じ自己の価値および自己の技能による外、他の区別なく、ひとしくすべての尊号、公の地位および職務に任ぜられることができる。

    第7条 何人も、法律の定めた場合において、法律の定めた形式にしたがうのでなければ公訴、逮捕または拘留されることはない。専恣の命令を請願し、発し、執行し、または執行させる者は、罰しなければならない。しかしながら、各公民は、法律に基き召喚または逮捕されるときは、即時にこれにしたがわなければならない。これに抵抗するは犯罪である。

    第8条 法律は、絶対に必要な刑罰の外刑罰を定めることはできない。何人も、犯罪の前に制定されかつ公布されおよび適法に適用されている法律によるのでなければ、処罰されることはない。

    第9条 各人は、その有罪を宣告されるまでは、無罪を推測されるが故に、これを逮捕することの必要が裁定されたときといえども、その身体を拘束するために必要としないすべての暴力は、法律によって厳重に禁じなければならない。

    第10条 何人も、その意見の発表が法律によって定められた公共の秩序を害さない範囲内においては、その意見のために妨害されることはない。宗教上の意見についてもまた同じである。

    第11条 思想および意見を自由に交換することは、人の最も貴重な権利の一つであるから、各公民は、法律の定めた場合におけるこの自由の濫用にたいして責を負う外は、自由に言論し、著作し、および出版することができる。

    第12条 人および公民の権利の保障は、公の権力を必要とする。この権力はすべての利益のために存するものであって、その権力を委ねられる者の特別の利益のために存するものではない。

    第13条 公の権力の維持および行政の費用のために、公共の課税は、避けることはできない。この課税は、すべての公民の間に、その能力にしたがって平等に分配しなければならない。

    第14条 すべての公民は、自らまたは自己の代表者によって、公の課税の必要を認定し、自由にこれに同意し、その用途を検しおよびその性質、徴収、納付および継続期間を定める権利を有する。

    第15条 社会は、その行政の公の代理人にたいして、責任を問う権利を有する。

    第16条 権利の保障が安固でなく、かつ権力の分立が確立されない社会は、すべて憲法を有するものでない。

    第17条 所有権は、不可侵かつ神聖の権利であるから、法律により公の必要が明らかに要求することを認定し、かつあらかじめ正当の賠償を支払う条件の下においてするのでなければ、これを奪うことはできない。

  • *2)『女権宣言」』(辻村みよ子著「女性と人権」)

    前文 母親・娘・姉妹たち、国民の女性代表者たちは、国民議会の構成員になることを要求する。そして、女性の諸権利に対する無知、忘却または軽視が、公の不幸と政府の腐敗の唯一の原因であることを考慮して、女性の譲りわたすことのできない神聖な自然的権利を、厳粛な宣言において提示することを決意した。この宣言が、社会体のすべての構成員に絶えず示され、かれらの権利と義務を不断に想起させるように。女性の権力と男性の権力の行為が、すべての政治制度の目的とつねに比較されうることで一層尊重されるように。女性市民の要求が、以後、簡潔で争いの余地のない原理に基づくことによって、つねに憲法と良俗の維持と万人の幸福に向かうように。こうして、母性の苦痛のなかにある、美しさと勇気とに優れた女性が、最高存在の前に、かつ、その庇護のもとに、以下のような女性および女性市民の諸権利を承認し、宣言する。

    第1条 女性は、自由なものとして生まれ、かつ、権利において男性と平等なものとして生存する。社会的差別は、共同の利益にもとづくのでなければ、設けられない。

    第2条 すべての政治的結合の目的は、女性および男性の、時効によって消滅することのない自然的な諸権利の保全である。これらの諸権利とは、自由、所有、安全そしてとりわけ圧制への抵抗である。

    第3条 すべての主権の淵源は、本質的に国民にあり、国民とは、女性と男性との結合にほかならない。いかなる団体も、いかなる個人も、国民から明示的に発しない権威を行使することはできない。

    第4条 自由と正義とは、他人に属するすべてのものを返還することにある。したがって、女性の自然的諸権利の行使は、男性が女性に対して加える絶えざる暴虐以外の限界をもたない。これらの限界は、自然と理性の法によって修正されなければならない。

    第5条 自然の理性と法は、社会に有害なすべての行為を禁止する。この賢明かつ崇高な法によって禁止されていないすべてのことは、妨げられず、また、何人も、それらが命じてないことを行うように強制されない。

    第6条 法律は、一般意思の表明でなければならない。すべての女性市民と男性市民は、みずから、またその代表者によって、その形成に参加する権利をもつ。法律は、すべての者に対して同一でなければならない。すべての女性市民および男性市民は、法律の前に平等であるから、その能力にしたがって、かつ、その徳行と才能以外の差別なしに、等しく、すべての位階、地位および公職に就くことができる。

    第7条 いかなる女性も(以下のことについて)例外はない。女性は、法律によって定められた場合に、訴追され、逮捕され、拘禁される。女性は、男性と同様に、この厳格な法律に服従する。

    第8条 法律は、厳格かつ明白に必要な刑罰でなければ定められない。何人も、犯罪に先立って設定され、公布され、かつ、女性に対して適法に適用された法律によらなければ、処罰されない。

    第9条 いかなる女性も、有罪を宣告された場合は、法律によって厳正な措置がとられる。

    第10条 何人も、たとえそれが根源的なものであっても、自分の意見について不安をもたらされることがあってはならない。女性は、処刑台にのぼる権利がある。同時に女性は、その意見の表明が法律によって定められた公の秩序を乱さない限りにおいて、演壇にのぼる権利を持たなければならない。

    第11条 思想および意見の自由な伝達は、女性の最も貴重な権利の1つである。それは、この自由が、子供と父親の嫡出関係を確保するからである。したがって、すべての女性市民は、法律によって定められた場合にその自由の濫用について責任を負うほかは、野蛮な偏見が真実を偽らせることのないように、自由に、自分が貴方の子の母親であるということができる。

    第12条 女性および女性市民の権利の保障は、重大な利益を必要とする。この保障は、すべての者の利益のために設けられるのであり、それが委託される女性たちの特定の利益のためではない。

    第13条 公の武力の維持および行政の支出のための、女性と男性の租税の負担は平等である。女性は、すべての賦役とすべての義務に貢献する。したがって、女性は、(男性と)同等に、地位・雇用・負担・位階・産業に参加しなければならない。

    第14条 女性市民および男性市民は、みずから、またはその代表者によって、公の租税の必要性を確認する権利をもつ。女性市民は、財産のみならず、公の行政において(男性と)平等な分配が承認されることによってのみ、その租税に同意し、かつ、その数額、基礎、取立て、および期間を決定することができる。

    第15条 租税の負担について男性大衆と同盟した女性大衆は、すべての官吏に対して、その行政について報告を求める権利をもつ。

    第16条 権利の保障が確保されず、権利の分立が定められていないすべての社会は、憲法をもたない。国民を構成する諸個人の多数が、憲法の制定に協力しなかった場合は、その憲法は無効である。

    第17条 財産は、結婚していると否にかかわらず、両性に属する。財産(権)は、そのいずれにとっても、不可侵かつ神聖な権利である。何人も、適法に確認された公の必要が明白にそれを要求する場合で、かつ、正当かつ事前の補償の条件のもとでなければ、真の自然の資産としてのその権利を奪われない。

    参考文献

  • 井上洋子・古賀邦子・冨永桂子・星野治彦・松田昌子『ジェンダーの西洋史』(法律文化社 1998年)
  • 小林亜子他『岩波講座 世界歴史17 環大西洋革命』(岩波書店 1997年)
  • 辻村みよ子『人権の普遍性と歴史性』(創文社 1992年)
  • オリヴィェ・ブラン(辻村みよ子訳)『女の人権宣言』(岩波書店 1995年)