『欧州連合条約〜市民のための条約へ〜』

大東文化大学 法学部 政治学科

杉浦 正太郎
                    

目次

はじめに

第一章  EU誕生の原点

第一節  歴史的背景

第二節  歴史から見た現実的対応

第二章  市民権と条約への反応

第一節  市民権

第二節  デンマーク・ショック

第三章 格差是正の政策理論

第四章  条約をめぐる英仏の反応

  

第一節  フランスにおける批准をめぐる反応

  

第二節  イギリスにおける批准をめぐる反応

おわりに

参考文献

はじめに

1992年2月、ヨーロッパの歴史を大きく変える出来事が起こった。オランダ南端マース川沿岸にある都市マーストリヒトで、ある条約の調印が行われた。ここで誕生したのが、欧州連合条約(マーストリヒト条約)、EUの新憲法である。

欧州連合条約は、ベルリンの壁崩壊に象徴される東欧市民改革、ソ連解体などの外的変動要因の中で、新しいヨーロッパの内発的な発展としての「欧州の新秩序形成」の宣言である。その後、世界経済が不況に陥り、この条約を巡って各国で論争が巻き起こった。私は、欧州連合条約の主要原理とはなにか、この条約に対する市民の反応がどのようなものであったか、ということを検討していきたいと思う。

欧州連合条約が調印された後、1992年6月、欧州連合条約は、EU11カ国の中でただ一カ国デンマークが否決したのである。欧州連合条約の発効には、加盟国すべての同意が絶対条件だった。民主主義や社会福祉などの面で先進国であるデンマーク国民が国民投票で欧州連合条約を否決したときのEU各国のショックは大きかった。いわゆる「デンマーク・ショック」である。デンマーク・ショック後、EU委員会はこの条約の性格を部分的に変更せざるをえなくなった。それほど事態は、深刻に受け止められたのである。このデンマーク・ショックは仏国ミッテラン政権、英国メージャー政権、ドイツなどに多大な影響を与えた。

本稿では、欧州連合条約の原点とはなにか、を吟味し、批准をめぐる各国における市民の論争とその問題点を検討したい。

第一章  EU誕生の原点

 

第一節 歴史的背景

 

ローマ条約(1957年発効)に基づく欧州経済共同体の発足の原点、動機は以下のようなものであった。2つの世界大戦を経験した旧西ドイツ・フランス・イタリアは、2度と戦争を繰りかえしてはならないという理由から、ベネルックス3国と協力して、ヨーロッパの平和をどのように構築するかを進めることを追求した。つまり、欧州人同士が平和を創造するために、いかに経済的・政治的に相互に協力していき、政治的安定と経済的繁栄を生み出すか、ということを最重要課題とした。そのためには欧州人同士が従来の国家至上主義を捨て、地域に根ざす国際主義に基づく連携を思考すべきであると考えた。

 

特に、西欧諸国は、当時の米ソの生産力に対してどのように対抗できるかという問題意識をもっていた。フランスを中心に西ドイツ、イタリア、ベルギー、オランダ、ルクセンブルクは、欧州石炭鉄鋼共同体ECSCを組織し、6ヶ国のエネルギーの共有化と産業の基盤としての石炭、鉄鋼業の育成の共有化を目指したのである。一方、6ヶ国による新エネルギーを共有化するための原子力共同体EURATOMの組織作りは経済共同体の基礎を形成し、1958年のローマ条約の基本前提を作り出したのである。ECの憲法であるローマ条約は、第2条でその使命を次のように示した。「共同体の使命は、共同市場の設立及び構成国の経済政策の斬新的接近により共同体全体の経済活動の調和した発展、持続かつ均衡的拡大、安定強化、生活水準の一層の速やかな向上、及び構成国の緊密化を促進することにある」。ローマ条約の理念とは、西ヨーロッパ市民の生活水準向上のために、相互に協力し、新しい平和を築き上げるというヨーロッパ像の構築にあった。

 

当時の米ソの冷戦構造の中で、ヨーロッパの再生を従来の一国至上主義の国家、民族主義の強調ではなく、共同体を通じて自国の利益を考えようとするのであって、アメリカ合衆国の考え方とはかなりの距離があった。

第二節 歴史から見た現実的対応

1960年代には、こうした背景のもと、ECの経済政策は、6ヶ国(フランス・イタリア・西ドイツ・オランダ・ベルギー・ルクセンブルク)の関税同盟発足をはかり、第3国に対する共通関税政策、通商政策を設立し、ヒト・モノ・カネ・サービスの自由移動の実現を目標に定めた。そのため、共通農業政策(CAP)、共通運輸政策、共通競争政策、加盟国の経済政策の調整、国際収支の不均衡の是正、各国の法律の調整、労働者の雇用の改善、市民生活の向上、欧州社会基金の創設、欧州投資銀行の設立、ECと関連途上国との経済協力の樹立、ヨーロッパ自由貿易地域EFTAとの協力関係などの方針を打ち出した。

1970年代には、ECの従来の貿易効果と成長率が改めて問われることになった。特に、1971年のリチャード・ニクソンアメリカ大統領によって打ち出された新経済政策に基づく国際通貨危機、および1973年末の国際石油危機への対応は、ECにとって共同体としての経済防衛を余儀なくされた。さらに、1971年のドル防衛政策に対してECの選択した共通通貨政策は、アメリカが推進しているグローバリズムと似通ったパーソナリティをもった対米経済政策にあった。当時のECは、主にEC内の経済格差是正という主張と、対米共通政策によるECの結束強化という2つの主張に分かれ対立していた。ルクセンブルク首相であり、蔵相であるウェルナーの通貨政策は、前者を採り、当面EC内の共通通貨政策を優先すべきであるというものであった。それを全面的に展開した報告書が、ウェルナー・レポートと呼ばれた。要するに、ドルへの対抗処置として、加盟各国の共通通貨政策を持つために、各国の中央銀行間で為替の変動率を調整しようとするものだった。ウェルナーは、そのためには、各国の中央銀行間の協力の下に、単一通貨制度を創設すべきだと主張したのだった。

この構想は、その後の世界通貨の変動に対応できず、実現しなかった。だが、市場統合の中でEMS(欧州通貨制度)を作り、そのもとでERM(全社的リスクマネジメント)を設置し、EC加盟国間の為替変動を一定にする。そうすることによって、強い通貨が弱い通貨を助け、EC内の変動率を2.25パーセント以内に収まるよう調節するという考え方を実現した。その点では、前進といえるだろう。

だが、80年代、各国は、EC市場を統合するに当たって妨げとなっているものは何か、ということを解明することを最優先課題とした。1985年の「域内市場完成」に向けての経済政策思想は、単一思想の確立を妨げている基準認証、政府調達、サービス規制、税率の相違などをどのようにして共通化するにあった。こうした規制項目282のうち、既に95パーセントが加盟国12ヶ国によって採択されている。(1992年12月10日現在)

1992年9月にEC委員会に提出採択されたEU域内市場統合年次報告書は、その進行状況を90パーセントであると発表した。だが、11月には95パーセントに上昇した。特に目立った点は、公共事業契約の公開、欧州企画の統一、金融サービス市場の開放、資本の自由移動、共同体としての居住権など重要分野では反対が根強かったにも関わらず、前向きの姿勢で受け止められた。

 

その後、事態は奔流のごとく急速に進んだ。ヨーロッパは統一ドイツの誕生、東欧の市民改革、市場の拡大、市民社会の定着化、新しい通貨の要望、欧州の安全化などへの対応が迫られた。それは、欧州連合条約として結実したのだった。

第二章  市民権と条約への反応

第一節 市民権

 

欧州連合条約第8条で「欧州連合市民権」が規定された。EU市民という資格ないし法的地位は、加盟国の国民であれば誰にでも与えられる。加盟国の国籍を持つ全ての個人は、欧州連合の市民である、と謳い、市民に一定の制限と条件のもとに域内を自由に移動し居住する権利を規定している。この他、欧州連合条約は加盟国の市民に次のような権利を与えている。 @ 自国以外の加盟国に居住する市民は、居住国の地方選挙で投票し、また立候補できる。また居住国で欧州議会議員選挙で投票し、立候補できる。ただし加盟各国は適用除外条項を規定でき、また市民は居住先で投票、立候補する場合は自国での選挙に参加できない(2重投票の禁止)。 A 居住国に自国の代表部が設置されていない場合、他の加盟国の大使館または領事館から保護を受けることが出来る。 B 欧州連合市民は、欧州議会への請求権の行使、またはオンブズマンに請願することが出来る。

人の自由な移動についてはローマ条約第48条で、労働者の域内移動を保障し、雇用、賃金その他の労働条件で差別してはならないと規定はしているが、実施については各加盟国の意思に委ねられていた。今回の欧州連合条約ではその実施については意思決定機関である閣僚理事会に委ねた。また93年から域内市場が統合し、人、物、サービスの自由な移動は、それを容易にする交通網の近代化と再編成とも無関係ではない。地域統合圏としてのヨーロッパを一層深く統合することへと導く要因にもなっている。

こうして1988年以来、欧州旅券、欧州運転免許書が発行されており、国境での検問も一部を除き廃止されつつある。しかし人の自由な移動は、麻薬や武器の密売、不法な入国や居住・滞在を防止し、テロリストの摘発など安全を侵害するおそれのある活動を阻止できて初めて可能となる。欧州連合条約では、司法と内務分野の協力が不可分の一体となっている。これについてはユーロポルが設立され、司法、内務協力が進められている。

人の自由な移動は、労働、居住、教育、選挙権、文化交流といった地域統合圏の市民社会の生成、展開、発展に不可欠な要素といっていいだろう。このうち労働力の自由な移動は、相互主義に立脚し、自由な権利と結びついているとすれば、雇用、給与、その他の労働条件において共同体の保護を伴わなければならないし、また、国籍、男女の性差による差別があってはならないとするのは、当然の社会労働的な考え方であろう。

この点について、マーストリヒトでの首脳会議では、共同体の社会労働分野における政策の共通化が課題となった。この中で、保守党政権の英国は、規制緩和を主張して、社会労働分野への国家の介入に対して戦闘的で公然たる反対の立場を示した。その結果、基本条約の中に新しい社会労働政策を盛り込むことができず、その内容を薄められるとともに、この憲章が欧州連合条約に合体されないという結果に終わった。最終的には、英国を除く11ヶ国に適用される社会政策議定書と実用的な適用を取り決め、条約の単なる付属の社会政策協定が採択されることで合意された。

実際のところ、市民の反応はいかなるものであっただろうか。欧州連合条約は、市場統合を前提とした通貨統合、政治統合のパーソナリティをもち、加盟国の市民の歴史的使命と21世紀の欧州の在り方をかけた条約である。次に、加盟国市民は、本当は、何を求めているのか、を検証する。

第二節 デンマーク・ショック

 

当初、欧州連合条約は1993年から発効する予定であったが、1992年6月に実施されたデンマークの国民投票で、反対50,7パーセントで否決されてしまい、EUの発足自体が危ぶまれた。これをデンマーク・ショックと呼ぶ。このデンマーク・ショックを払いのけるため、ミッテラン仏大統領は、フランスでも同年9月国民投票を実施したが、結果は賛成51,05パーセントと欧州連合条約に対する国民の反応は冷ややかなものだった。

 

デンマーク議会はこの条約を承認したが、国民は拒否した。その理由は何だったのか。第1はEUの官僚システムに対する批判である。ブリュッセルのEC官僚にはデンマーク出身の官僚もいることはいるが、デンマーク国民は、欧州市民権設定に対して疑問を抱いたからである。果たしてEC官僚は小国の意見を吸収してくれているのだろうかという疑問である。第2に、デンマーク国民は、防衛政策の面で反対した。例を挙げると、英独共同軍に自国軍が組み込まれ、デンマーク軍の独自性が失われるのではないか、というのである。この点に関しては、共通安全保障についての共通政策が十分に示されていない。第3に統一市場が完成すると、自由市場が拡大し、小国の企業の競争力が弱く、大国の大企業に吸収される心配があるというのである。この点に関しては、ECの会社法、独占禁止法がどれほど理解されているのか、また自国の中小企業のありかたが問われることになるであろう。第4に、欧州連合条約に基づく欧州市場統合、通貨統合、政治統合が実現すると、デンマークの福祉水準が低下するから反対であるというのである。この点に関しては、福祉国家デンマークの福祉水準を保ったまま、EC域内に広められる方法があるのかどうかが問題となる。第5に、単一通貨制度が完成すると、デンマークの通貨もECUに吸収され、EC内で最適経済条件にあるデンマークは、他の加盟国の犠牲になるから反対であるという。

 

しかし、神奈川県の人口より少ない人口のデンマーク国民の約半分が批准を否定した、このことは大きな意味をもつ。その後、このデンマーク・ショックはフランス、イギリスに波及し、EC首脳とEC本部にかなりのダメージを与えた。デンマークのある世論調査では、EC加盟国の国民の半数以上が、「欧州連合条約を読んだことがない」という。この点は加盟国政府、EC本部の責任が問われることになる。EC首脳会議は、デンマークに対し特例としていくつかの妥協案を申し入れた。1、単一通貨の不参加、共通通貨政策にしばられない、2、共通安全保障政策への不参加の承認、3、社会福祉、環境政策、消費政策において独自の水準を維持し、欧州市民権を限定的に導入することなどであった。

 

デンマーク・ショックはEC加盟国の市民に対して、改めてこの条約のパーソナリティをどのように理解するかという問題意識を持たせた。その後、この条約は各国議会で60パーセント以上の賛成で批准されたが、デンマークを含めた3ヶ国で行われた国民投票では60パーセント以下の賛成しか得られなかった。この点、市民はこの条約のパーソナリティに対して批判的であるといえる。

第三章 格差是正の政策論理

 

ECの後進国であるスペイン、ポルトガル、ギリシャ、アイルランドは格差是正のための結束の政策を要求している。これらのEC内の経済発展の遅れている国々は、格差是正を前提にしてこの条約を批准している。もちろんこうした国々は、地域の政策ニーズをもとにしてEC本部が政策決定をすべきだと要求している。条約の特徴は、各国国民国家を超えようとするところにECの自己革新があったはずである。だがそれができていないところに問題がある。ECにおける後進国の要望は、欧州地域間格差の是正である。これに対して、EC委員会は、欧州理事会において、1993年始めに欧州結束基金を設置することを提案することを決定した。欧州結束基金は、構造的に脆弱な地域を活性化するために設置するのある。特に輸送および環境の分野のプロジェクトに対して結束基金を投入する方針を決めている。この基金に関しては、雇用問題、福祉問題をも視野に入れることが過大になろう。

 

地域格差是正のための基金は、EC加盟国民一人当たりのGNPがEC平均の90パーセント以下である加盟国に対して、欧州連合条約の104条C項にある経済収斂の条件を満たすためのプログラムを持つ国における環境プロジェクトと輸送システムを確立するための欧州横断ネットワーク・プロジェクトを財政的に援助するというものである。EC委員会は1993年から1999年までの間に150億ECUを計上している。とくにスペイン、ギリシャ、ポルトガル、アイルランドに対する配分を重視している。この結束基金は条約の中で、かなり強調されている。

 

また、条約の中で「経済的、社会的格差是正」が強調され、EC域内の各国間の地域格差是正が目指されただけでなく、一国内の地域格差是正も目指されている。第130条A項では次のように規定されている。「欧州共同体は全体の調和の取れた発展を進めるために、経済的・社会的同化を強めるように、その行動を発展し続ける。特にさまざまな地域間の発展レベルの格差を是正し、農村地域を含む経済的に恵まれない地域の後進性を克服する」と。

 

欧州共同体は、地域間格差是正のために、欧州地域開発基金などの構造基金、及び欧州投資銀行などの関係金融機関の活動を通じてこれらの目的が達成できるとしている。

 

さらに130条C項では「欧州地域開発基金は、発展の遅れた地域の開発、構造調整、また衰退産業を中心とする地域の産業転換に取り組むことによって、共同体内の主要な地域的不均衡の是正を援助することを目的にする」と規定している。

 

欧州連合条約のおける加盟国市民の懸念は、この条約が詳しく紹介され具体化されない限り、今後も維持され続けるであろう。例えば、どのように地域間不均衡是正のためのEC投資銀行を構築し、具体化するによって、今後も問題は起こるであろう。単一市場の完成は、一方で生産力の増大と同時に、他方でその成果を絶えず地域間格差の是正に振り向けなければならない。統合は、生活水準の向上と生活の質のための市場の完成でなければならない。このことを条約は明示している。その意味で、この条約は21世紀を目指したECのあり方を表した憲法といえる。

第四章 条約をめぐる英仏の反応

 

第一節 フランスにおける批准をめぐる反応

 

二章第二節で取り上げたデンマーク・ショックは、ヨーロッパ統合において主導的役割を果たしてきたフランスに大きな影響をあたえた。

フランス政府は批准に不可欠な憲法改正案を議会に提出した。上下両院の合同会議の末、1992年6月にフランス憲法の改正案は、賛成592名、反対73名と大差をつけて、有効投票の3分の2を上回る賛成多数で可決された。しかし、国民の間には通貨や防衛など国家と国民の命運に関わる重要な事項を含む条約について批准反対の声が高まってきた。このため、ミテラン大統領は危機感を覚え、条約批准の可否を国民に問うことを決めた。1992年9月20日、条約の成立に必要なフランス憲法の改正条項に関する国民投票が行われた。

 

フランスの国民投票は、今後のヨーロッパ統合の鍵を握るだけに世界的に注目を集めたが、その結果について3つの予測がなされた。@大差で可決、A僅差で可決、B否決である。結局国民はAを選択した。投票結果は、賛成51,05パーセント、反対48,95パーセントの僅差で可決ということになった。フランスの世論調査機関であるIFOPが国民投票前の9月7日に行った調査では、回答者の50,5パーセントが賛成、49,5パーセントが反対であった。反対論の根拠はさまざまである。農民は「条約を批准したならば農業保護が打ち切られる」、一部の労働者は「社会保障が軽視される」、極右派は「国家の正当性を失う」、その他は「主権の放棄だ」等であった。

 

IFOPの世論調査では、投票4日前には反対意見が急激に増えたため、ミテラン大統領はパリ大学ソルボンヌ校舎で公開討論会を開いた。その模様は、ヨーロッパ各地にもテレビ中継された。ミテラン大統領は「この条約が欧州全体の平和を守るものであることを強く実感している」と述べ、また衛星中継で特別参加したドイツのコール首相は、「条約批准に賛成か反対かは、フランス国民が欧州の運命を左右するほど重大な問題になる」と述べた。ミッテラン大統領は、聴衆を前に、農業、税制、治安、貿易、市民権など広範なテーマに質疑応答形式で答え、批准反対派のフィリップ・セガン元社会問題相との討論にも応じた。

 

デンマークが1992年6月2日の国民投票で条約の批准を否決した後、アイルランドが6月18日の国民投票で賛成69,0パーセント、反対30,95パーセントで、承認した。続いて、ルクセンブルクが同年7月2日、議会で51対6で可決した。7月31日にギリシャが議会で286対8の圧倒的な賛成多数で可決した。それだけにフランスの国民投票は、条約の是非をめぐる動きとして頂点に立つといえる。フランス国民は議論を前提に物事の諾否をきめる傾向の強い国民性であるので、ミテラン大統領が議会での批准だけではなく、憲法に従って直接民主主義的手法に訴えたことは、正しかったと思われる。欧州連合条約は共同体に関わる事項だけを扱い、加盟国の国民と共同体の市民権との関係、通貨の統合とそれによる加盟国通貨の主権が消滅する意味など、市民にとっては論理的に不明瞭な点が背景にあったと見られる。共通の外交、安全保障政策はまさに政治統合の分野に大きなはずみをつけることになるわけで、統合は、緩い国家連合の形をとるのか、あるいは連邦制を目指すのかといった疑問も市民の中に起こったことと考えられる。

第二節 イギリスにおける批准をめぐる反応

 

1991年12月10日、首脳会議がオランダのマーストリヒトで開かれた。その前日、メージャー首相はBBC放送の番組の中で、ECは「連邦制の目標」を撤回すべきであり、経済・通貨同盟の最終的段階でイギリスはECに強制されない、という意向をしめした。イギリスにとって欧州連合条約が、連邦制の文言を削除し、連合の範囲でECと付き合うというのである。ヨーロッパ統合に懐疑的なイギリスは、国家主権に抵触するとして、経済通貨同盟の第三段階で最終段階である単一通貨の導入に参加しない方針をとった。1991年12月の首脳会議で、イギリスは他の加盟国の第三段階への移行には反対しないという前提で、政府または議会が別途決定しない限り第三段階への移行は義務づけられないという、イギリスに対する適用除外項目を設けることで合意した。

 

当時のイギリスの保守党政権は、国家主権を優先する路線に立って、ドイツ、フランスが主導する統合政策に対峙してきた。デンマークが国民投票で条約批准を否決したことを支持し、またフランスの国民投票が僅差による批准承認だったことを受けて、イギリス国民の半数以上が慎重な態度を取り、メージャー政権に条約見直しを求めるようになった。その背景には、国内の失業率、貿易収支の赤字、民営化の不徹底、企業の競争力の低下、物価高というマイナス指標が連続しただけでなく、メージャー政権は1992年9月以降、通貨危機に直面しポンド防衛のための外国為替市場への介入に失敗したことがあげられる。メージャー首相は、一貫して欧州通貨制度の維持を唱え、景気後退期に入っても、通貨の切り上げを拒否してきた。しかし、1992年9月16日、イギリスのポンド、イタリアのリラ、スペインのペセタが急落して、欧州為替相場メカニズムの下限を割り込み、ポンドとリラが欧州為替相場メカニズムから一時的に離脱する事態に追い込まれ、メージャー政権にとっては厳しい情勢となった。

 

また、マーストリヒトの首相会議では、メージャー首相は社会政策についても適用除外を提案したが反対多数で受け入れられず、本条約と切り離した政策協定と議定書で妥協を迫られるという経緯を辿った。しかし、イギリスは、1997年5月の総選挙で、18年間政権にあった保守党に対して労働党が圧勝しブレア政権が誕生するとヨーロッパ政策は大きく転換していく。欧州連合との関係では、ブレア政権発足後間もなく開かれたアムステルダム首脳会議で、英国は、欧州連合条約の改訂にあたり、社会政策協定をアムステルダム条約の基本条約に取り入れることに賛成し、保守党政権期の政策から転換を行った。またブレア労働党政権は、単一通貨ユーロへ参加する政策を打ち出し、2001年の次の総選挙で引き続き政局を担当することが決まったことから、国民投票でユーロへの参加の是非を国民に問う方針を固めた。

おわりに

 

フランス国民投票後の9月下旬から10月中旬に、EC12ヶ国を対象に行われた世論調査では、欧州連合条約への賛成意見は43パーセントであった。欧州連合への支持率は、1991年春の調査から3回連続低下した。またEC加盟国であることに利益があるという回答も半数を割った。こうした統合への支持離れは、イギリス、ドイツ東部地域、イタリア南部など不況下の地域に目立っている。一方、後発地域であるスペイン、ポルトガルでは、「わからない」という回答が多く、条約への無関心さが伺える。12ヶ国全体の数字は、賛成43パーセント、反対27パーセント、わからない30パーセントであった。

 

世論調査で見る限り、条約支持は43パーセントであるから、いかに条約の中身が域内市民に理解されてないかが分かる。したがってEC加盟国政府は、この条約の中身を国民に的確に理解させるべきであろう。そして、国民に論争させ、国民のための欧州連合条約、統合への道を、国民自身に切り開かせるべきではないかと私は考える。

 

そのことが受け止められた会議があった。バーミンガムで開かれた、EC臨時首脳会議である。本論で述べたデンマーク、イギリス、フランスにおける、この条約に対する市民の批判を正面から受け止めるためにひらかれたのである。ここで宣言されたのが、バーミンガム宣言であり、ECの権限集中の是正と政策の意思決定の公開性など、市民のニーズに対応するものだった。この宣言は以下のことを強めた宣言であった。 @ 開かれたEC A ECと加盟各国との権限配分 B 条約と市民の利益との結びつき C EC活動への各国のより密接な関係欧州市民に身近な条約の達成を強調したものであった。

 

これらの視点は大切である。この方針は、各国市民にこの条約への参加を保障したものと考えられる。問題は、EC委員会が、これからこの方向にそって、どのように未来を築いて行くかにかかっているである。

参考文献