「カンボジア伝統舞踊アプサラダンス」と『乳海攪拌』

はじめに

第1章 「アプサラダンスが形成された歴史」

第1節 「カンボジアの暮らし」

第2節 「アプサラダンスが形成された流れ」

第2章 「アプサラダンスが表現するもの」心身論

第1節 「アプサラダンスの特徴」

第3章 「アプサラの由来になった『乳海攪拌』」

第1節 『乳海攪拌』について

第2節 「アンコール・ワット」について

第3節 「アンコール・ワット第一回廊の壁画『乳海攪拌』」について身体すべてなのか

おわりに

参考文献

参考サイト

はじめに

 私は、大学生活で「ダンス」にすごく引き付けられ、「ダンスには、すごい力がある!!」と勝手に思っていました。日本には様々な舞踊があり、世界中にも様々な舞踊(ダンス)が存在しています。

 世界中の代表的な舞踊の写真を集めた『世界のダンス』では、ダンスの秘めている力を「人間社会における舞踊の役割」と考えています。そして「人間社会における舞踊の役割」を「8つ」に分けて説明しています。@文化的アイデンティティの象徴としてのダンス、A宗教的な信仰表現としてのダンス、B社会秩序と権力の表れとしてのダンス、C文化的習俗の表現としてのダンス、D古典的芸能としてのダンス、E文化的融合を進める媒体としてのダンス、F個々のアーティストが創造するダンス、G現代社会において、我々は何であるのか?何処へ行こうとしているのか?という指針としてのダンス。その内「カンボジアの古典舞踊」は、@にあたると言われています。「カンボジアの古典舞踊」は、一番目に紹介されていて、写真や解説は興味深いものでした。

 カンボジアの舞踊は、「古典舞踊」と「民族舞踊」と大きく二つに分けることができるのですが今回は「古典舞踊」だけ調べることにしました。古典舞踊は、インドのヒンドゥー教の影響を強く受けています。例えば、ヒンドゥー教の大叙事詩『ラーマーヤナ』が、「仮面舞踊劇」として踊られているのがその一つです。現在でも『ラーマーヤナ』は上演されていて、その舞踊劇には「女役、男役、魔物役、猿役」の4役があります。以前は、その4役を女性が全て踊っていましたが、現在は動きの激しい「猿役」などは男性が踊るようになりました。このように「古典舞踊」は、もともと女性だけで踊られていたので、「アプサラダンス」は女性のみの舞踊を指すようです。現在にも残っている代表的な作品は、『天女の舞』『麗しい神の舞』などです。

 衣装の特徴は、頭に尖った冠(あるいは飾り物)を被っていて、その被り物は金色で、きらびやかに飾られています。そして、胴体は薄い生地を身にまとっています。動きの特徴は、指を反らすことや両腕を蛇のように動かすこと、腰を低く下げ全体的にゆっくり動くことなどです。

 このような女性の衣装や動きの特徴は、アンコール遺跡の壁や石柱に沢山浮き彫られています。その浮き彫られた女性たちは、「アプサラス(Apsaras)」と呼ばれていて、「アプサラダンス」の語源になっています。「アプサラス」というのは「ヒンドゥー教神話に出てくる水の妖精」のことで、ヒンドゥー教の『乳海攪拌』という神話の中で、その「アプサラス」の誕生が語られています。 

 しかし『乳海攪拌』の話のメインは、不老不死の薬を手に入れるために、阿修羅と神々が蛇で綱引きをして海を攪拌させるというものです。阿修羅と神々が蛇で綱引きをしていて、真ん中にビシュヌ神がいるシーンは、一番の名場面で、アンコール・ワット第一回廊にも、その場面が刻まれています。アンコール・ワット第一回廊の場合、綱引きの下に、たくさんの魚が逃げ回っている様子が刻まれています。それは、綱引きの引っ張り合いによって海が攪拌され、攪拌によって海の生き物が切り裂かれる様子を表しています。また綱引きの上には、「たくさんのアプサラスが舞っている様子が彫られていて、その「アプサラス」は、綱引きによる海の攪拌で、生き物が切り裂かれ、乳色になった海から生まれました。このように「アンコール・ワット第一回廊の壁画」には、『乳海攪拌』の内容が凝縮されています。

 『乳海攪拌』の話の内容は、他の「アンコール遺跡」にも刻まれていて、それらの表現の仕方は様々です。例えば、「溜め池をまたぐ蛇の橋」が、その一つです。今回は、代表的な「アンコール・ワット第一回廊の『乳海攪拌』」を取り上げ、また『乳海攪拌』の神話について研究された資料を参考に、『乳海攪拌』の理解を深めたいと思います。この2つの作業によって「アプサラダンスの特徴」との関係性を考えていくのが今回の狙いです。今回、集めることのできた貴重な資料を最大限に活用できるよう努力したいと思います。「アプサラダンスが形成された歴史」

第1章 「アプサラダンスが形成された歴史」

第1節「カンボジアの暮らし」

 まず、カンボジアについて少し確認しておきましょう。(地図は第三章第二節にあります。)カンボジアは、インドシナ半島の中央に位置し、タイ、ベトナム、ラオスに隣接しています。首都は、東南のプノンペンで、北西のアンコール遺跡群のあるアンコール地域はシェムリアップと言います。シェムリアップのすぐ南に、東南アジア最大の湖「トンレサップ湖」があります。また大河メコンや東西南北を囲む山々などの自然にも恵まれています。国土は、総面積約18万1000平方キロメートルで、北海道の面積の約2.5倍です。人口は、1970・80年代の内戦で減少したが、その後回復していき、現在総人口は1309万1000人で、北海道の人口の約2.5倍です。人口密度は、74人/平方キロメートル(計画省2004年)これは、タイやベトナムの人口密度と比較すると一桁も下回っています。

 次に気候について確認しましょう。カンボジアは、北緯11から15度にまたがっていて熱帯気候で、インドシナ半島の他の国同様にモンスーンの影響を強く受ける特色があります。「5月から11月」は、「雨季」で、南西の季節風によって大量の雨が降ります。「11月から5月」は、「乾季」で、乾いた北東風が吹きます。

 最後に平野地域の稲作農業を取り上げて、一年の生活サイクルを確認しましょう。「4月」は、カンボジアの「お正月」で、「最も暑い」です。正月を過ぎる頃から雨が時々少量ながら降り始め、雨季が始まると苗代作りをして稲作の準備をしていきます。本格的な雨季に入ると、牛に犂を引かせて田の耕起と均しを行い、「8月頃」に田植えをします。「9月」は、最も降雨量が多い月で、「プチュム・パン」(盆)という大きな祭りがあります。「11から1月」は、乾いた涼しい風が吹き、「脱穀」で忙しい時期になります。「2から4月」は「農閑期」ですが、冠婚葬祭が多く「金がかかる時期」と言われています。このような「気温の変化」と「降雨量の変化」によって、「暮らしのリズム」が生まれたのです。(上田広美/岡田知子『カンボジアを知るための60章』(株式会社 赤石書店、2006年)  高橋美和「季節のリズム」P78から83)

 以上が「アプサラダンス」が生まれたカンボジアの自然環境の簡単な説明です。次の第二節では、アプサラダンスの始まりから現在に至るまでの過程を説明します。

第2節 「アプサラダンスが形成された流れ」

 第一節で、カンボジアの風土が、なんとなく解ったと思います。「クメール文化」は、そういった自然環境で生まれ、特に「メコン河の下流デルタの豊かさから生まれた」と言われています。そして「様々な文化の影響」を取り入れながら、現在の「アンコール芸術」を形成していきました。では、これから「舞踊」が、現在のアンコール芸術に成り立った流れを確認していきましょう。

 クメール文化は、「9世紀初頭のアンコール朝時代」から始まったと言われています。アンコール朝を開いたのはジャヤヴァルマン2世です。王は、乱れていた国内の再統一することに努力し、神王崇拝を導入して王権を強化しました。そして、トンレサップ湖北西岸のアンコール地域に都を確立し、以後6世紀有余にわたるアンコール朝繁栄の基礎を作りました。

 9世紀初頭から15世紀初頭に、現在のアンコール遺跡に見られる造形芸術が栄えました。中でも「アンコール・ワット」は一番規模が大きく、現在の国旗のシンボルとなっています。そのアンコール・ワットの中央堂は、三重の回廊に囲まれていて、その回廊の壁には、たくさんの精細なレリーフ(浮き彫り)が施されています。その壁画には、高さ1メートルほどの天女(水の妖精)・デーバ(女神)のレリーフが多く見られます。彼女らは、本尊のビシュヌ神の霊を慰める供養女であり、1700体ほどの数の像があります。また、中央堂から一番外側の「第一回廊」には、「8つ」の浮き彫りによる物語があります。8つの物語の一つの長さは、だいたい50メートルぐらいずつあり、「東西南北」それぞれの側面に2つずつあります。それらの物語(レリーフ)は、アンコールの芸術文化の爛熟を示しています。

 13世紀からは、カンボジアは、タイのアユタヤ朝やベトナムのフエ朝に常に侵略され、ついには1432年、タイのボロマラーチャー2世の侵略によってアンコールは滅びてしまいました。また、その時に宮廷の舞踊家や音楽家が捕虜として9万人も連れ去られ、クメール文化は消え去ってしまいました。しかし、クメール文化は、アユタヤ朝に受け入れられ、アユタヤ朝の文化として「舞踊、仮面舞踊劇、音楽」さらに「影絵芝居」など発達していきました。カンボジアの領土は、それから18世紀までタイやベトナムの支配下におかれ、様々な文化の影響を受けました。その色彩は今でも残されています。

 1776年から1859年の間、王位についていたアンドゥオン王子は、1841年ごろ宮廷の芸能が衰退していたため、伝統芸術を復活させようと努力しました。王子はその時、ベトナム歌劇から「アヤイ」という歌を取り入れて、舞踊の動きを新しくしました。

 1860年から1904年は、アンドゥオン王の子供であるノロドム王が王位につきました。ノロドム王は、古典舞踊より音楽を好んでいて、1872年には、香港、マニラ、シンガポールを訪れ、フィリピンからは数人の音楽師を連れて帰り、音楽の近代化に努めました。これは現在の王宮楽団のはじまりとも言われています。王は東南アジア各地から取り入れた「舞踊、歌、身振り、筋」などをないまぜにして、新しい舞踊歌劇「イ・ケ」を作りました。

 今日の宮廷舞踊は、クメール古典舞踊劇団によって伝承されています。かつての芸能もすべてこの舞踊団に受け継がれています。古典舞踊団は、200年以上の伝統を持つカンボジア民族の王権の象徴として設立されました。1880年代のフランス植民地時代でも、この舞踊団は特別に保護され、また1903年にはフランスの植民地博覧会で上演されました。それ以来フランスをはじめ、多くのヨーロッパの人々に感動を与えていきました。カンボジア国内でも、1917年に開校された芸術学校が、1965年にカンボジア芸術大学と名前を変え、「舞踊・演劇」が、「音楽・造形美術・考古学・建築」と共にカンボジアの芸術文化の中心となっていきました。ところが、1970年内戦が勃発したため、大阪・千里の万国博覧会で初めて日本で公演した後、カンボジア王立舞踊団は、その舞踊を世界に見せる事ができなくなりました。また、1975年から79年の「ポルポト時代」のカンボジアは悲惨でした。ポルポト率いる「クメール・ルージュ」たちが、原始共産制を目指してクーデタを起こし、原始共産制を実現するために「貨幣廃止」や「農業の強制労働」、また身分を平等にするために「伝統的な王制の廃止」など、極度な政策をとっていき、さらに政策の妨げになるものをすべて消し去ろうとしました。このことによって多くの伝統文化が破壊され、ほとんどの文化人・知識人が虐殺され、舞踊や音楽演奏の伝承者たちもまた虐殺されました。

 ポルポト時代の後、1979年に王立舞踊団は再編成され、生き残った数名の舞踊・音楽の指導者たちは、伝統文化を復興しようと努力しました。それによって、1981年芸術学校を再開することが出来るようになり、古典舞踊・民族舞踊と音楽、また様々な演劇・伝統歌唱などが指導され、後継者を育てていくことが出来ました。1988年には、芸術学校は芸術大学となって、現在もカンボジアの伝統文化を伝承し続けています。1990年には、アメリカのケネディーセンターによって、テラス・シアターで、カンボジアの古典舞踊団として海外公演し、1993年には日本各地でも公演が行われています。(ジェナルド・ジョナス著 田中祥子・山口順子訳『世界のダンス ―民族の踊り、その歴史と文化―』(大修館書店)P12・13)以上が、カンボジアの「舞踊」が、「芸術」として形成された流れ・歴史でした。

第2章 「アプサラダンスが表現するもの」

第1節 「アプサラダンスの特徴」

 では、これから宮尾慈良『これだけは知っておきたい世界の民族舞踊』P96・97を参考にさせていただき、アプサラダンスの特徴を確認しましょう。カンボジアと言えばアンコール遺跡」ですが、中でも規模が一番大きいのが、「アンコール・ワット」です。アンコール・ワットの壁画には、踊っている女性の浮き彫り像が見られ、また彼女らは「アプサラ」と呼ばれています。壁画の踊る姿は、インドの表現に近いようで、「豊満な胸を露にし、きわめて官能的な姿」をしています。しかし、「壁画の踊る姿」と「今日の舞踊」では異なるところがあります。では、「壁画の踊る姿」と「今日の舞踊」とは、どのように異なっているのでしょうか。

 「レリーフの踊り子を見てみると、腰を垂直に下ろし、右脚は膝を強く横に出し、左脚はバランスを保つようにしっかりと大地につけて、膝を突き出している。右腕は肘を曲げ、身体の中心に手を持ってきて手首を曲げている。左腕は肩まであげて肘を曲げる。手首は内側に曲げ、手のひらを天に向けて反らし、手には花の飾りを持ち、親指と人差し指をつけ、他の三本を離して、美しく、しなやかに曲げている。このレリーフの踊りは正面からの姿であって、舞踊の動きでは、脚をこれほど高く上げません。舞踊に見られる片足を後ろに蹴った姿は、空を飛んでいるのを表現しています。」(宮尾慈良『これだけは知っておきたい世界の民族舞踊』P96・97)

 次に、「今日の舞踊の衣裳」について確認しましょう。「踊り手の身体は小柄で、顔は小さく、白化粧をしている。光り輝く壮麗な衣裳を身につけ、黄金の指輪、腕輪、足輪、先の尖った宝石の頭飾りの冠を被り、耳元から垂れ下がった花の房が美しい。金色の絹布でできていて、美しい装飾が施されている腰布は、後ろで広がっている。」(宮尾慈良『これだけは知っておきたい世界の民族舞踊』P96・97)

 続いて「今日の舞踊の動き」について確認しましょう。「舞踊は、ゆっくりと手指を動かし、そして足の運びは、まるで静止しているように表現される。その動きの優雅さと穏やかさは、悠長に奏でられる音楽と調和がとれている。 流れている動きを抑制しながら、手指の動きを一つ一つが優雅さをいっそう増して、魅力的な動きをとなっている。さらに上半身をゆっくりとねじり、胸や脚は、決められた角度にまで曲げている。肩甲骨を押し付け、腹部を引き、踊り子は身体を歪めるようにして舞うのが特徴である。」(宮尾慈良『これだけは知っておきたい世界の民族舞踊』P96・97)これが、今日の舞踊の特徴であり、アンコール・ワットのレリーフとの異同も明らかにしてきました。

第3章 「アプサラの由来になった『乳海攪拌』」身体の中のどの部分に心とは存在するのか

第1節 『乳海攪拌』について

 アプサラダンスの「アプサラ」は、「アプサラス」という「インドのヒンドゥー教に伝わる水の妖精」のことですが、アプサラスの誕生は『乳海攪拌』という神話の中で語られています。『乳海攪拌』とは、インドから伝わったヒンドゥー教における天地創造の神話なので、「アプサラスの誕生」は、『乳海攪拌』の内容のメインではありません。しかし『乳海攪拌』の内容と「アプサラダンスの衣装と動きの特徴」は深い関係にあると私は考えます。ですから、これから『乳海攪拌』の内容を確認していきましょう。

 まず内容は、「神々と阿修羅が、不老不死の薬を手に入れるために、蛇で綱引きをし、海を攪拌させる」という話です。最重要の内容は、「薬を手に入れるための方法」です。その方法は、次のようになっています。@軸棒に蛇を絡ませます。「軸棒」とは、「亀の甲羅にマンダラ山を置き、その山の上にビシュヌ神が座る」というものです。A軸棒を中心に神々と阿修羅たちが蛇を引っ張り合います。阿修羅たちが「蛇の頭」を引っ張っていて、神々が「蛇の尻尾」を引っ張っています。Bその蛇で綱引きをし、海を攪拌させます。C海を攪拌し、海の生き物を切り裂きます。「生き物」が切り裂かれると、海はミルク色になり、その乳海から「アプサラス」などが誕生し、最後に薬を生み出すことが出来るのです。以上が、『乳海攪拌』の基本的な内容です。

 私は、『乳海攪拌』の内容とアプサラダンスの衣装と動きの特徴が深い関係にあると言いましたが、その理由については、第三節の「アンコール・ワット第一回廊の壁」に描かれている『乳海攪拌』の中で説明したいと思います。

第2節 「アンコール・ワット」について

 まず、「アンコール・ワット」も簡単に紹介しましょう。9世紀初頭ジャヤバルマン2世が、アンコール朝を開き、それから三百数十年たって東南アジア最大級の大伽藍「アンコール・ワット」が建てられました。アンコール・ワットはアンコール朝、18代目のスールヤヴァルマン2世によって、33年かけて建てられ、幅約190メートルの環濠に囲まれ、面積は約200haに及びます。

 アンコール・ワットの特徴は、「大環濠、長い参道、大回廊、大階段、高い塔堂」のどです。また、長い参道の両側には、蛇神ナーガの胴体で作られた欄干などもあります。この寺院建立の思想的背景として、当時のヒンドゥー教から影響を受けた「宇宙観」があります。アンコール・ワットは、5期の塔堂が世界の中心山の須弥山(メール山)を模しています。周壁はヒマラヤの霊峰を象徴し、環濠は深い大海を象徴しています。このようにアンコール・ワットは、「クメール的な神の世界を具現化した寺院」なのです。

 アンコール・ワットの中央堂は、三重の回廊に囲まれていて、回廊の壁には、たくさんの精細なレリーフ(浮き彫り)が施されています。その壁画には、高さ1メートルほどの天女(水の妖精)・デーバ(女神)のレリーフが多く見られますが、彼女らは、本尊のビシュヌ神の霊を慰める供養女であり、1700体ほどの数の像があります。また、中央堂から一番外側の第一回廊には、「8つ」の浮き彫りによる物語があります。一つの長さは、約59メートルずつあり、東西南北それぞれの側面に2つずつあります。その8つの物語を東西南北の順で紹介したいと思います。

 東面「南側:『乳海攪拌』、北側:『阿修羅に対するヴィシュヌ神の勝利』」

 西面「南側:『ラーマーヤナ』、北側:『マハーバーラタ』」

 南面「東側:『天国と地獄』、西側:『偉大な王の歴史回廊』」

 北面「東面:『怪物バーナに対するクリシュナの勝利』、西側:『神々の戦い』」

 以上が8つの物語です。このような造形芸術は、建築技術の開発と進展、建築装飾の発展、建築様式の発展など、様々な試行錯誤を経て生み出されたもので、300年間の技術を最大限に出し切った結晶といえるでしょう。(石澤良昭著/内山澄夫(写真)『アンコール・ワットへの道 クメール人が築いた世界遺産』(JTBキャンブックス))

第3節 「アンコール・ワット第一回廊の『乳海攪拌』」

 では、話を戻して、「アンコール・ワット第一回廊の『乳海攪拌』」について確認していきましょう。まず、全体的な説明をします。壁画全体の大きさが縦:約3メートル、横:約59メートルで、壁画は三層に分けて見ることが出来ます。一番上の層は、沢山のアプサラスで埋め尽くされていて、一番下の層は、沢山の魚で埋め尽くされています。そして、真ん中の層が、神々と阿修羅たちによる蛇の綱引きが刻まれています。

 次に、その真ん中の層を説明します。まず中心に軸棒であるヴィシュヌ神がいます。その軸棒から左側には阿修羅たちが88人いて、蛇の頭を引っ張っています。軸棒の右側には神々いて、阿修羅同様88人で、蛇の尻尾を引っ張っています。

 以上がアンコール・ワット第一回廊の『乳海攪拌』についてでした。私は、アンコール・ワット第一回廊の壁に描かれている『乳海攪拌』をイメージすると、『乳海攪拌』の内容と「アプサラダンスの衣装と動きの特徴」が深い関係にあると言うことが理解しやすいと考えたので、説明させていただきました。では、これから何故『乳海攪拌』の内容とアプサラダンスの衣装と動きの特徴が深い関係にあるのか説明します。

 第一に、第一章第一節で述べた「9月」を思い出してください。9月は、モンスーンによって最も雨の降る月ですが、これは「攪拌」を意味しているのではないでしょうか。「第一回廊の『乳海攪拌』」では、魚が逃げ回っている一番下の層にあたるでしょう。そして、9月には大きなお祭りがあり、かつてはアンコール・ワットで踊りが行われていました。これは、第一回廊の『乳海攪拌』の真ん中の層を現しているのではないでしょうか。

 第二に、第二章の「踊りの特徴」を思い出してください。まず先の尖った冠を被り、腰を落とし、しっかりと大地を踏みしめ、足から頭の先まで体に軸を作っています。これは世界の中心である、「メール山」「アンコール・ワット」または「ビシュヌ神」を現し、神の力を借りようとしているのではないでしょうか。次に、蛇のように動かす両腕を蛇です。「乳海攪拌」の話の中では、「蛇の綱引きによって阿修羅と神々が手を結んだ」とあります。蛇のように踊ることによって、農業の特徴である共同作業を再認識させていると考えます。

 第三に、カンボジアの降雨量は、毎年不安定でムラがあり、収穫量左右されます。その雨による豊穣の願いをこめて踊るという考えは、よく見られることでしょう。乳海攪拌では、「海を攪拌させ沢山の生き物を生んだ」とあります。「第一回廊の『乳海攪拌』」の「アプサラスが舞う一番上の層」がそれです。「女性が踊ること」や「金色のきらびやかな衣装」や「9月に踊るということ」は、豊穣の願いを強く表現したいものではないでしょうか。以上のことで、私は『乳海攪拌』の内容とアプサラダンスの衣装と動きの特徴が深い関係にあると考えました。

 

 

 

おわりに

 今回「カンボジアの舞踊」に触れたことは、私にとって新しい発見でした。「アンコール・ワット」は世界遺産であるだけに魅力を感じさせますが、それとともに、舞踊との関係性も学べたことがとても興味深かったです。これをきっかけに日本の古典舞踊にも興味がわいてきたので調べる機会を作っていきたいと思います。

参考文献