江戸時代の将棋―将棋家と将棋の普及 三年 大平将彦

 

はじめに―将棋の起源

第一章 将棋家の成立

 第一節 将棋家の成立

 第二節 御城将棋

 第三節 段位の制定

第二章 将棋の普及

 第一節 賭博としての将棋

 第二節 武士・町人への普及

 第三節 将棋の普及

  棋書の普及、将棋家の努力、将棋の隆盛棋

第三章 将棋家の衰退

 第一節 御城将棋の終焉

 第二節 将棋家の断絶

おわりに―

付録―歴代名人表

参考文献・参考Webサイト

脚注

 

はじめに―将棋の起源

 

日本の将棋を語る前に少し将棋の起源に触れておきたい。

将棋の起源は、インドに始まり世界中に普及した盤上遊戯である。将棋史をざっと見積もって2500年ほどであるが、将棋は、各土地、各地域の風土・文化によって様々に変化していった。例えば西洋ではチェス(chaos)、中国では象棋(シャンチー)、日本では将棋となった。その形態は様々であり、ルールや形は違っているが、現在でも世界中の人々に盤上遊戯として愛用され遊ばれている。

 さて、肝心の将棋がいつ日本に伝来したかであるが、これまたはっきりしたことは分かっていない。推定到着時期も、6世紀〜11世紀までとかなり大まかである。出土資料や文献によると、興福寺[]旧境内から出土した駒が最古のもので1058年と特定されている。粗末なものだが、王将・歩兵など二文字で書かれた五角形の駒で、裏に文字が書かれた駒もあることから現行将棋と大差はない。

 平安期の将棋は、大将棋や中将棋と呼ばれるもので、現行将棋とは違い、持ち駒不使用で駒数は100枚を超えていた。鎌倉期には、駒数354枚という秦将棋というものまでも創作された。なお、相手の取った駒を使えるという持ち駒使用のルールは日本にしかないもので、なぜ日本のみ持ち駒使用なのかは謎が多いところである。

 現行将棋のもととなったのは36枚の小将棋とよばれるもので、それに飛車と角行をプラスしたものが40枚の現行将棋である。以後、この持ち駒使用の現行将棋が定着し、江戸時代には将棋を家業とする将棋家が誕生し、庶民層にも爆発的に普及した。本論では将棋家をメインとして江戸時代の将棋の普及、現代の将棋界についても少し触れていきたいと思う。

 

 

第一章 将棋家の成立

 

 第一節 将棋家の成立

 

将棋が戦国時代末期までにある程度普及していたことは、公家や僧侶、武士の日記から伺うことができる。16世紀後半の朝倉氏の受領から夥しい数の将棋駒が出土しているのを始め、大阪城跡、高槻城(現大阪府)からも多数発見されている。これらの中には粗末な駒もあり、とても達筆とはいえない文字の駒もあることから、下級層の間でも将棋が指されていたことがわかる。駒の出土地も畿内だけでなく、富山、静岡、岩手と全国各地におよんでいる。

そのなかでも、特に京都は、公家のお膝元だけあって、将棋が盛んだったようである。宗桂、本因坊、春知などの町衆や僧侶、武士などの強豪も出現した。中でも宗桂は将棋の上手としてしられ、彼らはまだ政権を掌握していない徳川家康とも親交があったようである。

大橋家初代とされている宗桂のことについては、詳しい素性は分かっていない。数少ない資料から推察すると、能楽師の一人であった可能性が高いようである。「大橋」という姓に関しても没後のもののようで、生存中は宗桂とのみ名のっている。また、「宗桂」という名は、織田信長より「桂」の使い方がうまかったため、「宗桂」と名乗るよういわれたという逸話が残っている。真偽は定かではないが、以後大橋家の当主たちは、将棋の駒の一字をいれて名乗るようになった。

徳川幕府が開かれた後の1612年(慶長17年)、宗桂を含む八名の碁打ち・将棋指しに幕府から俸禄があたえられた。しかし、このときは一代限りで家禄ではなかった。俸禄を得たということの意味するところは、将棋・囲碁が幕府公認の遊戯・技芸となったということである。幕府からの公認を得たことは、将棋が飛躍的に普及する契機となった。

1634(寛永10年)、宗桂が没し、長子の宗古が大橋家を継いだ。俸禄は、減額はされたが、引き続き支給されることとなった。宗古の弟の宗与も大橋分家を興し、次いで宗古の娘婿の宗看が伊藤家として独立した。いずれも幕府から家禄を支給されたので、ここに将棋を家業とする大橋家、大橋分家、伊藤家の三家が成立した。これ以降、将棋三家は、実子や弟子を養子として、代々継承されていった。二歩などの禁じ手(反則)や基本的なルールもこの頃整備され、ほとんどが今日にまで生きている。

 

将棋の普及の転機となったのは、1667年(寛文7年)、将棋三家が京都から江戸に移住したことであった。三家には江戸で屋敷が与えられ、寺社奉行管轄となった。身分は幕府御用達の商人とされ、当主の義務や制度も定められた。例えば、11月末ごろ(八代将軍吉宗の時に1117日と制定)には、江戸城内の黒書院[]で将軍に技芸を披露すること(碁打ちも同様)が義務付けられ「御城将棋」と称された。しかし、将軍が実際に観戦することは稀で、老中の一人が代行することが多かったようである。

近年「大橋家文書」―大橋家の子孫から寄贈された文書類―の解読によって、従来から伝承されてきた将棋家の実態がいくらか異なることが判明してきた。例えば、将棋家の当主たちが代々使用してきた肩書きで「将棋所」がある。

これまで「将棋所」は幕府任命の官職だと思われていたが、実は将棋家の自称であったことがこの文書類より判明した。1764年(明和元年)、寺社奉行が大橋家の当主を呼び出して、「名人将棋所」の由来と官贈であったかを問うたところ、9代目大橋宗桂は、官職でなく自称であると返答した。同席した碁家の井上因碩もこれに同意しているようである。他に、幕府からの受領屋敷を一般に貸し出し、賃貸をとっていたことや、江戸城内での席順を医師と同等にするよう嘆願していたことが分かった。

 

第二節 御城将棋

 

将棋家の当主たちの重要な仕事のひとつであったのが、「御城将棋」に出仕することであった。しかし、これも「大橋家文書」から得られた事実であるが、従来まで伝わってきた評価・実状とはかなり異なっていたようである。将棋家では勝敗よりも出仕することの方が重要で、これは年末の褒賞にも影響していた。初期の頃は対局時間に制限がなく、城中では勝負がつかず月番の老中邸で指し継がれることが多かったようである。このため、1692年(元禄5年)から城中での対局時間を短縮するために、当日までに対局を済ませておく規定に変えられた。その結果、御城将棋当日は盤上に駒をならべ直すだけの作業となった。そのため、当日の対局時間が余るようになった。

 この余った時間を利用して行われるようになったのが、「お好み」と呼ばれる指導対局である。将棋の上達を希望する人たちへ御城将棋の出仕者たちが指導対局を行った。寛政の改革時、形式化した御城将棋が廃止されなかったのは、将棋の稽古を求める人たちのなかに大名や将軍の側近たちがいたからである。城中で終了しなかった指導対局は、後日、大名や城内勤務者宅で引きつがれ、城中での継続を記した棋譜も残されている。御城将棋が形式的な儀式に変わったあと、その日の黒書院の間は将棋サロン化し、この慣習は幕末まで続けられた。

 

第三節 段位の制定

 

 17世紀以降の将棋の普及に大きく関わったのが、強さを段位で表す制度の導入であった。

 将棋三家の当主達は談合互選で最強のものを名人と定め、これを基準に門弟をはじめとした指し手の強弱を表わした。17世紀後半になると免状を与える制度が用いられるようになり、将棋家の重要な収入源ともなった。

名人が総ての段位希望者と対局することは物理的に不可能である。そのため18世紀初頭は、まだ数字での段位は示されていなかった。数字での段位が記されるようになったのは、1717年(宝永4年)発刊の将棋師名簿『将棊図彙考鑑』でした。例えば、名人の香車落ちが七段、飛車と香車を落とした場合で初段と定められました。現在の感覚からすると、当時の初段の実力は高かったようである。現在の初段の実力はというと、プロに二枚落ち(飛車、角行落ち)で勝てると初段を名のってよいだろう。ちなみに現在の5段がアマチュア都道府県代表くらいの棋力で、六段になるとアマチュア名人クラスの棋力になる。

『将棊図彙考鑑』には総数167名の有段者が記されている。初段は約半分の90名、有段者数を地域別にみると、江戸が3割、次いで京都、大阪の順で、やはり都市に有段者が多いことが伺える。東北、九州、四国では普及が遅れていたようである。階層別にみると圧倒的に武士が多い。なかには関白経験者の名前もみられる。

―増川宏『将棋の駒はなぜ40枚か』(集英社、2000年)

 

『将棊図彙考鑑』には有段者ではないが、別に将棋に熱心な将棋愛好家たちの名前も記されている。有段者名簿と異なり、全体の8割が町人で、うちの3割強が大阪在住、次いで京都在住の順となっている。名簿作成のために資金を提供したひとたちと考えられる。

『将棊図彙考鑑』のような名簿の棋力が確かであったかどうか定かではない。武士中心、身分制の時代であるから、下層者・上層者への偏見から実力とは異なる評価がなされたかもしれない。しかし、全国的な有段者の分布や町人たちの寄付から推察すると、18世紀初頭の将棋の普及の度合いが大まかにわかる。

 

 

第二章 将棋の普及

 

 第一節 賭博としての将棋

 

 将棋の普及について触れる前に、賭博としての将棋について少し触れておきたい。

 将棋家の当主たちが代々気を使ってきたことが、賭け将棋の禁止である。おそらく公明正大な将棋をアピールすることによって、将棋のイメージアップを図ったのであろう。江戸時代に入り将棋は幕府公認の技芸と認められたが、各藩は碁・将棋・双六といった盤上の遊戯の賭け事を禁止した。遊芸を奨励していた加賀前田藩においても、1791(寛政3年)盗賊改方奉行により賭碁・賭将棋が禁止されている。

 有段者と素人(無段者)の対局では、有段者が駒落ち(ハンデ)で対局するよう指示がなされた。これは賭将棋に配慮して、不当な対局が行われることを防止したものだろうと思われる。これに違反した門弟には厳しい処罰がなされ、段位を剥奪された上、門弟名簿から削除された。

 しかし、将棋家の努力によっても、賭将棋がなくなることはなかった。御城将棋にも出仕しており、江戸期最強といわれた天野宗歩でさえ、賭将棋に関与していたという記述がある。このことは訴訟にもなったが、将棋所の名誉にも関わることなので、内々で処理されたようである。

 他方で賭将棋が将棋の普及に貢献したという見方もできる。将棋は、一部の例外を除いて勝敗が必ずつくゲームである。その点から見ても、将棋は賭け事に適しているといえるであろう。そのため当時も賭け事として愛用されたであろう。現在でも法的には禁止されているが、麻雀の賭博もしばしば耳にする。不道徳的かもしれないが、賭け事としての将棋の魅力が、将棋の普及に一役買ったといえないわけではない。

 

第二節 武士・町人への普及

 

 将棋家が江戸へ移住したことによって、幕府の直臣や各藩の江戸詰めの武士たちに将棋を指導する機会が格段に増加した。比較的平和だった江戸時代の武士階層はすでに官僚化し、盤上遊戯を楽しむ時間は十分にあったと考えられる。一章でも触れた将棋師名簿『将棊図彙考鑑』に記載されている有段者の約8割は武士である。その他の有段者名簿をみても、武士の有段者は七割以上を占めるようである。このことから将棋の普及の中核は、武士であったことが伺える。また、参勤交代によって国元に帰郷した武士によって将棋が地方にも広められた。

 将棋好きの城主がいる家中では、特に将棋が盛んだったようである。越中藩主松平長門守は自らも二段を持ち、家中に多数の武士有段者を輩出した。第十代加賀藩主前田重教も処々の技芸を奨励していた。歴代将軍の中で最も将棋を好んだのは10代将軍徳川家治(在位1760年〜86年)で、自らも詰め将棋集を編集した。また、将棋好きの将軍や側近、大名は将棋家の大きな後援者となり、家中の者から将棋家の門弟になった者も少なくなかった。

 しかし、多くの藩では将棋はあまり奨励されず、前述したとおり「賭け事」として禁止されていた。やはり賭け事の一種というイメージが強かったようである。

 

 将棋家の当主たちは江戸へ移動したが、京都に残った門弟たちもいた。彼らは、将棋指南所を開き、これは幕末まで続けられた。京都は、ことのほか西日本での将棋の普及に大きく影響した。以下の引用がその一例である。

 高知の豪商桂井素庵は寛文3(1663)年の日記に、近在の母親の実家の者や城下の町人と将棋を指したことを記し、或るものとは角行落ちで四番指し総て勝ったと述べている。日記には本黄楊の将棋駒一組が一匁四分とかなり高価だったと書かれている。

―増川宏一『将棋の駒はなぜ40枚か』(集英社、2000年)

 

 18世紀前半、摂津伊丹郷(現兵庫県伊丹市)の酒造家では、連日将棋が指されていた。伊丹郷は公家の領地でもあったので、畿内から有段者を集めて将棋の会がたびたび行われていたようである。また、町人層・武士層だけでなく、少数であるが豪農や僧侶にも有段者が現れ、客の相手をするため遊女もたしなみとして将棋を覚えていた。

 

第三節 将棋の普及

 

棋書の普及

 

 江戸時代は、将棋の戦法や詰め将棋を紹介した棋書も普及した。初代宗桂が考案した詰め将棋集や宗桂、宗古の実戦譜集が残されている。当主たちが名人就任の際、義務ではなかったが、図式と呼ばれる幕府に献上された詰め将棋集も有名である。これらの棋書は多くの人に何度も読み返され、筆写も多数されたようであり、将棋の普及に大きく貢献した。

 例えば、『将棋独稽古』(1758年、宝暦8年)では、盲目客人石田検校が考案した石田流三間飛車や四間飛車という戦法の定跡(きまった指し方)が図入りで紹介されており、これらの戦法は現代にも残っている。『将棋絹篩』(1806年、文化元年)では、駒落ち(ハンデ)将棋の定跡、平手戦(ハンデなし)の様々な定跡も紹介されている。

多くの棋書が出版された結果、これまで将棋家の門外不出とされてきた戦法が一般に広く公開された。入門しなくても棋書を読むことによって、ある一定まで上達することができるようになった。また、棋書は将棋の情報が少ない地方の将棋愛好家たちにとって、有益な情報であった。

 

将棋家の努力

 

 将棋家の当主たちも普及に努力した。とりわけ18世紀末の9代目宗桂は、門弟の指導に熱心だったようで、月に5回も定例会を催していた。新しい入門者には宗桂自身が4枚落ちで対局しており、門弟たちに定例会の成績によって段位をあたえていた。1800年(寛政12年)から1818年(文政元年)の間に有段者の免状を与えられたものは、段位授与者総数140名のうち新入門者は半分強の78名であった。また、19世紀の門弟名簿には、100年のうちに変化が見られる。それ以前は武士が大半であったが、19世紀にはいると、武士が約5割、他は商工業者、農業、僧侶、医師などで武士以外にも将棋が浸透していたことがわかる。

 

将棋の隆盛期

 

19世紀になるとさらに将棋は普及していった。将棋のおもしろさ、奥深い知的なゲームであることが認知されるにつれ、多くの愛好家たちが生まれた。

 江戸初期には、東北地方ではあまり将棋が浸透していなかったが、このころには有段者も輩出するようになった。出羽秋田の銀山で鉱山医師を務めた門屋養安の日記には、鉱山役人や労働者の間で将棋が指されていたことが記されている。

 江戸城下、各町ごとに1,2軒営業されていた湯屋・の二階には、将棋盤が常備されていたようで、俗客に将棋が楽しまれていたようである。これは各町ごとに将棋サロンが開かれていたというのと同じで、将棋は完全に庶民の遊びとなったことを表している。

1831年(天保2年)、江戸で初代宗桂200年忌の将棋大会が大橋家の主催で開催された。有段者を含む80組以上の対局が行われた。江戸期最後の大橋家の門弟帳(1857年、安政4年)には武士や町人の有段者283名が記されている。これは、文化・文政期の約2倍の数になり、将棋の普及の拡大を表している。

しかし、このころから将棋家の事情は大きく変わっていった。一番の要因は、膨大な将棋人口に将棋家が対応しきれなくなり、管理が難しくなってきたからであった。

将棋家が各地で催される将棋大会に関与することは少なくなり、町村の有力者がスポンサーとなっていった。その結果は、番付として配布された。現大阪府の河内・和泉地方に残されている約30年間の連続した番付(最終は1859年、安政5年)には、町人を中心とした約500名もの将棋愛好家たちの名前が記されている。注目すべき点は、約500名の将棋愛好家たちの中で、大橋家から正式に初段の免状を受けているものはわずか2名という点である。さらに免状の取得は受けてはいないものも、初段以上の実力者が10名以上はいたようである。もはや将棋家の免状をもつものだけが、将棋大会を主事することができなくなっていた。その結果、有段者の権威は低下していった。

 

 

第三章 将棋家の衰退

 

第一節 御城将棋の終焉

 

 御城将棋について、第一章でもふれたが、形式化しつつも幕末まで続けられていた。しかし、幕末になると各地で農民一揆や、都市部では打ちこわしなどが頻発し、反幕行為もしばしば行われるようになっていった。また、外国からの圧力も高まり、内外ともに幕政は混乱していた。そのような時代背景から、城内で将棋を鑑賞するという行事は行われなくなった。最後の御城将棋は、1861年(文久元年)に行われたものである。

 城内での対局は終わりを告げたが、1866年(慶応2年)に江戸城帝鑑の間まで老中出席の下、本因坊ならびに碁・将棋家のものが謁見している。対局は中止されたが、御目見え[]の行事は行われていたようである。1867年(慶応3年)、徳川幕府最後の年にも御目見えは行われた。これらの事例から、幕末の動乱期にあっても将棋・碁ともにただのゲーム以上の扱いを受けていたことが分かる。

 現在、「御城将棋」がおこなわれていた1117日(旧暦)は「将棋の日」となっている。1975年、日本将棋連盟によって制定され、この日は全国各地で将棋に関する様々なイベントが行われる。なかでもNHKが協賛するイベントが有名である。毎年違った地方ホールで、観客参加型の次の一手名人戦やプロによる公開対局が行われ、おおいに盛り上がりをみせている。収録された映像は、数週間後の日曜日将棋の時間に放映される。「将棋の日」は5年に1度、将棋の駒の名産地である山形県天童市でおこなわれる。この時、人が駒となって行われる「人間将棋」が行われることで有名である。

 

第二節 将棋家の断絶

 

 徳川幕府の崩壊により将棋家はかなり打撃を受けたようである。武士の門弟は激減し、御用達町人の待遇も返上され、明治政府の下では学問所管轄となり、平民籍へ移譲となった。

「徳川幕府が崩壊の崩壊により家禄の支給がなくなった将棋三家は次第に衰退した。さらに家禄のため無理な縁組をする必要がなくなったからか、明治14年(1881)に大橋分家が絶え、伊藤家は明治26年(1893)に八代目宗印が68歳で没して途絶えた。大橋本家の12代目宗金が明治43年(1910)に72歳でなくなり、かつての将棋を家業とした三家は、すべて消滅した。」

―増川宏一『碁打ち・将棋指しの江戸』(平凡社、1998年)17頁。

 しかし、一般の将棋愛好家たちとって、将棋家の断絶、幕府崩壊・明治維新の影響はほとんどなかった。将棋家による門弟の育成や段位の制定を要因として普及してきた将棋は、もはや将棋家の指導がなくても大衆の周知のものとなっていたからである。

 

 

おわりに―

 

 日本に将棋が伝来した年代は定かではないが、平安時代・鎌倉時代を通して大型の将棋が主に貴族たちの間で遊ばれていたようである。しかし、江戸期に入るとそれらの将棋は衰退していき、日本独自のルールである持ち駒使用の現行将棋が定着した。なぜ持ち駒使用の現行将棋が江戸期に定着したか、いくつか述べたい。

 @大将棋・中将棋と呼ばれる大型将棋は、駒数が100枚以上あるものもあり、駒の動きだけでも覚えるのは大変である。一方の現行将棋は駒数40枚で、駒の種類は歩兵、香車、桂馬、銀将、金将、角行、飛車、王将の8種類で比較的動きを覚えやすい。さらに持ち駒使用のルールによって駒数が少なくても奥深いゲームが楽しめた。A使用する用具に至っては、大型将棋のような何百枚、何十枚もの多くの駒、またそれらを並べる大型の盤を並べるだけでも大変である。駒を並べるだけでも結構の手間である。それに比べ現行将棋は、用具を準備するのが比較的容易である。子供の頃、自分で将棋の駒と盤を自作して遊んだ人も多いのではないだろうか。Bゲームをプレイする時間も問題である。駒が多数ある大型将棋は、持ち駒使用のルールではなかったとしても、大変な時間を要しただけではなく、勝負がついたかどうかも微妙である。現行将棋は、特に時間制限を設けることなく普通にプレイしていても、一時間もあれば勝負がつく。ゲームをプレイするには、適当な時間ではないだろうか。

 以上のようにゲームが普及するためには、@比較的ルールが簡単であること、A用具が安価でそろえやすいこと、B適当な時間で勝敗がつくことなどが重要な点であろう。ルールが難しく、用具を準備するのが大変で、勝敗がつきにくいゲームが大衆に歓迎されるはずがないからである。また、将棋は一人でできるものではない。幾人もの将棋愛好家たちと切磋琢磨して上達してこそ楽しいものである。これが将棋を指す一番の醍醐味と私には思われる。その普及を先導したのが、江戸時代に成立した将棋三家であった。

 

 

付録

歴代名人表

一世名人 初代大橋宗桂 1612年(慶長17年)江戸幕府から俸禄支給

二世名人 二代目大橋宗古 1634年(寛永11年)襲位

三世名人 初代伊藤宗看 1654年(承応3年)襲位

四世名人 五代目大橋宗桂 1691年(元禄4年)襲位

五世名人 二代目伊藤宗印 1713年(正徳3年)襲位

六世名人 三代目大橋宗与 1723年(享保8年)襲位

七世名人 三代目伊藤宗看 1728年(享保13年)襲位

八世名人 九代目大橋宗桂 1789年(寛政元年)襲位

九世名人 六代目大橋宗英 1799年(寛政11年)襲位

十世名人 六代目伊藤宗看 1825年(文政8年)襲位

十一世名人 八代目伊藤宗印 1879年(明治12年)襲位

 ここで将棋三家の世襲名人制は途絶える。

十二世名人 小野五平 1898年(明治31年)襲位

十三世名人 関根金次郎 1921年(大正10年)襲位

 

十三世名人の関根金次郎が名人位を返上したことによって、世襲名人制は終わりを告げた。そして、1937年(昭和12年)から短期実力制名人位制度が開始される。これが、現代おこなわれている名人戦の直接の起源である。

 

 

参考文献・参考Webサイト

木村義徳『持ち駒使用の謎』(日本将棋連盟、2003年)。

尾本惠一[編著]『日本文化としての将棋』(三元社、2002年)。

増川宏一『将棋の駒はなぜ40枚か』(集英社、2000年)。

増川宏一『碁打ち・将棋指しの江戸』(平凡社、1998年)。

フリー百科事典「ウィキペディア」 http://ja.wikipedia.org/ ―御目見え。

                                                                                                                     ―将棋。

                                                                                                                     ―興福寺。

ビバ!江戸 http://www.viva-edo.com/edojou.html―黒書院。



[] 奈良県奈良市登大路町にある、南都六宗の一つ法相宗の大本山の寺院である。南都七大寺の一つに数えられる。藤原氏の祖・藤原鎌足とその子息・藤原不比等ゆかりの寺院で、藤原氏の氏寺である。古代から中世にかけて強大な勢力を誇った。南円堂は西国三十三箇所第9番札所である。「古都奈良の文化財」の一部として世界遺産に登録されている。

[] 江戸城黒書院の間とは、江戸城本丸御殿に設置されていた一室で、白書院に並ぶ将軍の応接間である。白書院(約120畳)は主に公的な行事に使われ、黒書院(約78畳)は日常の行事に使われていた。双方とも大広間に次ぐ格式の高さをもち、このことから「御城将棋」の重要性がうかがえる。

[] 主君と初めて対面し、主従関係を結ぶことをいう。江戸時代では旗本、御家人以上の上級武士に御目見えが許された。このことから将棋家は、旗本・御家人相当以上の階級だったことがわかる。