☆七夕☆

〜七夕の起源と移り変わり〜





法学部 政治学科 04142244
白井 絵理




目次



◎はじめに

◎第1章 七夕について

・ 第1節 七夕とは・・・

(1) 七夕の概要

(2) 七日盆と七夕馬

・ 第2節  一番有名なストーリー

◎第2章 七夕の起源

・ 第1節 中国の起源

・ 第2節 日本の起源

◎第3章 七夕の移り変わり

・ 第1節 奈良・江戸時代の七夕

・ 第2節 明治から現代の七夕

◎第4章 七夕の風習

・ 第1節 七夕の紙衣

(1) 七夕の紙衣の始まり

(2) 京都の紙衣

・ 第2節 七夕人形

(1) 七夕人形の誕生

(2) 松本地方の七夕人形

(3) 七夕人形の変化

◎おわりに

◎参考文献と参考サイト







◎はじめに



 七夕という言葉を聞いて、人はなにを想うだろうか。「織姫と彦星が会う日」とか、「短冊に願い事を書く」とか、『みんなで笹の葉に飾りつけをする』など、人それぞれ想いが違うだろう。 七夕と聞いて私が想うことは、まず第一に織姫と彦星が1年に1度会う日ということである。第2には、学校や地区の行事で、笹の葉にみんなで飾りつけをして楽しむということ。第3は、天の川で、第4は、仙台七夕祭りである。 七夕とはいったいどこから伝わり、どのように日本へ広がっていったのだろうか。七夕にはどのような歴史があるのだろうか。この論文では、これらの視点をもとに、現代に至るまでの七夕の歴史を述べていきたいと思う。

◎第1章 七夕について

 この章では、七夕とはどういうものか、民間伝承で一番有名なお話や、七夕との関係がよくとりざたされる七日盆にふれながら述べていく。

・ 第1節 七夕とは・・・

(1)七夕の概要

 七夕とは、7月7日の夜、天の川に隔てられた彦星と織姫が年に1度だけ会うという伝説にちなむ年中行事である。七夕は、五節句のなかの1つに数えられる。ちなみに五節句というのは1月7日の人日、3月3日の上巳、5月5日の端午、7月7日の七夕、9月9日の重陽のことである。七夕はまたの名を「双星節」・「女児節」・「乞巧節」とも言う。七夕行事は牽牛星と織女星が天の川を渡って会うという伝説や、少女が星に技芸の上達を願うという奈良時代ころに中国から伝えられた乞巧奠に由来する伝承が表層にある。そして基層には水神を迎える祭儀が存在している。本来、七夕は、乙女と水神の聖婚をモチーフとする古代祭儀であったと考えられている。 日本民俗大辞典によれば、「七夕には夏の畑作物や稲の収穫祭、収穫予祝の祭という農耕儀礼としての性格も広くみられる。こうした性格も七夕が水神の祭儀であったことと深く関係しているようだ。」 また七夕の日には水に関係する伝承がきわめて多い。この日に、女性が髪を洗う、水浴びをするなどのような伝承は、全国的に存在する。牛馬を洗うとする伝承も近畿地方や中国地方などに分布している。他にも井戸浚いをする、墓掃除をする日としても多くの伝承が残っている。盆灯龍と結合して後世に華麗な展開を遂げた青森県のねぶたや、秋田市の竿灯の行事にもこの要素がみられる。七夕には雨が降ると良いとか、必ず雨が降るとする伝承も、関東から東海にかけて分布している。これとは逆に雨が降ると悪いという伝承も近畿地方・中国地方・四国地方にかけて分布している。「こうした水をめぐる伝承は、七夕の日を七日盆と呼ぶ地域が広く存在することから、祖霊を迎えて行う盆の望の日の祭を神聖なものにするために、水の潔斎が行われていたことの名残であるという定説がある。」 しかし、日本の年中行事と多くの共通性を持つ東アジアの水稲耕作文化領域を視野にいれて考えると、正月の若水汲みに関係するものと考えられる。四国をはじめとする地域の七夕の水をめぐる伝承には、水によるよみがえりにもとづく伝承がある。またこの日の水が天に由来することを示す天人女房の噺も付随している。中国華南の7月7日に汲む水にも同様の伝承が伴っている場合があるようである。こうしてみると、七夕はただ単に牽牛星と織女星の伝説があるだけではないことが分かってくる。日本古来のもの・中国古来のもの・日本各地の伝統や風習などさまざまな要素が絡み合い、今のような形で伝えられているのである。また折口信夫によれば、「七夕の水をめぐる伝承は、盆の準備段階に由来するというのは二次的なもので、本来は正月の若水に対応する生命の水、よみがえりの水の表象にもとづく行事が存在していた可能性を考慮する必要がある」 と述べている。

(2)七日盆と七夕馬

 七日盆とは盂蘭盆に先だつ7月7日の行事である。この日は水に関する伝承が全国的に多い。例えば三粒でもよいから雨が降るとよい・子どもは7回水浴びをしなければならない・女性が髪洗いするときれいになる・井戸浚いの日だ、などといった伝承がある。また仏具を磨いたり、墓掃除をしたり、盆道作りをしたり、関東地方周辺部のように麦稈などで精霊迎えの七夕馬を作るという盆の諸準備をはじめる所も多い。したがってこの日は、盆の魂祭りのために禊をすべき日とかつては考えられていたようである。新盆宅ではこの日に盆棚を設ける。近隣の人々がこの日から供養に訪れる例も少なくないのである。七日盆のなかでのべた七夕馬とは、7月6日の夕方か7日に麦藁・真菰などで作る一対の馬である。東日本の広い地域でみられる。七夕様がこの馬に乗ってくると考えられ、七夕の竹飾りの下に並べて供物をし、七夕行事終了とともに川に流したり屋根にのせたりする。七夕馬には先祖が七夕馬に乗って訪れると考え、精霊馬と呼ぶ所もある。盆の祖霊迎えのために、なすやきうりなどで牛馬を作る例は全国的に見られる。元来、七夕馬は霊迎えの乗り物として設けていたものが、七夕行事と習合したといえる。

・ 第2節 一番有名なストーリー



 七夕に関する牽牛星と織女星の伝説は日本各地その地域の風習や伝統などにより、さまざまな形で言い伝えられている。ここでは、それらのお話の中で一番有名なストーリーを2つ紹介する。

1.織姫が天にいて牛飼いと暮らすお話

 「天帝には織姫という1人娘がいた。織姫は明けても暮れても機を織って美しい服を織り続けていた。天帝はそんな織姫をかわいそうに思い、お婿さんをもらってやることにした。選んだのは天の川のほとりで牛の世話をしている牛飼いの若者だった。織姫と牛飼いはすぐにお互いを好きになった。ところが2人は一緒に暮らすようになると、織姫は機を織ることを忘れ、牛飼いも牛の世話をしなくなってしまった。天帝はたまりかねて忠告したが2人は耳を貸そうとしない。怒った天帝は2人を無理やり引き離してしまった。織姫は牛飼いに会えなくなり泣き暮らすばかりで機を織ろうとしない。また牛飼いも織姫のことばかり考えてしまい、牛のめんどうをみようとしなくなった。困り果てた天帝は2人に「おまえ達がもとどおり働くならば、1年に1度だけ会えるようにしてやろう」と言った。織姫と牛飼いは心を入れ替え懸命に働きはじめた。7月7日、織姫と牛飼いは天の川の川岸に駆け寄ると、カササギの群れが空をおおい天の川に橋を架けてくれる。2人はこうして1年に1度7月7日に会うことができお互いの思いを確かめ合うのだ。」

2.織姫が天から飛来するお話

 「昔牛飼いの若者がいた。ある日川のほとりで木の枝に美しい着物が掛かっていたので、たぐりおろしふところに隠してしまった。すると川の水がゆれ美しい娘が上がってきて「私の飛び衣です。返してください。それがないと天に帰れません」と言った。娘は天女の1人で織姫という。織姫の美しさにひかれ「どうか私の妻になってください。そうしたら飛び衣を返します」と言った。織姫は牛飼いの妻になった。7年経ち2人の子供がいたが、織姫はいつも天に帰りたいと思っていた。そんなある日、子守歌に飛び衣の隠し場所が歌われているのを知り、織り姫は飛び衣を見つけることができた。織姫は飛び衣を身につけ、2人の子供をつれて天へ帰っていった。戻ってきた牛飼いは、「わらじを千足土に埋め、ユウガオを植え、つるが天まで届くから登ってきてください。織姫」と書かれた手紙を見つけた。さっそくユウガオを植え、つるを登っていった。天では天女たちが機を織っていた。織姫の父は「牛飼いなど婿にできん」と言い、次々に難題を言いつけた。だが、牛飼いは織姫の助けにより難題をこなすことができた。しかし「ウリ畑の番をしろ」といいつけられると、織姫は「ウリを食べてはいけません」と言ったのだが、牛飼いはウリを食べてしまった。食べたウリからは水があふれ出て、天の川となった。牛飼いは織姫と一緒にいられなくなってしまった。こうして織姫と牛飼いは年に1度7月7日の夜に会うことになったのだ。」

◎第2章 七夕の起源

 この章では、七夕の起源を中国と日本の視点から述べる。

・ 第1節 中国の起源

 七夕が成立したのは古代中国である。中国の七夕について古くまとまりある資料に『荊楚歳時記』がある。その中にはこのように記されている。「『7月7日、牽牛・織女、聚会の夜と為す。』とあり、7月7日の夜に牽牛星(鷲座のアルタイル)と織女星(琴座のベガ)が1年に1度のめぐり会いをするという周知の物語がすでに成立していた。また、『是の夕、人家の婦女、綵縷を結び、七孔の針を穿ち、或いは金・銀・鍮石を以て針を為り、几筵・酒脯・瓜果を庭中に陳ね、以て巧を乞う。喜子、瓜上に網することあらば、則ち以て符応ずと為す。』ともあり、女性が裁縫・技芸の上達を願う乞巧奠も行なわれていた。」 六世紀頃の長江中流地域では、牽牛・織女二星聚会の物語と乞巧奠という日本でも年中行事化した七夕の儀礼がすでに行なわれていたのである。中国最古の詩集『詩経』の中でも「天の漢空にかかりてうち監れば光りわたれり 三隅なす織女はひねもすに七襄する 七襄日にはすれども織り返し章をも成さずvけるかの牽牛もいたずらに箱をひかずとある。ここには牽牛・織女のことが詠みこまれている。ここからすでに漢代以前に物語の原形が成立していたことが分かる。」 中国では早くから天文学や暦学が発達していた。『史記』天官書にもさまざまな星の物語がある。牽牛・織女の物語も、もとはそうした中の1つであったようだ。 また中国では、漢代から六朝にかけて、墓室内壁に絵を描いた壁画墓、石材に図像を彫刻した画像石墓、図像の施されたレンガを用いた画像磚墓が流行した。これらの装飾墓に残された絵画や画像資料の中に、牽牛像や織女像やそれらを象徴する星を刻んだものがあり、七夕の説話と儀礼の広がりをみることができる。たとえば、「山東省肥城県の後漢時代の孝堂山祠堂の画像石には、右側に鳥を入れた太陽、左側に蟾蜍と兎を入れた月、両者の間の右よりには織女星を表わす山形の三星を頂く織女がある。また河南省南陽の画像石には、牽牛星を表わす横に列なる三星の下に大きな牛をひく牽牛像、山形に連なる四星の下にひざまずく織女像が描かれている。」 『荊楚歳時記』に見るような七夕の物語と儀礼は、遅くとも後漢の頃には成立していたようである。そして七夕の牽牛の原像では小南一郎によると、「牽牛は農耕儀礼の犠牲としての牛自体であり、殺されることによって儀礼上の意味を   発揮した。七夕の牛には天・地の間に架け渡すことによって天上の貴重なものを地上に  もたらすという神話的機能があったと説いている。」 このように牽牛の原像は、おそらく農耕祭祀の一部をなす河・水の祭の犠牲である。その起源は、古代農耕文明の成立時期までさかのぼるようである。織女の原像では中村喬によると、「七夕の織女は河の祭に河神の妻として婦女を捧げた人身供犠の風習とかかわり、河神に嫁する女性として犠牲の牽牛に対応する。豊穣を祈念する地上の河神の祭が天上の天漢と二星に投射され、牽牛星と織女星が成立したのだという。」 織女の機織りは日常的な営為ではなく、祭祀にかかわる神話的・象徴的なものであった。七夕に牽牛が犠牲とされることで、織女や蚕織に象徴されるこの世の文化・秩序がもたらされたようである。

・ 第2節 日本の起源



 日本では七夕の宮廷儀礼とは別に、より早い時期から民間へ七夕の伝来と受容があった。しかし七夕に関する所伝は、中国の七夕そのものではない。儀礼の部分的な受容や個々の儀礼への解体・類似の儀礼との習合などさまざまに変異していった。日本では、5世紀代に新しく中国南朝(宋)や百済・新羅などから機台付の機がもたらされた。これを『タナバタ』といい、タナバタで布を織る織女を『オトタナバタ・タナバタツメ』と呼んでいた。中国の儀礼である七夕を『タナバタ』と称するのもこれと無縁ではない。機台付のタナバタ・それを織る織女・七夕の儀礼と物語の三者が一体となって、日本へ伝来したのである。この頃日本に伝えられた七夕の儀礼と説話は、機台付のタナバタを織る織女の物語に重点がおかれていた。女性の技芸の上達を祈願する乞巧奠も伴っていたが、牽牛の影は少し薄かったと推察されている。『万葉集』の七夕歌よりも古く、中国南朝などから機台付の機や織女とともに七夕の儀礼や説話はもたらされていたのである。そして中国南朝からの機台付の機や高度な機織り技術をもつ織姫らの渡来は、単に機織りだけでなく当時の日本の祭祀・儀礼・神話などにも強い影響を与えていた可能性がある。次に、民間のものよりは後になるが、宮中での七夕の伝来と受容を見ていく。七夕は、『万葉集』などの古い資料に見出すことができる。七夕は歌として残っているのである。『万葉集』巻第10の中には、「『天の河楫の音聞ゆ彦星と織女と今夕逢ふらしも(2029)』など、柿本人麿歌集より多くの七夕歌が載録されている。また、同巻第8にも『天の河相向き立ちてわが恋ひし君来ますなり紐解き設けな(1518)』という養老8年(724)7月7日の作をはじめ、山上億良の七夕歌12首が収められている。」 そして天平勝宝3年(751)に作られた『懐風藻』にも藤原不等や藤原房前の七夕歌がある。このことから、七夕歌は山上億良や大供家持より早く、7世紀後半には柿本人麿とその周辺で盛んに作られていた。その歌は中国伝来の観念的知識のみにとどまるものではなく、実際の七夕儀礼に伴うものであったようである。『万葉集』巻第10の柿本人麿歌集の七夕歌には、「天の河安の河原に定まりて神競者磨侍無(2033)この歌一首は庚辰の年に作れり。」 とある。庚辰の年は天武天皇8年(680)説が有力であることから、遅くとも天武朝の頃には七夕が伝来・受容されていたことが推測される。また持統朝には、宮廷で七夕の儀礼が催されていた。以上のことから、天武朝には七夕が宮廷に受容されて、持統朝には年中行事化していたということがわかる。

◎第3章 七夕の移り変わり

 この章では七夕の歴史として、その時代ごとの七夕のあり方について述べていく。そして現代では七夕祭りについてもふれていくことにする。 七夕は、奈良時代・江戸時代・明治以降と時代ごとに七夕のあり方や人々の考え方など変化してきたのだ。

・ 第1節 奈良・江戸時代の七夕

1.奈良時代の七夕

 七夕行事が行なわれたことが分かるのは『続日本紀』の聖武天皇天平6年(734)7月7日の条から分かる。「天皇、相撲の戯を観たまふ、是の夕、南苑に従御し、文人に命じて七夕の詩を賊せしむ、禄を賜うこと差あり」とある。これは天皇が牽牛・織女二星の会合をご覧になりながら七夕の詩を文人に命じて作らせ、出来上がった詩を聴き、出来に応じて禄を賜るというものである。」 これにより奈良時代には七夕の信仰と行事があったことがわかる。前述のように『万葉集』にも七夕に関する詩が多く収められている。また『万葉集』の「左注」によって、宮廷の宴のほか、皇太子、左大臣、大宰師などの邸宅でも七夕の宴が行なわれていた。奈良時代までには、宮中を中心に7月7日に七夕の歌を詠むという行事が出来上がっていたのである。 また聖武天皇の遺品をはじめ奈良時代の宝物を収めた正倉院では、七夕の儀式に用いられた品が遺されている。それは7本の針と三色の色糸『縷』であった。7本の針と三色の色糸『縷』は中国梁代の『荊楚歳時記』の七夕部分の記述とほぼ一致する。このように奈良時代の七夕儀式は、これまでの文献で知られている七夕の作歌に加え、当時の中国で行なわれていた乞巧の行事がほぼそのまま行なわれていた。

2.江戸時代の七夕

 江戸時代には、七夕がそれまでの貴族、一部の武家の行事から、より庶民的な行事へと変化する。『日次紀事』には、「7月7日 七夕 世に七夕と称す。武家並びに地下の良賤、おのおの白帷子を著る。慶を修し索麺を喫し、また互いに相贈る」とある。この日は武家・町人とも白帷子を着て、素麺を食べて互いに贈る習慣があった。 前日の6日には、詩歌を書く梶の葉が市内で売られていた。そして7日の『和歌の御会』では、「地下人もまた短冊あるいは楸の葉、梶の葉に詩あるいは歌を書し、素麺・瓜・茄とともに二星に献ずる。素麺は索餅の略なり」とある。詩歌を書いて二星に献ずる習俗は民間にもかなり普及していた。」  江戸中期に入ると、七夕行事を担う新しい階層として寺子屋の子供たちが登場する。『宝永花洛細見図』には、七夕の挿し絵に寺子屋で子供が梶の葉に文字を書いている様子が描かれている。また同じ挿し絵に机上の供物とともに小笹が飾られ短冊が結ばれていた。そして江戸後期では七夕まつりは子供主役の行事へと変っていった。『諸国風俗問状答』では、「七夕まつりは、7月6日の八つごろから、新しい竹を切り、葉のついた枝に五色の短冊を付けて立てる。短冊には2日、3日のころから競って詩歌などを書いておく。瓜・茄子・五色の糸などを供え、また硯洗いなどもする。子供たちは短冊を付けた笹を寺子屋に持ち寄ると、先生からごちそうをだしてもらえることもある。翌7日、短冊・笹・供え物などみな川に流す。」 とある。このように七夕まつりは、子供が主役となっていったのである。

・ 第2節 明治から現代の七夕

 明治時代には、七夕を含む五節句が廃止されてしまった。七夕は祝日ではなくなり、特に東京では一気に七夕行事がさびれてしまった。寺子屋から小学校へと変わってしまい、旧来の師匠が率先して短冊に詩歌を書かせていた光景とは大きく変わった。しかし地方の七夕行事は江戸時代からの習俗が続いているところも多くあった。明治・大正時代には竹に短冊などをつるす七夕飾りが多かったようである。昭和初期からは都市での七夕行事の衰退を打開しようという動きが出てきた。衰退していた七夕行事を復活させるための橋渡しとなったのが、現在も盛大に行なわれている仙台七夕祭りである。仙台七夕は昭和2年、市内大町五丁目の商店会が七夕復興を提唱した。翌3年、商工会議所、商店街が一緒になって七夕祭りを始め、仙台市がこれに協賛した。これが、現在の仙台七夕祭りの始まりだという。年々盛大となっていき、第二次大戦の中断を経て昭和21年に再開した。昭和天皇が観覧されたのを契機に、今日の豪華な七夕祭りの始まりとなった。この仙台七夕祭りの成功を見て始まったのが、神奈川県の湘南ひらつか七夕祭りである。平塚市は昭和20年7月の大空襲で大きな被害を受けた。しかし復興は早く、昭和25年7月には『復興まつり』を開催した。その後、平塚商工会議所・平塚市商店街連合会が中心となって、仙台七夕を模範として七夕祭りを開くことが決まった。そして翌26年7月、第1回七夕まつりが開催された。昭和30年の第5回では、人出が100万人を超え、昭和32年の第7回からは平塚市の主催となる。今では仙台七夕祭りと並び日本を代表する七夕祭りとなった。このほか安城七夕まつりや福生七夕まつり、愛知県一宮市の七夕まつり、長野県上田市の七夕まつりなど各地で七夕祭りが開催されるようになった。古くからの伝統を持つ各地の七夕も、商店街が飾りの中心地となってきている。現在の七夕では家庭や町内での飾りは少なくなっている。商店街に出掛けて七夕飾りを見物する方向へ変わってきている。

  

◎第4章 七夕の風習

 この章ではいくつかの七夕の風習から、特に七夕の紙衣と七夕人形について述べていく。

・ 第1節 七夕の紙衣

(1) 七夕の紙衣の始まり

 七夕紙衣の始まりは、七夕様に『着物をお貸しする習俗』に源流がある。江戸前期の浮世草子である井原西鶴の『好色五人女』では、七夕に借小袖、つまり仕立ててからまだ一度も袖を通していない着物を、いろいろ七つ雌鳥羽に重ねて飾る習俗を記している。七夕に着物を飾る習俗は、江戸時代に入って広まったようである。そして昭和期まで記録されている。たとえば、「『一番装いを七夕さまに貸し申す』と称して晴れ着を着る。新しく縫った着物を七夕様に供えると針の腕があがる。女の子にひとえもんの着物をつくって着せる。」 などの事例がある。また寛政9年(1797)自序の『長崎歳時記』には、七夕に女児が紙で衣服を縫って飾る習俗が述べてある。それまで行なわれていた本物の着物を飾る習俗から、子供が紙でミニチュアの着物を縫って飾るようになった。七夕は、貴族や大人中心の行事から子どもの主体の行事へ変化していった。これは、その変化にともなう現象のようである。七夕の紙衣の習俗は、日本各地で見られた。たとえば、愛知では笹竹に小袖や小袴の折り紙をつるす。福岡では色紙で作った着物を笹竹につけて飾る。大分では女子は衣服の雛形を作って供えるなど各地域にさまざまな習俗がある。また紙衣を飾るのは、『着物を賜る』といって着物が増えるようにとの願いが込められていたのだ。 現在では、仙台七夕祭りでこの七夕の紙衣を見ることが出来る。仙台七夕は紙衣の宝庫なのである。

(2) 京都の紙衣

 京都にも七夕の紙衣が伝わっている。千代紙でできた縦横15cmから16cmくらいの小さな紙の着物である。着物の模様は草花や鳥などをあしらっている。振り袖や小袖が多く、袖から5色糸が下げられたとてもかわいらしい紙衣である。これらは幕末から明治時代にかけて作られた。今では作る人もいないので京都から忘れさられたものになってしまっている。また京都では『西陣の七夕雛』と呼ばれている、振り袖と小袖が一対になっているものがある。『伝統の郷土玩具』には、「西陣の織り子たちが、西陣織の残り糸で紙の雛形に運針し、優雅な着物姿に仕立てた紙雛。これを笹につるして、織女に裁縫がじょうずになるようにと願ったもので、京都らしさがただよっている」 と書かれている。『京都新聞』には、「紙衣を七夕に飾る風習はかつて全国にみられ、織り姫にあやかり裁縫や機織りが上達し着物に不自由しないようにとの願いが込められていた。また西陣の織り子さんが針でひな型に糸を通して裁縫上達を願ったとも言われている。」という記事を掲載している。  しかしながら、『西陣の七夕雛』と呼ばれてきた紙衣は、西陣ではなく中京区や下京区など京都市中心部の民家の子女によって作られたものである。もともとは、江戸後期から明治初期の七夕祭りの寺子屋裁縫教育の一環としても作られた。もとになる紙は七夕用の千代紙で、子どもがこれを買い求め、自分で縫って作ったようである。 そのほか平成9年6月に滋賀県大津市で京都の紙衣とほぼ同じ紙衣が見つかっている。このことから、京都に隣接する大津市においても、七夕に紙衣を作って裁縫の上達を願う習俗があったことが分かる。

・ 第2節 七夕人形

(1) 七夕人形の誕生

 七夕人形の誕生には、七夕人形の言い伝えと松本七夕人形が深く関わっている。最初に七夕人形の言い伝えについてふれておく。七夕人形の言い伝えには、 「木製の七夕様に子どもの着物を着せて飾るのは、子どもが七夕様に着物を貸せるといって、子どもが健やかに成長し、また美人になる。裁縫が上達する。子どものない人は、子どものいる家から着物を借りて七夕様に着せると子どもが生まれる。木製の七夕様を作ると、手先が器用になり何でも作れる子どもになる。」 などがある。これは節句人形として子どもの健やかな成長を願う側面が強くなっている。このように七夕人形には、昔から子どもの成長を願う言い伝えがある。 また七夕人形には、七夕に着物を供えて技芸ほかの上達を願う貸し小袖の信仰と、この流れをくむ紙衣に対する素朴な信仰が七夕人形の成立に大きく関わっていることが分かる。このような要素の融合により七夕人形は誕生したのである。

(2) 松本地方の七夕人形

 長野県松本地方は七夕に飾られる七夕人形が江戸時代から伝わっている。素朴な手作りの人形から優雅な市販の人形や人形に着物を着せるユニークな人形などさまざまにある。松本地方は七夕人形発祥の地とされる。現在でも生活の中で節句人形として使われ、習俗とともに残っている全国でもまれな土地なのである。松本の七夕人形は貸し小袖と紙衣の信仰をもとに成立した七夕人形なのだ。松本の七夕人形は、七夕人形の源流と言われている。簡素に作った木の人形に紙衣を着せて成立した。これは前からある「貸し小袖」と「紙衣」の習俗を引き継ぎ、紙衣を着せるための人形として簡単な木製の人形が作られて、七夕人形が成立したことを示している。この木製の人形をみると、七夕人形の源流を色濃くとどめていることがわかる。こうして成立した松本の七夕人形は、子どもの初七夕を祝う節句人形として、紙びな型人形へと発展していく。松本地方では道祖神信仰が盛んであったこともあり、七夕人形をかたちづくる風土的な要素があるようである。 七夕人形の種類では、紙びな型人形・着物掛け型人形・カータリ(川渡り)・流し雛型人形・御神体型人形の5つがある。これからこの特徴について説明する。 ○1紙びな型人形・・・男女一対の紙製の吊り人形。頭部のみ、厚紙に絹布をはり手書きで顔が描かれている。着物掛け型人形とならぶ松本七夕人形を代表するもの。 ○2着物掛け型人形・・・板製上半身に腕木をつけた男女一対の人形。胸部に腕木がついていて、子供の宮参りや七五三の着物や浴衣などを着せて掛ける。郷土玩具としても有名。着物を掛けるためのハンガーの役割をしている。 ○3カータリ(川渡り)・・・着物掛け型人形の一種。男形だけで、七夕人形と一緒に飾る。『かーたり(川渡り)』『かわこし(川越し)』などと呼ばれている。七夕の日に雨が降って天の川が増水したとき、この人形が七夕様を背負って渡り、二星を合わせてあげるという信仰がある。 ○4流し雛型人形・・・七夕の行事が終わると近くの川に流してしまう一回限りの人形。簡単な作りをしている。 ○5御神体型人形・・・男形は頭部および胴部が角材。女形は板製。これを台木とする。大祓いの人がたと同じ形の色紙を毎年交互に違う色を重ねて貼り付けたもの。長く保存する。 このように七夕人形にはさまざまな種類があり、それぞれ特徴も異なっている。

(3) 七夕人形の変化



 近年長野県松本市では、笹竹に短冊を飾ることはあるが、七夕人形を飾っている家は少なくなってきている。このことから、松本城近くのみどり町商店街では、全戸に七夕人形を配るようになった。各家では七夕人形を通りに面した軒下に吊るようになった。商店街では、七夕人形を店の外に飾るようになった。従来、家の中で飾られていた七夕人形が、ここにきて新しい飾り方でよみがえってきている。また七夕人形は、その時代の人々の好みによっていろいろと変化してきている。昭和30年代では顔立ちの整った美男美女風に描かれていた。最近の顔は、童顔になってきている。今後、時代が変化するにともない、人々の好みも変化するかもしれない。七夕人形もさまざまに人々の好みに合わせて、今後どんどん変化するであろう。将来、七夕人形がどんなふうに変化を遂げているか楽しみである。この七夕人形の伝統がこれからもずっと生き続けることを願っている。

◎おわりに



 七夕は、私が想像していた以上に、古くからの歴史や伝統・文化が存在していた。宮中行事よりも前に民間で広まり、中国南朝(宋)や百済・新羅から日本へ伝わった。奈良時代では、宮中を中心に七夕の歌を詠んでいた。江戸時代では、貴族・一部の武家の行事から庶民的な行事へと変化し、子どもが主役の七夕になっていった。明治以降では五節句の廃止から急激に都心部の七夕行事が衰退してしまう。しかし七夕の文化を守ろうと商店街などを中心に地域の人々が立ち上がり、七夕復興に力を尽くしてきた。この成果は仙台七夕祭りに現れている。日本の七夕復興の最初の第一歩が仙台七夕祭りなのである。これをきっかけに、各地で七夕祭りが開催されるようになった。そして現在では、仙台七夕祭りを先頭に、各地域で開かれる七夕祭りを観光客として見物に行くという形に変化してきた。 以上のように七夕は時代ごとの風習や文化、人々の価値観によって変化をとげ現代に至っている。これから先の未来には、どのような七夕の文化があるのだろうか。これからも七夕を大切にずっと見守っていきたいと思う。

◎参考文献と参考サイト



・石沢誠司『七夕の紙衣と人形』(ナカニシヤ出版、2004年)。

・平林章仁『七夕と相撲の古代史』(白水社、1998年)。

・小南一郎『西王母と七夕伝承』(平凡社、1991年)。

・福田アジオ・新谷尚紀・湯川洋司・神田より子・中込睦子・渡邊欣雄編『日本民俗大辞典下』(吉川弘文館、2000年)。

・周国強『中国年中行事冠婚葬祭事典』(明日香出版社、2003年)。

・田中宣一・宮田登編『三省堂年中行事事典』(三省堂、1999年)。

・http://www.sendaitanabata.com/ (仙台七夕祭り公式ホームページ)。

・http://www.city.hiratsuka.kanagawa.jp/tanabata/ (湘南ひらつか七夕祭りホームページ)。

・http://www.anjo-cci.or.jp/kankou/tanabata/# (安城七夕祭りホームページ)。





◎脚注一覧



1. 福田アジオ・新谷尚紀・湯川洋司・神田より子・中込睦子・渡邊欣雄編『日本民俗大辞典下』(吉川弘文館、2000年)51ページ。

2. 同書、51ページ。

3. 同書、51ページ。

4. 石沢誠司『七夕の紙衣と人形』(ナカニシヤ出版、2004年)3〜4ページ。

5. 同書、6〜8ページ。

6. 平林章仁『七夕と相撲の古代史』(白水社、1998年)50ページ。

7. 同書、51〜52ページ。

8. 同書、52〜53ページ。

9. 同書、57ページ。

10. 同書、64ページ。

11. 同書、114ページ。

12. 同書、114〜115ページ。

13. 石沢誠司、前掲書、24ページ。

14. 同書、30〜31ページ。

15. 同書、31ページ。

16. 同書、35ページ。

17. 同書、43ページ。

18. 同書、50ページ。

19. 同書、54ページ。

20. 同書、117ページ。