ニクソンショック 〜ニクソン訪中の理由とは〜


法学部 政治学科 3年 04142324
田浦 愛海


−目次−


はじめに


第1章 ニクソン就任時のヴェトナム戦争

 第1節 アメリカの対インドシナ政策の概略

 第2節 1960年代後半のヴェトナム戦争の情勢

 第3節 米中ソの三国関係


第2章 ニクソン・ドクトリンと訪中決定の過程

 第1節 ニクソン・ドクトリンの概要と展望

 第2節 中ソ対立の極点と中国共産党内の対立

 第3節 ニクソンの狙いと毛沢東の狙い


第3章 ニクソン訪中の結果

 第1節 ヴェトナムの状況の変化

 第2節 アメリカの最終的選択

 第3節 中国の方向性


おわりに


参考文献


参考サイト






はじめに


1971年8月15日にドルの金兌換停止を宣言された。また、1972年2月21〜27日にニクソン大統領が中国を訪問した。当時、大統領であったニクソンの名を冠してこれらをニクソンショックという。私は、後者のニクソン訪中について論じたい。この問題を論じるにあたり、以下の3つのことを問題提起とする。

 ・ニクソンが訪中を決意した理由とはなんだったのだろうか。

 ・ニクソン訪中が与えた影響はどのようなものだったか。

 ・ニクソン訪中にあたっての米中両者の思惑とはなんだったのか。

第1章ではニクソン就任時のヴェトナム戦争はどのようなものだったのかということに視点を置く。ケネディやジョンソンの戦略、1960年代のヴェトナム情勢、米中ソの三国関係について考察していく。第2章では、ニクソン・ドクトリンと訪中決定過程に視点を置く。ここでは、ニクソン・ドクトリンとはなにか、中ソ対立と中国共産党内での対立、ニクソンと毛沢東の訪中の狙いを考察していく。第3章では、訪中の結果、ヴェトナム、アメリカ、中国はどう決断し、変化したのか考察していく。



第1章 ニクソン就任時のヴェトナム戦争


第1節 アメリカの対インドシナ政策の概略

19世紀半ば頃、ヴェトナムはフランスの植民地統治下にあった。1945年9月、フランス支配から独立をめざし、ヴェトナム民主共和国(後の北ヴェトナム)が成立する。しかし、フランスはその独立を認めず、ヴェトナムと争った。これを第1次インドシナ戦争という。フランスは南部にヴェトナム共和国(南ヴェトナム)をつくった。このため、ヴェトナムは南北が分割され、南北で争うことになった。1954年、フランスは敗れた。アメリカは、フランスからヴェトナムを含めたインドシナでの植民地奪還を支援するよう要求されていた。それまで、アメリカは植民地に反対であったが、徐々にその要求を受け入れ、アメリカのヴェトナムに対する関与がはじまった。1950年6月、フランスに対する包括援助法案が出されたが、1954年5月にフランスはディエンビエンフーの戦闘で降伏し、ヴェトナムから撤退したのだ。これを機にアメリカ政府は、南ヴェトナムからフランスを追い出し、傀儡政権を樹立した。従って、これはフランス植民地主義からアメリカ植民地主義に代わり、アメリカが南ヴェトナムの支配権を獲得したことを意味するものだった。ここで疑問なのは、なぜアメリカが南ヴェトナムを支援したかである。それは、ソ連と対立下にあったアメリカは、ソ連の支援を受けた北ヴェトナムを認めるわけにはいかなかった。それは、ドミノ現象(将棋倒しのように共産主義が広がること)をおそれたからであった。そこで、アメリカ政府は、南ヴェトナムを支援して、北ヴェトナムによるヴェトナム統一を防ぎたかったのである。

ケネディ大統領は、ヴェトナムへの軍事介入を本格的におこなった。1961年5月、ケネディ大統領は、1954年のジュネーブ協定で定められた585人駐留枠を無視して、アメリカ軍事顧問団の増派を決定した。

ケネディ大統領は、ヴェトナムにおける戦争を特殊戦争と呼んだ。特殊戦争とは、国家間戦争(正規の戦争)ではなく、ゲリラ 対 南ヴェトナム共和国(ゴ=ジン=ジエム政権)の間の争いをさした。サイゴンを首都とするゴ=ジン=ジエム政権は、アメリカの支援をうけてゲリラに対する弾圧を強めた。これに対して、1961年1月、南ヴェトナムで、ヴェトナム解放民族戦線の設立が宣言された。ヴェトナム解放民族戦線はアメリカの支援をうけたジエム政権の特殊戦争に対抗しようとした。アメリカ政府国防長官マクナマラは、次のように回想している。



 「プイ・チン(回想録『ホー・チ・ミンにしたがって』の著書で、党機関紙「ニャンザン」の元編集者であり、南部浸透工作に関与した人物)は自分自身の言葉にこう付け加えている。『アメリカは特殊戦争を全面戦争に発展させるために、地上軍によるヴェトナム介入が必要だと考えていたと私は思う。』」1



ヴェトナム民主共和国(北ヴェトナム:首都ハノイ)は、ワシントンの介入する間も与えず、サイゴン軍打破を試みた。ハノイ政権は、アメリカへ立ち向かう準備が出来ていると自信をもっていた。しかし、結局、ハノイ政権は南ヴェトナム政権との特殊戦争に勝利できなかった。

アメリカは特殊戦争から限定戦争へ戦い方を変えつつあった。さらに、これまでのような対ゲリラ部隊=特殊部隊(グリーベレー)ではなく、実戦部隊を南ヴェトナムへ投入しはじめた。1964年末、南ヴェトナムに計2万3000人の兵士を送りこんだ。1967年にはアメリカならびに同盟国の兵士がおよそ50万人も投入された。しかし、アメリカは軍事力が大きかったものの、戦争を有利に展開することができなかった。

ジョンソン大統領は、地上軍を展開するより、爆撃の方が危険の度合いが少ないと考えた。一方では、テーラー大使に南ヴェトナム政府の安定化を推進するよう求めた。北ヴェトナム政府の反撃を予測しての行動であった。もしも南ヴェトナムに駐留するアメリカ軍に北ヴェトナムが攻撃した場合は報復攻撃をし、南ヴェトナム政府の改革強化へ取り組もうとした。また、これが達成および進展する場合は、継続的、段階的に北爆拡大を実施した。ジョンソン大統領は、エスカレートする北爆を総称する「ローリング・サンダー」作戦を承認した。北爆は3年半も続けられ、北ヴェトナムはこれを「破壊戦争」とよばれた。

ヴェトナム戦争は、北ヴェトナムと南ヴェトナムの国土で繰り広げられた戦争であった。しかし、実際は、南ヴェトナムの内部の戦争であり、南ヴェトナムとそれを支援するアメリカ 対 北ヴェトナムとそれを支援する中国、ソ連の戦争でもあった。

第2節 1960年代後半のヴェトナム戦争の情勢

@テト攻勢

1967年3月、北ヴェトナムにおいてテト(旧正月)攻勢の立案が決まり、1968年1月に開始された。テト攻勢とは、軍事的攻撃と外交的攻撃の両面をかねそろえた全面作戦の一部である。解放民族戦線はアメリカ軍と南ヴェトナム軍の反撃をうけた。テト攻勢は失敗し、解放民族戦線は総崩れの状況を余儀なくされる。これは、共産側の敗北ともいえる。テト攻勢の準備時に、「ペンシルベニア」工作が始まる。ペンシルベニアとは、アメリカが名付けた秘密交渉である。ペンシルベニア工作は、極めて複雑で微妙な和平工作であった。なぜならば、アメリカの国防長官・マクナマラの監視のもとに開始されたからであり、異例であった。これに至った経緯について、もう少し詳しく説明を付け加えたいと思う。1967年6月、レイモン・オーブラ(フランスのレジスタンス運動の英雄)が、友人であるエチエンヌ・バウエル(フランスの核科学研究所の所長、パグウォッシュ会議に所属する科学者のグループを主宰していた)から、至急パリに来るようにと電話を受けた。パグウォッシュ会議とは、1957年にアメリカの実業家のサイラス・イートンが創設した団体で、核の危険への懸念から組織された。しかし、後に公式・非公式を問わず、広範な和平運動に関与していたのだ。バウエルは、同会議がアメリカ政府の和平提案を直接ホー・チ・ミンに届けることについて、ホー・チ・ミンと個人的な間柄であるオーブラと話し合いたいと望んでいるということを伝えた。この話し合いには、他にキッシンジャーとエルベール・マルコビッチが同伴した。こうして、オーブラはジョンソン大統領からの提案をホー・チ・ミンに届けることを承諾したのだ。1967年の6月中、キッシンジャーは工作のことをワシントンにいるウィリアム・バンディとディーン・ラスクに知らせた。しかし、キッシンジャーからラスク宛の電報の写しをマクナマラが受け取り、部下と協議をして検討するまで、国務省内では放置されていた。マクナマラは、ラスクとジョンソン大統領にキッシンジャーの提案を示した。2人は疑問を感じつつも、マクナマラが上手くいくと思うならば、やってみるという申し出を了承するとしたのだった。こうして、さまざまな話し合いの機会が設けられた。1967年9月、ジョンソン大統領は後に「サンアントニオ方式」と呼ばれる提案を公表した。これをきっかけに、1968年4月、ハノイは部分的な北爆停止と引き換えとして、パリでワシントンとの和平交渉に入ることになった。また、1967年7月にテト攻勢を考案したグエン・チ・タイン将軍が死亡し、北ヴェトナム指導部が危機に陥った。従って、10月にテト攻勢実施の最終指令がでた。

一方、テト攻勢によって、サイゴンのアメリカ大使館が一時的に占領され、各地で解放民族戦線側の猛攻が続いた。このため、民主党内でジョンソンのヴェトナム政策に真正面から反対していたマッカーシー上院議員の反戦運動が活発になった。また、ジョンソンはテト攻勢後にヴェトナムのウェストモーランド将軍が必要であるとし、将軍が要求するどのような増派にも同意を与えた。その背景には、軍事的打撃によって大統領選挙における政治的な敗北を避けたいという意図があった。しかし、ジョンソンはニューハンプシャー州予備選挙で「政治的敗北」2に追い込まれることになる。

Aジョンソン戦略破綻

1968年3月、ジョンソン大統領は国民と全世界に向けて演説をした。そこでヴェトナムの軍事的勝利追求は妄想であったとほのめかし、以下4つの主要決定を発表した。



 (1)南ヴェトナムへのアメリカ軍の増派は形ばかりのものとする。総合参謀本部と司令官からの、大がかりな増派と戦略予備役再編の要請は却下する。(2)南ヴェトナム軍の増強と戦力向上を、ヴェトナムでのアメリカの最優先任務とする。(3)北緯40度線以北の北ヴェトナム領内への爆撃停止を命ずる。(4)大統領再選のための民主党による候補指名はうけいれない。3



この演説は、軍事顧問たちから不満や誤解を招いた。一方の南ヴェトナムは戦争の多大な責任の負担を負うことになった。1968年8月、パリでジョンソンと北ヴェトナム政府は交渉を始めた。これを機に、アメリカは国家目的を遂げる場所を南ヴェトナムではなくパリとした。これは、ニクソン政権では、「名誉ある和平」と呼ばれた。1968年3月のジョンソンの演説は、アメリカのヴェトナム戦争政策の失敗を意味するものであった。また、アメリカの政治・外交方針の再検討であったといってもよい。これに付け加えて、中国政策についてみてみよう。ジョンソン演説は、中国封じ込め政策の重要な要である東南アジアから、アメリカ勢力が後退をよぎなくされたことを意味した。封じ込め政策の破綻ともいえるだろう。『ニクソン回顧録』には次のような言葉が記してあった。



 ニクソンがホワイトハウス入りを果たした「狂乱の1968年」は、まさにケネディ−ジョンソンの政治破綻が内政で吹き出した年であった。4



こうして泥沼化したヴェトナム戦争の中で、1968年、ニクソンは大統領となり、アメリカ合衆国の国際的地位、国内の緊張の緩和をはかろうとしたのである。1973年、南ヴェトナムからアメリカ軍引き上げ、1975年に南ヴェトナムの首都であるサイゴンが陥落しヴェトナム戦争は終戦を迎えたのだ。

第3節 米中ソの三国関係

1960年代、米中ソの三国間の関係とはいかなるものであったのだろうか。

@1960年代の米中関係

1950年、朝鮮戦争をきっかけにアメリカは対中国封じ込め政策をおこなった。これ以来、20年以上もの間、米中関係は厳しい対立・敵対状態にあった。中国はアメリカを主要敵として、社会主義の団結化を進めようとしていた。1950年末からは、中国は、対アメリカ政策を中心とする世界戦略の上で、ソ連と対立するようになり、1960年代には米ソをともに敵と見るようになる。1960年代には、中ソ対立が激化し1969年には両国軍隊が衝突する事態にまで発展した。またアメリカはヴェトナム介入を強め、アジア情勢の緊張が高まった。ようやくアメリカ政府内部でも、対中政策の見直しの意見が強まり始めた。とはいえ、1950年代のアメリカの中国封じ込め政策の代償は大きく、中国の対米不信は根深かった。しかし、1960年代末には、中国はソ連を主要敵とみなすようになっていった。この状況下でアメリカの積極的な対中外交攻勢が展開され、中国はそれに応じるようになった。1969年7月、ニクソンは、グアムでニクソン・ドクトリンを発表した。そのなかで、ニクソンは、ヴェトナム戦争について、アメリカ軍の撤退をはかりつつ、戦争の「ヴェトナム化」を促進すること表明した。中国は、このようなアメリカの態度を評価した。

その後、徐々に交渉が軌道にのりはじめたが、1971年2〜3月にかけてアメリカ空軍に支援をうけ、ラオスへの侵攻が勃発し、一時的に米中関係は微妙な状況に陥った。アメリカ政府は、ラオス侵攻が中国に影響をもたらさないと知らせ、アメリカ地上軍の直接参加をさけた。このようなやりとりが、ニクソン訪中へと繋がっていった。

A1960年代の米ソ関係

1953年にソ連指導者のスターリンが死去すると、ソ連ではスターリン批判が高まる。このことで、スターリンの後を継いだフルシチョフは、スターリンと異なる政治を目指し、アメリカと平和的共存をめざそうとした。しかし、1960年代に、アメリカとソ連は少なくとも3回にわたり軍事衝突寸前にまでなった。それは、1961年8月のベルリンをめぐる危機、1962年10月のキューバにソ連のミサイルが持ち込まれたことをめぐる危機、1967年6月に起きた中東戦争での危機である。1968年、ソ連がチェコスロバキアに侵入したときには、ソ連はアメリカをはじめとするNATOの干渉を非難した。1969年までに、ソ連の核ミサイルの数がアメリカの対ソ報復に使用できる核ミサイルの数に大きく近づく。結局、1971年までに、アメリカが、ソ連との行き詰まった関係を修復することは不可能であった。1969年中にキッシンジャー国家安全保障担当大統領補佐官は、ソ連にヴェトナム戦争の終結のための協力をおよそ10回も要求した。しかし、ソ連は要求をうけいれなかった。ドブルイニン駐米ソ連大使はこう述べたという。



 「ソ連はヴェトナム戦争の継続などまったく望んでいない。」5



アメリカは、ヴェトナム政策に関して、ソ連に協力を受け入れてもらえなかったが、1972年になると、協力を得られるようになった。アメリカにとって厳しい時期を越えて、やっと米ソ関係は好転したのである。

B1960年代の中ソ関係

中ソは社会主義国同志の絆を誇っていた中ソ蜜月時代があった。しかし、スターリンが死去すると、社会主義に対する考え方、政治の進め方などで意見が対立した。1960年代に中ソ論争が表面化しだす。1963年には、全面的に中ソ論争がはじまり、1980年代まで中ソが対立する。中ソ論争とは何だったのだろうか。スターリンの死去後、ソ連内でスターリン批判が高まったことに対応して、フルシチョフ首相はスターリンと違った政治を推進し、アメリカと平和的につきあった。アメリカと敵対関係にあった中国は、フルシチョフの政策に批判的だった。この政治の進め方の違いが中ソ論争をうんだ。当初、中ソ論争は、内部の争いであったが、1969年3月に黒竜江(アムール川)上の珍宝島(ダマンスキー島)で中ソ間の武力衝突が勃発する。その後も、中ソ両国の間で、公然たる争いが続いた。

1971年7月、キッシンジャーが北京を秘密裏に訪問したとき、周恩来首相は会談の席でこう主張した。



 「(ソ連は)1969年3月の中ソ国境の衝突事件を計画的に起こしたのだ。この国境衝突事件は、ソ連がベルリンに対する責任を回避するためにでっちあげたのだ。」6



中ソ国境での軍事衝突事件は、中ソ間の対立を激化させ、国境交渉の幕開けへと展開していったのである。

アメリカは、ヴェトナム戦争の失敗とドル危機によって国際的地位が低下し、国内では反戦運動が広がった。アメリカの社会は危機状態に陥り、ニクソンは、事態を打開する切り札として、米中関係の改善をはかった。また、ニクソンにとって、対中関係を改善することによって、ヴェトナム戦争の終結に向けてのソ連の協力を引き出すための戦略であった。



第2章 ニクソン・ドクトリンと訪中決定の過程


第1節 ニクソン・ドクトリンの概要と展望

「ニクソン・ドクトリン」とは、1969年にニクソン大統領によって打ち出されたアメリカの対外安全保障政策の1つである。

1969年、ニクソン大統領は世界一周旅行の第1段階として、アポロ11号を出迎えるために南太平洋に向かった。また、グアム島、フィリピン、インドネシア、タイ、南ヴェトナム、インド、パキスタン、ルーマニア、イギリスと各国を訪れる予定であった。この世界一周旅行計画は「ムーングロウ(月光)」と呼ばれていた。この歴訪は、キッシンジャーの北ヴェトナム秘密会談をカモフラージュするものであった。歴訪をするにあたって、ニクソンはヴェトナム戦争が解決したら、再びヴェトナム戦争のような事態の再発を防ぐためにも、新たなアジア政策が必要と考えた。過去、アメリカの対外政策は、他国が侵略を受け自衛するのを兵員、武器、軍事物資で援助した。これは、朝鮮政策であり、ヴェトナムの介入の原因ともなった。また、ニクソンとキッシンジャーは協議して安全保障上の危険を以下の3つに区別した。@国内の破壊活動、Aアジアの隣接国からの攻撃、B核大国の侵略である。

グアムに到着後、ニクソンは同行記者団と非公式の記者会見を行った。そこで、ニクソンが発表したのが「グアム・ドクトリン」であり、「ニクソン・ドクトリン」であった。キッシンジャーはこう言う。



 「私は、ニクソンが、グアム島で重大な政策発表を行なう気はなかったはずだ、と思っている。」7



ニクソンの歴訪中、ニクソン・ドクトリンが非常に大きな話題となった。結果的に、ニクソンは1969年11月におこなったヴェトナム問題に関する演説、翌1970年2月に出された外交政策報告、これに非公式発表の発言を加えて三大項目とした。その内容は、@アメリカは条約義務を守る、A核大国が、アメリカおよび(アメリカの)同盟国、アメリカにとって重要と考える国の自由を脅かす場合には、アメリカは楯を提供する、Bその他の侵略については、基本的に各国で自衛責任を負うようするが、アメリカは、援助の要請を受けて適切かどうかを判断して、軍事・経済援助を提供する場合もある、とした。アメリカは、軍事・経済援助を提供はするけれども、アジア諸国の戦争に巻き込まれることは避けたいというのが「ニクソン・ドクトリン」の意味するところであった。アジアで戦火の被害がでようとも、アメリカの兵士が撤兵できればいいというわけである。ただし、アメリカは、核大国の脅威から非同盟国をも保護することを誓約した。これは、中国の攻撃の可能性をふまえて、インドネシア、マレーシアのような諸国の懸念への配慮であった。

このようにして、ニクソン、キッシンジャーは、アメリカの国防力の基盤を守り切ろうとした。現実的な危険に対応していくためにも、ニクソンは、アメリカの能力に対応する軍事戦略を策定した。太平洋地域の安全保障のドクトリンを発表したことで、同盟国・友好国に新たな保証を与えた。後に、アメリカの世界的基本戦略となった。これはヴェトナム戦争で大量のアメリカ地上軍投入の失敗に基づくものである。今日、イラク戦略がヴェトナム戦争の再来といわれる理由であるともいえるだろう。

第2節 中ソ対立の極点と中国共産党内の対立

@珍宝島(ダマンスキー島)での武力衝突と衝撃

珍宝島は、ソ連と中国との国境としての役目を担うウスリー川にある島だ。従って、1969年3月 に珍宝島が中ソいずれの領土かをめぐり、中国とソ連の間で武力衝突事件が勃発した。この衝突は多くの死者を出した。この事件は、領土問題が、中国とソ連の間で表面化した事件といえる。それまで、珍宝島はソ連が管理していた。しかし、中国は、19世紀にロシアが清国に対して無理に押しつけた国境線なのであるから、珍宝島は中国のものであると主張した。領有権を双方が主張するだけにとどまらず、中国とソ連が軍隊を出動させて、戦闘状態に入った。この争いによって、珍宝島をはじめいくつかの島の管理がソ連から中国にうつった。ニクソン政権は、中ソ間の対立の状況を、注意深く見守った。同時に、中国との接近の必要性を改めて強く感じることになり、実行すべき措置を検討しはじめた。

A強硬派と穏健派の対立

中国の共産党内で、深刻な対立が生じた。この対立は、中国社会をどういうことを大切にして発展させていくかという考えの違いから生じたものである。林彪らは、思想や政治を大切だと主張した。一方、ケ小平らは、経済の発達が大切であると主張した。 前者を毛沢東派、後者を反毛沢東派という。1966年、文化大革命が始まった。毛沢東の考えは、中国のあるべき姿とは、毛沢東が考える社会主義である。ところが、資本主義派であるケ小平らが中国を支配しているため、毛沢東が望む社会主義を遠ざけていると、毛沢東は、ケ小平らを批難した。ケ小平は、除名はまぬがれたものの、党内から姿を消さざるをえなくなった。劉少奇はさらに悲惨な運命をたどった。国家主席の地位を剥奪され、追放され、改造キャンプで虐待を受けて死亡した。反毛沢東派の幹部や知識人への攻撃はひどいものであった。その結果、反毛沢東派から毛沢東、林彪らに権力が移行することになった。1969年4月、中共九全体会で、中国共産党綱領に毛沢東の後継者として林彪の名前が書き込まれ、正式の後継者に指名された。

第3節 ニクソンの狙いと毛沢東の狙い

@ニクソンの狙い

1967年、ニクソンが初めて対中関係の重要性を発表した論文で次のように述べている。



 「『我々は、開かれた世界−国の大小を問わず、いかなる国民も怒りの孤独の中に住むことのない世界を探求する』と、間接的に重要性を言及した。」8



ニクソンは、8億の中国国民の孤独を終わらせることができれば、平和に対する多大なる脅威から解放されると考えていたのである。

また、キッシンジャーは次のように述べている。



 「戦争終戦にあたっては、アメリカの自尊心、すべての善意ある米国民が、自国の力と目的に表明した期待に応えるものでなければならない。アメリカが辱められることなく、打ちのめされることなく、ヴェトナムを離脱する。」9



ニクソンは、ヴェトナム戦争終結をアメリカの名にかけて名誉あるものにしたかったのである。そのためには、中国とソ連の力が必要なのであった。ニクソンは、両国が北ヴェトナムの後ろ盾になっていると思いこんでいた。そこで、ニクソンは中国と関係を結ぶことで、ソ連にヴェトナム戦争解決の協力をさせるきっかけになるのではないかと考えたのだった。しかし、中国の行動は、ヴェトナムに対してペテン師だった。中国にはヴェトナム戦争参加の考えはまったくなく、アメリカの死活的利益を攻撃する気もなかったのだ。ニクソンは、中国とソ連の両国と関係を結ぶことができれば、三国の協力によって、平和への戦略上の機会を与えてくれるという期待があった。

ニクソンにとっては、アメリカ合衆国独立200周年の大きな飾りとして、中国という広大な市場を開き、軍事的にも協力関係の樹立することを目指した。

A毛沢東の狙い

1930年代に中国に行き、毛沢東と周恩来を知りあい、その後断続的に接触してきた、フランスの作家マルローは次のようにニクソンに話した。



 「中国の外交政策は虚偽そのものです。中国人は、外交政策なんか信じていません。中国人はただ中国だけを信じているのです。中国だけを。」10



中国の外交政策において最大の関心であり脅威だったのは、ソ連とアメリカの二つ帝国主義国であった。毛沢東がアメリカへの接近を考えたのは、ソ連軍を中心とするワルシャワ条約機構軍がチェコススロバキアに侵入した後であった。毛沢東は、反動的なアメリカの脅威よりも、同じ共産主義であるソ連からの脅威の方が大きいと考えた。また、中ソ間で国境をめぐっての紛争も頻繁に起こった。このようなことから、中ソ間の対立は深刻な状況にあった。毛沢東は、ソ連を牽制するために、ニクソン訪中を上手く利用しようとしたのである。

ニクソン訪中は、中国とアメリカの関係の正常化することを探求するとともに、両国の関心ある問題についての意見交換のためのものであった。ニクソン訪中によって、米中両国が、互いに思惑が一致したのだった。

その後、中国の対米政策が急転回したことで、後継者林彪はクーデタを企てたとして失脚してしまった。また、ウォーターゲート事件がおこり、ニクソンは大統領の職を失ってしまう。ニクソン、毛沢東、いずれも、このような事態を予測できなかったであろう。



第3章 ニクソン訪中の結果


第1節 ヴェトナムの状況の変化

当初、北ヴェトナムは、アメリカと中国の接近に対して反対していた。しかし、北ヴェトナムは、和平の動きも独自に推進でき、1973年1月にはヴェトナム和平協定が調印された。これによって、アメリカ軍の撤退が進んだのである。2月には、北ヴェトナムは、アメリカ人の捕虜を送還し始め、3月にはヴェトナムからの撤退が完了した。アメリカの撤退によって、北ヴェトナムにとって情勢は有利になった。1975年の北ヴェトナム軍の侵攻・南部ヴェトナム占領によって、ヴェトナムは統一国家になったのである。

第2節 アメリカの最終的選択

ニクソンは、できる限り早くヴェトナム戦争の終結を望んだ。アメリカは、なかなかヴェトナム戦争の泥沼から抜け出せないでいた。アメリカ国内では、反戦世論も強まっていた。アメリカ軍の撤廃を要求する反戦運動が強まりつつあった。そのため、ニクソンとキッシンジャーは1つの結論を出した。



 「反戦運動に爆弾を投下するときが来た。」11



ニクソンとキッシンジャーは、ヴェトナム戦争をヴェトナム人にまかせる、すなわち「ヴェトナム化」を推進し、撤退計画を立案できる時期にさしかかった。短期間で少数の兵を撤退させるのではなく、1年間に15万人の部隊を撤退させることを決めた。これに対して、共産側の反応は戦闘拡大であった。ニクソンは、カンボジアに進攻すると決定することを決定した。ニクソンによれば、カンボジアを侵略するのではない。カンボジアは、完全に北ヴェトナムの支配下におかれ、占領している。だから、カンボジア侵攻は、戦闘拡大でなく、和平解決でヴェトナム戦争を終わらせることを目的としているとした。しかし、この決定は、戦闘拡大を招き、戦争を長引かせ、アメリカ軍の死者が増加することになり、ニクソンは激しく非難された。

1973年3月、ニクソン大統領は、ヴェトナム戦争終結を宣言し、アメリカ軍は南ヴェトナムから撤退した。その理由として、 キッシンジャーによるとニクソンはこう考えた。



 「@米軍を撤退させれば、世論の支持を勝ち取ることができ、ハノイを真剣な交渉に引き込むことになるのではないかということ、Aアメリカが、南ヴェトナム軍を強化すれば、ハノイの米軍撤退の合意がなくてもアメリカ介入を終了できるかもしれないということ。」12



第3節 中国の方向性

1969年4月、中共九全体会で毛沢東の後継者に指名されたのが林彪であった。しかし、徐々に2人の間に溝が生じていた。毛沢東の大転換の結果、林彪が失脚する。林彪は、毛沢東を暗殺し、権力を掌握するクーデターを計画して失敗した。1971年9月、飛行機に乗ってソ連へ脱出を試みた。しかし、林彪、妻をはじめとする同行者およそ10名が乗った飛行機がモンゴルで墜落して、全員が死亡した。1972年2月、毛沢東はニクソンにこうした林彪事件について次のように語った。



 「この騒動は、あらゆる可能性からいって、中国の対米政策の急転回したことに誘発されたものだった。」13



しかし、研究者によっては、異なった考え方を示している。



 「林彪事件と対米政策の転換との具体的な関連は明らかでない。」14

 「林彪事件は、時期的に考えて、対外政策の問題よりも、陳伯達事件に端を発する権力闘争の結果、林彪派が毛沢東暗殺に失敗した事件と見る方が妥当であろう。」15



1976年4月、天安門事件がおきる。ケ小平は、再び失脚することになる。10月、4人組事件が起こった。毛沢東の夫人であった江青をはじめとする4人の政治局員が、華国鋒共産党第一副主席らに逮捕された。毛沢東がいることをよいことに、4人は党内で好き勝手にやっていた。有力な人物たちを失脚させたり、死においやったりしたなどとされた。9月に毛沢東が死去したことで、4人組が後ろ盾を失い、毛沢東の後継者をめぐる争いがおこったのであった。4人組の失脚、追放に引き続いて、1977年にはケ小平が再び政治の場への復活を遂げたのだった。



おわりに


ニクソン訪中は、両国の国交正常化には繋がらなかったけれども、長く続いたアメリカと中国の対立の終止符をうつものであった。ニクソン訪中によっても国交正常化に繋がらなかった理由としては、以下の3つがあげられる。@アメリカは、対中関係の改善を目指しながら、ソ連にも眼を向けていた、Aアメリカも中国も、国内条件が良いとはいえない状況だった、B台湾問題の存在、の3つである。しかし、ニクソン訪中を契機に、対中関係の改善に尽くす国はふえていった。日本も例外ではなかった。1972年、日中の国交回復したのである。また、ニクソン訪中のために、キッシンジャーをはじめとする有能な部下が努力したということも無視できない。

最後に、訪中を控えたニクソンに向かってマルローのいった言葉が印象的である。



 「ドゴールがここにいたら、『あなたが手をつけようとしていることを理解するすべての人は、あなたに敬礼する』というに違いないでしょう。」16










1)ロバート・マクナマラ『果てしなき論争 ベトナム戦争の悲劇を繰り返さないために』(共同通信社・2003年)P.288。

2)リチャード・ニクソン『ニクソン回顧録 第三部 破局への道』(小学館・1979年)P.372。

3)ロバート・マクナマラ『果てしなき論争 ベトナム戦争の悲劇を繰り返さないために』(共同通信社・2003年)P.582。

4)リチャード・ニクソン『ニクソン回顧録 第三部 破局への道』(小学館・1979年)P.372。

5)ヘンリー・キッシンジャー『キッシンジャー秘録 第一巻 ワシントンの苦悩』(小学館・1979年)P.191。

6)ヘンリー・キッシンジャー『キッシンジャー秘録 第一巻 ワシントンの苦悩』(小学館・1979年)P.198。

7)ヘンリー・キッシンジャー『キッシンジャー秘録 第一巻 ワシントンの苦悩』(小学館・1979年)P.294。

8)リチャード・ニクソン『ニクソン回顧録 第一部 栄光の日々』(小学館・1978年)P.307−308。

9)ヘンリー・キッシンジャー『キッシンジャー秘録 第一巻 ワシントンの苦悩』(小学館・1979年)P.302。

10)リチャード・ニクソン『ニクソン回顧録 第一部 栄光の日々』(小学館・1978年)P.323。

11)リチャード・ニクソン『ニクソン回顧録 第一部 栄光の日々』(小学館・1978年)P.180。

12)ヘンリー・キッシンジャー『キッシンジャー秘録 第一巻 ワシントンの苦悩』(小学館・1979年)P.357。

13)ヘンリー・キッシンジャー『キッシンジャー秘録 第三巻 北京へ飛ぶ』(小学館・1980年)P.220。

14)山極晃『米中関係の歴史的展開 一九四一年〜一九七九年』(研文出版・1997年)P.365。

15)山極晃『米中関係の歴史的展開 一九四一年〜一九七九年』(研文出版・1997年)P.378。

16)リチャード・ニクソン『ニクソン回顧録 第一部 栄光の日々』(小学館・1978年)P.325。



参考文献


ヘンリー・キッシンジャー『キッシンジャー秘録 第一巻 ワシントンの苦悩』(小学館・1979年)

ヘンリー・キッシンジャー『キッシンジャー秘録 第二巻 激動のインドシナ』(小学館・1980年)

ヘンリー・キッシンジャー『キッシンジャー秘録 第三巻 北京へ飛ぶ』(小学館・1980年)

ヘンリー・キッシンジャー『キッシンジャー秘録 第四巻 モスクワの道』(小学館・1980年)

山極晃『米中関係の歴史的展開 一九四一年〜一九七九年』(研文出版・1997年)

リチャード・ニクソン『ニクソン回顧録 第一部 栄光の日々』(小学館・1978年)

リチャード・ニクソン『ニクソン回顧録 第二部 苦悩のとき』(小学館・1979年)

リチャード・ニクソン『ニクソン回顧録 第三部 破局への道』(小学館・1979年)

ロバート・マクナマラ『果てしなき論争 ベトナム戦争の悲劇を繰り返さないために』(共同通信社・2003年)



参考サイト


世界史ノート

http://www.sqr.or.jp/usr/akito-y/gendai/77-tyuso.html

産経新聞の総合ニュースサイト

http://www.sankei.co.jp/kokusai/china/061201/chn061201003.htm