東京裁判とニュルンベルク裁判


法学部 政治学科 3年 04142014
寺嶋 恵


−目次−


はじめに


第1章 東京裁判の経緯

第2章 評価

第3章 モデルとなったニュルンベルク裁判とは

第4章 ニュルンベルク裁判との差異

第5章 パル判決書

おわりに


参考文献






はじめに


日本を占領した連合国の最高司令部が設置した「極東国際軍事裁判所」(International Military Tribunal for the Far East)が、主要戦争犯罪人として裁いた裁判である。この裁判の正式名称は、「極東国際軍事裁判」であるが、一般には、裁判所の地名に基づいて「東京裁判」と呼ばれている。この裁判は東条英機元首相以下28名に対して行った裁判である。1946年5月3日開始、1948年11月12日終了した。ナチスを裁いたニュルンベルク裁判と東京裁判は、裁く側の戦勝国にとって同一線上の戦犯裁判であった。東京裁判とはどのような経緯でおこったか、またどのような裁判であったのかを論じていきたい。

第1章 東京裁判の経緯


東京裁判とはなにか。これは第二次世界大戦終結後、米、英、中、ソ等、太平洋方面の戦勝九連合国に、独立前のインドとフィリピンを加えた11ヶ国が日本の戦争責任を追求するために、東條英機元首相以下28名の政界および軍部の要人を裁判にかけ、全員(裁判終了前に亡くなった2名と発狂により免訴された1名を除く)が有罪とされた事件である。この裁判の根拠となったのは、第二次世界大戦末期の1945年(昭和二十年)、当時ベルリン郊外のポツダムで会談中であった米国大統領トルーマンと英国首相チャーチルが、中国政府首相の蒋介石を加えて発表した「ポツダム宣言」にあった。同宣言は、日本に対し降伏を勧め、なおかつ降伏の条件を提示した文書であって、その10項には「連合国の捕虜を虐待した者を含む一切の戦争犯罪人に対し、厳重な処罰を加える」とのことが、規定されていたのである。起訴は1946年4月29日に行なわれ、27億円の裁判費用は日本政府が支出した。

日本がポツダム宣言を受諾して、のちに同宣言の規定を実施すべく日本を占領した連合国最高司令官マッカーサーが、さきにナチス・ドイツの戦争指導者を裁くため、連合国が制定したニュルンベルク裁判所条例にならって極東国際軍事裁判所条例を制定し、日本人戦争犯罪人の裁判に着手した。裁判所を構成する判事は11ヶ国から1名ずつ選ばれ、オーストラリアのウエッブが裁判所長に任命された。検事もまたこれら11ヶ国から1名ずつ選ばれ、首席検事としてキーナンが任命された。日本人被告28名は、戦前、戦中の政界、また軍部の要人中から選別されたが、元首相、外相、陸相、海相など閣僚経験者が多数含まれており、裁判所条例に定める「平和に対する罪」「人道に対する罪」または「通例の戦争犯罪」の2つ以上について起訴されたのである。裁判は1946年(昭和21年)5月3日の開廷から1948年(昭和23年)11月12日の判決言い渡し終了まで、二年半に及び、この間400名を超える人々が証言台に立ち、4000以上の証拠書類が法廷によって受理された。



東京裁判で被告とされた28名は、いずれも軍人、外交官、政治的指導者であった。起訴状では被告に対して、平和に対する罪に関連する三十余項目の訴因が申し立てられたが、第一に訴えられたのが、東アジア支配のための、そして最終的には世界支配を企てた共同謀議への参加であった。平和に対する罪には、訴因として、中国、アメリカ、英連邦、オランダ、フランス、ソ連などに対する戦争の遂行があった。これらに加えて被告は「戦争法規違反の命令・授権・許可」と「戦争法規遵守の義務の無視」について起訴された。罪状認否では全被告が無罪を申し立てた。判事らは7ヶ月かけて判決理由を書いた。票決は8対3で、全被告が有罪とされた。これに反対を訴えた判事はフランスのアンリー・ベルナール、インドのラーダ・ピート・パル、オランダのレーニングの3人である。2人の被告を除く全被告が「侵略戦争の開始の共同謀議」について有罪とされた。連合国の中には、昭和天皇の退位や訴追に対して積極的な国もあり、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ、SCAP)の最高司令官のダグラス・マッカーサーが、当時の日本の統治において天皇の存在を必要と考えたため、天皇の退位、訴追は行なわれなかった。



第2章 評価


 極東国際国事裁判では、戦勝国が敗戦国を裁くという構造で、その評価では議論の対象となることが多い。この裁判では、原子爆弾の使用など連合国軍の行為は対象とされず、証人のすべてに偽証罪を問わなかった。また、刑法決定主義・法の不遡及が保証されなかったことの指摘も多い。開廷中や裁判終了後を通じて多くの論争を引き起こした。裁判は真珠湾奇襲に対するアメリカの復讐、日本に対する核兵器の使用というアメリカの国家的犯罪を緩和するための手段かとの声が上がっていた。裁判の弁護団を含む一部の者は、裁判の法的根拠の正当性を攻撃した。平和と人道に対する罪の法的カテゴリーはロンドン会議における事後法で、これらの犯罪は1945年以前には国際法として存在していなかったと批判された。批判派は、キーナン主席検察官でさえ国家行為の法的責任を個人にかえすことが適当かどうか疑義を抱いている事実を指摘した。当時の国際条約は、現在ほど発達しておらず、当時の国際軍事裁判においては、現在の国際裁判の常識と異なる点が多く見られた。



第二次世界大戦の前後で大小さまざまな戦争が行なわれているが、戦争のあとで、裁判によって戦争責任が追及されたのはニュルンベルクと東京の裁判だけであった。ポツダム宣言10項の規定で、そこには「連合国の捕虜を虐待した者を含む一切の戦争犯罪人」を処罰するとして定められていた。しかし東京裁判の弁護側が指摘したとおり、ポツダム宣言が受託された当時、「戦争犯罪人」という言葉は、捕虜の虐待や一般住民の殺傷のような戦時法規の違反者を指していた。つまり「通例の戦争犯罪」を犯した者の意味であって、戦争を行なうことは犯罪とはみなされてなかった。なので、第二次世界大戦のあとでも、通例の戦争犯罪人を処罰するにとどめ、ドイツや日本の戦争責任については、国際世論や国内世論の道義的判断に委ねることも可能だった。逆に戦争中の指導者たちを逮捕することも不可能ではなかった。しかし、1945年、夏のロンドン会議において戦勝国たる連合国側は、裁判により戦敗国の指導者の戦争責任を追及する道を選んだのである。

次に裁判については適用された国際法の内容が問題となる。東京裁判の被告らは「平和に対する罪」もしくは「通例の戦争犯罪」について有罪とされそれらの個人責任を問われたのである。この「平和に対する罪」は裁判所条例によれば「侵略戦争もしくは国際条約違反の戦争の計画、遂行、またはそのための共同謀議へ参加」する行為、と規定されている。起訴状では、「国際条約違反の戦争」についても日本の責任が問われていたが、判決は「侵略戦争の共同謀議および遂行」が証明されたとの理由で、国際条約違反の戦争に関する判断を避けた。そこで、国際法上で侵略戦争とは何か、日本の行なったことがその侵略戦争に当てはまるのかという問題にあたる。第一次世界大戦後、ヴェルサイユ平和条約によって設立された国際連盟の規約には、国家が国策上、戦争に訴える余地を残していた。しかし、1928年に署名され翌年に発行した「パリ条約」において、当事国は「国策の手段としての戦争を放棄する」ことを宣言した。この条約には、のちに多数の国が参加した。そのため「国策の手段としての戦争」を「侵略戦争」と呼び、パリ条約以降、侵略戦争は国際法に違反する行為となったといわれることが多い。しかしこれに対しては異論もあり、国策の手段としての戦争は、パリ条約の当事国相互間では違約行為であっても、条約の非当事国を含む国際社会全体において違法行為となったわけではない、とも主張される。東京裁判の判事の中にもこの異論を唱える人がいた。

また、侵略戦争とパリ条約で宣言したものの、何が侵略戦争であるか、何が自衛戦争であるかをハッキリ定義していない。パリ条約の提供者の一人のケロッグ米国務長官は「この条約で放棄される戦争に、自衛の戦争は含まれていない。自衛のためにいかなる行動が必要であるかの判断は、各国家に委ねられる」と声明した。各国はこの声明を了承した上で、同条約に参加した。

国際法の内容の中で一番議論を呼んだものの一つは「国家の行為に対して、個人の責任を問うことの是非」であった。もし侵略戦争が明確に定義されていたとしても、侵略戦争に訴えた国の指導者が個人として、犯罪を犯し処罰されるべきことにはならない。これは1945年夏のロンドン会議に集まった連合国の諸代表も、ひとしく認めており、それゆえ裁判所条例に規定しなければならなかったのである。

東京裁判では、それまで多くの日本人が知らなかった事実がつぎつぎと明らかにされ、判決はそれらを踏まえて有罪を言い渡した。しかし判決の史上評価のなかには適否について疑問のあるものがないわけではない。まず、「全般的な共同謀議」とは判決によれば「東アジア、西および西南太平洋、およびインド洋と、これら太平洋の島々の一部において軍事的、経済的支配を獲得するために、この目的に反対する諸国に対して単独または他国と共同で侵略戦争を行なう共同謀議」のことを指し、被告中の23名がこれに参加したものと認定された。確かに日本が太平洋戦争に踏み切ったことは事実である。しかし、この共同謀議、すなわち「共同の目的を達成するために、共通の計画を遂行しようとして行動した多くの指導者たちの仕事」ととらえることには疑問がある。たとえば被告たちの中には東京裁判が始まるまで認識がなかった人たちも居て、彼ら全てが一同に会して密議をこらしたわけではない。また満州事変においても、出先機関の関東軍が東京の政府意向に反して既成事実を作り上げ、政府や軍中央部が追認せざるをえない事態に導いたのである。盧溝橋事件の後も、陸軍内部には事態の拡大派と不拡大派の対立が見られ、対米開戦をめぐって陸軍と海軍のあいだでは意見の食い違いがあった。

判決はまた日独伊三国同盟で日本は英、仏、オランダ、さらにはアメリカと戦争しなければならないだろうと認定した。同様に判決は三国同盟がソ連に向けられ、なおかつ同盟の締結後、日独伊間で積極的な協調がすすめられたと認定した。しかし日本が三国同盟を締結した目的は中国問題を有利に解決するためにアメリカに対する立場を強化することにあったとの背景があった。

日ソ関係にも疑問の声が強い。長崎に原爆が投下された1945年8月9日の早朝、日=ソ中立条約に違反して、日本を攻撃したのはドイツであった。しかしこれも判決では日本がソ連に対して侵略戦争を行なった、と認定した。

このように、東京裁判の判決の史実評価には日本の行為をナチス・ドイツになぞられ、その計画性、残虐性を非難する調子がつよい。1

第3章 モデルとなったニュルンベルク裁判とは


大戦後の主要戦犯犯罪としては、ニュルンベルク裁判が第一幕で、東京裁判は第ニ幕あった。1945年11月25日から1946年10月1日までニュルンベルクで開かれた国際軍事裁判をいう。米ソ英仏4ヶ国はドイツを無条件降伏させた3ヶ月後の1945年8月8日ロンドンにおいて「ヨーロッパ枢軸国主要戦争犯罪人の追及および処罰に関する協定」を締結し、同日定めた国際軍事裁判憲章に基づきニュルンベルク国際軍事裁判も4ヶ国で構成した。国際軍事裁判の本部、事務局もベルリンに定められた。しかし、首都ベルリンの破壊の跡がひどかった為、被告収容、検察尋問、審理のための設備、給養条件その他がよく整っていたアメリカ占領区のニュルンベルクが実際の裁判開廷地に選ばれた。

国際軍事裁判で起訴されたのは、第三帝国期のドイツ国家官庁・ナチ党・軍・経済界の指導的地位にあって戦争遂行に重大な役割だったとされる24名の被告だった。ヒトラーの官房長マルチン・ボルマンは死んだとも、脱出したとも噂され、裁くことから逃れ去ってしまった。その他にもさまざまな理由で出廷できなかった者もいる。そして、出廷した被告たちの上にも、かつてヨーロッパ中を恐怖におとし入れた権力者のおもかげは跡形もなかった。

裁判のために、米ソ英仏4ヶ国からそれぞれ裁判官1名・代理1名の計8名、首席検察官1名の計4名が選任されたのであった。裁判長は英代表ジェフリー・ローレンスであった。アメリカからはビドル法務長官、フランスからはドネデュー・ド・ヴァブルというパリ大学の刑法担当教授、ソ連からはニキチェンコという当時の最高裁判所長官代理がそれぞれ裁判官として選ばれた。1946年8月31日の結審まで公判日は216日を数え、この間に236名の証人が出廷した。裁判における訴因は「(侵略戦争遂行のための)共同の計画もしくは共同謀議への関与」「平和に対する罪」「(狭義の)戦争犯罪」「人道に対する罪」の四つだった。罪状認否では被告たち誰もが無罪を申し立てた。ちなみにこの時の弁護団は全員ドイツ人であった。

裁判は検察側のペースで終始した。集められた証拠資料にも問題はあったし、弁護団は、関係書類を自由に見ることができなかった。また、弁護側の証人の妨害行為も珍しくなかったという。このドイツにおける戦犯裁判の条例も、裁判の実際も、すべて東京裁判のモデルになったのだが、ここで注目しなければならないことはジャクソン報告書で記載されているように、ナチス・ドイツの強い復習心から、このニュルンベルク裁判が企画されたことであって、その準備過程では枢軸諸国という表現があったものの、日本については強い関心は示されておらず、公式声明にはわずか一、二言及されていた程度であったことは、ドイツ戦犯といちじるしい対照をなすものであった。


第4章 東京裁判との差違


ニュルンベルク裁判と東京裁判の相違点をあげてみると次のようにいえる。

1、動機

ドイツ、イタリアの戦犯の裁判と処罰とは、連合国の主要戦争目的の一つであった。1941年10月25日、イギリスのチャーチル首相と当時なお中立国であったアメリカ合衆国のルーズベルト大統領がこの旨を声明したのにはじまり、1942年1月13日には、ロンドンに亡命中の9ヶ国政府が戦犯処罰をうたったいわゆるセント・ジェームス宣言を発表した。日本にたいしては、当時それほど強い意向は示されていなかったが、中国が、自国にたいする日本の戦犯についてもヨーロッパと同一原則を適用すべきであると主張して、このセント・ジェームス宣言に加入したのが、東京裁判の一つの発端ともいえよう。

2、裁判所の構成

ニュルンベルク裁判は四ヶ国、東京裁判は11ヶ国の裁判官から成る。東京裁判には、裁判官の交代制度はなかった。

3、検察官

ニュルンベルク裁判では参加各国から1名ずつ主任検察官をだしたが、東京裁判では、主任検察官はアメリカ合衆国のキーナン検察官だけとした。

4、被告の定義

東京裁判では「平和に対する罪」をふくむ犯行の容疑のある被告だけを選択した。

5、犯罪団体

ニュルンベルク裁判では、ある機関またはグループを「犯罪機関」と宣言する権限を認め、突撃隊(S・A)秘密国家警察(GESTAPO)や親衛隊などをそのように指定したが、日本には黒竜会などの愛国団体は一つ二つあったが、ドイツほど集団として大量虐殺や破壊行為を行なうような高度に組織化された団体はなかった。

6、弁護人

東京裁判ではアメリカ人弁護人が参加した。

7、言語の相違

日本語の難しさから、翻訳や通訳については、東京裁判はニュルンベルク裁判とは比較にならないくらいの困難を生じた。

8、裁判所または裁判官にたいする忌避

ニュルンベルク裁判では許されなかったが、東京裁判では許され、現に裁判冒頭から忌避が申したてられた。

9、大衆性と影響力

ニュルンベルク裁判はなんといっても大衆性をもち、全裁判を通じて欧米の新聞をにぎわせたが、東京裁判は日本の国外ではほとんど注意が払われなかった。裁判終了後も、ニュルンベルク裁判については、裁判記録が全四十三巻、本印刷に附せられて公刊されたが、東京裁判の場合は当時裁判所で配布されたもの以外、まとめて公刊されていない。2

このような点があげられる。ニュルンベルク裁判は訴因が4つに対して、日本は55の訴因がある。

第5章 パル判決書


判決に際して、判事団の中から、いくつかの少数意見が出された。そのうちでも、最も注目されたのが、インド代表判事のパル判事の判決書である。このパル判決書は多数派判決文よりも長い英文25万字、1235項におよぶ膨大なものである。

第一部 予備的法律問題

第二部 侵略戦争とは何か

第三部 証拠及び手続きに関する規則

第四部 全面的共同謀議

第五部 裁判所の管轄権の範囲

第六部 厳密なる意味における戦争犯罪

第七部 勧告

上記のように、パル判決書は全7部構成である。最後の第7部「勧告」で被告全員は「無罪」と主張したことである。パル判事は全員無罪の判決書を書いた唯一の判事であった。審理を冷静に見つめたうえで、多数派判決の法律的見解、事実認定に対して真っ向から反対したのである。

パルは第1部で「同僚判事の判決と決定に同意し得ないことは、本官のきわめて遺憾とするところである」と述べ自らの立場を明らかにしたのち、検察側の起訴事実、三類五十五訴因に対応しつつ、ぼう大な証拠、証言、事実の一つ一つについて厳密な分析をし、判決を下していった。パルは「勝者によって今日与えられた犯罪の定義に従っていわゆる裁判を行なうことは敗戦者を即時殺戮した昔とわれわれの時代との間に横たわるところの数世紀にわたる文明を抹消するものである」といい、儀式化された復讐のもたらすものは単に瞬時の満足に過ぎないばかりでなく、窮極的には後悔を伴うことはほとんど必至であることを指摘し、勝者による裁判そのものへの疑問を投げかけた。第2部では「侵略戦争とはなにか」と題して、多数派のいうその定義を認めることは困難であるとした。

第4部の「全面的共同謀議」ではパル判決書の核心をなすもので、その分量も判決書の半分を占める。満州事変以降の、満州における軍事的発展は確かに非難すべきものであったし、法律的にみても正当化できるものではなかったのであろう。と述べつつ、しかし検察側が提出した記録のなかに共同謀議を証明する直接証拠がないことを述べた。残虐行為についても証拠は圧倒的であるが、この法廷に残虐行為を犯した人はいないし、命令し、授権し、許可したという証拠は「絶無」であるといい、ニュルンベルク裁判の被告たちが発したような命令、通達、指令の証拠は見当たらないとした。また、第6部では、原始爆弾の投下を命令し、授権し、許可した者の責任はどうなるのかと問いかけた。

そうして最後の「勧告」のなかで、パル判事はこうも書いている。「単に執念深い報復の追跡を長引かせるために、正義の名に訴えることは許されるべきではない。世界は真に、寛大な雅量と理解ある慈悲心とを必要としている。純粋な憂慮に満ちた心に生ずる真の問題は、人類が急速に成長して、文明と悲惨との競争に勝つことができるであろうか」ということである。さらに最後に感情的な一般論の言葉を用いた検察側の報復的な演説口調な主張は、教育的というよりは、むしろ興行的なものであった。おそらく敗戦国の指導者だけに責任があったのではないという可能性を、本裁判所は無視してはならない。と論じた。

法廷はパル判決書の朗読を、一週間や十日はかかるという技術的な理由などで拒否した。オランダ、フランス、フィリピン代表判事などの少数意見とともに法廷ではよまれなかった。3

1952年の来日時にパルは以下のように表明した。

「東京裁判の影響は原始爆弾の被害よりも甚大だ」

第6章 東京裁判とは何か


このように東京裁判は、裁判および裁判手続きの是非、通用された国際法の内容、判決の史実評価の適否などいずれの面から見ても、多くの問題を抱えている。東京裁判に対する日本人のとらえ方は、これまでどちらかといえば白か黒かであった。検察側の主張や、多数意見判決の立場を鵜呑みにして、日本の戦争の侵略性と日本軍の残虐性を非難するか、弁護側の主張やこれに近い小数意見、パル判事の「日本無罪論」を擁護し、結論を全面的に否定するかのいずれかであった。太平洋戦争には当時の日本がおかれた国際的、国内的な環境のなかで、やむおえない側面もあれば、行き過ぎの側面もあったはずである。これらを客観的に認識することが重要だといわなければならない。

東京裁判についても第二次世界大戦に対する枢軸国側の責任を、裁判という形式で連合国側が追及した背後には、大局的な目的も存在した。ナチス・ドイツのユダヤ人迫害のような事態の再現を防止し、自国の主張の実現をはかる試みを抑止するという目的だった。この目的に並んで、連合国側の行動を正当化する目的が存在したため、様々な問題を生じ、勝者の正義と評される側面を露呈したのである。東京裁判の評価もまた、白黒の答えではなく、様々な視点から見極めるべきだったと思う。

おわりに


東京裁判とは現在では考えられないような複雑な問題を抱えている。東京裁判は正義の追及を考えていたのか。あるいは、連合国にとって好都合な戦争秩序を作りだすための政治的行為であったのか。両方あったにしろ、やはり優位だったのは後者の政治的側面のほうだと思う。私には東京裁判というものは組織を裁くことができないので人間を裁いてしまったという気がしてならない。そして東京裁判は今も多くの未解決の問題を投げかけているのだ。だが東京裁判の最大の問題は、これを私たち、現在の日本人がどのように受け止め、将来に向けてどのように活かそうとしているのかが重要だと思う。


1)講談社 『東京裁判』104ページ

2)東京裁判研究会 『パル判決書(上)』 50ページ

3)講談社 『東京裁判』98ページ



参考文献


佐藤和男 『世界がさばく東京裁判』 終戦五十周年国民委員会・編

『パル判決書(上)(下)』 東京裁判研究会 1984年

『問い直す東京裁判』 アジア民衆法廷準備会・編 1995年

アーノルド・C・ブラックマン 『東京裁判 もう一つのニュルンベルク』時事通信社

五十嵐武士・北岡伸一 『東京裁判とは何だったのか』築地書館 1997年

粟屋憲太郎 『東京裁判への道』NHK取材班 1994年

『東京裁判』 講談社 1983年