食事は生きていくうえで非常に大切なものである。日本人の主食は現在では米である。以前はどのようなものを食べてきたのだろうか?農耕民族といわれる日本人だが、米は昔から食べられていたわけではない。さらに、肉は明治維新前からたべられていた。わたしたちにとって食というテーマ身近すぎるものである。私は,日本人の食文化を探ってみたいと思い、このテーマを研究することにした。
日本の主作物がイネで主食が米であるからには、日本の農学・作物学において最も発達している領域がイネに関連した分野であることは当然である。イネにかんする学術研究は、世界で最高水準に達している国は日本である。それにも関わらず、日本での米作りの起源については、まだ多くのことがわかっていない。
イネの原産地はインドの熱帯の沼地である。紀元前4000年頃に最初の栽培が始まった。今から約2000年ほど前に日本へ渡来した。それまで日本列島の住民は農業を知らず、もっぱら採集生活のみを行っていた。日本人はイネとともに農業を知ったのである。だから、最初から一貫して主作物はイネだった。農業への切り替えにあわせて、主食も米へと移行した。有史以前の日本の歴史は、農業がなかった縄文時代と、農業が行われて以後の弥生時代とにはっきりと区別される。わからないことといえば、どういう道順をたどってイネが日本に到達したかである。この点に関してはいくつかの説が対立していた。さらに、イネが最初に到着したのは日本列島のどこであったか、複数の説が唱えられた。
しかし、その後の研究でわかったと思われていた多くのことが問い直されるようになった。特に考古学と生物学の発展によってその問い直しがおこなわれたのである。海外のイネの原産地について1万年近く前とも言われ始めた。日本への渡来の時期も3000年以上昔とも主張され始めている。特に問題なのは、イネに先だって縄文中期頃から日本に畑作農業のあった事実が有力視されだしたことである。縄文末期にはすでに畑作農業が始まっていたという説もだされている。農業の有無によって縄文と弥生をはっきり区分けした従来の基準が曖昧になってきた。
イネに先立つ畑作物として、サトイモとダイズが有力視され始めている。当然ながら米食よりも前に、それらを主要食料にした生活がかなりの期間続いたことになる。そうなると、日本で農業が始まってから後に、サトイモから米への主食転換がおこなわれた訳である。人間は食生活にかんして相当保守的なはずである。いったん定着した主食がそれまでの主食を駆逐するだけのとてつもない魅力がなければならないだろう。米の魅力に、美味しさや土地あたりの収穫量の多さが指摘される。しかし、美味しさには慣れが条件となる。
米の魅力とは何だろう。
どういういきさつがあったにせよ、ある時期以降、イネは主作物として日本に定着した。イネの際立った特性として、大量の水と高温が必要とされる。日本列島は雨が多くて湿潤である。この点では稲作は、日本に向いている。しかし問題は温度である。イネの原産地がどこであったにしても、当時のイネは熱帯に適している。温帯の日本は平均すると涼しすぎる。だが日本にも30℃を超える暑さがある。真夏の猛暑、数ヶ月は熱帯と同じ環境になるのだ。そこに成長期をあわせて米作りが可能になった。
このように、様々な面で、日本では,原産種稲に適地の熱帯ならば不要なはずの努力をしなければならなかった。このようにして、イネの生育と収穫が実現されたが、日本人全体が求める米の消費は達成できなかった。
これを補う為に各種の雑穀がつくられた。この呼び方には雑なものという見下げた感じがつきまとうが、イネは穀物の中で格別な存在で、イネ以外をまとめた感じである。主にアワ、キビ、ヒエ、ソバなどがある。ただし穀物の中でオオムギとコムギはイネの次に価値を持つという観念もある。 雑穀の条件は栽培が簡単なことであった。農家の手間のほとんどはイネについやされた。雑穀はその傍らに作られるものであり、手間を十分にほどこす余裕はない。粗放栽培でそれなりの収量をあげられることが条件であった。江戸時代後半になってサツマイモが普及し始め、従来の雑穀の一部に取ってかわった。サツマイモは雑穀以上に土地面積あたりの収量が多く、収穫後の処理がずっと簡単だった。イネと雑穀の違いは、イネが日本全国にひろまり根付いたのに対して、雑穀は地域ごとにかなり種類の違いがめだつ。イネは環境風土の違いを克服する努力がなされたのに比べて、雑穀は環境に順応した栽培された。サツマイモもこの点は同様で、主産地が関東以南で、北限は東北地方の中南部までだった。
このように雑穀やサツマイモに依存した生活が日本の各地にあった。そうであるならば、いっそのことイネと断絶して、雑穀やサツマイモを主作物や主食の座にすえて、一層の多収と美味しい食べ方を工夫する方向に向かったか、といえば、その逆であった。サツマイモや雑穀に頼らざるを得なかったことが、かえってますます米食へのあこがれを強めた。米だけを主食にできる生活、米だけを炊いて食べて、なお保有米にゆとりがある状態が理想であった。その理想の目標を目指して、米作りの技術は、細かい部分にまで手間をかけ、増産の方法を深めていった。
かつての日本人の食生活における米と雑穀の比率については必ずしもはっきりしない。しかし、米を主食にできたのは上流階級だけで、民衆の現実の主食はサツマイモだったという主張もある。日本人口の大部分を占めた農民は、米作民族であったけれども、米食民族ではなかったのである。一般の人たちが米をたべるようになったのは、第二次世界大戦中の配給制度が発達してからである。米を作る人は米を食べず、それを侍や都会人に供給して、そこで始めて米が商品として浮かびあがってくるようになったのだと見てよいのかもしれない。祭礼や慶祝行事などの晴れの席で、米を食べられることを何よりの楽しみにしていたといわれる。あるいは臨終が近づいたとき、この世の最後の思い出として米がゆを食べさせたという伝承もある。普段から米への愛着を断ちがたく、竹筒にひとつまみの米粒を入れたものを、朝起きると耳の傍でふって音だけ聞いてから、その日の仕事に取り掛かったという習慣も語り伝えられている。
しかしこれは、日本の農民がいかに搾取に苦しめられていたかを強調しすぎていて、農村生活の実態をゆがめているとの批判もある。江戸時代後半は、日本人の摂取熱量の60%以上は米でまかなわれていたという説もあり、統一見解がない。実際は相当な地方差があったのではないかとも考えられている。
上の節でも述べたように、日本人の主食というと米と考えられている。しかし米が主食になり始めたのは非常に新しいことで、もともとは雑食をしていたようである。第3節では、米以外の日本人の食生活のほんの一例をあげていきたいと思う。米など全く食べていなかったことがよくわかる。特に昭和10年〜30年頃までの日本人達、極端かもしれないが、特に僻地、山の中、島、海岸沿い、岬などで生活していた人たちの食事をみていくことにしよう。
サツマイモ
昭和15年の奄美大島では、どこへ行っても焼酎ばかり飲まされたそうである。焼酎を飲むときの酒の肴として出されるのが味噌ブタだった。ブタの肉を厚く切ったものを味噌につけておく。それが皿に一枚か二枚出る。これで焼酎を飲むとそれだけでお腹がふくらむ。これは客として迎えられるときで、それ以外のときはサツマイモと麦とちょうど半々くらいのご飯を食べていた。
屋久島でも、主食は麦とサツマイモであった。サツマイモをかなり大きく切ったものを麦の上に乗せる。イモが柔らかくなるとぐるぐると麦と混ぜて食べる。温かいときはとても美味しいが、冷めると食べられるものではないという。近海で取れるカツオで煮汁を作り、近辺で採れる野生の草の葉を入れて、それを飲みながら温かいうちに食べるというのが通常の食事だったそうである。
九州の本土の大隅半島の東海岸では、やはりサツマイモが多い。貧しい家はサツマイモしかない。しかしそのサツマイモにイワシの塩からがつくと大変美味しいだそうである。イワシを自分の家に保存しておく。保存するために塩をしておく。そしてそれを焼き、それをかじってイモを食べる。それだけのことだが、両方の味がうまくマッチしてとても忘れられない味になるとのことである。
イノシシ
大隅半島の東側の真ん中の大浦というところに、二晩か三晩泊まると、ちょうどイノシシが捕れたらしく、イノシシが出される。そこではイノシシは皮をむかないで、はらわたを出して、それを火であぶって毛を焼いてしまうらしい。そしてぶったぎりにする。皮がついていて始めはのどがこげそうになるが案外美味しいらしい。それに焼酎がでる。そのあくる日もあくる日もイノシシだそうだ。ご飯はまったくでないでイノシシを3皿くらい食べた次の日には下痢になるそうである。
宮崎県の米良というところの宿屋に泊まると、ここでもイノシシ食だったそうである。皮つきがよいか身だけがよいかと聞かれたので、身だけを食べた。そのときはヒエの混じった麦飯が出て、とても美味しくいただけた。次の日もイノシシが捕れ、次は皮付きを頼んだ。するとご飯はでない。つまりイノシシの肉が主食になるのである。イノシシの肉のないときはヒエと麦と混ざったようなものを食べる。イノシシを2皿食べると主食は出ないで、一日もつという生活があった。大隅半島からずっと熊本県の球磨地方、宮崎県の米良、椎葉地方にかけては今でもイノシシが大変多く、今でも米良だけで一年に3000頭くらい獲れるそうだ。そのようにして、イノシシが多く採れるところではイノシシが主食だったのである。
雑炊・塩イワシ
大隅半島の船間(前述の大浦から丸一日歩いたところ)に泊まると雑炊がだされた。ここではお米は入っておらず、大根の葉っぱを干して細かくきざみ、味噌と麦とを入れた雑炊である。粗雑にみえるがとても美味しいのだそうである。この美味しさは味噌からきているらしい。漬物部屋というところに桶がたくさん並んでいて、味噌桶、醤油桶、漬物桶などが並んでいる。味噌は、一度にたくさん作ると味がよくなるそうである。
大分県の尾根付近の漁村に泊まると麦の飯が出された。これにおかずはなく、塩を舐めて食べるそうで、葉っぱの漬物が出される。しかし、麦の冷えたものは食べられたものではないそうで、お茶漬けにしてかきこむ。だがここにも漬物部屋があったそうで、大根や菜っ葉やイワシを漬けていた。漬けた塩イワシとはとても美味しく、一見まずそうなものが、実はとても美味しいものであったそうである。
九州の南部では、宿屋に泊まったりすると米も出されたが、民家へ泊まると米はほとんど食べさせてもらえなかった。少なくとも鹿児島県、熊本、宮崎の海岸地方、山中の日常の食生活だったといってよいのではないだろうか。
日本の村はみんなこのような状態だったのかと思うが、土地によって少しずつ変わってくる。
昭和16年の四国の愛媛県から高知県に入って徳島県にぬけていく。譲原という村ではサトイモを焼き、その上に味噌を塗って食べる。イモだけを食べるとすぐにお腹も膨れる。豆腐のでんがくなども作って食べる。このでんがくは、凄く堅い。切って、味噌をつけて焼くが、食べるときはカリカリと音がする。小豆飯というものもあって、麦に小豆をいれるのだ。お腹がすく小豆飯とさといも、豆腐のでんがくを、交互に食べるのだそうである。
中国地方の山地の水田がほとんどない集落がある。ここでもまた麦飯である。海岸でとれたワカメを火であぶってもむと粉々になる。それを麦飯の上にかけて食べると意外に美味しいらしい。この麦飯にあうのがフカ(ワニ)の白い煮汁だそうである。麦飯が冷たければその上にお湯をかけてさらさらと頂くらしい。
やはり、平地で米を作っている人は別として、それ以外の土地の人たちは、米ばかり食べていたのではない。日本の食糧構造は、植物性の雑食から成り立っていた。それぞれが独特の風味を持っていて、見た目が粗末だから粗食であるということとはいえないかもしれない。雑食を余儀なくされてことが、逆に米を大きく浮び上がらせた。だからこそ米が商品として成立したのではないだろうか。もともと日本では米を作っていた。だが、一般の人たちが食べたかどうかというと、米を食べたのは米を作らなかった都会の人達だったといえよう。
豆類は、古くから穀類と並んで人類にとって大切な食料である。特に世界各地で主食とされる澱粉質の穀物とペアを組んで、たんぱく質と脂肪の供給源の準主食とされているところに特徴がある。ヨーロッパではムギとエンドウ・ソラマメなど、アメリカ大陸ではトウモロコシとインゲンマメ・ラッカセイなど、アジアではコメとダイズなどである。
ことに日本は歴史的に動物性食品の摂取が少なかったで、コメ、雑穀とのペアとして、ダイズがたんぱく質と脂肪の補給源として重要な価値をもっていた。ダイズは他の豆類と比較して、とくにたんぱく質と脂肪の含有率が多いことは注目すべきである。
豆類の難点は、煮えにくいことと消化しにくいということである。そこで加工法として発達したのが、味噌、醤油と納豆などの発酵製品であり、豆腐をはじめとする一連のダイズ加工食品である。さらに、炒り豆、それを粉にしてきなこ(黄な粉)を作った。
豆は菓子としても使われるが、日本で特徴的なのは和菓子の材料、「あん」として相当量のアズキそのほかの豆が使われていることである。
豆類は完熟豆を食べるだけでなく、未熟豆を食べたり若ざやを野菜として食べる。日本の枝豆もそうだが、グリーンピース、ソラマメ、さやインゲン、さやエンドウなどが外国でも使われている
日本人が食べている豆は、大昔はダイズなどわずかな種類だったが、歴史の歩みとともに世界各地の豆が導入され、今では30〜40種類にのぼる。
次に、古いものから順にみていく。
ダイズ [別名 オオマメ 大豆]
大豆はもっとも古くから食べられた。シベリアのアムール川あたりから中国東北部(旧満州)を通り、日本までが原産地である。成分としては、でんぷんがほとんど含まれず、蛋白質・脂質に富んでいて、加工原料として味噌、醤油、食用油、豆腐そのほかさまざまな食品が作られる。色は黄、茶、緑、黒、白黒の染め分けなどがある。形も球、扁平球、楕円球などさまざまで品種が多く、用途にも適性があって、煮豆加工用、炒り豆用、きなこ用、枝豆専用などに分かれている。
ダイズは18〜19世紀に、日本からヨーロッパやアメリカに知られた。第二次世界大戦頃までは中国が世界一の生産国で、日本は満州ダイズを輸入して需要をまかなっていた。しかし、第二次世界大戦後はアメリカでダイズが大々的に栽培されるようになり、世界一の産地になった。そのため、今では日本はアメリカダイズにすっかり依存している。ダイズの原種といわれるのは「ツルマメ」(ノマメ)である。日本でも各地の野原に自生している。ダイズよりも葉もさやもマメもずっと小型ながら、ダイズそっくりの豆である。少し癖があるが食べることができる。縄文・弥生時代の遺跡から炭化したツルマメがでることから、古代人はこれをとって食べていたことが明らかである。現在のダイズが中国北部で作物化されたものが「作物」として縄文時代の末頃から伝来したと思われる。
アズキ[小豆]
アズキはダイズと同じく、中国北部原産と言われ、現在のアズキは中国北部で作物化されたものが「作物」として縄文時代の末から伝来したと思われる。今では中国大陸や朝鮮半島ではあまり使われないが、日本だけで特に利用される豆として特異なものである。大部分が餡、甘納豆、ようかんなどの和菓子の材料となっている。
リョクトウ[別名 ブンドウ・ヤエナリ・アオアズキ 緑豆・文豆]
産地はインド、ビルマ地域である。日本への渡来は文書記録から17世紀に以前とされてきたが、先年、鳥浜貝塚(鳥取県)から縄文時代のリョクトウが発見されたから歴史は書き換えられるであろう。ブンドウといわれるのは、豆粒がそろっていて、インドでは、金や真珠を計量するのに分銅として使ったからである。形はアズキにそっくりだったが、現在は黒褐色の鼠の糞のような豆が輸入されている。戦後しばらくまでは日本の各地で綺麗な緑色のリョクトウがつくられ、緑豆飯などにつかわれていたが、現在は姿を消してしまった。現在わが国の重要な用途は「もやし」の原料である。リョクトウは高温・多湿の暗い所で発芽させると双葉より下の茎がぐんと伸びる性質があり、それがもやしに利用される。
ソラマメ[蚕豆]
ソラマメは西アジアとアフリカ北部のルーツがあって、日本のソラマメがどちらかきたのはわからないが、日本で「おたふく豆」といっている大粒のものは、アフリカ系のもののようである。ソラマメの花には、中心に目のようなものがある。およそ植物の花で真っ黒というのは特殊である。未熟豆はビールのつまみや煮物にして、初夏の味覚として賞味される。
ササゲ[大角豆]
ササゲという名前は,さやつきが両手で捧げ物をするような形であるところから名づけられという説がある。大角豆というのは、ウシの角のようだからという説と、豆がアズキよりやや大きく、少し角ばっているためだという説がある。原産地はアフリカで、古い時代にインドから世界に広まったとされる。ササゲには慢性と矮性があって、さやは10〜30cmで、豆は赤、茶色が主で、他に白、黒と品種によって色々ある。ササゲの仲間にはササゲによく似たヤッコササゲ、ジュウロクササゲがある。赤飯に入れる豆としては、アズキよりもヤッコササゲの方が喜ばれる。ジュウロクササゲはアスパラガスのようなものである。
エンドウ[豌豆]
西アジアの地中海寄りの地域が原産地である。ヨーロッパでは、古くからムギとペアで食べられた重要な豆である。日本へは中国を経て8世紀に入ったが、当時はあまり好まれなかったようである。さやエンドウとして若ざやを食べるようになったのは、江戸時代にオランダからあらためて導入されてからのことである。それ以前は乾燥した完熟豆を食べていた。グリーンピースを食べるようになったのは明治以後のことである。
インゲンマメ[別名 ゴガツササゲ 菜豆・隠元豆]
インゲンマメは中央アメリカ原産で、メキシコでは紀元前5000年くらいから栽培されていた歴史の古い豆である。新大陸発見後、ヨーロッパに入り、大変好まれて、瞬く間に世界中に広がった。日本へは隠元禅師が17世紀にもってきたので、その名がついたのではいかといわれている。禅師のもってきたのはこの豆ではなくて、フジマメではないかといわれている。関西人はこの豆をインゲンといわず、五月ササゲや三度豆と呼び、フジマメを「いんげん」と呼んでいる。インゲンマメは煮豆、白餡、甘納豆、きんときなどのほか、スープや煮込み、サラダなど西洋料理にも使われる。
フジマメ[別名 センゴクマメ・インゲンマメ・アジマメ 鵲豆]
原産地はアジアの熱帯地域。インゲンマメとほぼ同時代に日本に入ってきている。前述のように、関西でインゲン豆ともよばれているものである。東京の市場ではあまりみかけられず、東北ではほとんど知られていない。東北で水田転作用として作られたところ、市場で買い手がつかなかったという話もある。さやは白っぽくて幅広く、若ざやをインゲンマメと同じ様に料理する。
その他にベニバナインゲン、ライマメ、ハッショウマメ、ナタマメ、ラッカセイ、シカクマメがある。そして、輸入している豆類は、タケアズキ、ヒヨコマメ、ヘントウ、バンバラマメ、キマメ、グラスビーがある。その他の特殊な豆類としてカワラケツメイ、ハブソウ、エビスグサ、ナンテンハギ、クズなどがある。
作物のほとんどすべては、地球上の特定の一地域に期限したもので、同じ作物が離れた地域で個別に期限するということはごくまれだ。作物はその期限で栽培されるとまもなく、別の地域へと種子あるいは株が伝えられて、栽培が広まっていった。
日本列島では、もともと農耕が発祥せず、農耕文化、稲作をもった民族が渡来して、それを伝えたことによって農耕が始まったと考えられる。稲作以前にもアワ、ヒエなどの焼畑栽培があったとみている。これらも中国や南方から渡来した人たちがもたらしたものと思われる。
前で述べた豆類もすべてが国外から伝来したものだ。日本の豆利用を歴史的にみるとダイズが最古だ。縄文時代の遺跡からダイズが出土しているが、栽培したかは不明だ。おそらく野生のツルマメが採集され食べられていたと思われる。作物としては弥生初期に中国から伝来したものだろう。弥生時代には、イネは九州地方から近畿を経て東海地方に普及していた。だが一般的には、アワ、ヒエとともにダイズが主食として畑で栽培され、少しの三菜をおかずにして食べていたものと推測される。
アズキも中国から渡来したと思われるが、1〜2世紀頃から食べたことが確認できる。リョクトウは記録としては17世紀からになる。縄文遺跡から出土しているので、歴史時代より前に伝来し、西日本では古くから使われた豆とみられるようになった。
大和朝廷か成立してから、中国・朝鮮との接触、文化の導入がさかんになり、各地の作物を意欲的に取り入れた。なので、大和・奈良・平安時代には非常に多くの作物が入って栽培が始められた。ササゲ・ソラマメ・エンドウなどがその中にある。12世紀末までに、日本への作物伝播の大きな波はやんだ。豆の新種の伝来は途絶えたが、16世紀後半になって、西洋諸国の来朝がさかんになって、ヨーロッパの文化とともに珍しい野菜や果物も次々に導入された。
このように、日本人は時代とともの食用豆の種類を増やし、今では30〜40種類にのぼる。しかし、最初にコメとほとんどときを同じくしてダイズというすばらしい豆を手に入れたことが、日本民族の反映と独特の食文化を築いたといえる。
わたしたち日本民族は、もちという食物に昔から特殊な感情を移入してきた。たとえば、私たちの生涯についても、子供の安産を祈ってもちをつくことに始まる。そして誕生となれば盛大にもちをつく。一生の節目にさまざまな名前のついたもちが作られ、死者との別れに際しては笠の餅が備えられる。今ではこのような風習をしっかりと行うところも少なくなったけれども、一昔前では私たちの周辺でごく普通にみられたものだ。まさに私たち日本人は餅なしでは生まれてもこないし、死ぬこともないとさえいえよう。また、餅以外の餅米を使った食物のバリエーションも豊富で、それぞれに精神的な意味が与えられていることが多い。餅やもち米以外にこういった性質をもつ食物はめずらしい。 こういったところから、日本の伝統的な食文化を触れてきたにあたって。第三章はまさしく日本の精神ともいえる「もち」について触れていこうと思う。
日本では米などの稲作のもので作った餅が簡単で作りやすく加工しやすいため種類が多い。日本の文化のハレ事に使われ正月など、行事には欠かせない食材となっている。
餅という食物、その素材である糯イネや餅制の穀類は、日本を含む東アジアと東南アジアの一部の地域を除くと、世界のどこにも存在しなかったし、今も存在しないといってよい。地域固有性の高い不思議な存在だ。また、みなれない「糯」という漢字も同じく「もち」と読む。米やイネ、その他の作物などを指す場合は「糯」のほうを使って、糯イネ、糯米などとする。
「餅」は中国・韓国・東アジアなどに多くの種類がある。古くは主に小麦を粉にして平たく固めてから加熱した粉食のことをさしていた。しかし、大麦、粟、トウモロコシなどのほかの食材を用いた粉食のことをも含めるようになった。味付けの甘いものもあれば、塩辛いものもある。
もちの漢字は、日本では「餅」である。餅といえば、もち米(穀粒)を蒸して臼と杵で搗いた餅、鏡餅に代表される粘る餅をさしている。同じ漢字を使う中国の「餅」(ピン)は饅頭、餃子などの小麦粉製品の総称であって、韓国の「餅」(トツク)はウルチ米粉からつくられる餅の総称だ。
わたしたち日本民族は、もちという食物に昔から特殊な感情を移入してきた。たとえば、私たちの生涯についても、子供の安産を祈ってもちをつくことに始まる。そして誕生となれば盛大にもちをつく。一生の節目にさまざま<な名前のついたもちが作られ、死者との別れに際しては笠の餅が備えられる。今ではこのような風習をしっかりと行うところも少なくなったけれども、一昔前では私たちの周辺でごく普通にみられたものだ。まさに私たち日本人は餅なしでは生まれてもこないし、死ぬこともないとさえいえよう。また、餅以外の餅米を使った食物のバリエーションも豊富で、それぞれに精神的な意味が与えられていることが多い。餅やもち米以外にこういった性質をもつ食物はめずらしい。 こういったところから、日本の伝統的な食文化を触れてきたにあたって。第三章はまさしく日本の精神ともいえる「もち」について触れていこうと思う。
日本では米などの稲作のもので作った餅が簡単で作りやすく加工しやすいため種類が多い。日本の文化のハレ事に使われ正月など、行事には欠かせない食材となっている。
餅という食物、その素材である糯イネや餅制の穀類は、日本を含む東アジアと東南アジアの一部の地域を除くと、世界のどこにも存在しなかったし、今も存在しないといってよい。地域固有性の高い不思議な存在だ。また、みなれない「糯」という漢字も同じく「もち」と読む。米やイネ、その他の作物などを指す場合は「糯」のほうを使って、糯イネ、糯米などとする。
「餅」は中国・韓国・東アジアなどに多くの種類がある。古くは主に小麦を粉にして平たく固めてから加熱した粉食のことをさしていた。しかし、大麦、粟、トウモロコシなどのほかの食材を用いた粉食のことをも含めるようになった。味付けの甘いものもあれば、塩辛いものもある。
もちの漢字は、日本では「餅」である。餅といえば、もち米(穀粒)を蒸して臼と杵で搗いた餅、鏡餅に代表される粘る餅をさしている。同じ漢字を使う中国の「餅」(ピン)は饅頭、餃子などの小麦粉製品の総称であって、韓国の「餅」(トツク)はウルチ米粉からつくられる餅の総称だ。
日本の食文化を論じるにあたって、雑煮という料理は、地域によって特色がる日本の伝統的な料理といえる。雑煮は正月三が日の祝いの食べ物である。餅を主とした汁料理なのだ。雑煮の餅を食べることで多くの日本人は正月を迎えた気分になる。正月の朝に神供の餅をおろしてほかの供物と煮たものが雑煮だった。雑煮がいつごろから始まったかについては文献上は室町時代からとされている。しかし、これは正月の雑煮ではなく儀礼的な酒宴の席にだされた酒肴としての雑煮であったらしい。雑煮の具と調理法は地域によって様々だ。室町時代の雑煮は、「白瓜、もちい、いりこ、まるあわび」の四色をたれみそにいれて煮るものだった。たれみそとは、味噌を水で溶いて煮詰めて、布袋に入れて垂らして溜めた味噌の澄まし汁で、醤油以前の調味料である。
江戸時代になると「もち、とうふ、いも、だいこん、いりこ、くしあわび、ひら鰹、くきたちなど入りよし」とあり、この頃は味噌仕立てとすまし仕立ての両方で作られる。野菜はダイコン、サトイモ、青菜が主な食材で、昆布や豆腐などが加わる。このような雑煮が江戸時代初期に庶民の間で食べられていた。雑煮の地域性は江戸時代にはすでに存在していた。京都、大阪、江戸のそれぞれの餅の形や調理法の相違は、現在にも通じて大きな変化はない。京都、大阪、江戸のそれぞれの餅の形や調理法の違いは現在に通じても大きな変化はない。雑煮の餅の形は一般的に東日本が角餅、切り餅、西日本は丸餅であるが、雑煮の餅が神饌だったことからすると、西日本の丸餅のほうが古い形だったと考えられる。丸餅は北陸地方の金沢、越中五箇山や白川郷などにまで達している。調理法は味噌仕立てとすまし仕立てに分かれ、近畿地方とその周辺の香川、徳島、福井、三重の各県が味噌仕立て、それ以外はしょうゆのすまし仕立てだ。
代表的な具材は、餅、魚、とり肉の切り身や肉団子にしたもの、青味(小松菜、三つ葉、ほうれん草)に加え、彩りを添えるために鳴門巻きやにんじん、香りを出すために柚子の皮を薄く切ったものをのせる。そのほかに、土地の特産物を入れるなどと特色がある。ダシの種類も地域によって種類がある。昆布、鰹節、カタクチイワシの煮干、するめなどだ。例えば名古屋では、餅と小松菜の一種のもち菜を入れてしょうゆ仕立ての知るにして、鰹節をかけたものだ。それに対して、富山ではそれに加えて魚や蒲鉾などを入れて食べる。島根や鳥取では、汁粉を雑煮にして食べる。
香川県や岡山県の真鍋島のように砂糖と小豆の餡をいれた餡もちを入れる地域もある。出雲地方は正月を小豆雑煮で祝うことで有名だ。全体に東北地方のほうに行くほど雑煮は次第に少なく、汁粉ゼンピンがおおくなってきている。汁粉の汁もだんだんと濃くなってくる餅のあんのところと益々近く、小豆餅という土地が多い。雑煮にいれる餅は、関東のように汁にいれる前に焼いて香ばしくしたものと、関西以西の生のまま知るに入れて煮るというものとに細分される。なお、近年は角餅を使うエリアが徐々に西へと広がっている。伊豆八丈島の例は、この島では正月の三日間は祝いの芋かしらを食べ、雑煮は祝いの芋かしらを食べて、雑煮は四日にはじめて食べるのが風習だった。千葉県の内房や神奈川県の海岸地帯には、正月におかんと呼ぶ供え物をおろして餅を加えて雑煮にするところがみられる。「おかん」とは大根と里芋を白湯で煮て元旦の早朝歳神様に供えるというものだ。地域においては餅を用いて雑煮を作る地方もあって、こうした場合はサトイモや豆腐が餅の代わりとなる。こうした雑煮の存在は稲作の盛んではない山間などに見られて、芋正月と関連するところが多い。米が貴重品であった時代の風習ともいわれる。特にサトイモの雑煮は、日本において米が主食になる以前における主食としてのサトイモの存在の名残ではないかとする説もある。
日本人はやはり、昔から米を食べてきたわけではなかった。その地域でとれたものを食してきたのだ。米作民族であったが、米食民族ではなかった。米を食べられたのは、一部の上流の位の人々であった。その他の米を作っていた人々はサツマイモや雑穀などを食していた。明治維新前からも肉は食べられていて、イノシシだけを食べることもあったことには驚いた。
豆、特に大豆は日本人にとっては重要な蛋白源であって、これも日本の食を語るには欠かせないだろう。豆腐や納豆などの様々な日本を代表とする食物がある。
そして餅。餅も沢山の種類がある。餅が農家の生活や年中行事の中に深く関わり、多彩な餅料理を伝えてきた。その代表的なものが雑煮だろう。雑煮も地域や東西によって使う具などが違ってくる。日本の伝統的な料理だ。
餅や雑煮を調べるにあたって、東南アジア、中国、韓国の餅にも興味が沸いた。機会があったら、日本と一部の外国の餅の違いなども調べてみたいと思った。
石毛直道『日本の食事文化』(財団法人味の素食の文化センター 1999年)
田村眞八郎・石毛直道『日本の風土と食』(ドメス出版 1995年)
田村眞八郎・石毛直道『日本の食・100年<たべる>』(ドメス出版 1998年)
芳賀登・石川寛子『日本の食文化三 米・麦・雑穀・豆』(雄山閣出版 1998年)
鈴木秀夫・久保幸夫『日本の食生活』(朝倉書店 1980年)
芳賀登・石川寛子『日本の食文化四 魚・野菜・肉』(雄山閣出版 1997年)
渡部忠世・深澤小百合『もち(糯・餅)』(財団法人法政大学出版局 1998年)
Wikipedia
http://ja. wikipedia/