大人の幼児化〜大人が絵本を読む理由〜


法学部 政治学科 4年 04142081

水野 香



目次


はじめに


第1章 「甘え」現象について

 第1節「甘え」とは何か

 第2節「甘え」と病気の関係

 第3節「甘え」と現代社会


第2章 社会の変化

 第1節 メディア

 第2節 家庭

第3章 大人と絵本

 第1節 きっかけ

 第2節 距離

 第3節 ベストセラー 『葉っぱのフレディ −いのちの旅−』


おわりに


参考文献


参考サイト






はじめに


 近年、大人を対象としたおまけ付きのお菓子や大人向けの絵本が多く見受けられる。お菓子のおまけ、絵本といえば、普通は子どもへ向けたものである。しかし、今では懐かしさや癒しを求める大人たちが、おまけや絵本を欲しているのである。書店では“癒し”を求める女性をターゲットに絵本の特別コーナーが広く設けられたり、ポップなどを使って宣伝されたりしている。私自身もこのように絵本のコーナーがあると立ち止まってしまう。

 大人が幼児化している背景には自立していない大人がいる、つまり何かに甘えている大人が多いことが原因ではないか。そこで第1章では「甘え」のメカニズムについて述べ、第2章で幼児化といわれるようになった日本社会の変化について考える。第3章では、なぜ書店では積極的に絵本の特別コーナーを設けて大人に絵本をすすめているのかを考える。社会の幼児化と大人に絵本をすすめることは何か関係があるのだろうか。


第1章 「甘え」現象について


第1節 「甘え」とは何か

 第1章では幼児化の原因として考えられる「甘え」のメカニズムについて考えていきたい。

「甘え」という言葉は、日本では人間に対しても動物に対してもよく使われる言葉である。「甘える」を辞書で引くと@甘みがあるA恥ずかしく思う。てれる。B慣れしたしんでこびる。人の親切・好意を遠慮なく受け入れる。と書いてある。しかし、英和辞典で同じ言葉を引くと@(犬などが)<人に>じゃれつくA(人が)<人に>へつらう。といった具合に書いてあり、日本人が使う甘えとは違うように感じる。どうやら「甘え」は日本語独自の言葉のようだ。

土居健郎は著書『「甘え」の構造』の中でこう述べている。

ある彼女の母親から私は患者の生い立ちなどいろいろ話を聞いた。この母親は日本生まれの日本語の達者なイギリス婦人であったが、たまたま私が患者の幼少時代に及んだ時、それまで彼女は英語で話していたのに急にはっきりした日本語で、「この子はあまり甘えませんでした」とのべ、すぐにまた英語に切りかえて話を続けた。1

これは精神科医である土居氏が恐怖症に悩むある混血の女性の治療を頼まれたときに起こったできごとである。後に、彼女になぜ「この子はあまり甘えませんでした」だけ日本語で話しをしたのかを問うと、これは英語では表せないと答えたという。日本人は甘えの感情にとても敏感であり、それを大切にしている。だが欧米人にはこのような考えはないのである。 また、「甘え」という言葉の中には様々な社会における営みが関係している。“義理”“人情”“他人”“遠慮”と甘えの関係を見ていきたい。

「人情を強調することは甘えを肯定すること、相手の甘えに対する感受性を奨励すること」といわれる。日本人はよく人情という一般的な名称を用いるが、これは結果的に日本人に馴染み深い感情を指しているのである。これは「外国人には人情が分からない」や「外国人にも人情がある」という言い方がされるからである。

“義理”とは、人情が自然に発生することとは違い人為的に人情が持ち込まれた場合のことを言い、人情を経験することが公認される場所なのである。この義理を強調することは、甘えによって結ばれた人間関係を賞揚することになる。義理人情が支配的なモラルであった日本社会は甘えの瀰漫した世界であったと言えるのだ。

“他人”とは血縁のない人のことを指すため、親子だけは他人ではなく、それ以外の関係は親子関係から遠ざかるにしたがって他人の程度を増していると言える。すなわち、親子の間に甘えが存在するのは当たり前だが、それ以外の関係で相互の甘えが働く場合には親子関係に準ずるか、それと何らかのかかわりを持つ場合である。

“遠慮”とは現代では人間関係の尺度を測る読みとして使われている。親子間は他人ではないため遠慮が存在することはない。これはこの関係が甘えに浸されているからだ。反対に、親子以外の人間関係は親しみが増すにつれ遠慮が減り、疎遠であるほど遠慮は増す。遠慮のない友人関係が親友と言える。しかし、場合によって遠慮の受け取り方は違う。相手の好意に甘えすぎてはいけないと考えて遠慮するとき、これは遠慮しないと図々しいと考えられ相手に嫌われるのではないか、という危惧が働いている。結局、遠慮しながら実は甘えているのである。また日本人は自分のこととしては遠慮を嫌がり、他人には遠慮を求める傾向もある。これは甘えの心理が社会生活の根本ルールとなっているからだといえる。


 第2節「甘え」と病気の関係

 対人恐怖という症状、訴えが日本の神経症患者に目立つと言われる。これは日本人の歴史的社会的環境が関係している。それは“人見知り”である。

最初の人見知りは乳児が母親を見知って他人と区別することである。これは乳児が母親に甘え始めることで乳児の甘えは人見知りと同時に始まっていると言える。また成人に対しても“人見知り”という言葉を使うが、この場合は、はにかみや照れの自意識と全く同じ意味を持つ。馴れない他人を避けるための現象を示す場合にも使うことができる。

これらの事実から、乳児期以後に人見知り現象が起きる場合にも甘えが問題になっていると言える。日本社会では内と外に区別されることが多く、内側では保護され甘えられる仕組みになっている。外の者に対して、すぐに甘えることはなく、多少の人見知りはおかしいとは考えられないからである。人見知りをする者は馴れない人に対してはにかみや照れを意識するが、これは恥の一種あり、この人見知りが病的な程度に発達すると、赤面恐怖、視線恐怖、醜恐怖、体臭恐怖といった対人恐怖症につながるのである。

日本語の受身の用法には被害を表すものが多いのが特徴である。

英語は「大工によって家が建てられた」という言い方をするが日本語にはない。「遊び場に家を建てられてしまった」という独自の用法があり、家を建てられた結果遊び場を奪われた子どもたちの気持ち表している。これに平行して「…してくれる」「…してもらう」また「…してやる」という利益の授受を示す表現も目立つ。それは利益を受けられなかった場合の被害的心理の存在を暗示しているということがわかる。

この他にも被害的心理を表す言葉に“邪魔される”“邪魔する”が使われる。この“邪魔”の意識は甘えの心理と関係している。甘えるといえば幼児の甘えが浮かぶが、この場合は母親を独占しようとして母親が他の者に注意を向けることに強い嫉妬を抱いているのである。

幼児の自分と母親の関係を邪魔されたくないという様子が伺える。


 第3節「甘え」と現代社会

 ここまで日本人の「甘え」について述べてきたが、第3節では現代社会との関係を調べていきたい。日本人には「甘え」という考え方が充満しているように感じるが、現代では「甘え」を体験する機会が少なくなり、甘えたい人間が増える一方、それを受け止める人間が減っているとも考えられる。

現代社会の特徴である青年の反抗について見ていきたい。

両親、彼らの代表する世界が健全であると仮定すると、幼児が両親と精神的に同一化できたときは、彼らに正常な道が開かれる。また、一見幼児が両親と同一化して正常の大人に成長したと見える場合も、その影に幼児の葛藤が生き続けるとそれが神経症のもとになると言われる。さらに片親だけが幼児と異常に結びつくこともあり、この場合に世代間境界の喪失と呼べる状態が出現する。

既成の社会に反抗し、古い世代に不信を抱く青年たちがいることはマクロの社会現象であり、彼らの家族関係を除くと必ずしも親子の関係が感情的に離反しているとは見えない部分がある。口では世代のずれを唱える彼らだが、互いにいがみ合っているという証拠はきわめて少なく、一種の馴れ合いが存在するようにも見える。つまり、甘え、甘やかす関係が生まれている。

世代間断絶の言葉を聞くようになり、新しい世代は古い世代を告発しており、両者の間に共通の理解が失われているように感じられる。しかし、家庭の中では意外と親子、特に母と子が馴れ合っているように見られる。価値観の違いこそはっきり主張するものの、両親に対して敵意を覚えることなく尊敬と感謝を表している。つまり現代の青年は価値観が問題とならない限り、古い世代と和合するが、価値観が問題となると、古い世代と鋭く対立する。であればこそ、彼らは両親の中でも母親と密接な関係を続けるのである。これは、家庭において父親の影が薄いこと、つまり父親の権威が感じられない父親不在といってよい状態が、今日では普通になっていることが原因として挙げられる。父親不在の状況は、戦後における父親労働者化と平行している。戦後の労働形態が長時間労働、遠距離通勤、単身赴任となり、父と子が一緒にいる時間が減ったのである。

ところが、このような社会的変化の種は明治時代以後に蒔かれたともいわれる。それは西洋文化の輸入とともに旧来の秩序や権威が天皇制以外はすべて覆されたためである。敗戦直後、国民精神の中核をなしていた忠孝の道徳が各方面で批判され、これと同時に先進国として景仰していた西洋自体も戦後大きな混乱に見舞われ、世界全体の思想状況がますます父親的権威否定の方向に向かい日本も影響を受けた、とも考えられるのである。

以上、現代は「甘え」の充満している時代であることを述べてきたが、これは子どもと大人の区別が昔ほどなくなったと言い換えることができる。大人を大人と思う子どもが減り、大人のような子どもが増えてきている。テレビなどのマスメディアから様々なことを知ることができる時代になったからだと言える。そして逆に、昔のように大人らしい大人は減り、子どものような大人が増えている。この大人のような子ども、子どものような大人に共通して言えることこそ「甘え」なのである。早く大人になりたい、子どもだと侮られたくないという青春の時期は生き急ぎの季節に思われていたが、最近は生き遅れの季節と言われるようだ。「かわいく見えるから」という理由で華やかな服装をする若者が多い。この「かわいく見られたい」という気持ちこそ「甘え」なのだ。


第2章 社会の変化

 第1節 メディア

 第2章では社会のどのような変化が日本社会の幼児化につながってきたのか見ていきたい。現在ではテレビ、インターネット、携帯電話などから、簡単に国内どころか世界中の状況を把握することができる。とても便利なことだが、その反面過度な報道によるプライバシーの侵害など人々に悪い影響を与えることもある。第1節ではメディアが私たちに与えた影響について詳しく見ていく。

まずは日本人の幼児化について考えてみる。人間が精神的に成長するということは、ものごとに対する理解度が増すことである。ものごとは必ずしも白と黒に分けることができないということは様々な経験を積む上で理解していく。ところが今はそれを理解できない大人、つまり、ものごとを白か黒でしか見ようとしない大人たちが非常に多いというのである。これは子どもの頃から成長していないということになる。このように、ものごとを白か黒か、良いか悪いかのどちらかで見るような短絡的な考え方を二分割思考という。

なぜ二分割思考をする人が増えたのか。それはテレビの影響が原因であるといえる。テレビというのは子どもからお年寄りまで幅広い世代に親しまれている。そのため誰が見ても理解できる“分かりやすさ”が重視される。専門家が専門用語を並べてコメントするよりもテロップなどを使ったり、笑いタレントが一言で斬ってしまったりする方が分かりやすいのである。ものごとの一面しか見ずに良いか悪いかを決めてしまう二分割思考は思考の退化であり精神の幼児化である。

ここでテレビ報道、マスメディアについて考えてみる。最近のテレビ報道、ワイドショーは、いじめの構造を持っていると言える。報道とはもともと事実をできるだけ客観的に伝えるものだった。しかし現在ではキャスターやコメンテーテーが主観的な意見をはさみ、不祥事や問題を起こした人たちを過度に糾弾するようになった。大衆の感情をうまくつかみ、一方的に悪人を作り出しそれを叩いているかのようにも見える。

いじめを感じさせるテレビ報道の一つの例として2005年4月25日に兵庫県尼崎市で起きたJR 福知山線の脱線事故の報道が挙げられる。事故の確率をゼロにすることは残念ながら無理なことである。それにも関わらず、あの時のJR西日本に対するマスコミの追い詰め方はひどいものだった。泣き崩れる遺族の映像や被害者の携帯電話に残っていたメールなどをニュースで流し、徹底的にJR西日本を叩いていた。遺族と被害者が怒るのは当然だが、マスコミは関係のない部外者なのだ。感情論を振りかざして不祥事を取り上げることはどうなのか。番組の冒頭で被害者が泣いたり怒ったりする場面を出し、いたずらに視聴者の感情を刺激し、気の毒であることを訴える。ニュースの背景について深く考えないまま「かわいそう」「ひどい」「悪いヤツだ」という感想だけで終わるということはある意味知性の欠如であり幼児化が急速に進んでいるといえる。深い議論や追跡調査のないまま印象、先入観だけで何百万人という人が見ている前で関係者が裁かれていく。また、昨今では何か事件が起きるとニュース番組だけでなくワイドショーでも取り上げ、どのチャンネルを回しても同じ話題だらけになることがある。そしてどのチャンネルも単純な論理を用いて斬っている。まるで「いじめ」のようである。事件などから叩く相手を探し出して、騒ぎが収まると何事もなかったかのように忘れてしまう。無理に白か黒かを判断し、いじめに近いコメントを一方的に放送するのは大きな問題の一つとも言える。

もう一つ、バライティー番組もいじめととらえることができる。若手のタレントが先輩タレントから危険な目に合わされていることがある。このような番組を見て親たちは笑い、それを見た子どもは「こういうことは面白いことなのだ」という印象を受けてしまう。

数ヶ月前、データの捏造が原因で打ち切りとなった『発掘あるある大辞典U』という番組があった。この番組のおかげでテレビの影響力のすごさを改めて思い知らされた。納豆を食べるとダイエット効果があるというのだ。そもそもものを食べて痩せるというのは考えにくいことで、食べないから痩せるのである。しかし少数でもこれを信じる人がいればいいのだ。例えば、8割の人が「納豆を食べても痩せるわけはない」と疑っていても2割の人が支持したとする。これは視聴率にすると20%にもなるのだ。その結果、この番組放送後はスーパーなどの売り場から納豆がなくなるといった現象が起こった。

テレビというメディアはどうあるべきか考えたとき、視聴者の心理を大切にしなくてはならないのである。人々は詳しく分析をした番組よりも、面白い映像や扇情的な言葉を使ったお笑いなどの番組を好む傾向がある。これは視聴率ランキングなどから読み取れる。しかしお笑い番組を求める人が多い一方で、このような番組に対して「いい加減にしてほしい」と感じる人もいるのである。どのような番組を放映するかという決定権はテレビメディア側に託されているため、番組を作る側は一方的な考えだけにとらわれず、チェックアンドバランスを意識しなくてはいけない。そうでないと歯止めがきかなくなってしまう。


 第2節 家庭

 社会の崩壊の原因としてもう一つ、家庭の変化が挙げられる。第第2節ではこの変化について見ていきたい。

近代家族の基本は、夫は外で働き妻は家にいる専業主婦というスタイルであった。産業資本主義の時代から「外で働く夫と専業主婦」という男女の役割分担行われるようになったが、これは肉体労働に従事する男性が外で働くようになり、女性が育児・家事を行うようになったためである。現在このスタイルの家庭は少なく女性が外で働くことが多くなったが、実は戦前も同じなのだ。工業社会に移行する前の農業社会では男性も女性も外で働くことが当たり前だった。能率重視の工業社会へと移り変わり、力の強い男性を集め効率よく生産するようになった際に、女性や老人が排除されたのだ。工業化以降、外で働いてお金を稼ぐことは基本的に男性の役割になった。企業も男性が家族を扶養できるだけの賃金を支給するため、ある程度の収入を得られる男性の妻は専業主婦になるということが一般的になった。

それが現在崩れはじめたのである。原因は機械化やコンピュータ化が進んで、若い男性でなければできないような仕事がだんだん少なくなってきたことである。コンピュータで制御された機械ならば力のない女性でも十分に操作することができる。また、電化製品の普及や外食産業の発達により家事労働に時間をかけなくて済むようになったことも女性が外で働くことを後押ししている。

そして、過剰消費を絶対条件とする社会となったことも原因として挙げられる。人々の欲望を極限まで全開させることによって物が生産される。それを買うためにお金を増やさなくてはならない。だから女性も外へ出て働くのである。

この変化は女性にとって経済的自立がしやすくなり、活動の場が開かれたという面から見たらとてもよいことである。しかし、子育ては専業主婦がするものとして成り立っている社会では、子育てをしながら働く女性に負担がかかっている。育児休業は法律で認められているものの、男性社員については事実上ほとんど機能していない。実際、女性の育児休業取得率が72.2%なのに対して男性は0.5%にしかすぎない。現在の社会で仕事をしながら子どもを産もうとする女性は、今まで築いたキャリアを中断するか、働きながら子育てをしてヘトヘトになるかという二者択一を迫られているのだ。間違いなくこれは少子化の一因となるだろう。

そこで子育ての支援をもっと充実させたい。

最近、託児所付きのマンションが増えているらしい。確かに、働く親にとって送り迎えの必要もなく、我が子を一番身近なところで預かってもらえるという安心感がある。また、放課後に子どもたちが外で遊ぶ光景を見なくなった。昔と違い物騒な世の中となり安全面の問題で遊べなくなったというケースが多いようである。学校の先生だけでなく地域の人たちの監督によって、以前のように放課後に子どもたちが遊ぶ姿を見ることができればよいだろう。

次に、子ども部屋について考えていきたい。

近年、子どもに個室を与えるのが当たり前になってきている。同じ家にいるのにも関わらず親と子の接触時間が減っており、それに加えて子ども部屋にはパソコンや携帯電話がある。部屋を閉め切ってしまえば携帯電話で何を話しているのかも聞こえず、どのようにパソコンを利用しているのかも把握できず、子どもは親の入れない自分だけの世界を作ってしまう。個室を子どもに与えるのならば、ある年齢までは親が環境をコントロールできるルールを家庭内で作っておくべきである。

日本は海外に比べて家庭のしつけが甘いとされている。親が子どもに小遣いなど高額な支出をすることは、アメリカやヨーロッパでは考えられない。また、何かあると親が口を出し学校教育に対して過大に干渉する。これは親の子ども離れが進んでいないことが原因である。

イギリスはよく「教育の非常に大きなポイントは孤独ということをちゃんと教えることだ」と言います。2

とあるように、欧米ではこれが自立と考えられている。日本の子どもたちは親に衣食住の面倒を見てもらい、好きなことをやっている子がほとんどである。日本社会では親自身も妙な依存関係が残り、お互いに自立できなくなるという悪循環が生じている。


第3章 大人と絵本

 第1節 きっかけ

 第3章では大人が絵本を読むようになった理由を考える。ここではベストセラーとなった絵本を取り上げることで大人と絵本の関係を詳しく見ていきたい。

なぜ大人に絵本がすすめられるようになったのか。それは1999年の『文藝春秋』10月号に柳田邦男が「大人こそ絵本を読もう」という趣旨のエッセイを載せたからである。この提言は彼の予想以上に広く受け入れられ、その後絵本をめぐり、雑誌、新聞、エッセイ、インタビュー、全国各地での講演などの依頼が数えきれないほどきたという。子どものためのものと思われがちな絵本だが、年齢、世代を超えて共有できるようになった。ユーモア、機知、悲しみ、別れ、思いやり、心のつながり、支えあい、愛、心の持ち方、生き方、といった人間として生きていく上で重要なものを深く考えられる。

2003年からは朝読書推進委員会事務局長の佐川二亮氏の発案で、読売新聞社、トーハン、博報堂による「いま、大人にすすめる絵本」プロジェクトがスタートし、毎年6月に読売新聞の広告面1ページ前面を使って柳田邦男とゲストの対談記事、柳田の進める絵本リストが掲載された。絵本対談は第1回の2003年は女優内山理名と「心の砂漠に潤いを」というテーマ、第2回の2004年は絵本読み聞かせ活動をしている女優の中井貴恵と「言葉と心の危機の時代に」というテーマ、第3回の2005年は詩人の谷川俊太郎と「心の豊かさを耕すために」というテーマで行われた。「大人にすすめる絵本」として挙げられた作品は計78冊にのぼる。子どもに人気があるものが多いが、大人が人生経験を積んだうえで自分のために読むと、生き方や生と死の根源に触れることのできる本ばかりである。加えて全国の協力書店の店頭で、リストの絵本全点を3ヶ月間展示販売するというキャンペーンが行われた。

その成果は寄せられてきた3年間で3500通というはがきの数で示される。投書者の年齢は小学6年生から92歳の男性までと、とても幅広い。多くは子育て中の母親や、中高年の女性で占められ、やはり男性は少ない。

また最近では、大人たちが積極的に全国で絵本の読み聞かせ活動をしている。これは都市部でも山村でも同じである。島根県の奥出雲町という山間部では、ある小学校教諭が絵本の読み聞かせ活動にリーダーシップを発揮している。この地域で読み聞かせなどの活動をしているボランティア・グループは4つもある。この4つのグループが一緒になって柳田邦男による講演会を企画したところ、定員300人の会場に400人もの人たちが集まった。これには、人々が心や生き方や子育てについて何かしっかりしたものをつかみたいという気持ちが伺える。テレビ・インターネット依存症になりがちなバーチャル情報優位の環境の中で、子どもにとっても大人にとっても感性豊かな子どもの人間形成と潤いのある大人の心の回復のために絵本が重要なメディアになればよいだろう。

 第2節 距離


 入社試験の面接の時に、学生たちに対して「今までに読んだ本のうち一番好きな本は何か?」という質問に対して“絵本”を挙げる学生が増えているそうだ。数年前、『ぼくを探して』『葉っぱのフレディ』といった絵本が大人を巻き込んで売れたことも理由の一つとして挙げられるが、それ以上に絵本と大人の関係性を表現することについてためらいがなくなったからだろう。例えば直木賞作家の志茂田景樹氏は読み聞かせ活動、絵本の著作はイメージとのギャップによって話題になった。だが、今では大人向けの表現活動を行ってきた作家による絵本は珍しいものではなくなった。

2002年に小学館から発売された文庫の絵本シリーズでは人気タレントや歌手による作品が大人をメインターゲットとしている。版型も文庫やB6 判変形といった携帯に便利な大きさのものが多く、価格も千円程度である絵本は大人が手軽に読める工夫がされている。また、ほんの帯や店頭ポップには“癒し”“元気になれる”といった直接的な効能を訴えたコピーが添えられていること、絵本の特設コーナーを設けてじっくり本を選べるような売り場環境づくりをすることも特徴の一つである。

絵本は短い物語の中で一つの世界が完結していることが魅力の一つである。絵の力も大きいが、そこに短い文章が添えられていることでその世界がこちらに向かって開かれている印象を与えているのだ。この印象は絵本を読むたびにその世界に誘われ、またその時々の気分に応じて様々な解釈ができたり、誰かと一緒に読んだ時は別の世界を感じとったりすることができる。これが“癒し”の効果なのだろう。

大人といっても女性が絵本を読むのがほとんどである。男性が絵本を読む姿は見ない。少なくとも日本の男性は子供時代の一時期に絵本に触れただけで成長するについて遠ざかり、二度と絵本と出会うことのない人がほとんどだろう。男性が絵本を読まなくなる理由としては他者からの目、先入観にまけてしまうのだろう。ある程度大きくなった男の子に対して、周りは絵本を読むより、体を動かすことを望むだろう。外でスポーツをしたり、テレビゲームをしたりすることで本を読む習慣が減るのだろう。これが原因で男の子は絵本から遠ざかってしまうのである。

とはいえ、近年、書店で絵本コーナーを広く設けたり、大人が「絵本が好き」と言いやすい環境になったりして、確実に大人と絵本の距離は縮まったといえる。


第3節  ベストセラー 『葉っぱのフレディ −いのちの旅−』

 絵本は絵と言葉が共鳴し合うことによって奥行きのある立体的な世界を造りだすものである。絵本は、言葉が簡潔で、洗練された象徴的、詩的なものであってこそ生き生きする。絵は一枚一枚が独自性を持って描かれたときに何かを語る。言葉と絵は独立したものであると同時に、内容がしっかりと結ばれたものになったとき絵本ならではの膨らみのある世界が立ち上がってくる。様々な絵本を日常の中で広く深く親しむようになることが心の内側を豊かにし、何か問題に直面したときにゆとりを持って解決することにつながるだろう。

近年、大人の自殺者が跡を絶たない。また、少年凶悪犯罪や殺人事件なども多い。食べるものに事欠いていた戦後の混乱期に比べれば最近は経済的に豊かになっている。にもかかわらず、凶悪事件や自殺者が多いのは豊かさゆえに欲望の歯止めが効かなくなっていること、倒産・リストラによるローン生活の破綻、過疎化・核家族化による老人の孤独、若い世代の育児能力の低下による子どもの人格のゆがみ、テレビ・映画の残酷な暴力シーンなどの情報環境の劣悪化などが背景にあるからだろう。一方、現代の医療は目覚しい治療成績をあげているが、治療の見込みのなくなった末期患者に対して医師が興味を示さなくなるという傾向をもたらした。このような社会に「いのちの大切さ」を訴えたい。

数年前、絵本『葉っぱのフレディ いのちの旅』がベストセラーになった。この絵本がベストセラーになった理由は2つ挙げられる。第一に、いのちについてどう教えたら理解してもらえるかと悩んでいた教師たちが、分かりやすく説いてくれる“いのちのハンドブック”として児童や生徒に読ませたことだ。第二に、闘病する人たちが「生と死」の道程と“いのち”のリレーを納得して理解できる道案内の書となったことだ。

この絵本の著者レオ・バスカーリア氏はアメリカの哲学者である。「生と死」という哲学的な命題を一般の人に語りかけるために、生涯に一冊だけ、この絵本のための文章を書いたという。

<死別の悲しみに直面した子どもたちと 死について適確な説明ができない大人たち 死と無縁のように青春を謳歌している若者たち そして編集者バーバラ・スラックスへ 贈ります。>

レオ・バスカーリア氏は絵本の冒頭でこのようなメッセージを寄せている。おそらく彼は、親交のあったバーバラという編集者が病気で死が避けられなくなった事態の中で、バーバラに「生と死」の道程とその意味について語り伝えるためにこの絵本を書いたのだろう。

春に芽生え、夏には厚みのある立派な体に成長した大木の一枚の葉っぱフレディは、仲間たちと訪れる人々に木陰を作る仕事をする。夏はあっという間に過ぎ、秋には木の葉たちは紅葉し次々に散っていく。死を恐れるフレディに対し、親友の葉っぱダニエルが、すべてのものは変化し続けることを教えてくれる。変化は自然なことであり、緑から紅葉するとき、怖くなかったかのように死ぬということも変化の一つなのだから怖がることはない。葉は落ちて朽ちても、木の根から吸収されて樹を育てる。“いのち”は永遠に生きているのだ、といことを。

地面に落ちたとき、フレディは初めて木の全体の姿を見た。そのたくましい姿に、これならいつまでも生き続けられるにちがいない、と思い“いのち”の永遠なることを確信する。絵本は<また 春がめぐってきました。>という言葉でしめくくられている。

この絵本では言葉が非常に大切である。主旋律を奏でる言葉に対し、四季の変化を映す木々の写真と葉っぱの絵は和音を奏でる役をしているようだ。

「涙を流しながら読んだ」という書評が多かった。いのちについて本当に分かりやすく表されている絵本である。“癒し”“元気になれる”絵本とは少し違い、大人も学べる絵本もあるのである。

しかしながら、絵本から学ぶという点で大人が幼児化している実例として考えられる。

おわりに


 まず、甘えと幼児化についてであるが、「甘え」というのは日本特有のものであった。欧米に比べて子どもを甘やかす大人が多く、その中で育つ子ども、そして子離れのなかなかできない大人がおり、お互いに依存関係が生じてしまう。よって日本が幼児化社会へと進んでいる原因の一つに甘えによって自立できない大人がいることが挙げられる。

次に絵本を読む大人と幼児化の関係である。絵本は子ども向けのものであり、それを大人が読むというのは少し幼稚なことかもしれない。しかし、絵本には様々なメッセージが込められており、そこから考えさせられるものはたくさんある。大人でも病は怖い。そんな時に絵本で勇気づけられることがある。また、第3章で紹介した『葉っぱのフレディ −いのちの旅―』のように“死”について語る絵本も多い。死について、そして命について大人でも深く考えさせられる。絵本を通して子どもに死について教えることもでき、大人は教え方を学ぶこともできるのだ。

このように、大人が絵本に頼っていることは幼児化と関係している。だが、それによって得られたものもたくさんあるといえるであろう。





1)土居健郎  『甘えの構造』(弘文堂 2001年) 11頁

2)榊原英資 『幼児化する日本社会』(東洋経済新報社 2007年) 69頁



参考文献


榊原英資 『幼児化する日本社会』 東洋経済新報社 2007年

柳田邦夫 『大人が絵本に涙する時』   平凡社 2006年

土居健郎 『甘えの構造』  弘文堂 2001年

レオ・バスカーリア/作 みらいなな/訳 島田光雄/画

『葉っぱのフレディ −いのちの旅−』 童話屋 1998年