江ノ島電鉄〜生き残る強さとは〜


法学部 政治学科 4年 04142267
中嶋 有希子


−目次−


はじめに


第1章 江ノ電とは

第1節 江ノ電の歴史

第2節 消えていった路面電車たち


第2章 モータリゼーションと江ノ電

第1節 モータリゼーションとは

第2節 江ノ電に及ぼした影響


第3章 生き残るために

第1節 パーク&レールライドと江ノ電

第2節 経営戦略


おわりに


参考文献


参考サイト






はじめに


江ノ電が藤沢〜片瀬間で産声をあげて100余年、今日まで江ノ電は走り続けてきた。これまで、日本の高度経済成長に伴って発生したモータリゼーションなどの影響で、江ノ電には廃線の危機もあったという。しかし、他の路面電車がどんどん消えていくなかで、なぜ江ノ電は生き残れたのであろうか。この論文では、モータリゼーションの波をかぶりながらも、江ノ電が「生き残る強さ」を発揮して、どのようにモータリゼーションを攻略したのか、他の廃線になった路面電車との違いとは何か,という問題を考察していく。

鎌倉から藤沢まで全長10km。時間にして34分。山あり海あり、トンネルと路面あり。古都鎌倉と湘南藤沢・江ノ島の街をゆっくりと走る江ノ電の魅力を追ってみる。



第1章 江ノ電とは

本章では,今日までの江ノ電のあゆみや、消えていった路面電車との違いについて見ていくことにする。

江ノ島電鉄株式会社は、神奈川県に鉄道路線(江ノ島電鉄線)を有する小田急グループの鉄道会社である。本社所在地は神奈川県藤沢市片瀬海岸1丁目4番7号である。通称「江ノ電」と略称される。旧社名は江ノ島鎌倉観光株式会社であった。以前は株式を公開していたが、現在は非上場企業である。沿線に観光名所や名勝が多数存在し、さらに車両が特徴的で被写体になりやすい所から、テレビドラマやグラビア写真の撮影に利用されることも多い。正式名称の「江ノ島電鉄」で呼ばれることは、小田急線・JR東海道線・横須賀線の乗り換え放送で「江ノ島電鉄」と案内される以外にはほとんどなく、もっぱら「江ノ電」と呼ばれて親しまれている。

第1節 江ノ電の歴史

江ノ電は、二つの江ノ(之)島電気鉄道と二つの電力会社の手により、100年の歴史を育んできた。

明治中期、日清戦争の勝利により日本経済は隆盛を極めていた。こうした背景のもと、既成鉄道事業者の成功を目の当たりにした多くの資本家たちが鉄道の建設を計画し、湘南地区に通じる鉄道の計画も10路線を越えていたという。

これらの計画された鉄道の中で、唯一開業にこぎ着けたのが、生みの親である江之島電気鉄道が建設した江ノ電であった。しかし、開業に至るまでの道のりは険しかった。すでに鎌倉鉄道が鎌倉〜藤沢間の鉄道敷設免許を取得していたことに加えて、沿線にあたる川口村では江之島電気鉄道が軌道の敷設を予定していた村内の道路が狭いという理由で容認されず、競合する人力車組合が営業上の死活問題として反対していたのである。

しかし、こうした困難のなかで、江ノ電にとって、幸運なことに、計画経路に隣接する鵠沼村が江ノ電の建設に好意的な姿勢を示していたこと、鎌倉鉄道が鉄道の建設を断念したこと、川口村、鵠沼村の有志から建設用地の提供を受けたことである。これによって、両村に軌道を敷設する必要がなくなり、川口村の反対要因が解消した。さらに、険悪化しつつあった人力車組合との軋轢も自由党議員の仲裁によって和解に至り、これを機に開業機運は高まっていったのだった。

明治43(1910)年、江ノ島電気鉄道は、幾多の困難を乗り越えて全線開業を成し遂げたが、皮肉にも翌明治44(1911)年10月に、神奈川県内屈指の電力会社横浜電気に吸収され、10余年の歴史に幕を閉じたのだった。さらにこの横浜電気もまた大正10(1921)年5月に、さらに規模の大きい東京電灯(東京電力の前身)に吸収され、江ノ電は東京電灯江之島線と呼ばれるようになった。当時は、資本主義が勃興しつつあったので、こうした弱肉強食の合併劇が繰り返されていたのであった。一方では、事業の拡充により資力を伸ばしていた事業家たちがその余力で新たな会社を設立し、関東大震災後の経済復興に貢献していた。大正15(1926)年7月10日に設立された江ノ電もこうした会社のひとつと言えるだろう。

設立当時の経営陣は、創立総会において社名を江ノ島電気鉄道に定めた。東海土地電気の名で創立総会を招集しているにもかかわらず、江ノ島電気鉄道に改めた理由は、目的をリゾート内輸送から江の島を中心とする観光輸送に切り替えるためのようである。大船線の延長線として、大船〜大崎間の鉄道建設も計画されていたが、免許の取得には至らなかった。

このように、設立当初は、江ノ電を基盤に東京市内直結を視野に入れた鉄道の建設が計画されており、江ノ電は大都市近隣の鉄道に過ぎなかった。ところが、これら予定していた各路線の建設は用地確保に難航したこともあり、ついに実現されなかった。金融恐慌の渦中に、江ノ島電気鉄道の経営陣が目を向けたのは、東京電灯が合理化策として整理しようとしていた江之島線の買収であった。昭和3(1928)年5月に東京電灯江之島線と江ノ島電気鉄道は、譲渡契約を締結し、同年7月1日より営業を開始した。江之島線は、大手電力会社である東京電灯にとっては付帯事業に過ぎなかったが、江ノ島電気鉄道から見れば,江の電は業績を伸ばしつつある優良事業であり、同線の譲受は大いなる将来性を受け継いだのであった。1

それ以来、江ノ島電気鉄道(現・江ノ島電鉄)は江之島線、いわゆる江ノ電線を軸に様々な事業を展開し、現在に至っている。

第2節 消えていった路面電車たち


江ノ電は路面電車に分類される。昭和30年代から40年代にかけての高度経済成長によって、国内の路面電車の50路線は潰れたといわれている。ここでは、かつて多数存在した路面電車たちの廃線までの流れをいくつかの例を引きながら見ていくことにする。

路面電車というものは、その名の通り道路の上を他の交通と混ざり合って走るものである。自動車が少なかった時代にはそれでもよかったが、高度経済成長などによって道路が車であふれるようになると、路面電車は身動きがとれなくなり、他の交通をさまたげて貴重な路面をふさぐ邪魔者と見られていくようになった。なだれを打って廃止に向かったのは、どういう要因によるものであったのか。路面電車を取り巻く環境の問題(外的な要因)と路面電車の経営そのものの問題(内的な要因)をあげてみることにする。

外的な要因・・・都市構造の変化による需要の減少、自動車交通の増加による運行の阻害、高速鉄道網の普及 内的な要因・・・発達したバスに比べて経済面での不利、運賃値上げの抑制、合理化の遅れ などである。

まずは外的な要因について見ていくことにする。

この中で路面電車にとって一番の問題だったことは、自動車の激増による都市の交通混雑であった。1970年には自動車の保有台数が1892万台となり、10年間で5.6倍という爆発的な普及を見せた。こうして、電車は優先権を失って、運行が阻害され、速度が低下しただけでなく、定時性を失うことになった。道路交通の停留場で乗降するにも、交通の激しくなった車道を横断するのには危険が伴う。このため路面電車は次第に利用者から見放されていった。

次に内的な要因について見ていくことにする。

路面電車とバスとの競争は戦前からあったが、大戦中は燃料統制によってバスの発達が抑えられた。戦後はバスが大型化して、輸送力で電車に劣らないほどになり、メーカーによる車両の量産などで経済性も高まった。こうして老朽化した路面電車の車両や施設に多額の投資をして近代化するよりも、バスに代替してしまう方が経済上有利な状況になった。また、運賃は政府の厳しい規制を受け、原価の上昇する中で適時適切な運賃改訂を行うことは困難であった。

ここで、廃線になった路面電車をいくつか見ていこうと思う。

「@名古屋市電。市電は名古屋市の市街地いっぱいに路線を広げていた。1950年代、新線の建設が続いた結果、1958年度には総延長106.3kmという最大規模に達した。東京や大阪より地下鉄などの高速鉄道の登場は遅れ、路面電車が都市交通の主役をつとめ続けていた。しかし、1960年以後は地下鉄の建設に伴って市電が整理される区間が現れた。その結果,東京や大阪と同様に、市電を地下鉄とバスで代替していくという方針が打ち出された。他の大都市と同様に、1966年度から地方公営企業財政再建制度が施行され,市電の廃止が促進された。1974年3月末、8年間の再建期間が終わり、名古屋市電は全廃された。 A阪神電気鉄道。阪神の国道線は、他の鉄道各線と平行する併用軌道で、大都市間を結ぶ珍しい存在であった。大阪市の野田から神戸市の東神戸までの26.0kmあり、その支線となっていた甲子園線と北大阪線を加えた計33.1kmが同社の実質的な路面電車であった(阪神のほかの路線も1977年までは軌道法の適用を受けていたため、こちらは併用軌道線と呼ばれていた)。しかしさすがの阪神国道線も自動車が激増してくると、路面電車の運行は妨げられ毎年度大きな赤字を続けるようになった。もともと国道線は,阪神が軌道敷の費用を負担して建設したものであったにもかかわらず、その国道から撤退しなければならなくなった。1969年に一部が廃止されたのち、沿線各市の了解を取り付けて1974年に第一次、1975年5月5日に第二次の廃止が行われ、同社のバスに代わった。」 2

ここまで、多くの路面電車が廃線に追い込まれた要因といくつかの例を見てきた。しかしなぜ、これほど多くの路面電車が廃線に追い込まれていったにもかかわらず、江ノ電は生き残れたのであろうか。



第2章 モータリゼーションと江ノ電

本章では、多くの路面電車の廃線の原因となったモータリゼーション(自動車化)について考察し、モータリゼーションが江ノ電に及ぼした影響、なぜ江ノ電が生き残れたのかについて考えてみる。

第1節 モータリゼーションとは


まず、モータリゼーションそのものについて見ていこうと思う。モータリゼーションとは、自動車が大衆に広く普及し、生活必需品化することをいう。英語で「動力化」「自動車化」を意味する言葉である。狭い意味では自家用乗用車の普及という意味で言われることが多い。

「今日では、この言葉も日常語として使用されるようになった。明治30年に1台の蒸気乗用車がアメリカから日本に輸入され、2年後に日本人がフランスからガソリン自動車を購入したのが、日本での自動車のはじまりである。日本の自動車普及率が欧米諸国と同一になるのは遠いことではない。このことは昭和30〜40年代の高度経済成長と無関係ではない。1人あたりの国民所得と100人あたりの自動車保有台数とが、きわめて高い順相関を示している。年間平均所得が大衆車の価格の70%ぐらいになると、乗用車の普及率が急上昇し、両者が等しくなると、ほぼ10人に1台の保有率に達するという西ヨーロッパの経験法則があるが、日本も同じ状況があてはまる。」3

モータリゼーションの原因については、高速道路の拡張、舗装道路の増加、一般大衆にも購入可能な大衆車の出現などによって、自動車が利用しやすい環境になったことも原因に挙げられるであろう。その結果,1964年の東京オリンピック直後から、我が国でもモータリゼーションが急激に進んでいったのである。

一方で、鉄道の側においても、その時期、特に国鉄においてストライキや重大事故が続発したこと、度々運賃が値上げされたこと、鉄道車両などにおけるサービスの向上が軽視されたことなどによって、鉄道離れを加速させてしまった。

ここで、モータリゼーションによってもたらされた良い面と悪い面について見ていく。

まず良い面。公共機関などを利用せずに遠くまで移動することができるようなったため、住宅地が市街地を離れてつくられるようになった。また、自家用車での来店を目的とした大型駐車場を有する大型ショッピングセンターが、バイパス沿いに進出するようになった。生活様式の変化としては、個人の自由を拡大したという点が大きい。他人と乗り合わせる公共交通機関と違って、自家用車は「走る個室」として受け容れられたのである。また、それまで郵便小包などに頼るほかなかった個人の荷物の運送が、宅配便の登場により、容易に行えるようになった。この発達には高速道路の拡大が大きく寄与しており、通信販売にも大きく役立っている。

次に悪い面。第一に挙げられるのは公共交通機関の衰退である。都市部では路面電車が利用者の減少と自動車の邪魔であるという理由で次々と廃止された。地方では、やはり、ローカル線や路線バスが利用者の減少によって経営状況が悪化し、廃止される路線が続出している。

次に挙げられるのは、道路交通を原因とする公害である。

「排気ガスによる大気汚染はモータリゼーションの進行とともに大都市からその周辺へ、さらに幹線道路沿いに地方都市や農村地帯にまで拡散する。産業公害と違って自動車の場合は、汚染発生源が移動する個人公害であるため、これを規制することは困難が伴う。排気ガスを撒き散らしながら走るドライバーも、また、たがいに被害者なのである。ガソリンを燃料とする限り、これを無害化する技術を開発しなければ問題は解決しない。無公害の技術の開発は進行するであろう。すでにいくつかの開発が公表されている。電気を電気として貯蔵できる技術革新がくれば、電気エネルギーによる自動車は急速に普及するであろう。しかし近い将来において実現するという保証はなさそうである。ガソリンを燃料とする自動車を生産するための巨大な資本、設備、労働力配置、それに関連する諸経済制度、生活慣習などを抵抗なしに変革できるかどうかが危惧されるからである。」4

また、交通渋滞なども深刻である。自動車の量が増えたことで、渋滞が頻発するようになった。その解消のために各地で道路の新設・改良が進められているが、それがかえって自動車の需要を増加させるという意見もみられる。

以上で挙げたような弊害に対して、最近では以下のようにモータリゼーションを見直す動きが起こっている。

・ 次世代路面電車(LRT)への車両更新・地上設備改良

・ 路線バスの高度道路交通システム(ITS)を用いた高機能化、円滑化

・ 鉄道車両(内装、外装など)の質の改善

・ 鉄道サービス全般の質の向上

・ パーク&ライドなどによる、自家用車と公共交通機関の併用、機能分担

・ バリアフリー化など交通弱者への対応

・ 長距離トラック一辺倒となっていた貨物輸送を、貨物列車の車両・システム面での改良によって転換する。船舶の利用も含まれる。

・ 都心部への自動車の乗り入れ制限

モータリゼーションは単に交通手段の変化を意味したのではない。新たなライフスタイルを生み出し、それまで考えられなかった立地条件と都市構造を創り出した。しかしここで留意すべきなのは、自動車は高密度輸送に適さず、単位輸送容量当たりに多大な面積の土地を必要とするという点である。すなわち、自動車と高密度な都市とは、そもそもそぐわない二つの要素なのである。自動車の普及により、住宅は郊外にながれ、商業施設もこれに続き、公共交通は弱体化し、都心の比重は低下した。それに対応するための施策、すなわち道路を新たにつくり、駐車場を増やすことは、都市空間をせまくするだけなのである。

果たしてこれだけの交通量が社会に必要なのであろうか。鉄道などの公共輸送機関と併用した公共的なモータリゼーションをすすめることこそが今必要なのである。

第2節 江ノ電に及ぼした影響


ここでは、上で見てきたように日本の社会を大きく変化させたモータリゼーションが江ノ電に及ぼした影響、そしてなぜ江ノ電は他の路面電車のように廃線に追い込まれなかったのかを見ていくことにする。

江ノ電は今日も元気に走り続けている。そんな江ノ電にもやはりモータリゼーションによる廃線の危機があった。特に江ノ電の走る湘南地区においては、江の島が東京オリンピックの競技会場のひとつに決定されたために、島内アクセスが整備され、いち早くモータリゼーションの波が押し寄せてきたのである。昭和39(1964)年度を境に江ノ電の輸送人員が漸減傾向に転じている。さらに、500形車両導入をはじめとする近代化施策の効果が現れる前に大きなダメージを受けた。

しかし江ノ電は生き残ったのである。何が江ノ電を救ったのか。それは皮肉にも車の増加による交通渋滞であった。湘南地区における交通渋滞が慢性化したことにより、多くの観光客が自動車を敬遠するようになったために、江ノ電へのモータリゼーションの影響は緩和された。

他の路面電車の廃線への流れは 道路整備→車を利用→電車利用者減少→本数削減→利用者の利便性低下→車のほうが便利→さらに利用者低下→本数削減→廃線 という「悪循環」のケースが少なくなかった。

しかし、江ノ電の場合は逆であった。 車社会の発展→電車利用者減少→車の利用者激増→交通渋滞→車よりも定刻で運転している江ノ電の方がやはり便利 という流れであったのだ。

徐々に渋滞が激しくなる中,定刻で運転している江ノ電のほうが時間を読めるということで見直されたのである。交通渋滞という車社会の負の部分が逆に江ノ電を救ったのであった。江ノ島電鉄株式会社は、モータリゼーションに対して、視点を変えて、新たな交通分野への企業意欲を持った。これは次の章で見ていくことにする。

また、自家用乗用車1世帯あたり保有台数のランキングを見てみると、福井県がトップとなった。以下、富山県、群馬県、岐阜県と続き、最下位は東京都、次いで大阪府、江ノ電のある神奈川県の順となった。上位にある県は鉄道や路線バスといった公共交通機関の利便性が悪い地域が多く、このため自宅や勤務先企業、小売店舗などに付設駐車場が完備されていることもあって、通勤や買い物などの日常生活に自家用車が欠かせないためである。一方で東京、神奈川などの下位の地区は、公共交通機関の利便性が高いこと、駐車(場)料金が高いこと、慢性的な道路渋滞などが理由として挙げられる。

このように見てくると,神奈川県にモータリゼーションが定着しなかった理由がよくわかる。第1節で書いたように、高密度な都市と自動車はそもそもそぐわないのである。

一時は、江ノ電もモータリゼーションの波に押しつぶされそうになったが、「神奈川県で運行している」ということが江ノ電を救った大きな強みであったのかもしれない。



第3章 生き残るために

しかし、江ノ電の強みは「神奈川県で運行している」ということだけではない。この章では常に新しいことに取り組んでいる江ノ電について見ていくことにする。

第1節 パーク&レールライドと江ノ電

古都鎌倉を訪れる観光客は年間1760万人で、1日あたりで計算すると、約48000人になるという(2001年度、みちとくらしのネットワーク調べ)。それに伴い鎌倉地域に流入してくる車は38000台という調査データもある(2001年度、みちとくらしのネットワーク調べ)。これだけの数が鎌倉時代の道路網を今なお残す地域に入り込むのだから、交通渋滞が発生するのは当然である。

しかしその一方で、古都鎌倉は、歴史的環境の保全など様々な制約によって道路整備を行うことが困難なため、どうしても既存の道路を活かした交通需要管理手法を用いて交通施策を考える必要があった。交通需要管理手法とは、自動車利用者の交通行動の変化を促すことにより、交通量を削減する手法である。すなわち、車の利用の仕方や生活の工夫によって、自動車交通量を削減する方法である。そして、たどりついたのが江ノ島電鉄株式会社、東日本旅客鉄道株式会社、鎌倉プリンスホテルが事業主体となった「パーク&レールライド」である。

平成13(2001)年10月6日からスタートした「七里ガ浜パーク&レールライド」は、鎌倉地域から西方へ約4km離れた国道134号沿いの七里ガ浜海岸駐車場にマイカーを停め、徒歩約1分の江ノ電七里ガ浜駅で電車に乗り換え、鎌倉地域へ移動してもらうシステムである。駐車場と江ノ電・JR横須賀線指定区間内乗車券(2枚)の料金で利用することができる。このシステムは交通規制ではないので、システムを利用するか、そのまま自動車で鎌倉地域へ向かうかはドライバーが選択することになる。

この「七里ガ浜パーク&レールライド」のシステムの概要を見ていくことにする。

@ システム開始日・・・平成13年10月6日

A 実施日時・・・7月、8月を除く毎日9~20時

B 利用対象車種・・・普通乗用車

C 利用料金・・・自動車1台あたり1500円

【内訳】

・ 5時間分の駐車料金

・ 江ノ電七里ガ浜駅〜鎌倉駅、JR鎌倉駅〜北鎌倉駅間の1日乗り降りフリー切符が2枚

【特典】

・ 協賛寺社の拝観料割引や縁起物の贈呈等

・ 協賛美術館等の入館料割引や粗品贈呈

・ 協賛店の特別サービス

【その他】

・ 5時間を超えた場合の駐車料金は200円/30分

・ フリー切符の追加購入は、大人1枚500円、小人1枚250円

・ 駐車場は、一般駐車場利用者と共用(駐車台数は約350台)

D 切符発売場所・・・七里ガ浜海岸駐車場内管理事務所

E 事業主体・・・江ノ島電鉄株式会社、東日本旅客鉄道株式会社、鎌倉プリンスホテル

また、このほかに車を使わない鎌倉観光の手段として、由比ガ浜パーク&レールライド、鎌倉フリー環境手形がある。

「この三つの施策が実現した大きな理由として、社会実験が挙げられる。社会実験とは、その地域に影響を与える可能性が高い新しい施策の導入に先立ち、実際の地域において、場所と期間を限定し、施策を試行することである。これにより、施策の成果や課題を検証するとともに、施策を改善しながら実現に向けた取り組みを進めることが可能となる。鎌倉市の場合、平成8年、10年、11年と三度にわたって社会実験を行い、@自動車から公共交通への転換の可能性の検証A自動車から公共交通へ転換する施策の基礎データの収集B利用者ニーズに応じたシステム内容の確立と、その時々に応じて目的をステップアップさせ、最終的なシステム形態を作り上げたのだ。」5

そして利用者へのアンケートにより、本格的実施に向けた貴重なデータが得られるとともに、テレビ等で取り上げられたことから、取り組みが広く認識されるようになった。

鎌倉市でパーク&ライドが成功した理由に、「社会実験などは行政と事業者が共同で行ったが、それ以降の運営を交通事業者に一任している」という点がある。実際、行政側ではチラシ作成などのPR活動を行うくらいで、運営自体は交通および駐車場の事業者に任せているのだ。これは事業者側による割引や円滑な運営など、システム全体の協力体制があればこその実績といえる。江ノ電のホームページでもパーク&レールライドのことを詳しく説明している。

もう一つ見逃せないポイントは、鎌倉市のパーク&レールライドにおいて初期投資が少ないということである。鉄道やバス、駐車場などの既存の交通施設を有効活用しよう、という計画段階からの指針により、パーク&レールライドのために土地を購入して駐車場を作ったり、新たに電車を走らせたりするといったことがなかったのである。6

ただし、このパーク&レールライドは、まだ一般に十分知られていないように思われる。ほかの地域の路面電車でこのパーク&レールライドを実施すると、駐車場をわざわざ作らなければならず,かなりの初期投資が必要である。しかし、過大な初期投資を行った場合は、それをどのように回収するのかが新たな問題として出てきてしまう。無理をして運営を続けると赤字が膨らんでしまう、という悪循環に陥ってしまう可能性もある。鎌倉市では江ノ電などの観光に適した交通網が発達していたことと、狭い複雑な道路があったからこそ、このパーク&レールライドは成功したのである。それゆえ、地方などの渋滞が発生しない地域の路面電車をパーク&レールライドは救えないのである。江ノ電は数少ない「車と共存できる電車」だったのである。

第2節 経営戦略


ここでは江ノ電のいくつかの経営戦略を見ていこうと思う。

前述したように、昭和30年代、モータリゼーションの影響で車の利用者が増え、江ノ電にも廃線の危機が迫った。しかし、江ノ島電鉄は、視点を変えることにより、このモータリゼーションの波を乗り切った。なんと江ノ島電鉄は自動車学校を作ったのである。昭和39(1964)年3月2日、株式会社江ノ島自動車学校が設立された。同年8月より46(1971)年まで同校名で開校していた。開業月の入校者数が350人を越えるなど好調なすべり出しを見せた。当時としては先駆的な託児施設を作るなどしたため、女性にも高評価を得た。ちなみに現在は三共自動車が運営している。モータリゼーションのために一時は廃線の危機にまで陥ったが、この発想の転換は大胆なものであった。普通であれば、何とか乗客を車と断絶させ、電車のよさだけをアピールするところである。近年のパーク&レールライドの事例もそうであるが、江ノ島電鉄は苦しい時にこそ、新たな交通分野への企業意欲を掻きたてていったのである。

また江ノ電は、広告電車としての顔も持っている。それはボディー広告である。昭和57(1982)年に化粧品会社の広告電車「サンオイル号」を登場させて以来、数多くの広告電車を走らせてきた。一般人が持つ江ノ電のイメージとは「明るい」「楽しい」「おでかけ」などといった湘南とオーバーラップさせた良いものである(江ノ島電鉄調べ)。特に夏季は、マスコミなどに取り上げられることも多く、江ノ電利用者だけでなく、視聴者、沿線住民や鎌倉・湘南をレジャーで訪れた人達にも強烈なインパクトを与えるのである。当初は賛否両論だったが、この電車のボディー広告について、江ノ電は先鞭をつけたとも言われている。

江ノ島電鉄は交通事業者には珍しく、記念切符や関連グッズ、イベントに力を入れている。江ノ電で最初の記念切符発売は、1949年の江の島弁天橋開通記念だった。記念切符はこのような開通○○周年という、「周年記念」のほか、新車両の登場、旧型車の引退、駅などの改良で発売されることが多い。もともと記念切符は、写真やイラストを描いた台紙と、乗車券や入場券を組み合わせた紙袋のスタイルが一般的だ。しかし、それだけでは飽きられてしまうので、テレホンカードやCDを付けたり、昔懐かしい硬券をセットしたものが売られている。

関連グッズもじつに種類が豊富である。以前から、江ノ電沿線の店や販売店などで、キーホルダーなどが発売されていたが、本格的に発売されるようになったのはここ数年のことである。例をあげると、縫いぐるみのような形で震えながらコミカルに動く「プルプル江ノ電」、白い紙に描いた黒い線に沿って緑とクリーム色の2両編成電車がガタゴト走る仕組みの「光センサー江ノ電300形」、チョロQなど、とてもすべてを紹介することはできない。これらのグッズは子どもだけでなく、近年は大人も夢中だという。 7

また、イベントにも力を入れている。目の前に相模湾が広がるロケーションで「関東の駅百選」にも認定された鎌倉高校前駅では、駅のライトアップを始めた。また「ワイン電車」というユニークな電車も走らせている。鎌倉〜藤沢間の往復1時間10分、飲み放題で3000円である。これには藤沢市内のワインメーカーが協賛し、9種類、計約180本を用意した。車内中央にはテーブルが置かれ、あちこちから「カンパイ」の声があがる。ワイン好きの人達がにぎやかにグラスを傾けているという。

さらに、湘南にちなんだ数々のヒット曲がある人気グループ「サザンオールスターズ」のメンバー、原由子さんの歌碑を鎌倉駅など6駅に設置した。同駅の発車ベルとして、ヒット曲「鎌倉物語」をアレンジしたメロディーが流れ、乗客たちは“サザンムード”に包まれている。

以上のように江ノ島電鉄には、かなりの企業意欲が感じられる。それは小さな子どもからお年寄りまで、全ての世代に共通して喜ばれるものばかりである。これから、どんなことを江ノ電はしてくれるのか、予想ができない。だからこそ、ますます江ノ電から目が離せない。



おわりに


さまざまな視点から、江ノ電がなぜ生き残れたのかについて考えてきた。やはり一番の強みは沿線の環境なのであろう。観光地にあるため、渋滞が発生しやすい道路、絶好のロケーション、多くの作品に登場しているという大きな知名度…。しかし、江ノ電はそんな環境にあぐらをかいてただ走っているだけではなかった。これまで、かなりの企業意欲を持っていて、人々に「飽きられぬ努力」をしている。日本一経営意欲が高い交通事業者なのではないだろうか。そんな江ノ電だからこそ、長い間人々から愛されてきたのだろう。

そんな苦労を感じさせず、古都鎌倉、湘南・江ノ島の全長10kmの道のりを今日も江ノ電はのんびりと走っている。



1) 江ノ島電鉄株式会社 http://www.enoden.co.jp/train/index.htm

2) 和久田康雄「路面電車〜ライトレールをめざして〜」P157

3) 前田義信 「交通経済要論」P77

4) 前田義信 「交通経済要論」P80

5) 『月刊・地域づくり』 財団法人 地域活性化センター http://www.chiiki-dukuri-hyakka.or.jp/book/monthly/0307/html/t03.html

6) パーク&ライド再考 http://www.nikkeibp.co.jp/style/eco/special/070316_parsaikou02/index6.html

7) 江ノ島 100年 http://www.d5.dion.ne.jp/~ikeyoko/A-ENODE-2.htm



参考文献


前田義信、交通経済要論、晃洋書房、1990年。

和久田康雄、路面電車〜ライトレールをめざして〜、成山堂書店 1999年。



参考サイト

江ノ島電鉄株式会社

http://www.enoden.co.jp/train/index.htm

月刊・地域づくり 財団法人 地域活性化センター

http://www.chiiki-dukuri-hyakka.or.jp/book/monthly/0307/html/t03.html

パーク&ライド再考

http://www.nikkeibp.co.jp/style/eco/special/070316_parsaikou02/index6.html

江ノ島100年

http://www.d5.dion.ne.jp/~ikeyoko/A-ENODE-2.htm