妖怪と一言でいっても、幽霊と妖怪の線引きが疑問になってくるだろう。幽霊は人間が生前の姿でこの世に出現したものである。人間であること、死者であること、生前の姿であることが幽霊であるために必要な条件であって、そのうちの1つがかけても幽霊といわない。この三つの条件をはずした霊的存在が「妖怪」である。人間にかぎられない、死者にかぎられない、生前の姿にかぎられない、この三つの条件であらわされるのが妖怪である。死者にかぎられないとは、生者こそが妖怪の中心であるということである。そして生前の姿にかぎられないとは、むしろくずれた、不思議な形の持ち主こそ妖怪にふさわしいということである。
また私たちが使う言葉で「おばけ」という言葉がある。これは幽霊と妖怪の両方の意味が含まれることがある。だからといって幽霊と妖怪を日本人が区別しなかったわけではない。 平安時代から中世、近世にかけておびただしくされた絵巻や草子の類に幽霊や妖怪があらわれる。たとえば『松崎天神縁起』や『平家物語絵巻』や『隅田川の草子』などに、当時の人々がイメージした幽霊がえがかれている。これらの幽霊と『百鬼夜行絵巻』に描かれている妖怪を比較すれば一目瞭然であって、これらの作者たちが両者を描きわけていたではないのだろうか。
人間以外のもの、たとえば昔話でよくでてくる狐や猫が人間に化けて現われた場合は妖怪であり、また河童、天狗なども妖怪である。私たちが幼い頃から親しんできたこの「妖怪」を、日本の文化の中に位置づけて考えていきたい。第1章では妖怪とは、私たちにとってどのような存在であって、どのようなものなのかを述べていきたい。第二章と三章では、妖怪のなかでも代表的で親しみのある「河童」と「天狗」について詳しく述べたいと思う。
「妖怪」とはいったい何か。妖怪について厳密な定義を行なうことはまことに難しいが、一言で言えば、異常な現象、もしくは異常な事物・存在のことである。
妖怪というと言葉を聞くと、鳥山石燕や、河鍋嘵斎たちの「百鬼夜行」の妖怪や、水木しげるの「ゲゲゲの鬼太郎」に登場する妖怪たち、はたまた京極夏彦の一連の作品を想起するのではないか。そこに描かれているのは確かに妖怪である。しかしそれら妖怪はどことなくユーモアや親しみを感じさせ、パワーに欠ける感がある。これら妖怪たちは、人間に捕らえられ、形を与えられて、紙や映像のなかに閉じ込められてしまっているからである。もっとも、科学文明が発達した現代では、妖怪の異界空間がなくなってきており、妖怪の勢力も衰えてしまっていると考えられる。
しかし現代では妖怪が消えうせてしまったわけではなく、妖怪は時と場合により、出現していると考えられる。なぜかというと、私たちの周りでも「金縛り」の体験をしたことがある人は多い。私自身は典型的な妖怪を見たことはないが、ザシキワラシにあったとか、山のなかで「天狗倒し」と呼ばれる怪音を聞いたといった、体験をもつ人がまだ沢山いる。科学者の診断を受ければ、「幻覚」「気の迷い」「幻聴」だとされようとも、本人にとっては紛れもなく「妖怪」体験であった。妖怪とはもともとそういう摩訶不思議なものである。
たとえば深夜、消したはずのテレビが突然、ザーザーと音を出していたとすると、誰もが背筋の凍る思いをすることだろう。このような体験が「妖怪体験」なのである。もっともこうした体験もつかのまで終ってしまうことが多い。私たちの合理的、科学的精神が、これは超常現象、妖怪現象だと認めることを許さず、合理的な説明をいろいろ考えてしまう。現代の妖怪体験はこうしたつかのまの体験であって、またたくまに私たちの世界から、「妖怪」は退場してしまうようになる。
しかしかつては今日よりも、沢山の人達が、数多くの「妖怪体験」をもち、それを合理的な現象へと変換させて物語ることなく、逆に「妖怪体験」の背後に超自然的な存在や、力をすることで様々な物語を造りあげ語りつたえていたのであった。妖怪が昔よりも今消えていったのは、科学の進歩にある。マスメディアの中には,一生懸命超常現象を取り上げては,ニセモノであることを指摘され,結局やめていく事例も多いのです。科学の進歩=直ちに妖怪の否定ではありません。余りにも超常現象を商品化しすぎるからこそ,起こっている現象なのではないでしょうか。長い間生きてきて,これほど妖怪が安易な商品になっている時代に出会ったことはありません。安易な超常現象話こそ,妖怪体験を貶めてしまっているように思われてなりません。科学の発達が物質的豊かさをもたらしたことは確かですが,すべての想像力や豊かな感性を否定したとは思えません。たとえば、月探査衛星かぐやの映像を見て,感動しない人はいないでしょう。あれを見て,月は荒涼とした世界であるとしか考えない人の方が少数であると思います。もっともナレーションや効果音楽があるからかもしれませんが。現代は妖怪受難の時代=妖怪商品化の時代と思う。
科学の進歩は私たちに、物質的豊かさをもたらしてくれた。ただ、その反面、作家の谷川健一が述べているように、「見えざるものへの畏敬を失わせ、想像力を死滅させる原因」ともなったのである。今、科学文明が降盛をきわめている現代において、妖怪大戦争や、都市伝説など現代の私たちは、関心を持ち始めている。
日本の妖怪は数多い。妖怪現象と妖怪存在を区別して述べていきたい。
まず、妖怪現象とは、人々が不思議に思う現象である。先ほどのべたように、消したはずのテレビが雑音をたててついてしまった。これもその一つである。このような「怪音」に名前が付けられることで、妖怪現象が共同化され、人々の妖怪目録のなかに登録されることになる。怪音に名前が付けただけ、という素朴な妖怪として「狸囃し」「シズカ餅」「小豆洗い」といった妖怪たちであろう。 「狸囃し」とは深夜にどこからともなく太鼓などの音が聞こえてくるというもので、とくに江戸の町に出現したという。何者の仕業かと、調べにいってみるがどうしても分からない。近くにいったと思ったら遠ざかっての繰り返しなのである。「小豆洗い」や「シズカ餅」といった妖怪現象になると、川辺で夜、小豆をといでいるような音がする、夜中にコツコツと遠くで餅をつくような音がするといった怪音に名前をつけただけという印象をうける。「小豆洗い」が小豆を洗うような怪音をたてるだけを仕事とする、妖怪存在としての「小豆洗い」をイメージし、それがひきおこす怪音なのだ、という説明が与えられるようになるというわけなのである。
これらは怪音としての妖怪現象であるが、同様のことは「狐火」など視覚に訴える妖怪現象や、「鎌イタチ」など触覚に訴える妖怪現象についても言いうる。「狐火」は夜に遠方に一つ二つと火がともり、だんだん多数になっていくという怪火であるが、これは妖怪狐によってもたらされると考えられていた。また触覚に訴える妖怪現象としては「鎌イタチ」のように突然体に切り傷を作って去る恐ろしい妖怪や、「かいなで」のように便所で尻をなでるだけの妖怪などがいる。このような妖怪の発生は江戸時代の妖怪の特徴であり、不思議な現象があれば、とにかく名前をつけて、片付けてしまい、妖怪のリストを増やしてきたのである。
「化ける」ことを得意としていたのは「狐」である。江戸時代の狐は水藻や木の葉を頭に載せて、化けている。しかし、もとはそんなものでは化けることは出来ず、北斗七星を仰ぎながら、化けるべき人物の頭蓋骨、つまり「しゃれこうべ」を頭にのせ、宙返りしてもそれが落ちないようになるまで修行を積んだものが「化ける」ことができたとされている。それだけではなく、もともと若い狐は化けることができなかったのである。齢三百歳とも八百歳ともいう高年齢の「狐」であるからこそ「化ける」ことが出来たのである。「妖怪」と「年齢」は無視できない要素である。私たち日本人はあらゆる存在物に霊的存在を見出してきた。自然物にせよ人工物にせよ、存在するものには霊が宿っている。この霊は歳を重ねるにつれて、能力を強化していき、そして、一定の年齢に達すると「変化(へんげ)」する能力をあびることになった。人間が作った器物の場合「九十九歳」もしくは「百歳」であったらしい。その年齢に達すると器物さえも「妖怪」になり、化けられたのである。よく妖怪変化と一つなぎにするのもここから生じた用法なのかもしれません。
江戸時代より昔の人々は、さまざまな妖怪現象を限られた妖怪存在、とくに鬼、天狗、狐、河童などを所有する神秘的力の発現、活動として理解しようとしていた。このために、これらの妖怪存在の発生の物語が、語り出され、その多彩な活動のさまが描きだされたその意味からすれば、古代から中世の時代は「妖怪」=「妖怪存在」の多種化の時代ではなく、限定された妖怪の「物語」の時代であったといっていいだろう。
ではつぎに妖怪の中で,山を主たる活動領域としている天狗と、水を主たる活動領域としている河童の二つの妖怪について取り上げていきたい。
天狗という言葉から私たちはどのような姿と物語をイメージするか。背中に羽があり、鼻が高く、手には団扇を持った山伏姿の天狗ではないだろうか。私自身どうしてそんなイメージになったのかは記憶にない。幼い頃に昔話などで読んだのであろう。天狗は背に羽をもっていると考えられていたことからも分かるように、飛行を得意としている。また、その衣装は修験者、山伏から借用している。天狗は平安時代から文献に登場するが、その頃の天狗は鳥の姿をしていると語られることが多いことからもわかるが鳥類系の姿をしている。
天狗の本体には、はっきり善悪の二重性格がある。それは「山神」というものの性格である。天狗は山の神であるといい、そこで山の主として目につきやすい樹木の精霊であるともされている。
文字に見えるはじまりは、欽明天皇の時に大きな音をたてて彗星が走った。比較的近くに落ちた隕石であろう。これを見て、時の学者であった僧旻が「天狗であろう」といったという日本書紀の記述がある。天狗が空を走る妖魔であったという説も江戸時代の学者には多く、それが中国の伝説の天魔を受けたものか、わが国に前からその概念があったものかも問題だが、どちらにしても山神でないと主張する理由にはならない。翼を持った姿に描かれており、空を飛ぶ能力を与えられている。その後、鼻の高い赤面の大天狗は翼をはぶかれていることもあるが、部下のカラス天狗や、木葉天狗ははっきり嘴を持ったカラスの顔をしている。飛行からカラスへ、カラスから樹に巣くい樹上にとまる姿へと連想されていったのであろう。よって山の主、という風に樹とも山とも結びつきやすいのである。
そうして修験道が盛んになって以後、その山伏の服装で描かれる事例が多くなっていった。
あまつぎつね、という言葉からも、狐、お稲荷さんが輸入される前から、日本独自で妖獣扱いしていたのか、そして天狗とも関係あるのか、という問題もあるが、深入りするとかぎりがない。武州高尾山の荼枳尼天の守札は、狐に乗った不動尊の姿のカラス天狗の像であった。
神としての善悪となると、山というものの特殊性からはっきりと二重の性格を帯びることになる。地の主、という建前からは、ほんらい悪霊のようであるが、山という土地は神のいる点に近い清い尊い場所であり、いわば人界につながる天である。これは諸民族に共通性があり、空海も日蓮も、山神をえらんで寺を作る。日本の古俗のたいせつな風習のひとつは、春になると山から老人が里へ訪れて来る、という信仰をもとにしたものである。この山の住人は単なる地のぬしではなく、反対に神の代理と考えられるものであり、祝福にくるのであり、恵みを与えにくるのである。これをかたどった行事は諸方に残っており、老人のつく杖が、重要な象徴になっている。あるいは中国の道教の影響をうけた仙人、その他の観念と、あとで結びついているかもしれない。新春に去年のものととりかえる、天神様の「うそがえ」の「うそ」の鳥の形も、実は山から訪れる人の杖の頭の形が変わったものだとの説もある。山神のこのような面から見ると、最初から善神的性格が天狗には備わっていたといえる。山伏と結びついた剛の者であるから、よく人間を引き裂いて怖がられたりするが、それは人間のほうに神域、霊地を汚すような行為があって、それに怒った場合が多い。
天狗は,もう一面では、土地のぬしとしてのわがままな面を持ち、中国伝説をうけついだ天魔の性格も現しているので、実に悪いところがある。崇徳上皇は、平家一門の策謀で無理に退位させられ、保元の乱を起して敗れ、四国讃岐の地に流されたまま恨みを呑んで亡くなられ、生きながら魔道に入って天狗になったとの伝説がある。そのありさまが、まことらしいだけに、天狗の魔神としての役割がはっきりしている。近年まで金毘羅様のお札に刷られていた凄い形相は、名前は他の者に仮托してあったが、じつは崇徳院の御姿を伝えたものだったという。また「水戸黄門漫遊記」の講談の中で、日光男体山で「俺の縄張りに入るな」と黄門様を食い止めようとして問答する天狗の話なども、土地のぬしとして横暴さと強情さを示しているようで、昔話の天狗には、敵役めいた印象の方が強いようである。
天狗は,王朝時代には、すでに鬼と並んでもっとも多くその活動が伝えられている妖怪である。江戸時代にいたるまで、鬼ほど過去の物とならずに活き続けており、山に入る者に現実に恐れられていた。牛若丸に剣術を教えた鞍馬山や、出雲の羽黒山をはじめ、全国の名山にはたいてい、巾をきかせた大天狗がそれぞれに住んでいて、何々坊という名を持っていたのは、修験道の山伏の影響だろう。
天狗にまつわる言葉は調べてみると結構多い。日本に伝わる山中での怪音現象で、山中を歩いていると、大木を切るような音が聞こえ、続いて地響きと共に大樹の倒れる音がする。その音がした方に行ってみても、木が切られたあとも、倒れたあともないという現象である。これを「天狗倒し」または「空木返し」ともいう。またこれと似ている「天狗笑い」という言葉もあり、山中で笑い声がするという現象である。「天狗つぶて」とは大小の石が突然どこからともなくバラバラと飛んでくることをいう。また夜に山小屋がゆらゆら揺れる「天狗ゆすり」などがある。こうした怪音、怪火の現象は、山の神などの神意のあらわれと信じられ、山小屋の向きを変えたり、山の神をまつって仕事を休んだりした。天狗は山中だけではなく里近くで「天狗隠し」といって、子供を神隠しにあわせる怪異をなした。神隠しのあとには履物がきちんとそろえられているので、分かるという。これは季節の変わり目である旧暦四月頃に多い。天狗隠しの場合、村人で必死になって探したが見つからない。しかし何度も探した場所で見つかることが多い。
愛知県には天狗の巣といわれる大きな洞窟があり、天狗松といわれる天狗が座ったとされる松がある。こうした木は上ったり、ましてや伐ったりしてはいけない。もしそんなことをすると、病気になったり、火事がおきたりなどの祟りが起こると信じられている。埼玉県では天狗松を伐ろうとした人が、木から落下しひどい怪我を負ったが、これは天狗に蹴飛ばされたという話もある。
こうした伝説は各地、数多く残されている。
北海道、東北ではテングサマ、テングノスモウトリバ、関東ではオテングサマ、テングサマ、カワテングと呼ばれる。中国地方ではテングタオシ、テングノトオリミチと呼び方にも各地方によって様々な呼ばれ方がある。
川や池など水界にすむ妖怪の中で一般に知られている妖怪といえば河童である。河童はおおむね童子の姿をとり、おかっぱ頭に皿をいただいて、そこにいつも水をためている。左右の手はたがいにつながり、またきわめて抜けやすいなどといった形態が一般的に言われている。そして好んで相撲の勝負を挑み、水中に人馬を引き入れて、尻から肝を抜き取るなど、危害もしきりに恐れられたりした。しかし逆に人間からとらえられて、詫び証文を書かせられた失敗談や、秘伝の妙薬を授けたという話や、田植えの仕事を手伝ったという話、田に水を引いたなどというような恩徳についての話もある。
このように、河童は想像上、伝承上の動物であるが、これを知らぬ日本人はいないと言っていいくらい、その存在は世代を超えて人間の心の中に生きている。もっとも河童を空想や伝説の世界に住まわせないで、それが実在していることを疑わない人もいる。つまり、河童を実際に目撃した、またそれらの話を信じる人が少なからず存在していることも事実である。
また天狗と同様、河童も言葉と深く関係している。例えば百科辞典の項目を開くと、水泳の上手な人を「河童」という。女の子の断髪を「おかっぱ」、きゅうり巻きのお寿司を河童巻きと呼んだりする。
またなんでもない容易なことを「屁の河童」、達人でも時には失敗することを「河童の川流れ」といったりする。このように河童は我々人間界と親しく、生活に溶け込んだ妖怪であるといえる。
河童という呼び名は現在標準名として、全国に普及しているが、もとは関東を中心として呼ばれていた一つの地方名であった。つまり、この妖怪をあらわす言葉は、今のように画一化されていないので、土地ごとに著しく異なっていたのである。
まず、東北の青森や、岩手の北部では、河童のことをメドチと呼んでいた。メドチとは、日本書紀に出るミツチに起因する古い言葉で、その意味はオロチ(大蛇)、龍といった水の神霊を表示しているといわれている。この種の呼び名にはメットウチ、メドツがあるが、この他、北陸の能登や加賀に分布しているミズシといった呼び名もこのメドチ類に含まれるという。これらの呼び名から分かるように、河童という妖怪と水の神とは深い関係があることを示しているといえよう。妖怪は神の零落した姿であるとすれば、河童は水の神霊であったということが、この名称にその端緒を見ることができる。
関東地方を中心とするカッパの語は、河の童、川の童子を意味する言葉から付けられた名称で、カワッパ、カワッコ、カワランベ、カワワラワ、カワタロウ、カワコボーズ、セコなどがある。このような類の呼称を包括したカッパの分布圏は、関東甲信越地域を中心として、東北、東海地方にもおよぶことになる。なお、関西ではガタロ、九州地方ではガッパ、ガワッパ、ガワロなどと濁音化した名称が存在する。ここでの河童像は童形である。神が小童の姿をもって現われるのは、わが国の約束事であったことを考えると、水神が童形であることは、必然的な形状といってもよいであろう。神霊はよく実在の動物に姿を仮託し、この世に顕現する。この水の神霊にもそのような実例が見られる。まず北陸の富山では、亀のような甲羅を持った動物に仮託した。この地域の人達はこれを「ガメ」と呼んだ。岐阜の美濃では、すっぽんのような動物を河童と想定し、ドチ、ドチガメ、ドチベロと呼んだ。新潟の周辺では、川獺を河童と想定していた。川獺は河川に住む動物のうちでは最も大型であり、出没が敏倢であり、老化すると人を化かすといわれていたことから、そのような妖怪にされていたのであろう。
中国、四国地方では猿のような動物を擬して河童とし、エンコと称している。腕が長く、収縮自在な手足が河童の姿態と似ているためであろうか。猿の類に属する呼び名にはテナガ・フチザルの他に、静岡ではカワザルといった名称をもって河童としているところもある。
九州には鳴き声にもといた呼び名がある。宮崎のヒョースボ、長崎のヒョースベという呼び名は、ヒョーヒョーという鳴き声からだという。ヒョースベという河童は、春と秋の河岸の雨模様の宵になると、ヒョーヒョーと鳴きながら群れをなして、渓流筋とか尾根筋を通って山と川との間を往来するという。このように河童は移動する際に鳴き声を発するらしい。宮崎のヒョースボは、グワッグワッと鳴きながら、春の社日に川に下り、秋の社日に山に上がるという。あるいは晩にはヒョーヒョー、朝にはホイホイといいながら、山を登ったり川へ下ったりしたという。熊本ではヒョウヒョウ、キチキチ、ヒョンヒョンと鳴くという。また鹿児島では川にいるときはガンタロで、山に移ればヤマタロである。熊本では海にいるときはガワッパ、山にあがるとヤマワロになる。和歌山では夏と冬で呼び名が変わる。また九州では神霊などの貴尊の呼び名を直接口にするのをはばかり、その代用語として使われるところもある。カワノトノ、カワノヒト、カワタロウ、タビノヒトなどという呼び名がある。一般に妖怪というものは、古来の信仰が衰えるとともに、その神霊が落ちぶれて生じてきたものであるという。そしてその神霊が落ちぶれていく過程には三つの段階があり、第一段階はひたすら神霊を信ずるままにその示現を恐れる。第二段階は、なかば神霊を信じながらも、その威力を疑いはじめる。第三段階ではまったく神霊を信ずることなく、その正体をあばいてしまう、という。そうすると水界の妖怪である河童の出現は、水神信仰が多少とも衰えてきたころではないであろうか。つまり人間が自然の水を、まがりなりにも支配するようになり、水の恩恵に対する感謝の気持ちやその力に対する畏怖の念が稀薄になってきたころが、河童という妖怪が誕生する時期なのであろう。そのころはまだ河童が暮らすにはふさわしい自然は保たれていた。工都、川崎にも「河童の詫び証文」という話が伝承されている。その話の一説に、河童の住みかの環境が語られている。
「川の水辺には芦が繁っていて、鴨や鶴などの水鳥が沢山いる。その川筋はまるで蛇が這っていくようにくねくねいくつも曲がっている。そういう川の曲がりが四十八箇所もあったので、村の人達はそれを四十八瀞とよんだ。その川の曲がりのところは一段と深くなっていて、底が見えないほど真青な水が静かに流れていった。そういう所を村人はお釜と呼び、そこに四十八匹のカッパがすんでいた」1
現在では、河童や天狗、妖怪の住みかである自然環境が失われるとともに、その伝承は聞かれなくなった。これは一部だけでなく、全国的な傾向であるようである。また、この水界の妖怪の名称や形態も画一的なものとなり、鳴き声も聞かれなくなったという。
しかし今日では自らを積極的に異次元の世界、すなわち妖怪の世界を身近に引き付けるだけではなく、自らを妖怪化することが無意識にされている。霊感少女や、今ブームになっている、新宿の母、銀座の母などの占い師である。非科学的だと見向きもされなかった占いが、ここに至って、驚異的なほど活況を呈しているのは、やはり科学や人知では割り切れない世界への関心によっているのである。現在は妖怪とかけ離れた時代であると思いがちだが、私は妖怪願望の時代であると思われる。一歩進んで自ら妖怪に変身しようとする時代である。また、無意識のうちに日常生活においてそうした思考を持ち、また行動をとっていることもよく考えると見受けられるのである。昔から現在、そしてこれからも妖怪と共存する時代になっていくのだろうか。
1)岩井宏寬 近藤雅樹 「日本の妖怪」 (河出書房新社・1990年)p47