1998.4.13 に更新しました


八 さて九月ばかりになりて

本 文

■八■   さて九月ばかりになりて、出でにたるほどに、箱 のあるを手まさぐりにあけて見れば、人のもとにやら むとしける文あり。あさましさに、見てけりとだに 知られむと思ひて書きつく。
  うたがはしほかにわたせる文見れば
  ここやとだえにならむとすらむ
など思ふほどに、うべなう、十月つごもりがたに三夜しきりて 見えぬ時あり。つれなうて、「しばし試みる ほどに」など気色あり。これより夕さりつかた、「うちのかたふたがり けり」とて出づるに、心得で、人をつけて 見すれば、「町の小路なるそこそこになむとまり給ひ ぬる」とて来たり。さればよといみじう心憂しと思へども、 言はむやうも知らであるほどに、二三日ばかりありて暁方 に門をたたく時あり。さなめりと思ふ に、憂くてあけさせねば、例の家とおぼしきところ にものしたり。つとめて、なほもあらじと思ひて、
  歎きつつひとり寝る夜のあくる間は
  いかに久しきものとかは知る
と例よりも引きつくろひて書きて、うつろひたる菊 にさしたり。返りごと、「明くるまでも試みむとしつれ ど、とみなる召使の来あひたりつればなむ。いと ことわりなりつるは。
  げにやげに冬の夜ならぬ真木の戸も
  おそくあくるはわびしかりけり」
さてもいとあやしかりつるほどにことなしびたる。しばし は忍びたるさまに、「内裏に」など言ひつつぞあるべき を、いとどしう心づきなく思ふことぞ限りなき や。年かへりて三月ばかりにもなりぬ。桃の花などや とり設けたりけむ、待つに見えず。今ひとかた も、例は立ち去らぬ心地に今日ぞ見えぬ。
さて四日のつとめてぞ、みな見えたる。夜べより待ち暮らし たる者ども、なほあるよりはとてこなたかなた 取り出でたり。心ざしありし花を折りてうち の方よりあるを見れば、心ただにしもあらで手習ひ にしたり。
  待つほどの昨日過ぎにし花のえは
  今日折ることぞかひなかりける
と書きて、よしや憎きにと思ひてかくしつるに、気色 を見て奪ひ取りて返ししたり。
  三千歳を見つべき身には年ごとに
  すくにもあらぬ花と知らせむ
とあるを、今ひとかたにも聞きて、
  花によりすくてふことのゆゆしきに
  よそながらにて暮らしてしなり
かくて今はこの町の小路にわざと色に出でに たり。今は人をだにあやしうくやしと思ひげなる 時がちなり。言ふかたなう心憂しと思へども、 なにわざをかはせむ。この今ひとかたの出で入りする を見つつあるに、今は心安かるべきところ へとて率て渡す。とまる人まして心細し。影 も見え難かべいことなど、まめやかに悲しうなり て、車寄するほどにかく言ひやる。
  などかかる嘆きは繁さまさりつつ
  人のみかるる宿となるらむ
返りごとは男ぞしたる。
  思ふてふわが言の葉をあだ人の
  繁る嘆きにそへて恨むな
など言ひ置きて、みな渡りぬ。思ひしもしるくただ 一人ふし起きす。おほかたの世のうち合はぬ ことはなければ、ただ人の心の思はずなるを、我 のみならず年ごろのところにも絶えにたなり と聞きて、文など通ふことありければ、五月 三四日のほどに、かく言ひやる。
  そこにさへかると言ふなる真菰草
  いかなる沢に根をとどむらむ
返し、
  真菰草かるとは淀の沢なれや
  根をとどむてふ沢はそことか
六月になりぬ。ついたちかけて長雨いたうす。 見出だしてひとり言に、
  わが宿のなげきの下葉色深く
  うつろひにけりながめふるまに
など言ふほどに、七月になりぬ。絶えぬと見ましかば、 仮に来るにはまさりなまし、など思ひ続くるをり にものしたる日あり。ものも言はねばさうざうしげなる に、前なる人ありし下葉のことをもののついで に言ひ出でたれば、聞きてかく言ふ。
  をりならで色づきにけるもみぢ葉は
  時にあひてぞ色まさりける
とあれば、硯引き寄せて、
  秋にあふ色こそましてわびしけれ
  下葉をだにも嘆きしものを
とぞ書きつくる。かく歩きつつ絶えずは来れ ども、心の解くる夜なきに、荒れまさりつつ、来ては気色 悪しければ、倒るるに立山と立ち帰る時 もあり。近き隣に心ばへ知れる人、いづる に合はせてかく言へり。
  藻塩やくけぶりの空に立ちぬるは
  ふすべやしつるくゆる思ひに
など、隣さかしらするまでふすべかはして、このごろ はことと久しう見えず。ただなりしをり はさしもあらざりしを、かく心あくがれて、 いかなるものも、ここにうち置きたるもの、 とどめぬ癖なむありける。かくてやみぬらむ、そのもの と思ひ出づべきたよりだになくぞありけるかし と思ふに、十日ばかりありて文あり。なにくれと 言ひて、「帳の柱に結ひつけたりし小弓の 矢取りて」とあれば、これぞありけるかしと思ひ て、解きおろして、
  思ひ出づる時もあらじと思へども
  矢と言ふにこそ驚かれぬれ
とてやりつ。かくて絶えたるほど、わが家は内裏より まゐりまかづる道にしもあれば、夜中・暁 とうちしはぶきてうちわたるも、聞かじと思へ ども、うち解けたるいも寝られず。夜長うして ねぶることなければ、さななりと見聞く心地は何 にかは似たる。今はいかで見聞かずだにありにしがな と思ふに、「昔すきごとせし人も今は おはせずとか」など人につきて聞こえごつを聞くを、 ものしうのみおぼゆれば、日暮れはかなしうのみおぼゆ。 子供あまたありと聞くところも、むげに絶え ぬと聞く。あはれ、ましていかばかりと思ひてとぶらふ。 九月ばかりのことなりけり。あはれなどしげく 書きて、
  吹く風につけても問はむささがにの
  通ひし道は空に絶ゆとも
返りごとに、細やかに、
  色変る心と見ればつけて問ふ
  風ゆゆしくも思ほゆるかな
とぞある。かくて常にしもえいなびはてで、時々 見えて冬にもなりぬ。ふし起きはただ幼き 人をもてあそびて、「いかにして網代の氷魚 にこと問はむ」とぞ心にもあらでうち言はるる。年 また越えて春にもなりぬ。このごろ読むとて 持てありく文取り忘れて、女を取りにおこせ たり。包みてやる紙に、
  ふみおきし浦も心も荒れたれば
  跡をとどめぬ千鳥なりけり
返りごと、さかしらに立ち返り、
  心あるとふみかへすとも浜千鳥
  浦にのみこそ跡はとどめめ
使あれば、
  浜千鳥跡のとまりをたづぬとて
  行方も知らぬうらみをやせむ
など言ひつつ、夏にもなりぬ。この時のところ に、子産むべきほどになりて、よき方選びて 一つ車にはひ乗りて、一京響き続き ていと聞きにくきまでののしりて、この門 の前よりしも渡るものか。我は我にも あらず、ものだに言はねば、見る人使ふより初め て、「いと胸痛きわざかな、世に道しもこそは あれ」など言ひののしるを聞くに、ただ死ぬるものにもがな と思へど、心にしかなはねば、今よりのち たけくはあらずとも、絶えて見えずだにあら む、いみじう心憂しと思ひてあるに、三四日ばかり ありて文あり。あさましうつべたましと 思ふ思ふ見れば、「このごろ、ここにわづらはるることあり て、えまゐらぬを、昨日なむ平らかにものせらる めるけがらひもや忌むとてなむ」とぞある。あさましう めづらかなること限りなし。ただ「賜りぬ」とて やりつ。使に人問ひければ、「男君になむ」 と言ふを聞くに、いと胸ふたがる。三四日ばかりあり て、みづからいともつれなく見えたり。何か来たる とも見入れねば、いとはしたなくて帰ることたびたびに なりぬ。七月になりて相撲のころ、古き 新しきと一くだりづつひき包み て、「これせさせ給へ」とてはあるものか。見るに目くるる 心地ぞする。古体の人は「あないとほし、かしこ には、え仕うまつらずこそはあらめ」、なま心ある 人などさし集まりて、「すずろはしや、えせでわろから むをだにこそ聞かめ」など、さだめて返しやりつる もしるく、ここかしこになむもて散りてする と聞く。かしこにもいと情なしとかやあらむ、 二十余日訪れもなし。いかなるをりにかあらむ、文 ぞある。「まゐり来まほしけれどつつましうてなむ。 たしかに来とあらばおづおづも」とあり。返りごと もすまじと思ふも、これかれ、「いと情なし。 あまりなり」などものすれば、
  穂に出でて言はじやさらにおほよその
  なびく尾花にまかせても見む
立ち返り、
  穂に出でば先づなびきなむ花すすき
  こちてふ風の吹かむまにまに
使あれば、   嵐のみ吹くめる宿に花すすき
  穂に出でたりとかひやなからむ
などよろしう言ひなして、また見えたり。前栽の花 色々に咲き乱れたるを見やりて、ふしながら かくぞ言はるる。かたみに恨むるさまのことども あるべし。
  百草に乱れて見ゆる花の色は
  ただ白露の置くにやあるらむ
とうち言ひたれば、かく言ふ、
  身のあきを思ひ乱るる花の上の
  つゆの心は言へばさらなり
など言ひて、例のつれなうなりぬ。寝待の月の山の端 出づるほどに、出でむとする気色 あり。さらでもありぬべき夜かなと思ふ気色 や見えけむ、「とまりぬべきことあらば」など言へど、さ しも覚えねば、
  いかがせむ山の端にだにとどまらで
  心も空に出でむ月をば
返し、
  ひさかたの空に心の出づと言へば
  影はそこにもとまるべきかな
とて、とどまりにけり。さてまた、野分のやうなること して二日ばかりありて来たり。「一日の風はいかに とも、例の人は問ひてまし」と言へば、げにとや 思ひけむ、ことなしびに、
  言の葉は散りもやするととめ置きて
  今日はみからも問ふにやはあらぬ
と言へば、
  散り来ても問ひぞしてまし言の葉を
  東風はさばかり吹きしたよりに
かく言ふ、
  東風と言へばおほぞうなりし風にいかが
  つけては問はむあたら名だてに
負けじ心にて、また、
  散らさじと惜しみ置きける言の葉を
  きながらだにぞ今朝は問はまし
これはさも言ふべしとや人ことわりけむ。また十月 ばかりに、「それはしも、やむごとなきことあり」とて 出でむとするに、時雨と言ふばかりにもあらず あやにくにあるに、なほ出でむとす。あさましさにかく 言はる。
  ことわりのをりとは見れど小夜ふけて
  かくや時雨の降りは出づべき
と言ふに、強ひたる人あらむやは。かうやうなるほどに、 かのめでたきところには、子産みてしより、すさまじげに 成りにたべかめれば、人憎かりし心思ひ しやうは、命はあらせて、わが思ふやうにおし返し ものを思はせばやと思ひしを、さやうになりもていく、 はては産みののしりし子さへ死ぬるものか。 孫王の、ひがみたりし御子の落胤なり。 言ふかひなくわろきこと限りなし。ただこのごろの 知らぬ人の、もて騒ぎつるにかかりてありつる を、にはかにかくなりぬれば、いかなる心地かはしけむ。わが 思ふには今少しうちまさりて嘆くらむ と思ふに、今ぞ胸はあきたる。今ぞ例のところ にうち払ひてなど聞く。されどここには例の ほどにぞ通ふめれば、ともすれば心づきなう のみ思ふほどに、ここなる人、片言などする ほどになりてぞある。出づとては必ず、「今来む よ」と言ふも、聞きもたりてまねびありく。

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Copyright (C) 1997 Toshihiro Hamaguchi