1998.5.28 に更新しました


二九 かうやうなるほどに

本 文

■二九■   かうやうなるほどに、かのめでたきところには、子産みてしより、すさまじげになりにたべかめれば、人憎かりし心思ひしやうは、命はあらせて、わが思ふやうに、おし返しものを思はせばやと思ひしを、さやうになりにしはてはては、産みののしりし子さへ死ぬるものか。孫王の、ひがみたりし皇子の落胤なり。言ふかひなくわろきこと限りなし。ただこのごろの知らぬ人の、もて騒ぎつるにかかりてありつるを、にはかにかくなりぬれば、いかなる心地かはしけむ。わが思ふには今少しうちまさりて嘆くらむと思ふに、今ぞ胸はあきたる。今ぞ例のところにうち払ひてなど聞く。されど、ここには例のほどにぞ通ふめれば、ともすれば心づきなうのみ思ふほどに、ここなる人、片言などする ほどになりてぞある。出づとては、必ず、「今来むよ」と言ふも、聞きもたりて、まねびありく。
 かくてまた、心の解くる世なく嘆かるるに、なまさかしらなどする人は、「若き御心に」など、かくては、言ふこともあれど、人はいとつれなう、「我や悪しき」など、うらもなう、罪なきさまにもてないたれば、いかがはすべきなど、よろづに思ふことのみ繁きを、いかでつぶつぶと言ひ知らするものにもがなと思ひ乱るる時、心づきなき胸うちさわぎて、もの言はれずのみあり。

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Copyright (C) 1997 Toshihiro Hamaguchi