1997.12.17 に更新しました


第20段 清涼殿の丑寅の角の、

本 文

■第二〇段■
 清涼殿の丑寅の角の、北の隔てなる御障子は、荒海の絵。生きたるものどもの恐ろしげなる、手長・足長などをぞ描きたる。上の御局の戸を押上げたれば、常に目に見ゆるを、憎みなどして、笑ふ。高欄のもとに、青き瓶の大きなるを据ゑて、桜のいみじうおもしろき枝の、五尺ばかりなるをいと多く挿したれば、高欄の外まで咲きこぼれたる昼つ方(1)、大納言殿(2)、桜の直衣の少しなよらかなるに、濃き紫の固紋の指貫、白き御衣ども、うえには濃き綾のいとあざやかなるを出だして参り給へるに、主上のこなたにおはしませば、戸口の前なる細き板敷にゐ給ひて、ものなど申し給ふ。御簾のうちに、女房、桜の唐衣どもくつろかに脱ぎ垂れて、藤・山吹など、いろいろ好ましうてあまた、小半蔀の御簾よりもおし出でたるほど、昼の御座の方には、御膳(3)参る足音高し。警蹕など「おし」といふ声聞こゆるも、うらうらとのどかなる日のけしきなど、いみじうをかしきに、果ての御盤取りたる蔵人参りて、御膳奏すれば、中の戸より渡らせ給ふ。御供に、廂より大納言殿、御送りに参り給ひて(4)、ありつる花のもとに帰りゐ給へり。宮の御前の、御几帳おしやりて、長押のもとに出でさせ給へるなど、なにとなくめでたきを、さぶらふ人も思ふことなき心地するに、「月も日も変はりゆけどもひさにふる三室の山の(5)」といふ言を、いとゆるらかにうち出だし給へる、いとをかしうおぼゆるにぞ、げに、千年もあらまほしき御有様なるや。陪膳つかうまつる人の、男どもなど召すほどもなく、渡らせ給ひぬ。「御硯の墨すれ」と仰せらるるに、目は空にて、ただおしますをのみ見たてまつれば、ほとど継ぎ目も放ちつべし。白き色紙おしたたみて、「これに、ただ今おぼえむ古き言、一つづつ書け」と仰せらるる。外にゐ給へるに、「これは、いかが」と申せば、「疾う書きて、参らせ給へ。男子は、言加へさぶらふべきにもあらず」とて、差し入れ給へり。御硯とりおろして、「疾く疾く。ただ思ひまはさで、難波津(6)もなにも、ふとおぼえむ言を」と、責めさせ給ふに、など、さは臆せしにか。すべて、面さへ赤みてぞ、思ひ乱るるや。春の歌・花の心など、さいふいふも、上ィ二つ三つばかり書きて、「これに」と、あるに、「年経れば齢は老いぬしかはあれど花をし見ればもの思ひもなし(7)」といふ言を、「君をと見れば」と書きなしたる、御覧じくらべて、「ただ、この心どものゆかしかりつるぞ」と仰せらるる。
 ついでに、「円融院(8)の御時、造紙に、『歌一つ書け』と、殿上人に仰せられければ、いみじう書きにくう、すまひ申す人々ありけるに、『さらにただ、手の悪しさ良さ、歌の折にあはざらむも知らじ』と仰せらるれば、わびて、みな書きけるなかに、ただ今の関白殿、三位中将(9)と聞こえける時、『汐の満ついつもの浦のいつもいつも君をば深く思ふはやわが』といふ歌の末を、『頼むはやわが』と書き給へりけるをなむ、いみじうめでさせ給ひける」など仰せらるるにも、すずろに汗あゆる心地ぞする。「齢若からむ人、はた、さもえ書くまじき言のさまにや」などぞおぼゆる。例いとよく書く人も、あぢきなう皆つつまれて、書きけがしなどしたるあり。  古今の草子を御前に置かせ給ひて、歌どもの本を仰せられて、「これが末、いかに」と、問はせ給ふに、すべて、夜昼心にかかりておぼゆるもあるが、けぎよう申し出でられぬは、いかなるぞ。宰相の君ぞ十ばかり、それも、おぼゆるかは。まいて、五つ六つなどは、ただ、おぼえぬよしをぞ啓すべけれど、「さやは、気にくく、仰せ言を映えなうもてなすべき」と、わび、口惜しがるも、をかし。「知る」と申す人なきをば、やがてみな読みつづけて、夾算せさせ給ふを、「これは、知りたる言ぞかし」「などかう、つたなうはあるぞ」と、言ひ嘆く。なかにも、古今あまた書き写しなどする人は、みなもおぼえぬべきことぞかし。
 「村上(10)の御時に、宣耀殿の女御と聞こえけるは、小一条の左の大殿の御女(11)におはしけると、誰かは知りたてまつらざらむ。まだ、姫君と聞こえける時、父大臣の教へ聞こえ給ひけることは、『一つには、御手を習ひ給へ。次には、琴の御琴を、人より殊に弾きまさらむとおぼせ。さては、古今の歌二十巻をみな浮かべさせ給ふを、御学問にはせさせ給へ』となむ、聞こえ給ひけると聞こし召しおきて、御物忌なりける日、古今を持て渡らせ給ひて、御几帳をひき隔てさせ給ひければ、女御、『例ならずあやし』と、おぼしけるに、草子をひろげさせ給ひて、『某の月、何の折、某の人の詠みたる歌は、いかに』と、問ひ聞こえさせ給ふを、『かうなりけり』と、心得給ふもをかしきものの、『ひがおぼえをもし、忘れたる所もあらば、いみじかるべきこと』と、わりなうおぼし乱れぬべし。その方におぼめかしからぬ人、二三人ばかり召し出でて、碁石して、算置かせ給ふとて、強ひ聞こえさせ給ひけむほどなど、いかにめでたう、をかしかりけむ。御前にさぶらひけむ人さへこそ、うらやましけれ。せめて申させ給へば、さかしうやがて末まではあらねども、すべて、露たがふことなかりけり。『いかでなほ、少しひがごと見つけてをやまむ』と、ねたきまでにおぼしめしけるに、十巻にもなりぬ。『さらに不用なりけり』とて、御草子に夾算(12)さして、大殿ごもりぬるを、まためでたしかし。いと久しうありて、起きさせ給へるに、『おほ、このこと勝ち負けなくてやませ給はむ、いとわろし』とて、下の十巻を、『明日にならば、異をぞ見給ひ合はする』とて、『今日、定めてむ』と、大殿油参りて、夜ふくるまで読ませ給ひけり。されど、つひに負け聞こえさせ給はずなりにけり。『帰り渡らせ給ひて、かかること』など、殿に申しにたてまつられたりければ、いみじうおぼしさわぎて、御誦経(13)などあまたせさせ給ひて、そなたに向きてなむ、念じくらし給ひける。すきずきしう、あはれなることなり」など、語り出でさせ給ふを、主上も聞こし召し、めでさせ給ふ。「我は、三巻四巻をだに、え見果てじ」と仰せらる。「昔は、えせ者なども、みなをかしうこそありけれ」「このごろは、かやうなることは聞こゆる」など、御前にさぶらふ人々、上の女房こなたゆるされたるなど参りて、口々いひ出でなどしたるほどは、まことに、露おもふことなく、めでたくぞおぼゆる。

(1)正暦五年二月下旬頃(集成説)。  (2)中宮の兄伊周。正三位権大納言。二十一才。  (3)午前十一時の大床子の御膳。  (4)昼の御座まで参上する。  (5)『万葉集』巻十三に入集。  (6)『古今集』仮名序に手習いの歌として「難波津に咲くや木の花冬ごもり今は春べと咲くやこの花」が見える。  (7)「染殿の后の御前に、花瓶に桜の花をささせ給へるを見てよめる」(古今集)とある。文徳后明子を父良房が称えた。  (8)一条天皇の父帝。  (9)中宮の父道隆。三位中将時代は永観二年(九八四)〜寛和二年(九八六)。  (10)一条天皇の祖父帝。  (11)左大臣藤原師尹一女芳子。  (12)竹の串。得点を数えるのに使用。  (13)神社仏寺に使者をして経を奉納し神仏の加護を祈願した。


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