紘

〜孫氏に殉じた男〜

本ページは、新人物往来社編集部の許可を得て、『歴史読本スペシャル』46号、(平成6年4月出版)から転載するものである。


   張   紘〜孫氏に殉じた男〜
 張紘は徐州廣陵郡の人で、徐州彭城國出身の張昭と共に「二張」と称され、孫呉政権の幕閣に参画して謀議に与り、その成立期を支えて孫策・孫権兄弟に深く信頼され、厚い尊敬を受けた北来名士の一人である。彼は若くして洛陽の太学に游学し、博士の韓宗から『京氏易』を学び、更に陳留郡に赴いて濮陽ガイから『礼記』『春秋左氏伝』『韓詩』を学んだと言う。その後郷里に帰った張紘は、州から茂才に推挙され、又彼の名声を慕った大将軍の何進や太尉の朱儁及び司空の荀爽らは、各々彼を招き寄せて己の属官に任用すべく試みるが、彼はその全てに対して「病気」を理由に辞退し、その後中央の戦火を避けて孫策に従い、江東の地へと移住して行く。

 興平元年(一九四)袁術の下に身を寄せていた孫策は、亡父堅の部下達を袁術から譲り受け、一軍の将として次に為すべき事を考え、智謀の士を求めて江都から度々張紘を訪れていた。当時張紘は母親の喪に服していたが、若い孫策は相手が喪中である事など意にも介さずに訪問し、己の情熱を吐露して今将に為すべき事を尋ね、「今や漢王朝の運命も先が見え、天下は混乱して英雄達は各地に割 拠し、各々己の利を図っておりますが、未だこの混乱を平定する人物が現れません。私の亡父は袁氏と協力して董卓を打ち破りましたが、無念にも功業の半ばで黄祖に殺されてしまいました。私は頭の悪い若造ではありますが、志しだけは持っております。袁術殿から亡父の余兵を譲り受け、丹陽の舅氏の下に身を寄せ、離散した兵士達を掻き集め、東の呉會を足場とし、父親の恥を雪ぎ、朝廷の外の守と為らんと願っておりますが、先生の御考えは如何がでしょう。」 と言った。
 これに対し張紘は、「私には元来何の才能も無く、且つ今は喪中であれば、貴方の立派な御考えに何もお力添えは出来ません。」と答えたが、孫策は尚も諦めずに、「先生のご高名は広く伝わり、遠近の者は挙って先生に心を寄せております。今私の取るべき道は、将に先生の一言に係っております。何故御心の内を告げて私の期待に副っては頂け無いのですか。もし私の細やかな志しを遂げる事が出来、父の仇を報ずる事が出来ましたならば、それは取りも直さず先生の御力に因るものであり、それこそが私の心からの願いでもあります。」と捲し立てたまま、顔色一つ変えず涙を流し続けた。
 張紘は孫策の心意気とその言葉に深く感動し、遂に「今貴方は御尊父の後を継がれ、武勇の名もお有りです。もし丹陽に身を寄せ、呉會の地で兵を募られれば、荊州・揚州を一つに纏めて亡父の仇を報ずる事が出来ましょう。長江地帯を根拠地とし、威望仁徳をお立てになり、いかがわしい連中を打ち払い、漢室をお助けになったならば、その功業は春秋時代の桓公・文公にも並ぶものです。今は乱世ですから功業の成った暁には、同志の人々と江南に移られるのが宜しいでしょう。」と答えた。この会談以後、張紘は孫策に臣従し、孫策は老母と幼い弟を張紘に預ると言う信頼関係が二人の間に結ばれるのである。
 時に張紘は四十三歳、この孫氏版草蘆三顧とでも言うべき孫策・張紘の会談は、劉備と諸葛亮との会談にも匹敵するもので、当時の群雄達が如何に名士を己の陣営に取り込もうとしていたかを明白に示すものである。今まであらゆる誘いを固辞し続けてきた張紘も、孫策の心意気に感じて遂に出蘆した。張紘が孫策に臣属して正議校尉に任用された事に伴い、彼と同郡の秦松・陳端らも臣属し、孫策は彼等を参謀として江南平定に着手した。孫策は常に自ら陣頭に立とうとしたが、張紘は「総指揮官たる者は軽々しい行動を取るべきではありません。御身に万一の事が発生したら全軍に影響致します」と諫言に努め、孫策も彼の意見に従った。孫策が軍征するに当っては、必ず張紘か張昭かの一人が付き従って謀議に与り、もう一人は留守を委ねられると言う具合に、張紘は孫策から絶大な信頼を寄せられていた。当時呂布が徐州の牧となり、張紘を呼び寄せるべく画策したが、張紘は呂布を好ましく思わず、孫策も張紘を手放したくなかったため、孫策は呂布に書簡を送り婉曲に申出を拒否している。
 建安四年(一九九)孫策は、天子に上章文を奉る使者として張紘を許に派遣したが、元来この使者は、中原人士から何かにつけて学問の狭さを詰られていた孫策が、彼等を見返してやろうと思い、呉中第一の識者と言われる虞翻を送ろうとした所、虞翻が固辞したため張紘が使者となったものである。許に到着した張紘は、少府の孔融らと親交を結び、孫策の智謀の深さや勇猛さ或いは朝廷に対する忠義心などを説いて回っていたが、当時の実力者である司空の曹操は、張紘を手元に置きたく思い、彼を侍御史に任命した。
 建安五年(二〇〇)突然孫策が死去すると、曹操はこの機に乗じて呉を伐たんと画策するが、侍御史として許にいた張紘は、「他人の死に乗ずるのは古の決まりに反します。むしろこれを機会に恩義を施しておくべきです」と諫言に努め、曹操は彼の意見を受入れ、孫権を討虜将軍に任じ、同時に張紘を使って孫権を取り込むべく、張紘を會稽東部都尉に転出させた。孫権の母である太夫人は時局の多難さと孫権の若さを憂慮し、度々鄭重な書簡を張紘に送って補佐の任を委嘱し、張紘も変わらぬ信任に深く感謝し、孫権が時局の判断を誤らぬよう心血を注いで補佐した。周囲の人々の中には、「張紘は曹操から會稽東部都尉に任命されていれば、何時の日か北に帰る(呉を見限る)のではないか」と疑う人もいたが、孫権はそんな疑問は露程も持たず、兄孫策同様に絶大な信頼を置き、何か大問題や新事態が発生する毎に親しく張紘に意見を求めた。張紘は政務の場のみならず日常の場に於ても孫権の誤りを正し、孫権が遠征する時には都に残って留守の任に当り、孫権がその苦労に報いて恩賞を与えようとしても、彼は固辞して受け取ろうとはしなかった。臣下を字で呼ぶ孫権ではあったが、張紘と張昭の二人だけは深く尊敬して「東部殿(張紘)」「張公殿(張昭)」と呼んでいた。
 建安十三年(二〇八)孫権は、張紘を長史に任命して魏の合肥攻撃を開始したが、この時自ら陣頭に立たんとした孫権を諫めたのは張紘で、翌一四年(二〇九)に再び合肥へ出兵せんとした孫権を強く諫めて思い止どまらせたのも張紘である。彼は若い孫権を補翼して常に正道を歩むべく諫言を繰り返した。建安十六年(二一一)孫権は、張紘の建議に基き都を呉から秣陵に移し、新国都を建業と改名した。孫権の計らいで家族を建業に呼び寄せるべく、呉へ迎えに行く途中で突然に張紘は病死した。時に張紘は六十歳であった。死に臨んだ張紘は若い孫権の行く末を案じ、息子の張靖に託して置き手紙を残し、その中で張紘は君主の在り方を切々と述べ、死してなお孫権に苦言・諫言を呈し、己の任を全うし続けたのである。
 張紘は孫氏兄弟から特別に高位・高禄で遇された訳ではなく、彼の肩書きは後漢王朝(実質は曹操)から与えられた會稽東部都尉を帯びるに過ぎない。更に言えば、中原人士にまで名を知られた北来名士の一人で、魏の王郎や孔融らと親交を結び、何時でも中原に復帰出来る手蔓を持ちながら、それでも孫氏兄弟の御意見番に徹し切り、華々しい武勲を挙げたり外交的見せ場を作る事も無く、且つ名誉や営利は何一つ求めず、時には兄の如く時には父の如く諫言を呈し、ただ淡々と補弼の任を全うした張紘の一生は、将に孫策の情熱と心意気に殉じたものであった。誠に張紘は、孫呉政権成立期に在って、その屋台骨を支えた目立たぬ重臣の一人であったと言えよう。

     平成六年一月                             於黄虎洞

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